第二話
「安瀬さん、締め切り過ぎてますけど、間に合いますか?」
「あとちょっとよ。出来てたんだけど、見直したら書き直したくなっちゃってさ。手入れたらどんどんと……」
「その辺で止めないと、もう間に合わないですよ」
「ダイジョブ、八時には書き終わるから。トーノくん、取りに来てくれるでしょ?」
「もちろん行きますよ。来ないでくれったって行きます!」
「きゃー、うれしい」
遠野は売れっ子作家、安瀬ユミの担当編集者になった。本来、大作家にはベテラン編集者が付くのだが、彼女のたっての希望だった。一昨年、彼女の書き下ろした証券会社を舞台にした『トレーダーネイル』が大ヒットして映画化までされたのだった。この桐原書房は彼女のおかげでかなり潤った。そのため、ここでの彼女の扱いは女王様級であった。
「編集長、これから安瀬さんのところに行って、原稿取りに行ってきます」
「失礼のないようにしろよ。彼女お前にぞっこんだからな。寝たいって言ったら寝てやっていいんだぞ」
遠野は篠塚編集長を睨み付けた。
「その顔だけはするな。わかったな」
帰宅途中のサラリーマンに混じり、遠野は自由が丘にある安瀬ユミの自宅に向かった。長くなりそうな一日を思ってうんざりした。安瀬ユミの担当になってから、妻の春香はずっと機嫌が悪い。一度、絶対出るなと言ってあったケータイに春香が出てしまったことがあった。懸念したとおり安瀬ユミからだった。彼女は春香に対していろいろと傷つくことを言ったらしい。それ以降、春香は遠野が何もないといくら言っても、疑うことを止めない。
「トーノくん、遅い!」
安瀬ユミの自宅に着くと、真っ先に言われた。
「遅いって、書きあがったんですか?」
「そーれーがー、書きあがったのよ!」
安瀬ユミはかなり機嫌が良かった。
「やっぱり、愛の力かな。あの後、すごく捗ったの」
この人はなんでこんなに開けっぴろげなんだろう。ふつう文章を書くことを得意としている人は、内に秘めるタイプが多いと思っていた。遠野はそんなことを思いながら、出力された原稿にざっと目を通した。
「それは会社に帰ってからやってよ。夕飯お寿司の出前とったのよ。食べてかない?」
遠野には何の選択権もなかった。そもそもここに来ることもないのだ。原稿がデジタルで入稿出来るようになってから、早い話メールの添付で済むのだ。昔のように担当が作家さん宅に出向いて行って、出来上がるのをじっと待つなんてことはなくなったのだ。しかし彼女はそれにこだわった。全て紙に出力して縦組みにして読み返すのだ。そこで自分で朱入れをして、納得したところで完成となる。それでもデータを送ってもらえばいい話だが、彼女はそこまでしかしない。つまり、その朱入れは出力した紙に入れて、それをデータに反映させないのだ。後は遠野がデータと朱の入った原稿を持ち帰って、それをデータに打ち込み直さないといけない。なんとなく、わざとそうやっているような気がしないでもなかったが、とにかく安瀬ユミに逆らえる者など社には誰もいなかった。
「じゃあ、ごちそうになります」
遠野はいつも不思議に思う。安瀬ユミは結婚をし、旦那もいたのだ。しかし、遠野がこの家で安瀬ユミの旦那を見たことは一度もない。ここは仕事部屋として使っていて、別の場所に二人の住まいがあるのだろうと思った。
「トーノくん、私と一緒に旅行に行かない?」
安瀬ユミはキッチンでお湯を沸かしながら、なんの衒いもなく言う。遠野は成功を手にした人間がかかる、自己中心の思考に振り回されている自分が哀れに思えてきた。
「僕は結婚しているんですよ。そんなこと出来ません」
「なによ。取材旅行ってことなら大丈夫じゃない? トーノくん真面目すぎ。やり手の男はあっちこっちに女作って、それすら認めさせるくらいじゃないとダメ」
「それは安瀬さんの持論でしょ? 押し付けないでください」
「生意気!……ていうかそういうところがかわいいんだけどねえ」
