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第一話

5年前の出版業界を背景にした、オフィスラブ系小説です。社会派ドラマとしても楽しめるように書きました。

 よちよち歩きの男の子が萌を覗き込んだ。つぶらな瞳でじっとこちらを凝視している。萌はそれを無視した。

「シンちゃん、こっち」

 母親が男の子を呼ぶ。その声で母親の方に行ってしまった。萌はホッとした。普段ならこんな小さな子が傍に寄ってきたら、笑顔の一つや二つ、振り撒くだろう。

新緑の気持ちのいい季節にオープンカフェで一人、気分は最悪だった。


「文章を書くのは得意です」

萌は自信を持って答えた。

「あなた編集の仕事はやったことあるの? ええと、前職は証券会社ね。何で辞めちゃったの?」

「結婚を機に辞めて、専業主婦になったのですが、実は半年前に離婚をしまして、もう一度、社会に出て働こうと思いました。それで以前から興味のあった出版社に応募いたしました」

 面接官の女性がついたため息は萌にも聞こえた。

「うちは中途採用はしてますけど、経験者のみなの。あなたのような興味がありますってだけで採用するのは新卒者だけ」

「求人欄には、未経験でも可ってありましたけど」

 萌は食い下がった。

 女性面接官は、隣の若い男性社員に「そんなふうに載ってる?」と小声で確認した。

「未経験は二十五歳くらいまでね。それに職種は違ってもマスコミ関係で働いていたとか、関連性がないと厳しいわね。あと……」

 トドメとばかりに言い放った。

「あなたのような結婚と同時に退社するような、女性の甘えを持っているような人にはとても勤まらない職場よ。出版社って華やかなイメージあるから、ミーハーな人はすぐ飛びつくけど、それだけ競争率も激しくて、新卒の一流大学出でもなかなか入れないのよ」

 

 思い返すだけでも、腹が立ってきた。なんであそこまで言われなくちゃいけないんだ。だったらなんで書類で落とさなかったの? 萌は理不尽さに怒りを覚え、そして自分の価値を知って落ち込んだ。

新卒で証券会社に入社し、五年後、社内の男性と結ばれ寿退社をした。元夫は萌が会社を辞めることを望んだ。萌自身もずっとその会社で働く気はなかったので、確かに女性の甘えはあったと思う。しかし、過去こうだったからって理由で決め付けられたら、何も出来なくなってしまう。離婚を経験して、これから一生独身でも構わない、自立した女として仕事に生きる覚悟で臨んでいるのに……。

離婚の原因は夫の暴力だった。三つ年上の星本とは同じ債権部門の先輩と後輩。最初、萌は同期の小宮が好きで、一時付き合っていたのだが、彼は結婚願望があまりなく、価値観の違いに悩んでいた時、星本から猛烈なアタックを受けた。その頃、仕事に対しても嫌気がさしていたこともあって、そのまま結婚を決めてしまったのだった。星本は普段はとても穏やかな人間だったが、酔うと人が変わった。萌は結婚退職後も、小宮を含む同期の友人たちと集まって遊ぶことが度々あった。星本はそれが気に入らなかった。小宮との関係を疑い、酔って暴力を振るった。最初はそれをこちらが不憫に思うくらいに反省して謝ったのだが、それは終わらなかった。次第にエスカレートしていき、大学時代の女友達と会っただけでも疑い、それは暴力という形で萌に返ってきた。結婚生活は一年で終わった。

ケータイがメールの受信を知らせる。証券時代の同期仲間の佐緒里からだった。面接に行くことを伝えてあったのだ。案の定、面接どうだった? というメールだった。とても返事を返す心境ではなかったので、そのまま画面を閉じた。

二十八歳、女、他業種からじゃ、花形出版社が相手にしてくれるわけないか――。

出版社を志望したのは、ここ最近の思い付きというわけではなかった。むしろ文学部出身の萌が証券会社、しかも業界でナンバー3に入る証券会社に就職したことの方が異例なことだった。元々大学卒業後の進路は出版社と決め、就職活動をしていたのだが、面接官に言われなくともその当時から出版社は狭き門で、結局、どこからも内定をもらうことが出来なかった。萌は伯父のコネで証券会社に入社したのだった。書類審査で落ちなかったのはたぶんこの証券会社のブランド力だと思った。新卒のぴちぴちで駄目だったんだから、六つも歳食って、しかも違う業界にいて、採用してくれるわけがないとだんだん納得してきた。出版社は諦めようと心に決めて、席を立った。木々の陰が大きく伸びていた。気づけばもう夕方になっていた。

