第十話
鼻がツンとするような寒さの中、遠野は薄れかけた記憶の中からあの日の暑さを思い出していた。ちょうどこの道を、敷田と一緒に歩いた。表参道に連なる店は、クリスマスを控えて、ウィンドウディスプレイが一層華やかに輝いていた。街路樹には、住民の反対があってからイルミネーションを施さなくなったが、それでもこの通りの魅力が目減りすることはない。
裁判は来週行われる最終弁論で結審となる。あとは判決を待つばかりだ。しかし、その前に、遠野はやらなければならないことがあった。
待ち合わせのカフェで一人ビールを飲んでいる桐原社長に遠野は近づいた。
「お待たせしました」
裁判中、原告と被告が弁護士の立ち会いなしに接触することは禁止されているが、そんなことはお構いなしだ。
「約束どおり来てやったぞ。なんだ話ってのは……。和解交渉なら応じるつもりはない」
いつもの社長の横柄な態度が、なぜか遠野を落ち着かせた。
「いいえ、裁判は最後まで戦います。話というのは……ここでは、ちょっと話しづらいので、場所を変えませんか? 実は車で来ているんです」
「車? だったらその中で話すのがベストじゃないか? 誰にも聞かれる心配はない」
「そうですね。すぐそこに止めてあります」遠野は窓の方を指差す。
二人でカフェを出て、路上に止めてあった遠野の車に向かった。
「すみません。さっき助手席にコーヒー溢しちゃって、後ろの席に座ってもらえますか?」
そう言って、遠野は後ろのドアを開け、社長が後部席に乗り込んだのを確認してから、自分は運転席に回った。そして、遠野がエンジンをかけるのと同時に、後部席右側のドアが外から開かれた。そして大きな体をした男が無言で乗り込んだ。車はそのまま青山通りを抜けて、渋谷方面に向かった。
「お前弁護士の……こんな乱暴な真似をして、どうなるか……」
桐原社長を平賀が押さえつけている。
「大人しくしていただければ、乱暴なことはしませんよ」
車はそのまま246号線をひた走る。前方に多摩川が見えてきた。そこで右に折れ、今度は多摩川に沿って、登戸方面に向かう。
「どこに連れていく気だ。こんなことをしてただで済むと思うな」
桐原社長は平賀に腕を掴まれた状態で、今度は遠野に対して語気を荒げた。遠野はそれに対して何も答えず、ただ前方を見て車を走らせる。桐原社長はそれでも喚くことを止めない。
「これは拉致だぞ。貴様は犯罪者だ。今回の裁判で勝とうが負けようが、人さらいは実刑だ。お前らは自分達が何してるかわかってるのか?」
あまりに煩いから黙らせるつもりで、平賀が社長に向かって言った。
「黙れ! くそじじい! 大人しくしてりゃ、何もしないと言ってるだろう」
社長は心底驚いた表情をした。いつも人の上に立って、自分の意のままに人々が動いてくれることに慣れきっているこの人にとって、自分を罵倒する人間が存在することが信じ難いことなのだろう。社長はそれでもまだ何かブツクサ言っていたが、次第に無言になった。
青山を出て、一時間ほど車を走らせたところで、目的地に着いた。線路沿いの五階建て雑居ビルの一階部分が駐車場になっている場所に車を止めた。平賀が社長の腕を掴んで車から降ろす。社長は特に抵抗はしなかったが、「痛い、痛い」と言って、平賀の手の力を緩めさせた。駐車場から直接出入りできる扉から中に入り、エレベーターで四階まで行く。降りてすぐに“平賀法律事務所”と書かれたプレートが貼られたドアがあった。遠野が先頭に立ってドアを開けると、そこには、年季の入った応接セットが一つと、隅の方に堆く積まれた段ボールが無秩序に置かれているだけの、ガランとした埃っぽい空間が広がっていた。
「先週事務所を都内に移しましてね。何もありませんが、そこのソファーにでも掛けてください。寒いな。エアコンはまだ付くはずだが……」
平賀がぶつぶつ言いながら入口付近にあるスイッチを弄り始めた。
「何もないだろ? 下の自販機でコーヒーでも買ってくるよ」
遠野がそう言った途端、堪忍袋の緒が切れた桐原社長が怒鳴った。
「私を誘拐しておいて、何の説明もないのか! 今すぐ警察に電話する」
社長が鞄からケータイを出し、画面を開いたのと同時に平賀がその腕を押さえ付けた。
「これは取り上げさせてもらいます。大丈夫です。帰る時にはお返ししますから」
百九十センチ近い鍛え抜かれた体の平賀の前ではどんな抵抗も無意味であることくらいはさすがの社長もわかっていて、無駄な動きはせず、取り上げられるままでいたが、口は活発に動いた。
「今、お前らがやっていることは、正確に記憶して、警察に一つ残らず報告する。これは完全に拉致だ。人さらいだ。貴様弁護士のくせして、犯罪に手を染めるとは、資格剥奪だけじゃ済まさんぞ」
遠野は社長が喚き散らしている間に自販機でコーヒーとお茶を買って戻ってきた。それを差し出しながら、社長の向かいに座り、徐に話しを始めた。
「桐原社長、手荒な真似をしたことは謝ります。しかし、これからする話はデリケートな話なんで、なるべく人目につかない場所で、落ち着いて話しをしたかったんです」
「デリケートな話だと?」
桐原社長は聞き捨てならなったようで、その言葉を繰り返した。先ほどとは打って変わって真剣な面持ちになっていた。