安瀬ユミはダイニングテーブルにお茶を運ぶと、座っていた遠野の傍に寄り、肩に手をかけた。
「キスして。それくらいいいでしょ?」
遠野はここで本当に押し倒してやろうかと思った。しかし、それが彼女が最も求めていることだと知っていたから、遠野は努めて冷静に対応した。
「安瀬さん、旦那さんがいるんでしょう? どうしてそんなことが出来るんですか? 僕にも妻がいます。出来ません」
「なんなの? この不能男! サイテー」
「サイテーで結構です。担当を降ろさせてもらいます」
「冗談言わないで! こっちがクビにしてやるわよ。今すぐ出てって!」
遠野はデータと原稿を持って、安瀬邸を後にした。会社でどんな始末が待っていようと関係なかった。気分はすっきりしていた。
翌日、さっそく安瀬ユミから編集長に話しが行ったらしかった。
「大変なことをしてくれたな、遠野」
昨日はあれから会社に戻り、安瀬ユミの原稿に直しを入れ、印刷所に送って家に着いた時には午前一時半を過ぎていた。正直疲労はピークに達していた。
「担当をクビですか?」
「クビどころじゃない。安瀬ユミは今後うちから本をいっさい出さないと言ってきた。どういうことかわかるか?」
遠野が想定していた最悪の事態だった。
「さっき、社長に報告した。カンカンだ。今から社長室に行くから一緒に来い」
日頃は穏やかな篠塚編集長が感情を露にしていた。会社クビだな、と遠野は他人事のように思っていた。
「遠野を連れてきました」
「入れ」
七階の社長室は大きな窓があり、ひときわ明るい部屋だった。社長室にはさらに三つの部屋が続いていて、秘書二人の執務室、来客専用の部屋、そして社長専用の会議室があった。一番奥の会議室に連れて行かれた。
「この度は申し訳ありませんでした」
遠野は形式的な謝罪をした。
「彼女に何をしたの?」
桐原社長は単刀直入に聞いてきた。
「何もしませんでした」
篠塚編集長からだいたいのことは聞いていたようで、その意味がわかったようだ。
「遠野くん、君に奥さんがいることは承知している。だけど、君は女じゃないだろ? 女性が求めていたら断る道理はないと思うが……。彼女、美人じゃないか。悪くないだろ?」
遠野はこのまま、クビにしてほしかった。こんな会社に未練はなかった。とにかく疲れていた。
「何で答えない?」
横から篠塚編集長が口を出した。遠野は面倒臭くなっていた。
「それは社長命令ですか?」
「そうだ、命令だ。安瀬ユミと寝ろ。でないとクビにする」
「クビにしてください」
遠野は一刻も早くこの不毛な会話を終わりにしたかった。
桐原社長は、遠野のその言葉に明らかに動揺を見せた。一社員をクビにして解決する問題ではなかったからだ。桐原社長にとっての選択肢は一つしかなかった。この社員を安瀬ユミに差し出すこと。それ以外にこの窮地を脱する術はなかった
「簡単にクビになんかさせないよ。どうだい? 取引をしないか? 遠野くん、君が安瀬ユミとうまくやってくれたら、ボーナスを倍にするってのはどうだい?」
ここでこの社長を殴ったらクビになるだろうか? 遠野はぼんやりと考えた。
「何だ? その目は。金をもらって女とやれるんだぞ。こんなおいしい話がどこにあるんだ。君はインポか? ふざけるんじゃない!」
桐原社長は怒鳴った。こんな会話が外に聞こえたら……。いったいどんな会社だ。遠野はこれ以上社長を怒らせることに何の得もないと思い始めた。
「ふざけてなんていませんよ。疲れてるんです。少し考えさせてください」
桐原社長は遠野の態度の変化に脈があることを感じ取って、急に猫撫で声になった。
「君が羨ましいよ。女性から寄ってくるんだからな。若いうちだよ。もっと気楽に楽しむことを覚えたほうがいい。悪いようにはしない。近いうちに編集長クラスを約束しよう。考えてくれるね」
遠野は礼を言って社長室を後にした。篠塚編集長が小声で言った。
