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第三話

 見城さんから、遠野編集長の過去を聞いてから、萌は彼を見る目が変わってしまっていた。気楽に好きになれるようなタイプじゃない、そう思った。

「敷田、地下アイドルのインタビュー、今日からスタートできるか?」

 入社一週間で、遠野は萌のことを呼び捨てにした。萌はそれが嬉しかった。なんか仲間に入れてもらえた気がした。

「はい。これからアキバに行って来ます」

 一人での取材デビューだ。録音機とメモ、昨日準備した資料を持って、萌は会社を出た。秋葉原は電車で一駅、オタク編集部としてはこの立地はメリットだ。事前に取材依頼をしておいたので、待ち合わせ場所のカフェに行けば、彼女たちに会えるはずだった。“CUTEりっぷ”というグループ名で活動している彼女たちは一応事務所に所属していたが、専属の担当が付くほどの扱いではなかった。インタビュー記事のチェックをすることを条件に、インタビューは彼女たちと直接連絡をとって進めていいとのことだった。

十分待っても二十分待っても彼女たちは一人として現れない。萌は代表として聞いていた女の子のケータイに連絡を入れた。

「はい?」電話から聞こえてくる騒音がすごかった。

「あの、桐原書房の敷田です。今日、雑誌に載せる記事のインタビューをお願いしていたんですけど、待ち合わせのカフェに誰も来てなくて」

「えー? よく聞こえないんですけど……」

 それはこっちのせいじゃない。萌はさらに大きな声で繰り返した。しかし途中で電話が切れてしまった。萌は溜息をついた。その時、後ろから声を掛けられた。

「あのー、取材の方ですよね」

 振り返ると、かわいらしい十代後半と思われる女の子が二人立っていた。

「そうです。桐原書房の敷田です。今日はよろしくお願いします」

頭を下げた。年下と言えども、最初の挨拶はきちんとしなければならない。

「遅くなってすみません。今日みんなバラバラで、アヤカたちまだ来てないんだ」

 今回のインタビューは下の名前だけ出すことでオッケイをもらっていたので、名前だけ訊いた。最初に声を掛けてくれたのがユナ。とても小柄で愛らしいのがカリン。ユナは他の二人にもケータイで連絡を取ってくれた。え? なに? としきりに言っていたのが、さっき萌が電話を掛けたアヤカだった。結局一時間半経って全員が揃った。ユナ、カリン、アヤカ、ミレイの四人だ。

 まずは自己紹介をしてもらった。この中で一番しっかりしていそうなユナ。

「ユナです。えっと、趣味はダンスです。昔バレエを習ってましたぁ。将来の夢は女優になることです。最近ハマってることはカラオケでアニソンを歌うことです」

 次にこの中で一番小柄でハニカミやさんのカリン。

「カリンです。趣味はお菓子作りです。将来の夢は大好きな人と結婚して海外に住むことです」

 次は一番遅れてきたアヤカ。さっきまでゲーセンにいたらしい。

「アヤカです。えっとなんだっけ? 趣味? 趣味はぁ、マンガを読むことです。将来の夢は声優になることです。今、声優の学校に通ってます。好きなマンガがアニメ化されて、そのキャラクターの声を担当できたらサイコーです」

 最後は不思議キャラのミレイ。

「ミレイです。趣味はブログを更新することと一人コスプレです。将来の夢は芸能人と結婚することです。最近ハマってることはギャルゲーです。こればっかやってます」

 萌は十歳しか違わない彼女たちの興味を持つものが、だいぶ理解できなくなっていた。それは年齢のせいなのか、それとも彼女たちが属している環境のせいなのかわからなかった。編集長には、彼女たちの生態がわかるようなインタビューをしろと言われていた。生態って……? 萌はとりあえず、用意していた質問をすることにした。

『地下アイドルを始めたきっかけは?』

 ユナは将来女優を目指しているので、事務所に入ったら最初にこれをやらされた。カリンは街を歩いていたらスカウトされた。アヤカは声優志望なので、アキバに来て自分から応募した。ミレイはコミケでコスプレしていたら、誘われたのでお小遣い稼ぎにやり始めた。皆それぞれきっかけは違っていた。

『地下アイドルをしていて嫌な思いをしたことはあるか』

 これは絶対してみたかった質問だった。

すると四人中三人が「変なオタクに付きまとわれて怖かった」と答えた。もうちょっとつっこんで訊いてみると、ほとんどストーカー紛いの行為をされていた。出待ちは当たり前で、事務所に下着のプレゼントが贈られたり、ブログに毎日同じようなコメントが書き込まれたりする。全てのスケジュールを把握していて、「明日は××ですね。××で待ってます」といったことを書くらしい。

他にも何か嫌な思いや、怖い思いをしたことがあるか聞くと、カリンがこんな発言をした。

「事務所に売れなかったら、エロ路線で売り出すって言われた」

ユナがまずいと思ってすぐに制止したが、萌はしっかり録音していた。

 いずれにしても、事務所チェックがあるから記事には出来ないとわかっていたが、裏の部分が見えた瞬間だった。

 他にも彼女たちの休日の過ごし方だとか、勉強はどうしているのかとか(学校に通いながら活動している子が二人)親はどう思っているのかなど、いろいろ訊いた。四人中三人が親には内緒にしている(事務所に所属していることは知っているが、地下アイドルをしていることは知らない――を含む)という答えに少し驚く。

 時間もだいぶ経ったところで、インタビューを終了。萌は最初に渡し忘れた名刺を出して、「事務所の方によろしくお伝えください」とユナに渡した。ユナはその名刺を見て、「萌さんって言うんですか? かわいいー」と言った。今後、名刺を出す度、同じことを言われるのだろうなと思った。お礼を言って彼女たちと別れた。

 

 会社に戻って、さっそく遠野編集長に報告した。第一声は「あまい!」だった。

「なんでそのカリンが失言した時にもっとつっこまなかったの? 自己紹介も普通だし、もっと変わった質問を盛り込むとかさあ。全部の質問が上辺だけで、ぜんぜん踏み込みが足りないよ。もっとつっこんだ質問ができるところいっぱいあっただろ?」

