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第十一話 ~エピローグ~

「これ持ってく?」

 徳本さんが萌に原稿の束を差し出した。

「ううん、いい。個人のものじゃないし」

 萌が書いた原稿だった。

四月から、この第五編集部は独立し、株式会社KH企画となる。萌はその直前の三月末で退職することにし、今日がその最後の日だった。

「徳本さん、絶対編集長になってくださいね」

 ウィンクをして見せた。徳本さんは「すごく残念」とガッカリしてくれた。

萌は踵を返し、篠塚本部長の席に向かった。

「お世話になりました」

 深々と頭を下げた。篠塚本部長はそんな萌に対して、「おめでとう」と声を掛けた。

「勝訴してよかったな。あいつのことだ。賠償金で会社でも起こすかね」

裁判は原告側の勝利で終わったが、賠償金二千万円と言う額は、多いのか少ないのか萌にはよくわからなかった。会社は負けたことで少なからず打撃は受けたものの、一人の社員の退職金と考えれば、大した損失ではないように思った。

しかし、萌は裁判が終わったことが何よりも嬉しかった。

「次に人を入れる時は、本当にこの仕事が好きな人を入れてください。徳本さんや大橋くんや岩崎くんのように」

 萌はそう言って下がった後、今度は村井さんの所に挨拶に向かった。しかし、急な打ち合わせが入ってしまったようで、村井さんには会えなかった。忙しい村井さんには最終日ではなく、もっと前に挨拶をしておくべきだったと萌は自分の愚かさを呪った。一時間後にもう一度来てみようと、デスクにメモを残して、エレベーターに乗り込んだ。光る階数表示を見ながら、この会社に入社した頃のことを思い出していた。

『三年我慢してみないか?』

 結局一年も持たなかった。そう言っていた本人も、もうここにはいない。ポッカリと空いた心の空洞はずっとそのままだ。

萌は編集部に戻り、荷物を手にして、皆に最後の挨拶をしようとした。そのタイミングで大橋くんが目の前にやってきて、皆を代表して、萌に花束を渡した。萌はそんなことをされるとはまったく思っていなかったので、思わず涙ぐんでしまった。

「ありがとうございます。大した仕事もできず、皆さんには迷惑を掛けてばかりで……。でも、皆さんと働けて本当によかったです」

 萌はそう挨拶をして、第五編集部を去った。部屋から出ると、村井さんが廊下で待っていた。

「お疲れ様!」

 萌は村井さんの顔を見て、とうとう我慢していた涙を溢してしまった。

「あなたにとって、この会社は辛いところだった?」

 村井さんが泣いている萌に優しく話し掛けた。

「ううん、この涙は嬉しいんです。一年もいなかったのに、たくさんの貴重な経験をさせてもらえた」

 村井さんは頷いて、何やら封筒を萌に差し出した。

「これ、三井から預かってきたんだけど、遠野に渡してもらえる?」

 萌は目を丸くした。

「なぜ、私に? 三井さんから直接遠野さんに渡せばいいのに」

「たぶん、あなたに渡した方が早いと思ったんじゃない?」

 村井さんはニコッと笑って言った。

「私もそう思う」

 萌はそれ以上追及もせず、その封筒を受け取り、村井さんに向き直った。

「いろいろとありがとうございました。村井さんがいなかったらもっと早く辞めていたかもしれません。働く女性として、村井さんは素敵で……いつも敵わないって思ってた。これからもずっと憧れの存在です。本当は同じ部署で村井さんと仕事をしてみたかった」

 萌はまだ何か伝えたかったが、村井さんが時計を気にし始めた。

「すみません。忙しいのにわざわざ村井さんから会いに来てもらって」

「私はいいのよ。敷田さん、結婚式には絶対呼んでね」

「えっ……?」

 ポカンとしている萌を残して、村井さんは「元気で」と手を振ってエレベーターに乗り込んでしまった。萌は、何か勘違いしてる? などと思いながら、会社の玄関から外に出た。

 振り返らず、そのまま駅に向かって歩道を歩く。ここ数日、寒さも和らぎ、春らしい日が続いていた。日が落ちて、外の空気はひんやりとしてきたが、冬の寒さはもうそこにはない。

 これからどうしよう……。今は考えないつもりだったが、萌は歩道を歩きながらぼんやりとそれを考え始めてしまった。

「花、落としそうだよ」

 ふいに横から声を掛けられた。

 遠野がガードレールに腰掛けてこちらを見ていた。


「あ……」

 萌は馬鹿みたいにそれしか言葉が出てこなかった。

「車でお迎えにあがりました。乗ってく?」

 そう言って、すぐそばに止めてある黒いセダンを指差した。

 萌はようやく事態を呑みこみ、遠野の顔を真っ直ぐに見た。

「迎えに来たよ」

 遠野が呟くように言葉を発する。

 萌は何も言わずに遠野の胸に飛び込んだ。遠野が萌を受け止める。この人の鼓動をまた聴くことができる、それだけで萌は体が浮き上がるほど幸せだった。

 二人で車に乗り込み、遠野がエンジンを掛ける。萌は思い出して、封筒を取り出した。

「これ、三井さんから。遠野さんに渡してほしいって」

 遠野はそれを面倒くさそうに開けた。中には書類が入っていた。離職証明書だった。

「解雇が無効になったから、作り直してくれたわけだ」

 そう言って、再び封筒に戻そうとして、中にもう一枚紙が入っているのに気づいた。遠野がその紙を取り出して開くと、すぐにクシャクシャにして後ろのシートにポイッと放り投げた。