「おまえ意外としたたかだな」
遠野は無視した。今は何も考えたくはなかった。
「遠野、大丈夫?」
机に突っ伏していた遠野に、二年先輩の村井さんが声をかけた。
「………」
再び机に突っ伏す。
「大丈夫じゃないな、こりゃ。遠野、帰んなよ。私が編集長に言っておくからさ」
安瀬ユミを怒らせた今回の事態は、朝からの編集長とのやりとりで皆が知っていた。社長室から帰ってきた遠野に対して、誰も声を掛ける者はいなかった。村井さん以外は。
篠塚編集長も、会社にいてもらっても使えないと判断して、遠野の早退を認めた。
「ゆっくり、休んで。いい答えを出してくれ。頼むよ」
わざと小声で言う。
村井さんは遠野を送るため玄関まで一緒に付いてきた。
「社長に脅されたんでしょ? まさか会社辞めたりしないよね」
「辞めようと思ったけど、何も悪いことしていないのに辞めるってのは道理に合わない。……村井さん」
「なに?」
「村井さんにだけは軽蔑されたくない」
遠野はそれだけ言って、会社を出た。答えはもう出ていた。
自由が丘の安瀬ユミの自宅に向かう道中、遠野は昨日の春香とのやり取りを思い返していた。春香がこのところ情緒不安定なのは気づいていた。昨日も十一時過ぎて帰宅すると「いくら手の込んだものを作っても、冷めたものしか食べてくれないなら作る気がしない」と喚き散らした。風呂にから出た時には彼女の機嫌は直っていて、日曜日はドライブに行きたいと甘え出した。春香にはもちろんこの一件は話してはいない。あの日遠野はクビになってもいいと思っていた。しかし、時間が経てば経つほど、なぜ自分が会社を辞めなければならないのかと理不尽極まりなく思えてきたのだ。春香は専業主婦だ。自分が会社を辞めたら、彼女の生活の保障がなくなる。あまりに馬鹿げたことだった。次第に遠野はこの事態をとことん利用してやろうと考え始めた。篠塚編集長の言葉が蘇る。『おまえ意外としたたかだな』そう思われたのならそのとおりになってやる――。
瀟洒なマンションに到着した。部屋番号を押して呼び出す。応答がない。もう一度繰り返す。スイッチが入ったのが判った。
「桐原書房の遠野です」
数秒の間があった。
「なんの用?」
安瀬ユミがインターフォン越しに応答する。
「先日の失礼な態度をお詫びしたいと思って……」
また数秒の間――。エントランスのドアが開いた。
「第一関門クリア」そう呟いてエレベーターに乗り込んだ。
玄関で再びインターフォンを押すと、「鍵開いてるから勝手に入って、リビングで待ってて」と言う。遠野はそのとおりにリビングで待つ。十分ほど待たされて、安瀬ユミが現れた。
「急に訪ねてくるから、化粧もしてなくて大変。……で、お詫びって?」
遠野は会社の経費で買った高級洋菓子の包みを渡しながら、先日の失礼を詫びた。
「そんなんじゃダメね。土下座して」
遠野はしゃがもうとした。
「冗談よ。もう怒ってないわ。ううん、さっきまで許してなかったけど、今ので許してあげる」
遠野はこんな気まぐれな感情に会社全体が振り回されていることを思って、やりきれなくなった。
「安瀬さん、初校が上がってきたので、確認をお願いしてもらっていいですか?」
「なによ。仕事の話? 今日はお詫びで来たんでしょ? せっかく許してあげたのに……。さっきの取り消し」
「そんなこと言わないでくださいよ。今日はいい話も持ってきたんです」
「なに?」
安瀬ユミが興味津々で遠野の顔を覗き込む。
「このあいだ言ってた旅行の話。あれ、次回作の取材ということで、国内二泊くらいなら会社の経費でオッケイだそうです」
「ほんとおー? もちろん担当なんだからトーノくんも一緒でしょ」
「そうですね。但し、次回作はかならずうちから出してもらいます」
「そんなのはわかってるわよ。やったあー! どこ行く?」
安瀬ユミが抱きついてきた。遠野はなんの抵抗もせずに話を続けた。
