第四話
「遠野くん、君を第五編集部の編集長に任命する」
そう社長に告げられてから、四年になる。その間、離婚も経験した。しかし、新規立ち上げ部署であったことが、思いのほか、遠野の気持ちを楽にした。がむしゃらに仕事に打ち込めば、結果はわかりやすく返って来る。第五編集部の人間がほとんど、立ち上げ時に採用した中途採用だったということも、遠野にとっては有り難かった。自分の過去を知らない部下たちと仕事をすることで、新しい自分になれた気がした。
いわゆるオタク向きの雑誌の製作ということに関しては、遠野自身、まったくそういう要素がなかったわけではないので、周りが言うほど偏見はなかった。刊行していけばいくほど楽しくなった。しかし、ここ一年くらい、内容がマンネリ化していることに、遠野は気づいていた。インターネットの情報は日々更新されていき、Web 2.0時代、SNSなどによって、作り手と受け手の垣根はなくなっている。遠野自身、インターネットで情報を集め、それを参考にして紙面作りをすることも珍しくない。もはや、雑誌の受け手側の方が情報通なのだ。もう、今までと同じやり方をしていたら生き残ることは難しくなってきた。
世間では出版不況と言われて久しい。この桐原書房もここ何年か新卒の採用を渋った。しかし、これが裏目に出て人手不足となってしまった。そこで、定期的に中途採用を採っているのだが、ほとんどは第二、第三、第四編集部に人手がいってしまい、第五にくることはなかった。そこで、本部長に直談判して、第一と第五優先の面接を企画してもらったのだ。遠野はそこで、バツイチの敷田萌に出会った。オタクの世界と無縁の彼女に救世主を期待した。今思うと、遠野自身がオタクの世界に飽きていたのかもしれない。
「遠野編集長、前号のガンダムの記事への批判、五十通を超えました」
大橋がその批判のメールをプリントアウトして持ってきた。遠野が目を通す。
「このやたらと出てくる“サイド7インフォ”ってなんだ?」
「ブログです。ガンダム通なら知らない人はいないと言われる有名ブログ。遠野さんガンダム好きなんじゃ?」
「俺は最初のガンダムだけ」
前号の記事が生半可な内容で、“サイド7インフォ”の方がよっぽど纏まっていて正確だという指摘が大半だった。
「記事を書いたライターさん、そのブログ知らなかったのかね」
「あの人忙しい人ですからね。ガンダムだけじゃなくて、今いろいろ書いてるみたいですよ」
「そういうの困るなあ……」
「おたくの情報量は凄まじいですからね。作る側の薄っぺらい情報はすぐ見破られる」
「いい事言うな、大橋。ちょっとタバコ吸ってくるわ」
遠野は三階の休憩室に向かった。タバコ部屋に入ると先客がいた。
「部下といちゃいちゃする上司の下では働けないってさ」
人事部の三井が言う。
「いちゃいちゃってなんだよ。本人がそう言ったのか?」
「そういうことじゃないの? 何したか知らないけどさ」
「何もしてないっつーの」
遠野がタバコ部屋でこうして三井と話しをすることももうずっと続いていた。
「大橋は根はいいやつなんだ。仕事も俺なんかよりよくわかってる。このことで何か悪い評価はしないでくれよ」
「そんなの、わかってるさ。遠野の下で働いてるのはやっぱかわいそうだな。彼、その敷田さんが好きなんだろう?」
「そうらしい」
「ほんとにお前はとんでもないやつだな。いたいけな女性といたいけな青年をいたぶって。俺はもう庇えないよ」
三井は面白くもなさそうに言う。同期入社でどんな時も態度が変わらないこの男に、遠野は本音をぶつけてみたくなった。自分たち以外誰もいないタバコ部屋は、遠野にとって最も気持ちが軽くなれる場所だった。
「俺はこの仕事に誇りが見出せなくなった」
三井は相変わらず驚くこともなく、黙って聞いていた。
「今頃、社長にいいように使われていることを実感してる有様なんだ」
「そうか? 俺からしてみればお前は出世頭だろ」
「オタク部編集長……」
遠野は自分で言って自分で笑った。
「これから言うことは冗談でもなんでもない。聞いてくれるか?」
三井はタバコの煙を吐き出すと「いいから言え」という感じで顎を突き出した。
「復讐をしようと思う。一旦負けて、それから勝つ。よくよく考えて見れば俺には失うものなんてもうないじゃないか」
それに対して三井が表情ひとつ変えずに言った。
「ずいぶん遅いじゃないか」
遠野がこの会社にしがみ付いている理由の一つを三井は知っている。遠野は第五編集部の編集長になってすぐに、村井さんに告白をした。彼女が既婚者で子供もいることを充分知っていながら……。