「なに?」

「なんでもない。これからある場所に連れて行きたいんだけど、時間はある?」

 萌はそのポイした紙も気になったが、ある場所というのがさらに気になり、大胆なことを言ってしまった。

「時間なんてたっぷりある。どうせ一人だし、家に帰らなくたって……」

「よし、じゃあ、行こう」

 遠野が車を走らせる。暗くなってライトアップされた都内を抜けて、横浜方面に向った。

 判決は遠野から電話で聞かされた。感激のあまり声が詰まって、おめでとうがなかなか言えなかった。あれから一週間経った今日まで会えずにいて、萌は聞きたいことがたくさんあったはずなのに、今は何も言葉が出てこなかった。車は横浜を通り過ぎてさらに郊外へと行く。

 萌はふと思いついたように聞いた。

「今日なんであそこにいたの?」

 遠野は少し間を開けてから、ぽつりと言った。

「村井さんに教えてもらった。敷田が三月末で辞めるっていうのは三井から聞いた」

 萌は実は会社を辞めることを遠野に話していなかった。勝訴の連絡をもらった時、言おうと思っていたが言えなかった。だから今日遠野が迎えに来た時、一瞬頭が混乱したのだ。二人とは連絡を取っていたことにちょっと嫉妬したが、萌はこれから起こることに対する気持ちの高ぶりで、それもすぐに消えてしまった。

「着いた。ここ」

 すっかり暗くなっていて、ここがどこなのかよくわからなかったが、さっき磯子駅を通過したのは覚えていた。マンションの駐車場に車を入れる。遠野は萌に付いて来るように促すだけで、何の説明もなくマンションのエントランスに入っていった。外観は暗くてよくわからなかったが、とても綺麗なマンションだった。エレベーターホールで待つ間、遠野がぼそりと言った。

「ここで俺は生まれたんだ」

「えっ? ここ?」

 萌は素っ頓狂な声を出してしまった。エレベータに乗り込み、遠野が階数のボタンを押す。26階。なんと33階まである。

「このマンションが建つ前、ここは町の小さな病院だったんだ。俺の実家もこの付近にあった」 

「今はないの?」

「親父は他界してお袋は今施設に入ってる。実家は二年前に売り払って今は駐車場になってるよ」

 エレベーターを降りて廊下を進む。突き当たりの2601のドアを開けた。

「どうぞ。まだ準備の途中だけど」

 廊下を進んで奥の部屋のドアを開けると、そこには港まで連なる夜景とその向こうに海が広がっていた。萌は窓に近づき、目の前に展開するその景色に見惚れた。

「電気つけるよ」

 リビングが明るくなった。そこにはデスクが二つとパソコンが数台置かれ、まるでちょっとしたオフィスのようになっていた。

「これは……?」

「実家を売り払ったお金で、ここを買って、裁判で得た賠償金を資本金にして会社を興すつもりだ。小さな出版社……」

「凄いじゃない! 素敵!」

 萌は興奮して大声で叫んでしまった。

「これでまた、遠野編集長だね」

「結婚してほしい」

「えっ!?」

「ああ……、ごめん。本当はもっと素敵なシチュエーションでプロポーズしたかったんだけど。とにかく早く言いたくて……」

 萌は一瞬ポカンとしてしまったが、急に笑いが込み上げてきた。

「何がおかしいの?」

「だって……これ以上素敵なシチュエーションなんてないじゃない」

 萌は窓から見える夜景をバックにして立っている遠野に近づいた。

「はい。お受けします」

 遠野はそのまま萌をぎゅっと抱きしめた。


 翌朝、萌は先にベッドから起き上がった。遠野はまだぐっすり寝ている。洗面所に行って顔を洗う。鏡を見ながら昨日のことを思い出して、なんだか擽ったくなる。昨日のプロポーズが夢ではなかったことをリビングに行って確かめたくなった。

「わあ……!」

 昨日見た夜景とは打って変わって、きらめく海が遠くに広がるまばゆい景色が目に飛び込んできた。

「なんてところなの……」

 萌は窓に寄り添って、飽きるまでずっとその光景を見ていた。

「高いところ好き?」

 振り向くと遠野がリビングに入ってきていた。

「私四階以上に住んだことないから。あっ馬鹿なのかな?」

 遠野がクスッと笑う。

「萌、この会社で働いてくれるだろ?」

「それって、社長命令ですか?」

「編集長命令……。そうだ、きちんと説明してなかったな」

 遠野はそう言いながら奥の部屋に行ってしまい、すぐに「くそっ」と言って戻ってきた。「そういやコーヒーも何も置いてなかった」

 今度は萌が笑う。

「ねえ、外に食べに行こうよ」

 二人で車に乗って遅い朝食を食べに行くことにした。車に乗り込む時、後ろの座席にクシャクシャに丸まった紙が転がっているのが見えた。萌は鞄を後ろに置くついでにそれを手に取った。遠野が車を走らせながら、説明を始める。

「俺がやろうと思ってるのはブログ本の出版だ。よくある自費出版としてのブログの製本化ではなくきちんと流通に乗せる。しかしすでに話題になっている何千、何万ものアクセスがあるブログは大手出版社がもう狙いをつけてる。そこでまだ、そこまでは行かないけどこれから行きそうなブログを先物買いする。つまり、商品価値のありそうなブログを大手より先に見つけて、それを売れる本に自分たちで育て上げるってわけ」

「勝算はあるの?」

 萌はクシャクシャの紙をそっと広げた。そこには大きな字で“結婚式には呼んでくれ”と書かれていた。

「そこだな。まずは弱小出版社のサバイバルブログでも立ち上げるか」

 萌は結婚と就職を同時に決めた。



― 終 -

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