「遊びじゃないんですよ。取材ですから。それ忘れないでください」
「相変わらず堅いトーノくん。大好き!」
そう言った後、急に真顔になった。
「私のこと、うざい女だと思ってる? 仕事だからしょうがないってそう思ってない?」
「そんなこと思ってませんよ」
遠野は覚悟を決めていた。二十帖はあるリビングに西日が射していた。
「仕事を忘れていいですか?」
遠野は絡みついた彼女の腕を強く握った。
安瀬ユミは自分から仕掛けておいて、驚いた表情をした。
「トーノくん……」
遠野は安瀬ユミをリビングのラグの上に押し倒してキスをした。
安瀬ユミは「ちょっと待って」と甘い声を出した。構わず、ユミの服を脱がせる。乳房が露になると、彼女は明るいリビングが気になって「寝室に来て」と遠野を促した。奥の寝室に二人で籠もる。遠野は無我夢中だった。彼女にむしゃぶりつきながら『この女を征服している自分』に酔っていた。
「ユミって呼んで」
遠野に組み敷かれながら彼女はやはり命令をする。
「ユミ……ユミ……ああ……俺はイカレてる」
彼女の喘ぎ声が激しくなる。遠野は安瀬ユミの上で果てた。
しばらくベッドの上で横になっていると、何か聞いたことのある音が遠くで聞こえた。リビングに置いてきたケータイが鳴っていることに気づいた。
「会社からの呼び出し?」
隣の安瀬ユミが溜息と共に言った。時計を見ると七時を過ぎていた。
「ごめん。会社に戻らないと。シャワー借ります」
遠野は起き上がって、散らばった服を集めた。
「フフッ」安瀬ユミが笑う。「この後会社に戻って、何もなかったような顔して原稿チェックとかするんでしょ。ますますイカレた男ね」
遠野は何も答えず、風呂場に向かった。
シャワーを浴びて寝室に戻ると、安瀬ユミはまだベッドに横になっていた。遠野は担当の顔に戻って言った。
「また、連絡します。さっき渡した原稿の初校チェックよろしくお願いします」
「……わかった」気だるそうに返事をする。「トーノくんに次に会う時までにどこ行くか決めておくから」
安瀬ユミはそう言うと、急にベットから起き上がった。
「ねえ、海外はダメなの? 私がお金出すからさあ」
「ダメに決まってるでしょ。僕の体が空きません」
「いい話考えたんだけどなあ……。外資系に勤めている男がニューヨークの本社に転勤になって……」
「ゆっくり考えてください。それじゃ失礼します」
遠野は安瀬ユミの家を出て、水道橋の会社に向かった。罪悪感はなかった。ただ、ねっとりとした疲労が体に残っていた。
編集部に戻ると、まだ半分以上の人間が社に残っていた。真っ先に、篠塚編集長の視線が遠野に注いだ。しかし、遠野は無視して自席に着き、パソコンを立ち上げた。篠塚編集長だけでなく、皆の視線もさりげなく遠野に向けられていたのがわかった。
「遠野、話を聞かせてくれ」
篠塚編集長が遠野を隣の打ち合わせ部屋に呼ぶ。皆の視線を背中に感じたまま、隣の部屋に行った。
「もう大丈夫です。すっかり機嫌は直りました。旅行の話もして、その気になってます」
「そうか、よかった」篠塚編集長はどうしても聞きたいようだった。「やったのか?」
「そういう質問は彼女にも失礼ですよ。慎んでください」
遠野はうんざりした。今後俺はずっとこんな目で見られるのだ。篠塚編集長はまだ何か言いたいようだったが、遠野はさっさと編集部に戻った。再び遠野に視線が降り注ぐ。編集部での遠野は腫れ物扱いだった。
見城さとみは同僚の金子美樹とトイレの洗面所でお喋りをしていた。
「遠野さん、かわいそう。会社の生贄だよ、あれじゃ」
さとみは怒りを顕にした。入社以来ずっと遠野に憧れていたさとみは、今回の安瀬ユミの暴挙とも言えるエゴ丸出しな行いに怒り、会社の犠牲となった遠野に同情していた。
「でもさ、ちょっとがっかりだな。あの遠野さんが、安瀬ユミにいいようにされてるわけでしょ? なんか、魅力半減」