夕飯の買い物をして、ワンルームの自宅に帰る。離婚してからは、実家の長野に戻り、知り合いの会社でアルバイトなどをして数ヶ月のんびり過ごしたが、いつまでもいい歳の大人が実家でのうのうとしているわけにもいかず、先月再び上京し、安いワンルームマンションを借りて職探しを始めたのだった。

簡単に夕飯を済ませた後、いつものようにパソコンを立ち上げる。求人情報はすべてインターネットで集め、片っ端から出版社に応募した。今思えば、滑稽だ。もっと現実的に考えるべきだった。メールのチェックをする。案の定、書類審査で不採用の通知が沢山来ていた。そもそもこれらの求人は建前で、最初から採用する気なんて無くて、一応募集をかけておけば、稀にとんでもない優秀な人材がひっかかるかもしれない――くらいのものなのかもしれない。萌はもう、ショックを受けることもなく、そのままメーラーを閉じようとした。

一瞬、見間違えかと思った。タイトルに『面接のお知らせ』とあった。桐原書房だった。この出版社は少し思い入れがあった。というのも、萌の好きな女性作家が、働く女性をテーマにした小説をシリーズとして出している出版社だったからだ。特に証券会社が舞台の『トレーダーネイル』は映画化されて、当時話題となった。

萌は完全に出版社は諦めて、方向転換をしようと決めた矢先だったので、この不意の知らせに驚き、内定をもらったわけでもないのに思わず「やったー」と声を上げて喜んでしまった。前歴が効いたのだと思った。萌は最後のチャンスとばかりに、この面接に賭けた。


水道橋の駅を降り、十分くらい歩いたところに桐原書房はあった。この辺りは中堅の出版社が軒を連ねている。七階建てのビルはたいして大きくはないが一応自社ビルのようだ。

面接会場の五階に上がる。その日は私以外に三人面接を受ける人がいた。男性二人と女性一人だった。私はその女性に声を掛けた。すると編集者希望ではなく、経理採用の女性だった。先に面接を受けた男性が部屋から出てきた。私は次の次だったので、その男性に話し掛けてみた。

「どんな感じでした?」

「なぜ、今まで勤めていた会社を辞めて、この会社を志望したのかとか、忍耐力はあるか、とか聞かれたよ」

 よくよく聞くと、その男性は東大卒で大手電気メーカーに勤務していたとのこと。そりゃ、私でも理由を聞きたくなる。そうこうしているうちに私の番がやってきた。

深呼吸をしてドアを開ける。面接官は三人だった。男性二人に女性一人だ。中央に座っている女性がメインで応対した。

「証券会社に勤務していたということですが、結婚と同時に辞められて、もう未練はないのですか?」

「はい。元々、出版社を志望しておりまして、当時氷河期ということもあって、内定はいただけず、第一希望を諦めて、証券会社に入ったものですから、やはり初心に返ってもう一度出版社を志してみようと応募いたしました」

「そんなに出版社いいかしらね。今日受けた他の人もそうだけど、前職の方がよっぽどお給料いいと思うけど……」

 女性面接官はくだけた調子で言った。

「弊社の出版物は読んだことありますか?」

「はい。特に文庫本の働く女性シリーズは愛読書でもあります」

「うちは書籍以外にもいろんな雑誌を刊行してるんだけど、それらは見たことありますか?」

 萌は働く女性シリーズ以外は知らなかったのだが、昨日、付け焼刃でホームページを見て調べてきたのだ。

「御社を志望するまで存じ上げなかったのですが、様々な雑誌を刊行していることを知って、いくつか書店で確認しました。イメージになかったジャンルもあって驚きました」

「そうでしょ? マネーからオタク系の雑誌まで幅広いでしょ?」

 そこで女性面接官は笑った。今までずっとこの女性が喋っていたのだが、ここで隣の若い方の男性面接官が質問した。

「あなたが編集長になって雑誌を創刊するとしたら、どんなジャンルのどんな雑誌を作りたいですか?」

 これは考えてきた質問だった。こういう場合、この会社が現在刊行している分野とまったく関係ない分野よりは関連性があったほうがいいと思った。

「働く女性のための生活サポート雑誌を作りたいと思います。育児、マネー、料理、ファッション、それらを総合したような情報誌があったらいいなと思っていましたので、それを是非作ってみたいと思います」