 萌は初めてにしてはうまくやれたと思っていただけにショックだった。

「初対面でそんな踏み込んだ質問……出来ません」

 萌は言い訳をするつもりはなかったが、今の自分にはこれが精一杯という意味で言葉を返した。

「悪いけど、君が引き出した答え、そこまでは最初から想像がついてる。俺はその先が知りたいんだ」

萌は何も言えずに席に戻った。落ち込んだ気分のまま、メールチェックをしていると、大橋くんからメールが届いた。

<あまり気にしないほうがいいですよ。遠野さんのああいう態度はいつものことだから>

 萌はそのメールに励まされ、気持ちが楽になると、急に空腹を感じた。そういえば、今日は夢中でインタビューをしていて、お昼を食べていないことに気づいた。

 遠野編集長にお昼をとっていないので、コンビニに買いに行って、自席で食べていいですか? と聞いた。すると、そんなこといちいち報告しなくていいと軽くあしらわれた。萌は再び落ち込んでしまった。財布を取りに戻り、外に買いに行こうとしたら、遠野に呼び止められた。

「敷田、俺も食べてないんだ。コンビニ行くのなら、何か俺の分も適当に買ってきてくれる?」

 萌は拍子抜けしてしまった。

「何でもいいんですか? どのくらい買ってくれば……」

 遠野は面倒臭くなって言った。

「ああ、いいや、一緒に外に食べに行こう。三十分くらいで戻ってくればいいだろ」

 萌は遠野編集長と一緒に外に出た。すでにランチの時間は終わっていたので、適当な店もなく、早く戻れるという理由で、ラーメン店に入った。

 萌はドキドキしていた。注文をして席に着くと彼はいきなり言った。

「なんかさっきは言い過ぎた。初めてのインタビューだもんな。悪かった」

 萌は泣きそうになってしまった。

「いいんです。やっぱり自分でも甘かったなって後になってみるとわかりました」

「仕事に対してはどうしてもシビアになっちゃうんだよ。俺の悪いところなんだ」

 萌は遠野編集長に惹かれている自分をはっきりと自覚した。並んでラーメンを食べながら、この人の隣に居られることが幸せだと思った。

 しばらく黙って食べていたら、思い出したように遠野編集長が呟いた。

「あれ、俺昨日もラーメン食べたな。もしかしたらその前も食べたかもしれない」

「え? 大丈夫ですか? そんな食生活で」

 思わず心配になって萌が言う。

「一人だからさ。ぜんぜん食事に気を使わないんだ。そのうち死ぬかも……」

「死んじゃ困ります。なんで結婚しないんですか?」

 萌はまずい質問をしてしまったとアドレナリンが体を駆け巡った。

「その質問そのまま君に返すよ」

 萌が離婚をしていることは最初の書類に記載していた。

「そっか、俺たちバツイチ同士なんだ……」

 萌はその言葉がずっと頭から離れなかった。

 ラーメン店を出て、会社に戻ると、見城さんが話しかけてきた。

「遠野編集長と何を話したの?」

 見城さんは萌と遠野編集長が仲良くするのをあまりよく思っていない節があったので、「仕事の話」と適当に答えた。彼女はちょっとムッとした感じで行ってしまった。萌は彼女とこれからどう接していけばいいのか先が思いやられた。


 出版社に勤めだして、二回目の週末、萌は新宿のダイニングバーに向かった。今日は証券時代の同期仲間との月イチの飲み会だった。会社が新宿にあったため、なんとなく、集まる場所も新宿になってしまう。高層ビルのエレベーターに乗る。あの面接の後、佐緒里と会って、愚痴をこぼしたことが随分と前のような気がした。

 指定の店に着いて幹事の名前を告げると、奥の個室に通された。そこには小宮が一人でいた。

「あれ? まだ小宮一人?」

「今日は俺と敷田だけ」

 嵌められた! ほくそ笑む佐緒里の顔が浮かんだ。

「なんでこういうことするのかな、まったくもう」

 萌はムッとして言った。

「俺が頼んだんだ」

 萌はその場に立ち尽くす。小宮が萌を促した。

「とにかく座ってくれないか。きちんと話をしたい」

 萌は煮えきらない気持ちのまま、小宮の向かいに腰を下ろした。

「何飲む? お腹空いてるだろ?」

「そうね。ウーロンハイに……料理はなんでもいい。適当に頼んで」

 萌は少しやけっぱちになっていた。

 星本と結婚を決めた時に、萌の中で小宮との関係はきっぱり終わりにしたのだ。星本と別れたからといって、小宮と縒りを戻すつもりなど萌にはなかった。

「機嫌あんまりよくないね」

「わかる? こういう騙すようなやり方好きじゃない」

「こうでもしないと敷田、俺と向き合おうとしないだろ」

 萌はここでようやく小宮の顔をきちんと見た。まったく希望していなかった世界にコネで入り、周りとの温度差に怯えていた入社したての頃、研修で仲良くなった同期の友人たちにどれほど救われたか……。その中の一人であった小宮に恋をしたことで、萌は会社に行くことが楽しくなっていた。私にとって小宮は証券時代の思い出の大部分を占めていたのに……。

「もう一度、俺と付き合ってくれないか? 結婚を前提として」

 あの頃、このセリフがどれほど聞きたかったことか……。小宮は一度も言ってくれなかった。いまさら言われても、もう、遅過ぎるのだ。

「ごめんなさい。もう、遅いの。女は一度終わりにした男には未練はないの」

 萌はこんなにも、冷たくあしらえることに自分でも驚いた。

 小宮は諦めなかった。

「わかった。だったら、ただ付き合ってほしい。結婚とかは考えずに」

「何それ? 男にとっては一番都合がいいじゃない?」

 小宮は黙ってしまった。萌はさすがに言い過ぎたと思ったが、謝ることも出来ず、来た料理を黙々と食べた。気まずい空気が二人を包んでいた。

 小宮が沈黙を破った。

「今付き合ってるやつがいるのか?」

 萌はなぜかドキっとした。

「いない」

 その返事と同時に遠野編集長を思い浮かべたことに、萌は自分を罵りたくなった。

「だったら俺じゃ、ダメなのか?」

 萌は一瞬考えた。“小宮ごめん。今、好きな人がいるの”これだけ言えば、小宮は諦めてくれるだろうか。窓の外には新宿の夜景が煌いていた。こんなにドラマチックな空間に好きだった人と二人きりでいると言うのに、萌の心にときめきはなかった。