美樹が歯を磨きながら言う。美樹の指摘は実はさとみも感じていたことだった。権力に屈した遠野さんに以前のような魅力は感じられなくなっていた。
「なんか想像したくない~」
さとみが叫ぶ。その時、村井さんがトイレに入ってきた。さとみはマズイと思い、すぐに話題を変えた。
「あのさ、結構外に聞こえてるんだけど」
村井さんが目も合わさずに言った。
「すみません……」
さとみと美樹は縮こまってしまった。
旅行の話をしてから二週間後、遠野は安瀬ユミの二泊三日の四国旅行に同行した。取材旅行という名目だったが、ただの観光とお忍び目的だった。昼間は四万十川を下ったり、金刀比羅宮を参拝したりして、アクティブに過ごし、夜は老舗の温泉宿で安瀬ユミと濃密なセックスをした。もはや、羞恥心などなかった。楽しいとさえ感じた。このまま安瀬ユミのヒモになるのも悪くないと、そんなことまで考える有り様だった。
会社に戻り、仕事三昧の日々に戻ると、ズタズタになったプライドが時々意識に上ってくる。そうだ、俺にもまだプライドがあったんだ。そんなことを思ってもそれをどうすることもできなかった。
「遠野、今日飲みに行かない?」
九時をまわって村井さんが声を掛けた。遠野は断った。遠野にとってそれは傷口に塩を塗るようなものだった。
「どうしたって、行かないのか……。じゃあ、コーヒー飲みに行くの付き合ってくれない?」
「同じじゃないか」
「同じじゃないわよ。交差点のところのカフェ。あそこならいいでしょ?」
「あそこ、お酒置いてる店じゃん」
「じゃあ、なおさらいいわ」
遠野は村井さんに根負けした。村井さんとは何度かこうして差しで飲みに行ったことがあった。いずれも遠野が問題を抱えている時だった。
「グラス生二つ」
村井さんが勝手に注文する。
「ねえ、つらいならつらいって言いなよ」
いきなり、核心にくる。
遠野は彼女の前では自分を偽ることができなかった。
「俺が何してるか知ってますか?」
「知ってる、と思う。作家さんとセックスしたんでしょ? 社長命令で」
遠野は彼女が端的に言葉にしてくれたことで楽になった。
「軽蔑しないんですか?」
ここでビールが来た。遠野は一気に飲み干した。村井さんも負けずに飲み干す。
「おかわり。ジョッキでね」ウエイターに大声で声を掛ける。「なんで遠野を軽蔑するの? レイプされた子が自分が軽蔑されているように思っちゃうのと同じね」
「ああ! それだ。まさにそれだ。今の俺の気分は公開レイプされている気分なんだ」
遠野は二杯目を飲み干す。もう、止まらなくなっていた。
「社内の全員が知ってるんだよ。俺が男娼に成り下がったことを。村井さん、こんな屈辱的なこと、あなたに喋りたくないんだ。どうしてこんなことするんだ」
遠野は泣いていた。こんな自分を一番見せたくない人の前で……。
「遠野……。軽蔑なんてしないよ。絶対しない」
村井さんも一緒に泣いてくれた。
遠野にとっての本当の地獄は、実はこれからだった。
安瀬ユミは一向に、四国を舞台にした小説を書いてくれる気配もなく――都心に住むキャリア女性を描くのが得意な作家が四国を舞台というのがそもそもおかしい――社長も編集長も苛立っている最中、他社の文芸誌になんと私小説ともいえる小説を連載し始めたのだ。その小説には担当編集者との不倫が克明に描かれていた。名前は違っていたが、明らかにそれは遠野のことだった。四国での情事が赤裸々と綴られていた。このことを知った桐原社長は、安瀬ユミに対し、猛烈な抗議をしたが、経費であった旅行費は安瀬が倍にして返し、次作はかならず、桐原書房から出すことを書面で約束して、なんとか社長の溜飲は下がった。しかし、遠野にとっては名誉毀損以外の何ものでもない。安瀬ユミを訴えることを社長に告げに行った。