「女性のライフスタイルは様々だから、働く女性の中だって、子供がいない女性といる女性、正社員でバリバリ働いている女性もいれば派遣やパートで働いている女性もいる。それぞれ事情が違うのに、すべてを網羅したような情報誌って出来るかしら? 子供がいない、あるいは出来ない女性が、育児情報が載ってる雑誌を手に取りたいと思う?」

 萌は女性面接官につっこまれて、しょ気てしまいそうだった。本当に作りたい雑誌……。萌は実際、そこまで具体的なものを求めて、出版社を志望していたわけではなかった。本を読むのが好き、文章を書くことが好き。だけど作家になるほどの才能はない。そんな萌にとって、本を作る現場にいられることが編集者を志望した理由だった。

「……このように、雑誌作りって難しいんだよね」

 先程質問した男性面接官が女性面接官の言葉に何も答えられない私をフォローする形で受けてくれた。

「流通期間が短い雑誌は、とにかく売れるものを作らないと話にならない。だから興味のあるなしに関わらず、どういうものが売れるか、読者がどういうものを求めているかをリサーチ出来ないと駄目なんだ。質問が意地悪だったかもしれないけど、こだわりを捨てて、自分の知らないジャンルや興味のないものにも挑む姿勢がないとなかなか難しい」

「あの、私そんなにこだわりがあるわけではないんです。働く女性のための情報誌と言ったのは今までの自分の経験が生かせると思ったからです。客観的に物事を捉える事については自分は向いていると思います。どんなジャンルでも挑戦したいです」

 萌は夢中で答えていた。


「落ちた……」

 証券時代の同期の佐緒里と表参道のカフェで遅いランチを食べながら、萌は悲観的になっていた。

「なんでもやりますって、結局やりたいことは何もないですって言ってることと同じだって、就活本に書いてあったのに……。あれじゃ、主張することが何もない人だよ。ああ、 バカだ! あの後の女性面接官、よく外人が呆れる時にやる、こういうポーズ、あれやったんだよー」

 萌は顔を傾けて肩をちょっと上げて手を外に広げるポーズを作った。

「まあ、仕方ないじゃん。終わったことだし。次探そうよ」

佐緒里は簡単に言う。そして話を唐突に変えた。

「それよりさ、小宮、まだ萌のこと好きだよ。会ってやんなよ」

 萌が離婚をしたことで、小宮は付き合っていた彼女と別れたと同期仲間の竹尾くんが言っていた。

「小宮とは終わりにした。離婚したからって戻るつもりはないよ」

「なんで、そんなに割り切っちゃうわけ? 小宮かわいそう」

 佐緒里は大学時代の先輩と結婚していて、専業主婦だ。やたらと人をくっつけたがる。

「今月の飲み会は絶対来てよ」

「オッケー」

 月イチで飲み会をやるのが恒例で、結婚していた時は次第に行けなくなり、先月東京に戻ってきてからやった飲み会が久々だった。また気兼ねなく参加出来る事は嬉しかった。

 佐緒里と別れて、コンビニに寄ってから家に帰った。結婚していた時はコンビニを使うことはほとんどなかった。今また独身に戻ると、自分のためにわざわざ手の込んだ料理を作る気が起きなくなっていた。テレビを観ながら伸びきったコンビニのパスタを食べていると電話が鳴った。夜の九時を過ぎていた。

「敷田さんのお宅でしょうか。こちら桐原書房の人事部の三井と申します。遅い時間に申し訳ございません」

 理解するのに数秒要した。

「……敷田萌です。先日はありがとうございました」

「この度の編集者募集、採用となりましたのでご連絡いたします。おめでとうございます」

 一瞬、いたずらかと思ってしまった。同期の連中が時々やるのだ。

「本当ですか? 採用していただけるんですか?」

 何度も確認する萌。これが嘘でないとわかるとあまりの嬉しさに、ありがとうございますの声が上擦ってしまい、言い直すと今度は涙声になってしまった。

「さっそくで恐縮ですが、来週月曜日から来ていただけますか?」

「もちろんです」

 ようやく少し落ち着きを取り戻して質問した。

「今回は何人採用になったのですか?」

「編集者はあなた一人です」

 萌は驚いてしまった。あの東大卒の人を差し置いて、私が採用されるなんて……。

「月曜日九時半に受付に来てください。そこで人事部の三井を呼んでいただければ私が伺います」

「かしこまりました。よろしくお願いします」

 萌は電話を切った後も興奮は収まらず、「きゃー! どうしよ、どうしよー」と近所迷惑を省みず、嬌声を上げ続けた。


 その日はあいにくの雨模様だったが、萌の心は躍っていた。ずっと憧れていた出版社勤務が現実となったのだ。二階の受付で人事部の三井さんを呼ぶ。電話の声で想像していたよりも若い男性だった。連れ立って六階の編集部に向かう。