それは萌が彼ではない別の男性に惹かれていた証拠だった。

遠野編集長――。萌はどうしようもなく彼を好きになっていることに、この時気づいた。

小宮はそれ以上、萌の気持ちを探るようなことはしなかった。萌が一旦こうと決めたら、それ以外のことは見えなくなる性格だということを、彼はよく知っていた。萌が辞めた後の会社での出来事やお互いが知っている上司や同僚の話でようやく砕けたムードで話しが出来た。小宮は別れ際、萌にこう言った。

「今度は俺がしゃしゃり出る隙もないくらいのいい男見つけろよ」

 萌は小さく呟いた。

「小宮、ありがとう……」


「みんな、盛り上がってるぅ~」

「イエーイ! ユナちゃーん、かりん~」

「では、最後の曲です。CUTEりっぷオリジナル曲、いちごの気持ち」

 どこかで聞いたことがあるようなメロディーだったが、オタ芸をやるファンも大喜び、今日一番の盛り上がりだった。

 ライブが終わって、萌はCUTEりっぷの楽屋――といっても機材などが置かれてる部屋の片隅――に訪ねて行って、先日のインタビューのお礼と、もう一度、インタビューをさせてもらいたいとお願いをした。ユナは一瞬めんどくさいといった表情をしたが、「事務所がオッケイなら……」と言ってくれた。

「今日はアヤカちゃんがいないけど、どうしたの?」

 萌はこのライブが始まってからずっと気になっていたことを尋ねた。

「連絡とれないんです。一昨日から。アヤカ時々そういうことあるから、またかって感じですけど」

 萌はそういうものか……と思ったが、インタビューの時のアヤカを思い出して、少し気になった。

「インタビューの時、ストーカー紛いのことされてるって発言したのアヤカちゃんだったよね」

「私もされてるけど、アヤカほどじゃないかも」カリンが言った。「イベントで知り合った男に家までつけられたって前に言ってた」

 萌はインタビューの時、そこまでは聞いていなかったことに思い至った。遠野編集長が言うようになんでもっと話を引き出そうとしなかったのかと、今更悔やんだ。

「そんなに心配することないと思うな。アヤカって前もバックレたことあるし……」

 ユナが空気を換えるように言った。

「それだったらいいけど、この後も連絡とってみてね。再インタビューだけど、私から事務所の方に連絡を入れて設定してもらえるように依頼するので、めんどくさいと思うけど、またよろしくお願いします」そう言って頭を下げた。

「今、ちゃちゃってやるんじゃダメなの?」

ミレイが提案する。

「できれば、じっくりやりたいの」

萌は申し訳なさそうに言う。

「そんな話すことないけどおー」

「お願い! 美味しいもの奢るから」

 萌は顔の前で手を合わせて懇願した。

「ほんと? だったら考える」

「何食べたいかも考えといてね~」

萌はCUTEりっぷの三人と別れて、会社に戻った。

 

 すぐに遠野編集長に、再インタビューをお願いしたことと、アヤカが一昨日から連絡が取れないことを報告した。

「そのストーカーの話になった時、アヤカはどんな感じで喋ってたの?」

 遠野が質問した。萌は思い出そうとしたが、はっきり思い出せなかった。

「あとで録音したものを聴いてみます」

「表情だよ、気持ちが一番感じ取れるのは。録音したものを起こすだけなら、インタビューなんて電話で済む。話が膨らまないのはインタビュアーのせい。明日もう一度、事務所と彼女たちに連絡して、アヤカがどうなったか聞くように」

 遠野が突き放すように言った。萌はインタビュアーとしての自分の未熟さを思い知り、そしてアヤカのことが一段と心配になった。

「アヤカちゃんに何かあったら、私どうしたらいいですか? 彼女が怖い思いをしていることを聞いているのに……」

「インタビュアーにそこまでの責任はないだろ? 気分はよくないだろうけどね」

 遠野編集長にそう言われると萌は益々不安になり、自席に戻り録音テープを聴きなおした。すると、アヤカがストーカーの話をした後、萌はすぐに「他には何かある?」と話を次に進めていた。自分が腹立たしくなった。


 翌日、萌は事務所とユナに連絡を入れた。事態は悪い方向に行っていた。昨日のイベントをアヤカがすっぽかしたことをユナたちから聞いた事務所の担当が、一人住まいのアパートに連絡を入れたが通じず、アヤカが通っていた声優学校にも確認したが、今週に入ってからは来ていないということだった。ユナも心配になってきたようで、アヤカがよく遊んでいた友人に連絡を取ってくれた。すると彼らもアヤカが電話に出ないことを気にしていたということだった。

 萌は遠野編集長にこの事態を報告して指示を仰いだ。

「捜索願は出したって?」

「すみません。そこまで確認は……」

「バカ! その事務所の連絡先よこせ。俺が連絡する」

 萌は叱られて気落ちしたまま、遠野が事務所に確認するのをただ見ていることしか出来なかった。事務所の担当は実家に連絡を入れたが繋がらなかったため、また後でかけ直そうとした、と説明した。遠野がアヤカの実家の連絡先を教えてくれと、担当に掛け合ったが、そういった個人情報は教えられないと断られていた。

「だったら早く、実家に電話して捜索願を出させろ」と遠野が担当に強く言うと、担当が逆ギレして「お前は何者だ? うちの女の子にとやかく口を出すな」とケンカになってしまった。

「ダメだ。話にならない」電話を切って、遠野がぼやいた。「第三者が出すわけにもいかないし、関わるのはここまでだな」

 萌は諦め切れなかった。仕事は手に付かず、萌はユナにもう一度連絡を入れた。

 ユナが興奮気味に話した。

「怪しいやつがわかってきたの。オタ芸やってるファンの男から聞いたんだけど、アヤカのファンで、かならずCUTEりっぷのイベントには来るのに、アヤカが来なかった日に、そいつもいなかったって」

 アヤカが来ないことは事前にわかるはずもないのに……。

萌はもう居ても立っても居られず、ユナとそのファンの男に今から話を聞きに行くことを編集長に頼み込んだ。

「警察より早いかもしれない。行って来い。但し、危険なことをする前に俺に連絡をくれ」

「はい。連絡します」萌は遠野に約束して、秋葉原に向かった。


 ユナとカリンはCUTEりっぷの活動以外は、メイド喫茶で働いていた。そんなこともあのインタビューでは聞き出せていなかった。本当にインタビュアー失格だった。“ぷちりぼん”というメイド喫茶は駅からほど近い、昭和通りから一本入ったすぐ角にあった。ここにはユナたちが働いていることを知っているCUTEりっぷファンがよく訪れるのだと言う。その中の特にアヤカファンだという男性にユナが声を掛けたのだ。店内に入るとユナが手招きをしてそのアヤカファンの男性を紹介してくれた。大学生くらいの愛想のいい男だった。