「遠野くん、裁判を起こすことがどういうことかわかっているのか? 今でもメジャー文芸誌での連載ってことで、そこそこ話題になっているが、裁判を起こせば、ゴシップ週刊誌の恰好の餌となって、日本中に知れ渡るだろうよ。君はそれでいいのか? 名誉毀損の裁判なんて、さらに恥を晒すことがほとんどだよ。しかも喜ぶのは安瀬ユミとその出版社だ。いい宣伝になるからね」
「名誉毀損で訴えれば、出版を差し止めることができる」
「そうかね。判決が出るまでに時間がかかる。そのあいだ、君は世間の晒し者だよ。いいか? 黙っていれば、一部の人間以外、誰も君なんてことはわからない。そもそも小説じゃないか。私小説と言えどもフィクションさ」
遠野はもちろん納得したわけではなかったが、この時点で裁判を起こす気はすでになくなっていた。桐原社長にしてみれば、うちの担当を使って出来た話が他社から出版されることが気に入らないのだ。
地獄はさらに続いた。妻の春香だった。どうしたって、彼女の耳には入る。
その日、いつものように遅く帰宅した遠野に、いきなり春香はその文芸誌を叩きつけた。
「あの女とよくもここまで」
すごい形相で泣き喚きながら遠野に向かってきた。
「殺してやる」
手には包丁を持っていた。
すんでのところで遠野は春香の腕を押さえて、包丁を彼女から奪った。
「落ち着いて。落ち着いてくれ」
春香は遠野に押さえつけられて、その場に泣き崩れた。
「俺が愛してるのは春香だけだよ。こんなものに愛はない」
傍らに落ちていた文芸誌を一瞥した。
しかし、この言葉がさらに春香を傷つけた。
「こんなものって……否定しないのね。デタラメだってなんで言わないの。愛があるとかないとか、そんなこと問題じゃないのよ」
春香は遠野を押し退け自室に籠もってしまった。それ以降、口も効かなくなった。彼女はその二日後、家を出て行った。
何もかもが最悪な事態に向かって進んでいく。今日二回、週刊誌の記者と思われる男から編集部の遠野宛に電話がかかってきていた。同じ出版業界、すぐに人物の特定は出来てしまう。一つだけ遠野にとって救いだったのは、今回のことで安瀬ユミの担当を外されたことだった。安瀬ユミは反対したようだったが、ここまで事態が大きくなり、会社としてもそうせざるを得なくなっていた。篠塚編集長が後から教えてくれたことだったが、安瀬ユミの旦那が口を出してきたらしい。
編集部にいても段々とやることが少なくなっていた遠野は、三階の休憩室でタバコを吸うことが多くなった。三階のフロアには、営業企画部と人事部があった。
「企画の連中から聞いたんだけど、社長がオタク市場に興味を持ち始めて、雑誌の創刊を考えているらしい。なんか近いうちに発表があるみたいだぜ」
人事部の三井が喫煙室で遠野に情報を提供する。
「オタク系の雑誌? うちとぜんぜん毛色が違うじゃないか。なんの土壌もないのにどうやって立ち上げるつもりなのさ」
「あの社長、なんだかんだ言っても先見の明はあるからな。安瀬ユミを連れて来たんだって……あっ、ごめんな。この名前聞きたくないよな」
「もういいよ。お前まで気を使うなんて、どんだけ俺は哀れなんだよ」
同期の三井とはなんの衒いもなく話せる、唯一の友だった。安瀬ユミとの一連の事件があっても、まったく態度は変わらなかった。
「奥さん出てってそれっきり?」
「あー、やっぱり気を使ってくれ」そう言いながら、三井には話すことにした。「離婚するかもしれない」
「まじかよ」
物事にあまり動揺しない三井が驚いた。
「春香はまだ迷っている様子があるんだけど、春香の両親がもう一刻も早く離婚を求めてきて、昨日はうちのお袋にまで電話して、あんたの息子はクズだ。娘を精神障害にしたって……」
「もういいよ、やめろよ」
三井がゆっくり煙草を吹かす。数秒の沈黙のあと、思い付いたように言う。
「なあ、お前編集長になるのはどう? 新しい部署で。そのくらいの見返りがないと、このクソ会社にいる意味はないだろ?」
遠野はそれがすぐに実現するとは、まったく思っていなかった。