「社長秘書をやっていた倉知めぐみさんのことです。彼女はあなたにレイプされたと我々に明かしてくれました」
社長は分かりやすいほどの動揺を見せた。
「出鱈目を言うな。どこにそんな証拠がある!」
口は威勢がよかったが、目は泳いでいた。
「証拠ですか? まず一つが同じく社長秘書の日野彩子さんの証言。それから私の証言もあります」
「なんだと?」
「張り込ませてもらいました。私はあなたが倉知さんの胸を触っていたのをこの目で見ました」
社長は絶句していた。ある日の光景を思い出したようだった。
「胸を触ったからといって、レイプしたことの証拠になるのか?」
遠野は社長が嵌ってきていることに内心ほくそ笑んでいた。
「倉知さん本人はそう言っている。もちろんその現場は見ていません。しかし、私も日野さんもあなたが倉知さんの胸を触っている現場は見ています。日野さんはもっと詳細に報告してくれるでしょう。胸を堂々と触っている人がそれ以上はやっていないと言っても誰か信用してくれますかね」
遠野は最後を物凄く意地悪く言った。
「レイプはしていない。本当だ」
桐原社長のその声は先程までの元気はどこへ行ったのかと言うくらい力のないものだった。
「だったらレイプ未遂ですね。しかし罪としては立派なものです」
立ったまま聞いていた平賀が口を挟む。手には何かを持っていたが、それは社長側からは見えない。
桐原社長はここで一番やってはいけないことをした。黙ってしまったのだ。遠野が強い口調で追い打ちをかけた。
「倉知さんにどういう方法で口止めさせたんですか? 彼女はなかなか語ってくれなかった」
社長はそれには答えず、平賀弁護士に向かって言った。
「私をこの件で訴える気か? そんな真似をしたら……」
「どうするおつもりですか?」
平賀が後を引き取って質問した。
「う、訴えて勝てると思ってるのか?」
社長の顔は真っ赤になっていた。
「訴えませんよ」
遠野が静かに答えた。
「訴えるわけないじゃないですか。もちろん訴えれば勝てますけどね」
今まで立っていた平賀が遠野の隣に座り、身を乗り出して社長と向き合った。そして彼にしては小さな声だったが、ドスを効かせて話し始めた。
「あんたは、倉知さんを辱めたことで、彼女の口を封じたつもりだろうが、この手の犯罪は確実に繰り返すんだよ。だから彼女で発覚しなくとも、かならず罪は露呈する。だから放っておいてもいいんだが、そうなると新たな犠牲者が出てしまうからな。倉知さんは法で裁くことを希望しなかった。しかし、二度と同じようなことをさせないためにも、俺達が彼女に代って裁くのは有りだと思ってるんだ」
平賀が急に立ち上がった。桐原社長は吃驚して、手にしていたペットボトルのお茶を落としそうになった。
「どこかの国じゃ、性犯罪を犯したやつのあそこは切り取るらしい」
そう言って、社長に一歩近づいた。社長の青ざめた顔を見るのは初めてだった。お構いなしで平賀は続ける。
「そこまで野蛮なことは、さすがにやらないが……。そうだな、写真がいいな。あんたの名誉も威厳もなくなるような恥ずかしい写真を撮るってのがいいかもしれない」
社長はこの弁護士を止めるためなら何でもするという勢いで、遠野に対して話し掛けた。
「取引をしようじゃないか。今回の裁判は私たちが負けてやる。だから秘書の件は封印してほしい。二度とやらない。どうだ、悪くない取引じゃないか」
どこまでこの人は浅ましく、見苦しいんだ――。遠野は怒りよりも情けなさでいっぱいになった。
「裁判は負けてもらわなくても、このまま行けば普通に勝ちます。しかし、二度とやらないと誓ってもらえるのなら……」
遠野はここで平賀を見た。平賀がその後を続ける。
「取引ですか、悪くないですね。こちらの要望は二つあります。一つは、二度とやらないこと。もう一つはあなたが遠野を解雇した事実を認めること」
桐原社長は「そこだ!」と言った。
「私は遠野に解雇は言い渡してはいない。自主退社を求めただけだ」
そこで平賀が手にしていたICレコーダーを社長に見せ、再生ボタンを押した。
『秘書へのセクハラをばらします』
長い間があり、ドスンという凄い音がした。
『出てけ! 即効解雇だ! 二度と俺の前にその面を晒すな!』
ストップボタンを押す。
「これは証拠として提出していません。これを提出したらどうなるか、想像力豊かなあなたならわかるでしょう」
社長は「汚いやつらだ」と独り言のように呟いた。
「あなたが汚いから、こちらも合わせたまでです。さて、取引の条件は以上ですが、取引しますか? やめますか?」
桐原社長は小さく頷いた。
「わかった。取引に応じる」
社長を自宅まで送り届け、遠野は平賀と車内で二人きりになった。
「うまくいったな」
「ほとんどハッタリだったがな。しかし、口を割った」
「きちんと録れてるか?」
「ああ……」
遠野はすっきりしなかった。
「お前が言ったじゃないか、この手の犯罪は確実に繰り返すって」
「そのためのこれだよ」
そう言って平賀はICレコーダーを掲げた。遠野はそれをちらっと見ただけで、「これで裁判は終わるんだな」と呟いた。