「とにかくイベントにはかならず顔を出すし、一番最初からいて、一番最後までいるんですよ。それなのにライブではいつも野鳥の会だから、一度誘ったんですよ」

「なに野鳥の会って」

「オタ芸やらずにずっと双眼鏡でステージ見てるだけの人」

「なるほど」萌は確かにそういった人が何人もいたのを見ていた。「誘ったってオタ芸に?」

「そう。そしたら、そんなに好きなわけじゃないからって、断られて……。そうだ! 勉強が忙しいって言ってた。聞いてもいないのに、歯科大学に通ってるからって……」

「歯科大学!?」

 ユナが素っ頓狂な声をあげた。

「そいつ知ってる。事務所に下着のプレゼントを贈ってくるやつだ」

 萌もインタビューでアヤカがそう言っていたのを思い出した。

「まだ、そのプレゼントある?」

「怪しいプレゼントは捨ててるの。一番最初はアヤカも受け取ってたんだけど、中に手紙が入ってて、その手紙の内容が気持ち悪いって、確か歯科大学の学生ってことをやたらと強調していて、将来はお金も入り安泰だから結婚しようってしつこく書いてあるってアヤカ言ってた」

「これから一緒に事務所に行かない?」

 ユナもそう考えていたようで、萌はユナと一緒に事務所のある五反田に向かった。

 駅から十五分以上歩くというので、タクシーに乗った。低層マンションが立ち並ぶ、閑静な一帯にその所属事務所はあった。周辺のマンションに比べるとだいぶ見劣りする雑居ビルの五階と六階が事務所になっていた。

「おはようございます」

ユナがそう言って事務所に入る。萌は部外者で、なんのアポイントも取っていないことに多少気が引けたが、今はそんなことは言っていられない。

「桐原書房の敷田さん。アヤカのことで来てもらったの」

 ユナが紹介してくれた。

「事務所に押し掛けてすみません。アヤカさんのことで手掛かりが見付かりそうだったので……」

「桐原書房? あんたらさっきからなんなんだよ。捜索願だせとか、関係ねーだろ」

 遠野編集長とケンカした担当に違いなかった。

「関係なくはありません。もしかしたら大変な事態になっているかもしれないんです。捜索願は出しましたか?」

萌は毅然として言った。

「あのなあ……。まあいいや、アヤカは嘘の連絡先を記載してたんだよ。実家の住所もデタラメだった」

「じゃあ、まだ捜索願は出してないんですか?」

 萌は愕然とした。

「家族に連絡が付かないんだから、しょうがないだろ?」

「家族以外でも捜索願は出せるはずです。アヤカちゃんが所属している事務所ならそれくらいの責任はあるはずです」萌はこの担当の危機感の無さに怒りを覚えた。「今すぐ警察に連絡してください」

 担当の男は「ばばあはひっこんでろ!」と萌を怒鳴りつけた。この歳で“ばばあ”と言われたのは初めてだったので萌はショックを覚えた。しかし、その担当は渋々といった感じで電話をとったのでホッとした。

 担当の男が警察に連絡を入れているのを横目で確認し、萌は先程からのやり取りを驚いた様子で見ていた事務所の女性に声を掛けた。

「ファンから貰うプレゼントのチェックをしている方はどなたですか?」

「私です」その女性は答えた。

 話が早い。萌はさっそくアヤカに下着を贈った男について尋ねた。

「ああ、その人ね。結構頻繁に送ってくるのでよく覚えてます。アヤカが捨ててくれって言うから、中身も確認せず捨ててますけど。そう言えば最近は送ってこないな……」

「住所は? 何か記録は残ってないですか?」

 萌は彼女に食らい付く勢いで聞いた。

「ちょっと待ってください」

 彼女は引き出しを開け、ごそごそと探し出した。

「ああ、これだ。この人からだったら捨ててくれってアヤカから渡されたの」

 宅配便のラベルだった。

「これ借ります。ありがとうございます」

 萌はユナと連れ立って、事務所を飛び出した。高野要一と書かれていた。

 

 大通りに出てタクシーを拾った。ラベルに書かれていた住所は葛飾区堀切とあった。土地勘がない萌は最寄り駅もわからないので、そのままタクシーで向かうことにした。萌は車の中で遠野に連絡を入れた。

「今から俺もそっちに向かう。住所を教えてくれ」

 萌が住所を読み上げる。それを遠野が復唱した。

「いいか、俺がそっちに着くまで、何もするな。絶対だ」

 萌は了承した。隣に座っているユナが不安そうに言った。

「どうしよう。私がもっと早く変だって思ってたら……」

「ユナのせいじゃないよ。大丈夫だって」

 萌はユナの肩を抱いた。萌が自分に責任を感じているように、この子も自分を責めていたのだ。タクシーは都心を突っ切り、萌の知らない地帯を走り出した。カーナビのおかげでピンポイントでタクシーは指定の場所に連れて行ってくれる。景色は下町の様相を呈してきた。日もだいぶ落ちてきて、徐々に車のヘッドライトが点けられていく。萌は気が焦りだした。

「着きましたよ。住所どおりだと、この辺だよ」

 萌はお金を払ってタクシーを降りた。1万円を出して、千円札しかおつりがこなかった。

 ラベルにはなんとか判別出来る程度の薄い文字で番地と枝番が書かれていた。

「あった! あそこじゃない? メゾン綾瀬」

 しかし、部屋番号までは記されていなかったのだ。“高野要一”。一人暮らし用のアパートらしく、郵便受けに名前を入れている人はほとんどいない。

 萌はここまでと観念して、遠野を待つことにした。辺りはすっかり暗くなっていた。十分くらい経って、萌のケータイが鳴った。

「今近くに来てる。警察と一緒にそっちに行くからそこから動くなよ」

 遠野は警察を呼んでいた。まもなく二人の警官と一緒に遠野がやってきた。

 警察がこのアパートの管理人に連絡を入れる。ここでしばらく待たされた。

「敷田、よくここが見付けられたな。警察に捜索願出しただけだったら、こんなに早くここには辿り着けなかった」

「ユナのおかげなの。あと、ファンの男の子」

 遠野はそこで隣にいるユナに挨拶をした。

「遠野です。いろいろありがとう。君かわいいね」

 最後の言葉に萌は過剰に反応した。やっぱり彼も普通の男なんだと思ってしまった。

三十分近く待たされて、ようやく管理人がやってきた。

「高野要一ね。はいはい」二階の奥から二番目の部屋に案内した。

 まずは、警官がインターフォンを押す。なんの反応もない。再度押して反応がないのを確かめると、管理人に開けるように指示した。萌はこの時、極度に緊張していた。傍らにいたユナも緊張で顔が引きつっていた。遠野が小声で萌に言った。