「遠野の気持ちはありがたいけど、私にはもう家族がいる」そう言って断った村井さんに、遠野は「一方的に想っているだけでもダメですか?」と、まるでストーカーまがいの発言をして彼女を困らせたのだった。それ以降、遠野は彼女への想いは胸に秘めるようにしていた。しかし、敷田萌が来てから、遠野の村井さんへの想いのバランスが崩れてきた。村井さんは遠野が敷田萌のことを好きになっていると言ってはくっつけようとする。その度、遠野はイライラした。遠野はあの日、そのイライラが頂点に達していた。
村井さんから話があるので会いたいというメールをもらったのは、敷田と有らぬ噂を立てられてから幾分日が経ち、忘れられかけていた頃だった。編集長同士、なかなか時間が空かないため、仕事が終わってから会う約束をしたが、結局、会ったのは夜の十一時をまわっていた。遠野は村井さんが来るのを待ちわびていたのだが、たまたまその直前、敷田が会社に戻ってきて、去り際、村井さんと鉢合わせをしたのだった。
「彼女ずいぶん遅いのね。もう少し早く帰してあげたら?」
遠野は部屋に入ってきた村井さんの第一声を自分の捻くれたフィルターに通して解釈してしまった。
「俺が彼女に何かしてると思ってるの?」
村井さんは遠野の言葉が思いがけなかったようで、黙ってしまった。
遠野は村井さんが来るのを楽しみにしていた一方で、彼女の言動にいちいち過剰に反応している自分にイラつきを覚えていた。
「ごめん。話って何?」
村井さんは溜息を一つ吐いて言った。
「実はね、篠塚本部長から聞いたことなんだけど、第五編集部を分離して、別会社……というか子会社にする計画があるみたいなの」
遠野は悪い予感を持つ時に決まって起こる、心の中の不気味な静寂を感じていた。
「まだ決まったことじゃないから、誰にも言うなって、特に遠野には言うなって言われたから、逆にこれは遠野に話さなきゃって……」
村井さんらしい。遠野はもうこの時点で、他人事のようにこの話を聞いていた。
「子会社でオタク編集長か、こりゃ、すごい」
「ううん」村井さんは首を振った。「子会社の社長にすることを考えてるみたい」
社長だって!? 馬鹿にしている。それでこの俺が喜ぶと思っているのか――。
遠野が何も答えないので、村井さんはさらに続けた。
「ずっと指摘されていたことだけど、第五だけあまりに異質だったから、今後の影響を考えてってことなんだろうけど、今まで、桐原書房の社員として頑張ってきた人間にとっては、急に子会社に行けっていうようなものでしょ。反発買わないわけはないわ」
遠野は第五編集部の皆が憐れになった。それは自分の部下になったからだ。そんなふうに考えていた。
「それは社長の一存で決まったこと? どのくらい現実味のある話なの?」
「知らないわ。なんならまた篠塚本部長に聞いてみてもいいけど」
「かったるい。俺が社長に直接聞いてみる。あっ……と、村井さん、本部長に怒られちゃうね」
「そんなの、どうでもいいわ。あまりムキにならないようにね」そう言って、村井さんは腰を下ろしていた椅子から立ち上がった。「電車終わっちゃうよ。帰ろうよ」
遠野は村井さんと一緒に会社を出た。
夏の夜の空気には人を大胆にさせる何かがある。駅に向かう道を村井さんと並んで歩きながら、遠野は思いの丈を口に出していた。
「今日こうして一緒に帰れることを俺がどのくらい心待ちにしていたか、村井さんには想像もつかないでしょ?」
村井さんは遠野のストレートな想いに若干戸惑っていたようだったが、彼女のいつもの方法でそれをかわす――かわしたつもりだった。
「遠野はもったいないよ。いくらでも素敵な人と素敵な恋愛ができるのに、好意を向ける相手が間違ってる。敷田さんなんてお似合いなのになぁ」
遠野はその場で立ち止まった。村井さんは一瞬気に止めたが、そのまま歩き出した。
「待ってくれ」
遠野の声は上擦っていた。村井さんが足を止め振り返る。遠野は村井さんに近づいた。
「年下だからって馬鹿にするなよ。このまま帰さないことだって出来るんだ」
そうして村井さんの手首を掴んだ。夜の路上で只ならぬ雰囲気の中、女性の手を握り締めている自分。通り過ぎる人々がチラチラと視線を送る。
「帰さないってホテルにでも連れ込むつもり?」
村井さんは遠野の目をじっと見据えたまま、動じていなかった。
遠野から先に視線を外した。
「村井さんにとって、俺は男じゃないのかもしれないけど……」
それ以上言葉が続かなかった。彼女の手を離し、ゆっくりと歩き出すのが精一杯だった。
「そんなことないわ。このまま帰さないだなんて言われたの何年ぶりかな。フラってきちゃった。そうね、あと十歳若かったら旦那がいてもオッケーしてたかも」
遠野は驚いて村井さんを見た。いつもの村井さんだったが、自分で言ったことに楽しくなったのか、笑っていた。
駅までの道のり、遠野は村井さんのその言葉を心の中でずっと反芻していた。