「編集部は全部で五つあるんだけど、まずはそれらを統括している編集本部でレクリエーションがあるからそこで話しを聞いてもらって、その後敷田さんが実際に働く編集部を案内しますよ」

  編集本部と言うからには、偉い人と対面するんだろうな。萌はだんだん緊張してきた。通された編集本部は意外と普通の部屋だった。

「本部長の篠塚です。よろしく。そこに座って」

  あの面接の日にいた年配の男性だった。あまり発言をしなかったので、そんなに偉い人だとは思わなかった。

「まずは君の配属先だけど、第五編集部の遠野のところに決まった。詳しいことは遠野に聞いてもらって、まずは社長に挨拶をしてこよう」

 そう言って七階の社長室に向かった。いきなりトップに会うことになって、萌の緊張はピークに達した。

「どうぞ」

社長室はさすがに豪華な部屋だった。本部長の篠塚もこの部屋に入る時は多少の緊張を伴うようで、咳払いをひとつした。

「中途採用で第五編集部に配属が決まった敷田さんです」

「敷田萌です。どうぞ宜しくお願いいたします」

 あまりの緊張にそれ以上言葉が出てこなかった。

「萌っていうの? かわいい名前だね。第五編集部にはぴったりじゃないの?」そう言って豪快に笑った。

私が思い描いていた出版社の社長のイメージとぴったり重なっていた。一代でここまで会社を大きくした自負が全身から滲み出ていた。

「歳はいくつ?」

 まるで子供に尋ねるような言い方だった。

「二十八です」

「結構年いってんだなあ。うちの会社は若さが売りだから、周りに負けないように頑張ってくれよ」

 年が予想より上だったからか、急に興味を無くしたように思えた。本部長の篠塚も社長の意が汲めたようで、さっさと私と連れて退散した。

 再び六階の本部室に入ると篠塚が意味有り気に言った。

「桐原社長はとにかく若い子が好きなんだよ。気を悪くした?」

「いいえ。そんな」

 気を悪くするも何も、緊張と驚きで感情が麻痺していた。

 篠塚が内線電話で再び人事の三井を呼んだ。彼が来るまで、ざっと各編集部を紹介してくれた。

「第一編集部が書籍で、働く女性シリーズだね。編集長は面接で君を苛めていた女性、村井さん。第二編集部が女性のためのマネー雑誌を作っていて、編集長は志水さん。第三編集部が第二編集部のその雑誌を元にムックや書籍にするところで編集長が渡辺さん。この二つの編集部はほぼ構成メンバーは掛け持ちでやっている。第四編集部が昨年立ち上げた雑誌『女性のための資格ガイド』で編集長が樋山さん。第五編集部がここだけちょっと異質で……」

「失礼します」

人事の三井が来た。

「ああ、じゃあ、連れて行ってやってくれる? 実際見たほうが早いからね」

 萌はそれで第五編集部に案内された。五階の奥の部屋だった。入っていきなり、アニメ顔の女の子がハチキレそうに大きな胸を強調したメイド服を着ているポスターがでかでかと貼られていて、その横では髪がぼさぼさの男性がフィギアをいじっていた。

「通称オタク編集部。女性も何人かいるから安心して」

 萌はその編集部の光景を目の当たりにして、眩暈がした。そして人生の厳しさを思い知ったのだった。

「あー、ようこそ」

 立ち尽くしている萌を見つけて、編集長の遠野が声を掛けた。あの面接の時にいた若い方の男性面接官だった。

「先に本部に挨拶に行こうと思ったんだけど、急ぎの原稿チェックがあって、ごめんね。編集長の遠野です。よろしく。そこ座って」

挨拶をしてから、近くの椅子を引いてきて座った。

「ここの部分のゲラまだ? あとここ見難い。こんな言い方しないだろ。ここ全部削除」

 先程から遠野の傍に立っていた男性に指示を出し始めた。座ったはいいが、いつ終わるかわからない。見るともなしに編集長の机を覗く。言葉どおり、山のような原稿に、雑誌の束が無造作に置かれ、その合間にロボットのようなフィギアが点在していて、ようやくディスクトップのパソコンが見えた。脇の袖デスクには縦横交互に積まれた紙の束が今にも崩れ落ちそうになっている。鬼のように忙しい職場とは知っているが、やはり実際を見ると凄まじかった。ようやく傍らにいた男性が退いて、遠野は萌に向き直った。