「ユナは中に入れるな。君が付いてろ」

 警官がまず部屋に入る。狭いキッチンの向こう側に一部屋あるだけの作りだ。スライド式の扉には鍵が掛かっていた。管理人が言う。

「元々鍵はない」

「誰かいるのか?」警官が声をかける。

「いやぁ」奥から声がした。アヤカの声に間違いないと思った。

 二人の警官が力ずくで扉を外しにかかった。遠野が「出てろと言ったろ」と萌とユナを制した。その瞬間、扉が壊され、中の様子が目に飛び込んできた。

 アヤカが下着姿で床にしゃがみ込んでいた。足には足枷が嵌められていた。何よりも異様だったのが、その下着だった。まるで幼女が着けるようなイチゴ柄の模様が入った純白の下着を着けさせられていた。


 高野要一は大学から帰宅したところを待ち構えていた警察によって逮捕された。彼は三年浪人して歯科大学に入り、二十三歳になっていた。アヤカに外傷はなかったが、精神的ショックが大きく、口を利くことが出来なくなっていた。この事件は『歯科大の学生、アキバのアイドルを自宅で監禁』という見出しで週刊誌に大きく載った。萌は一転して取材される側になってしまった。せっかくのインタビューも記事になることはなく、萌は仕事に対する意欲をまったく無くしてしまった。

 萌は遠野編集長に訴えた。

「もう、この編集部で働いていく自信がありません。ここで作っているこの雑誌にしても、若い女の子を自分のものにするような欲望を助長するような内容が多くて、こういった願望が今回のような事件を引き起こす引き金になってるんじゃないかと思うんです。私は加害者を増やすことに貢献してるんじゃないかって……」

 遠野は黙って聴いていた。そして徐に口を開いた。

「敷田がここを辞めるのは自由だ。やっていく自信がないというのなら無理に引き止めたりしない。だけど君はそうやってどこに行ったって、結局は逃げることしかしないんじゃないか?」

 萌の心に“逃げる”という言葉が突き刺さった。

 遠野はさらに続けた。

「君は一度離婚をしているよね。プライベートのことを持ち出して悪いけど、俺が最初に敷田を気に入ったのはそこなんだ。人生を綺麗に生きている人間は少しのほころびが許せない。そういう人間はとてもこの会社ではやっていけないよ。俺はこの会社で地獄を見たけどそれでも辞めなかった。敷田にはもちろんそんな思いはさせたくないけど、少しでも長く働いてほしかった」

 萌は自分だけが苦しいと思い込んでいた。今回の事件で一番辛い思いをしたのはアヤカだが、ユナだってカリンだって、ミレイだって苦しいんだ。私は遠野編集長が言うように単に逃げているだけかもしれない。

「一つだけ教えてください」萌は覚悟を決めた。「遠野編集長は会社に何を求めているのですか?」

 見城さんから遠野の過去を聴いた時から、ずっと疑問に思っていたことだった。会社の圧力で女性作家と関係をもったことで奥さんと離婚までしているのに、なぜそんな会社にしがみついているのか……。

 遠野はすぐに答えなかった。答えられなかったのだ。

「自分でもわからないな」

 萌は遠野の心の奥底で眠っていた小さなマグマを揺り動かした。


「敷田さん、そのゲラのチェックが終わったら、ライターさんの選定とアポ入れをお願いします」

 徳本さんが萌に指示を出す。

あの事件の後も萌は第五編集部で働き続けた。遠野編集長が気を使ってくれたのか、しばらくはアキバでの取材は極力無くして、女性編集者である徳本さんの手伝いをしながら、仕事を覚えていくというスタイルに変更してくれた。

 徳本さんは無駄な会話をいっさいしない女性だった。記事の内容で大橋くんや岩崎くん! と話が盛り上がることはあっても――萌は何が面白いのかまったくわからないのだが――社員同士の噂話などにはまったく興味を示さなかった。だから、萌にとって徳本さんは楽であった。一度、恋の話などを振ってみたのだが、あっという間に会話が終わってしまった。

 一方で、見城さんとは変な探りあいが続いていた。元々この部署は女性が少ないので、お昼は萌と見城さん、あと庶務の高橋さんという女性と三人で食べに行くことが多かった。

「大橋くんってさあ、絶対、敷田さんのこと好きだと思うな」

 見城さんが言う。萌はこういう勝手な思い込みで人をくっつけるのが本当に嫌いだった。

「私はただの同僚としか思ってないんだから、そういうのやめて」

 萌は軽く笑いながら言った。すると高橋さんが透かさず言う。

「敷田さんは遠野編集長のことが好きなんでしょ?」

「それ、言わないほうがいいって」

見城さんが小声で高橋さんを制した。明らかに萌に聞こえていることを知ってやっている。萌は聞き流すことにした。そうしたことで沈黙が出来た。その沈黙を次に喋ることのいい効果にして、見城さんが口を開いた。

「これ言わないでおこうと思ったんだけど、やっぱり、言っておいたほうが敷田さんも傷つかなくて済むと思うんだよね」そう前置きして、萌が初めて聞く話をした。

「遠野編集長って、書籍部の村井さんのことが好きなの。だから誰にもなびかない」

萌はこの一言で後の会話がまったく耳に入らなくなった。


一ヶ月程遅れて、萌の歓迎会が開かれた。第五編集部の屋台骨の雑誌が無事に校了を迎えたので、ようやく全員が揃っての飲み会が開催出来たのだ。幹事は面倒見のいい大橋くんがやってくれた。場所は会社近くの居酒屋だった。

萌はまだ、挨拶以外の会話をしたことがない人が何人かいたので、この機会は嬉しかった。

遠野編集長が乾杯の挨拶をする。

「この第五編集部にようやくまともな人間が入ってきました。俺も嬉しいです。だいぶ遅れてしまってごめんなさい。敷田萌さん、ようこそオタク編集部へ。乾杯!」

 皆で乾杯をする。最初の挨拶の時のしらっとした空気が嘘のように、今日は陽気な雰囲気に包まれていた。

「うちの連中はオンオフの切り替えがはっきりしてるんだよ。最初怖かっただろ?」

 遠野が萌に話しかけた。

「ほんと、びっくりしました。初日で辞めようと思ったもの」

 隣に座った大橋くんが萌に話しかける。

「敷田さん、お酒強いの?」

「そこそこかな。むしゃくしゃしてる時はすごく飲んじゃう」

「じゃ、ものすごく強いじゃん」

「今日はすごく飲みたい気分」

 そう言ってビールを一気にジョッキ半分飲んでしまった。

「ってことは今日はむしゃくしゃしてるの?」

「正解!」

 遠野が「俺知らないぞ」と言って「大橋、敷田をよろしくな」と大橋くんに振った。萌は調子よく飲んでしまっていた。他の席にも渡り歩いて、ほぼ全員と話が出来た。誰々は××おたく、という話で盛り上がった。声優おたくは川上くん。初日に遠野編集長にダメ出しされていた長井くんはゲームおたくで特に美少女ゲームが好きと聞いて、萌はやっぱり引いてしまった。

この歓迎会には契約や派遣、アルバイトのいわゆる定時組みは参加していなかった。何しろスタートが八時からだったので、無理強いは出来なかった。萌はちょっとホッとしていた。もしこの場に見城さんがいたら、遠野編集長と気楽に話せなかったかもしれない。

一次会が終わり、二次会へ、ということになった。この時すでに萌はかなり酔っていた。

「大丈夫か、敷田」

 遠野が萌を心配する。

「大丈夫です」

「ぜんぜん大丈夫じゃない」

 遠くで大橋くんの声が聞こえた。

「遠野さん、二次会カラオケにしました。こっちです」

 大橋くんが手を振る。

「先行っててくれ」

 しかし、大橋くんは萌と遠野のところにやってきた。

「大丈夫ですか? 敷田さん休ませたほうがいいんじゃないですか?」

 萌はここで酷いことを言ってしまった。

「大橋くんはあっち行ってて。邪魔しないで」

 大橋くんは吃驚していた。そのまま何も言わず、皆が待つカラオケ店に行ってしまった。

「大橋傷ついてたぞ」

 遠野が言った。

「なんでみんな私と大橋くんをくっつけるの?」

萌は完全に酔っ払いの絡む調子になっていた。

「私は遠野編集長が好きなのに」

 遠野はあまり真剣に取り合わなかった。

「もう帰れ。タクシー乗せてやるから。家どこだっけ?」

「いや、帰りたくない」

「帰れ!」

 二人は道端で押し合いをしてしまった。遠野がタクシーを止める。

「一人で帰れるだろ?」

タクシーの後部座席に萌を無理やり押し込む。萌は遠野をひっぱる。そのやり取りを黙って見ていたタクシーの運転手が言った。

「こういう酔っ払いは乗せられないよ。二人とも降りてくれ」 

 二人を降ろしてそのまま行ってしまった。道端で萌はしゃがみ込んでしまった。

 遠野が立ったままで萌を見下ろして言った。

「敷田、お前がそんな酒乱だったとは知らなかった。俺は酒乱の女は嫌いだ」

 萌は急に頭の中がクリアになった。

「見城さんに遠野編集長の過去を聞いたの。ショックだった」

 遠野はその発言に少なからずショックを受けていた。

「そうか……。だったら嫌いになればいいじゃないか」

「どうして嫌いになんかなれるの?」

 萌は立ち上がった。

「私帰ります。もう大丈夫です。なんかさっきのやり取りで酔いも吹っ飛んじゃった。醜態見せてごめんなさい」

 そのまま駅に向かおうとした。遠野が引き止めて背中越しに言った。

「敷田、俺なんか好きにならないほうがいい」

 萌はもう何も答えなかった。


 翌日の萌の気分は最悪だった。昨日の歓迎会での出来事を萌はしっかり覚えていた。どんなに酔っても記憶を無くしたことがないのはある意味、いいのか悪いのかわからなかったが、昨日の記憶は萌にとって出社することを躊躇わせた。どんな顔して遠野編集長に会えばいいんだろう……。萌は酒の勢いで遠野編集長に告白していた。どう見ても、あれでは酒乱の女だ。

 萌はどんよりした気分で第五編集部の扉を開けた。遠野編集長を横目で見る。いつもと変わらない。おはようございますと声を掛け、自席に座った。その際、いつも挨拶を返してくれる大橋くんが何も言わなかった。萌は気になったが、あまり考えないことにした。

心の準備が出来ていないうちに、遠野に呼ばれた。萌はとにかく謝ろうと心に決めて編集長のデスクに向かった。

「敷田が手配したライター、使えなくなった。大至急、代わりのライターを見つけてくれ」

 遠野はまったく昨日のことに触れることなく、事務的に言った。萌はわざわざ蒸し返すこともないと思ったが、自分の気持ちが納得いかなかった。

「あの……。昨日は醜態をお見せしてすみませんでした。ちょっと飲みすぎたようです。以後気をつけます」

「別にいいよ」

 あっさりと言う。その口調があまりにも抑揚がなかったので萌は遠野が怒っているように思えた。

 昼時になっても代わりのライターが決まらず、萌はひたすら電話を掛けまくった。庶務の高橋さんにお昼は別で行くからと告げた。見城さんと高橋さんが連れ立って外に出た。大橋くんがその後を追うようにしてランチに出掛ける。ここからが萌にとってのつらい日々の始まりだった。

 お昼から帰ってきた見城さんは明らかに萌に対して軽蔑するような態度をとった。萌は訳が分からず、まだ、話をする余地がある庶務の高橋さんにトイレで会った時に理由を聞いた。