「待たせてすまない。これから皆に紹介するよ」

そう言って、この部屋いる二十人程の人間全員を立たせて、萌を紹介した。萌も簡単に挨拶をした。その時の空気が萌の知っている職場とはあまりに違っていた。反応がないのだ。紹介が終わると皆そそくさと仕事に戻り、またガヤガヤとし始めた。萌の存在を気に掛ける人は誰もいなかった。

「あの……」萌はこの部屋に入ってから、ずっと考えていた質問をぶつけた。

「なんで、私がこの編集部に配属されたんですか?」

 遠野は当然来るだろう質問ににべもなく答えた。

「面接の時に特にこだわりはない、どんなジャンルでもやりたいって言ってたじゃないか」

 萌は二の句が継げなかった。確かにそうは言ったけど、何もこんなもっとも縁のないところに配属しなくても……。

「君の言いたいことはわかる。前職は証券会社に勤務していたし、せっかくマネー部門があるんだからそっちに、という気持ちは手に取るようにわかるよ」

「だったら、今からでも、そちらに配属替えをしてもらえませんか。私こういう世界まったくわからないんです」

「だから君をここに配属したんだけどね。残念ながらマネー部門は人員は足りている。FPの資格を持っているのは当たり前、中にはMBAの資格を取得しているやつだっているよ」

 萌は驚いてしまった。そんな人が出版社に勤務しているなんて……。

「こんなこと言いたくはないんだが」遠野は声のトーンを落として言った。「君はうちの編集部限定で採用されたと思ってもらいたい。僕が君をどうしても欲しいと言って頼み込んで採用してもらったんだよ」

 愛の告白に聞こえなくもないセリフに、萌は一瞬ドキッとしたが、要するにここが嫌なら採用取り消しということなのだ。

「なぜ私がこの部署に必要なんですか? 秋葉原とかほとんど行ったことないし、何よりも……」萌はこの言葉を言ってしまったら終わりだと思ったが、口から出てしまっていた。「オタクとかそういう世界が大嫌いなんです」

 萌はこれで出版社の夢は潰えたと思った。

しかし遠野はそれも想定済みといった感じだった。

「三年我慢してみないか? そうすれば、この部署から異動出来るかもしれない。その時はマネー部だろうが、君の希望していた書籍部だって行けるかもしれない」

 萌は自爆してしまったことを無しにしてくれた遠野の言葉で自分を取り戻した。

「なぜ、そこまでして私のような人間がほしいんですか?」

「そのうち判ると思うけど、うちが出しているのはアキバを中心としたカルチャー情報誌なんだよ。つまり何かに特化した専門雑誌ではないってこと。もちろんそれぞれのジャンルに詳しいことは必要だが、それは君に求めてはいない。それこそ全てを知り尽くしたオタク連中は内にも外にもたくさんいるからね」

 そう言って、すぐ斜め前に座っている男性を指差した。

「あいつは声優に関してのオタクの中のオタク」

 いやあ……という感じでその男性は照れながら会釈をした。なんとなく萌はそれを見てホッとした。

「むしろ何にも詳しくない、フラットな状態で物事を見れる人材が欲しかったんだ」

「それだったら、この編集部以外にいっぱいいるんじゃないですか?」

 遠野は痛いところを衝かれたといった表情をした。

「誰も来たがらない」

 萌は勤務初日から、得体の知れない不安を抱えて早々くじけそうになった。


 ワンルームの自宅に帰ると、母から留守電が入っていた。母には採用が決まったその日に喜んで報告をした。今日が仕事初めということは言ってあったので、野菜とお米を宅配便で送ったという連絡の後に、仕事はどうだった? といったメッセージが入っていた。

 萌はとても折り返す気にはなれなかった。明日、明後日、もう少し元気になってからにしよう。そう自分に言い聞かせて、敷きっ放しの布団にごろっと横になった。母にはとてもそのオタク系の雑誌は見せられないと思った。あの第五編集部の壁という壁、机やボードにはアニメのポスターがたくさん貼られ、それもアダルトかと見紛う程のエッチなポーズで、部屋全体がセクハラしていると言っても過言ではなかった。