「敷田さん、会社の飲み会でああいうことするのマズイんじゃない?」

「ああいうことって?」

 萌はなんとなく酔って遠野編集長に絡んだことだろうと予想はしていた。

「大橋くんが見てたよ。遠野さんと道端で抱き合ってたところ」

「えっ?」

萌はそんなことはしていないと言ってはみたが、誤解されるようなことをしたことは事実だったので、それ以上強くは言えなかった。萌は迂闊なことをしたと後悔したが、もう遅かった。

日が経つごとにこの噂は他部署にまで波及した。もちろん噂の発信元は見城さんだった。彼女は他部署の人間とも広く交友を持っていたので、彼女に係ればあっという間だった。ただ、萌にとって救いだったのが、第五編集部という環境だった。この部署で騒いでいたのは見城さんと大橋くんと庶務の高橋さんくらいだった。後の人たちはまったく興味がないようで、萌に対する接し方が変わることはなかった。オタクって素晴らしい――。 萌にとって、それはとても有難かった。

 一度こんなことがあった。萌が休憩室でコーヒーを買ってエレベーターを待っていると、近くにいた女子社員が「あの子、あの子」とコソコソ喋りだした。萌はなかなかエレベーターも来ないし、居心地が悪かったので、近くの階段を使うことにした。しかし、萌は彼女たちが気になり、階段の影に身を潜めた。すると、萌がいなくなったと思って、普通の声で喋りだした。

「遠野さんが自分の好みで採用して、傍に置いてる子」

「飲み会で抱き合ってたんでしょ?」

「編集長になったからって職権乱用だよ」

「あんなんが上司だったら、人事に訴える」

 萌はこれ以上聞きたくなくて、階段を駆け上った。自分のせいで遠野編集長が悪く言われていることに、胸が苦しくなった。

 第五編集部に戻り、さっきの出来事を無理やり胸に仕舞い込み、原稿のチェックをし始めた。すぐ前の席の大橋くんはあれ以来、萌とは目も合わせない。萌は作業に集中できなかった。大橋くんときちんと話そう。彼は悪いひとじゃない。誤解しているだけだ。萌は思い切って大橋くんに声を掛けた。

「大橋くん、話したいことがあるの。ちょっと時間をもらえない?」

 彼は少し躊躇したが、オーケーしてくれた。

 会社の外に出て、幹線道路から少し入った所にある公園のベンチに距離を置いて二人で腰掛けた。日差しが強い。季節はいつの間にか夏になっていた。

「歓迎会の時のことだけど、私みっともないくらい酔ってて、大橋くんには失礼な態度をとってしまってごめんなさい。もっと早く謝るべきだった」

 大橋くんが早口で言う。

「僕のことはいいですよ。だけど、遠野さんとああいうことするのは良くないでしょ?」

「それなんだけど、私抱き合ってなんかいない。大橋くんの見間違いだと思うの。確かに酔って遠野編集長に絡んではいたけど、彼は私に対して絶対そういうことはしない人だから……」

「敷田さんは遠野さんを最近知ったから、彼のことをよくわかってないんですよ。彼何したか知ってます? 書籍担当時代に作家さんと寝たんですよ。それでその作家さんの覚えがよくなって、編集長になれたようなもんです。ぶっちゃけ男版枕営業ですよ」

 萌は泣きそうになった。信頼していた大橋くんがそんなこと言うなんて……。

「それは見城さんから聞いた情報でしょ? しかも最近聞いた。私にもその話を語ってくれたけど、そんな話じゃなかった」

 見城さんが遠野編集長を好きなことは最初からなんとなくわかっていた。だから萌に話してくれた時、遠野を悪くは言っていなかった。むしろ同情していた。しかしあの飲み会での出来事を聞いてから、見城さんは遠野編集長に敵意をむき出しにしているように思えた。

「なんだ、知ってたのか。でも、どっちにしたって、その作家さんと寝たことは事実でしょ? しかも奥さんがいながら。そういう人は僕は信用できない」

 萌は何か言おうとしたが、さらに大橋くんが意を決したように言った。

「実は、僕、人事に訴えたんです。部下の女性と公私混同した行いをしている上司は困る。そういう上司の下ではとても働く気になれないって」

 萌は大橋くんがそこまでしていたことに驚いた。

「だから待ってよ。部下の女性って私でしょ? 遠野編集長は何もしてない。大橋くんの勘違いだってば!」

 萌は声を荒げて人事にまで訴えた大橋くんを責めた。

「ひどい……。どうしてそんなことするの」

 自然と涙が出てきていた。それを見て大橋くんが急に落ち着いた声で言った。

「そんなに遠野さんのことが、好きなんですね……。大丈夫です。人事の人はまったく相手にしてくれなかったから。働きたくないなら君が辞めたらいいって言われました」大橋くんは下を向いて続けた。「敷田さんのこと好きだったけど、完全に嫌われちゃいました。僕ってほんと、好きな人苦しめてどうすんだろ……」

 そのままベンチから立ち上がり、会社に戻ろうとする。

「大橋くん……」

 萌は呼びかけたが、振り向くことなく行ってしまった。

 大橋くんが去った後も、萌はベンチで一人、ボーっとしていた。通りの行き交う車を見るともなしに見ていた。自分のあの醜態がここまで事を大きくしてしまったことに今更ながら悔やんでも悔やみきれない。遠野編集長はどう思ってるだろう。噂が部外まで広まった後も、彼の萌への接し方は変わらなかった。他の第五編集部の皆のように。


 噂も時間が経つと新鮮味が無くなるのか、萌に対してあからさまに何かを言う者はいなくなった。大橋くんはベンチで話しをしてからは、以前の大橋くんに戻っていた。ただ、少し距離をおいて萌と接するようなところがあった。見城さんとは相変わらずで、あれ以来お昼を一緒に食べに行くこともなくなった。萌にとっては、そのほうが楽で都合が良かった。編集の仕事は、なかなかハードで決まった時間にお昼をとることが困難になってきていた。入社して二ヶ月が経ち、徳本さんから離れて、リニューアルするコラムの連載ページを企画から全て、一人で受け持つことになった。

 萌はそもそもオタクとは何かを論じることから挑戦した。萌自身よくわかっていなかったので、それを知りたかったのだ。第一回目は「オタク文化はどうして生まれたのか」という内容で、オタクの行動様式からサブカルチャーとしての文化論まで、オタクを学問として研究している大学の准教授に執筆依頼をした。上がってきた原稿をイラストレーターさんに送って、イラストを描き起こしてもらう。原稿を読みながら、萌はなるほどと思ってしまった。遠野編集長にも原稿チェックをしてもらう。

「リアルに満足している人はオタクにならないって、ちょっと極論のような気もするんですけど」

 萌が確認したかった部分を質問する。

「ここで論じているオタクの定義を最初にきちんと入れればオーケーだと思うよ。あとここ面白いね。アメリカで日本のアニメが持て囃されていると言うが、アメリカの全出版物における日本の漫画アニメのシェアは僅か1%程度。開放的で自由なお国柄のアメリカでは、日本でいろいろ報道されているほど、オタク文化は根付いていないっていう指摘」

「つまり、リアルで発散できない人がオタクの道に走る、オタク市場が拡大している日本は現実世界で発散できない人たちが増えているってことですよね」

「そうなるね。つまり、これを手に取っている君は鬱屈している人間だって言ってるようなもんだから、このコラムが反感買うかどうか、そこは気になる」

「こういうのってやっぱり面白くないですか?」

「いいんじゃない? 面白くないページがあっても。なかなかここまで原点に返る発想は敷田以外ないからな」

「それ褒めてくれたんですか?」

「もちろん」

 萌は嬉しくなった。気づくと、この部屋には萌と遠野とあと声優おたくの川上くんしか居なかった。もう十時をまわっていた。

「川上まだ掛かるのか?」

「あとメール一本書けば帰れます」

「敷田ももう帰れ」

「はい」

 萌は素直に従った。会社を出て駅に向かっている途中、イラストレーターさんから電話が掛かってきた。送ってもらった原稿が開けないということだった。彼女はMacを使っているため、ワードのソフトが使えないのだ。明日から休みに入ってしまうため、萌は急いで会社に戻った。第五編集部にはすでに遠野しか居なかった。

「まっ……なんだ敷田か。どうした?」

 遠野は肩透かしを食らったような顔をしていた。萌が事情を話す。

「イレギュラーで使う絵描きさんはワード持ってない人が多いから気をつけろって言っただろう」

「そうでした。すみません」

 萌は急いで原稿をメールに流し込み、イラストレーターさんに送った。用が済み、帰ろうとした時、部屋のドアが開いた。第一編集部編集長の村井さんが立っていた。


「邪魔だよどけ!」

 萌はハッとした。駅のホームをぼーっと歩いていたら、後ろから男に突き飛ばされた。終電の1本前だったが、急いで電車に乗ろうとする人たちの流れを塞き止めていたらしい。電車の中は満員で、酒の匂いが充満していた。

萌の心はさっき見た遠野編集長と村井さんでいっぱいだった。村井さんは私がいたことに驚いていた。そして遠野編集長は……ばつが悪い顔をしていた。そう思うと、萌が会社に戻った時、遠野編集長は最初村井さんだと勘違いしたのだとわかった。見城さんが言っていた言葉――『遠野編集長って、書籍部の村井さんのことが好きなの。だから誰にもなびかない』

萌は叶わぬ恋をしていることを今更実感して、暗い電車の窓に映る愚かな自分を悲しく見つめた。


仕事に恋愛を持ち込む人間にはなりたくないと思っていたが、今の自分は完全にそうなっていた。

「敷田さん、来月は特別進行だからコラムページの依頼はもう済んでる?」

 徳本さんが萌に声を掛けた。仕事に身が入っていないことを悟られたようだ。

「まだです。指摘してもらって助かりました。今日依頼をかけます」

 萌は自分が恥ずかしくなった。これだから女はダメなんだって言われたら、徳本さんにも迷惑をかける。遠野編集長のことは頭から追い払って、コラムのことだけを必死に考えた。

前号の「オタク文化はどうして生まれたのか」は結構な反響があった。しかし半分以上が抗議だった。『あれでは、社会に抑圧され不満を持っている人間がオタクになると断定しているようなものではないか』『不満の捌け口としてオタクになるわけではない。純粋に好きでオタクをやっている人間は多い』『こういう理論がオタクを犯罪者の巣窟呼ばわりする風潮を作る』等々。これを受けての第二回目のコラムは、前回と同じオタク文化を研究している大学の准教授に抗議の内容を伝えて、それを踏まえての執筆をお願いするつもりだ。萌は抗議の内容をまとめたメールの作成に取り掛かった。次第に熱中していき、遠野のことはすっかり脳裏から消え去っていた。自分はこの仕事が好きなんだと実感した。


翌日、遠野は朝から姿がなかった。パソコンは立ち上がっていたので、どこかで打ち合わせでもしているのだろうと萌は思った。

前の席の大橋くんが萌に聞いた。 

「遠野さん、どこに行ったか知ってますか?」

「あれ? 大橋くんも知らないの?」

 長時間席を離れる時は、ボードに行き先を記入するのだが、何も書かれていない。

「まいったな。編集長のチェックがないと印刷所に出せないしなあ」

「また、タバコ部屋にいるんじゃない? 私見に行って来ようか?」

 萌は反射的に答えてしまった。

「ああ、いいです。すみません、仕事の邪魔して」

「私ちょうど、コーヒーを買いに行こうと思ってたの。ついでに見てくるね」

 萌はそう言って三階の休憩室に向かった。部屋に入る前に、先客を見て、萌はその場に立ち尽くした。そして、決してしてはいけないことをやってしまった。入り口のドアに身を潜めたのだ。

 遠野編集長と村井さんが話し込んでいた。

「あの日の言葉しっかり記憶してるから」

「あの日の言葉って?」

「旦那がいても俺と……」

ガタン――。

萌は思わずよろけてドアに体が当たってしまった。

「誰かいるのか?」

 遠野が声をかける。

 萌は急いでその場から立ち去った。五階までの階段を必死で駆け上りながら自分の滑稽さに涙が出てきた。

「おかえりなさい。遠野さんいました?」

「あ、いなかった。ごめんね、役に立たなくて」

 萌は気持ちの昂ぶりを抑えるために、意味もなく文章を打った。

「コーヒーは買ってこなかったんですか?」

「えっ? ああ、売り切れてたの」

「あ、遠野さん」

 大橋くんが戻ってきた遠野に声を掛けた。

「ここの最終チェックお願いします。ずっと、待ってたんです」

「悪い。休憩室にいたんだ」

「え? さっき敷田さんが見に行きましたけど」

 萌は必死で文字を打ち続けた。なんの意味も無い文章が次々と出来上がっていた。


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