 嵌められたと思った。あの面接時の遠野の質問は誘導尋問だったのだ。ああやって、なんでもやらせて下さいと言わせれば、後で文句は言えなくなる。君が欲しかっただなんて、あれだって、社内の人間に敬遠されて、外から採るしかなかったからだ。要するに人手がほしかっただけ? 萌は思い描いていた出版社での仕事とあまりに乖離した現状に落胆し、しばらく布団から動けなかった。


 秋葉原には総武線で一駅で行ける。萌は第五編集部の大橋くんという、萌よりも少し若そうな編集部員と一緒にアキバ見学に来た。何事も現場に行って見てくるのが早いということだった。

「敷田さんって萌っていう名前なんですね。まさかその名前で採用されたとか……」

 一番言われたくないことを言われて、萌は大橋くんを睨み付けた。

「まさか、冗談ですよ」

 今までもこの名前でいろいろとつっこまれていたが、この環境のせいでさらに頻繁になると思うと親を恨みたくなった。萌と付けた当時はもちろんそんな意味合いはなくて、母親が昔好きだったポエム雑誌から採ったのだった。

 大橋くんは一見取っ付きにくそうなタイプに見えたが、話してみると意外と調子がいい男だった。大橋くんは歩きながらいろいろと第五編集部の内情を教えてくれた。通称オタク編集部は四年前に社長の一存で出来た部で、生え抜きは遠野編集長だけで、あとは全て中途採用だということだった。

「だから、他の編集部の人はまったく寄り付きません。桐原書房の汚しって言う人もいます」

 萌はなんだか悲しくなった。

「遠野編集長ってどんな人なの?」

 実はとても聞きたいことだった。

「遠野さんはある意味左遷じゃないですかね。中途の自分はよく知りませんけど、何年か前にある事件がきっかけで書籍部から外されたって聞きました。仕事は出来る人ですよ。性格はちょっと問題ありますけど」

 どんな問題? と聞こうと思ったがやめた。変に気があると思われたくない。

「間に合った。これから地下アイドルとオタ芸見れますよ」

 萌は何かの情報番組で見たことがあった。強烈な印象だった覚えがある。狭い階段を下りていくと、もう始まっているのか歌声が聞こえた。重い扉を開けるとそこは小さなライブハウスで、観客と物凄く近いステージで三人の女の子があまり上手ではない歌を披露していた。しかし、萌の興味はそのアイドルを応援する男たちにいってしまった。二十代から三十代くらいの男たちがタオルを首に巻いて変な掛け声と共に変な踊りを踊る。萌の目は釘付けだった。隣の大橋くんが解説をする。

「今やってるのがロマンスです。よくテレビで見るでしょ? あ、マトリックス出た」

それぞれの振り付けに名前が付いているらしい。萌は変な熱気にあてられてクラクラしてきた。アイドルの女の子たちはかわいいことはかわいいが、とにかく歌が下手で聴いていられない。二十分少々で退散した。

次は、もうすっかり定番となったメイド喫茶に向かった。入るといきなり「おかえりなさいませ。ご主人様」と挨拶をされた。萌にとっては違和感ありありで「女性に対してもこう言うの?」と大橋くんに聞いた。

「最近は女性客も多いから、こういう挨拶をするところは少なくなってます。今日は一番メイドカフェらしいお店を選びました」

お店の内装は意外と普通のカフェと変わらなかった。メイドさんはウエストが締まった黒いふんわりとしたワンピースに、肩のところがひらひらしているエプロンをつけ、頭にはこれまたひらひらとしたカチューシャのような帽子をつけていた。十代の女の子だろうか。どの子も若い。お昼を食べていなかったので、ここで食事をとることにした。カフェのメニュー以外にも、カレーやパスタ、オムライスといった食事メニューも充実していた。萌はオムライム、大橋くんはカレーを注文した。

「敷田さん、大丈夫ですか? 具合が悪そうな顔してますけど」

「慣れないもの見て、疲れちゃったみたい。お腹も空いてるし、食べたら元気になると思う」

 メイドさんが持ってきた水を萌は一気に喉に流し込んだ。

「大橋くんって、最初見た時は典型的なオタクに見えたけど、話してみるととっても普通で安心した」

「僕はそんなにオタクじゃないですよ。元々はパソコンとか、デジタルものが好きで、アキバに出入りしているうちに、その他のものにも詳しくなったって感じですかね。うちで一番オタクなのは岩崎かな。ほら、敷田さんが部屋に入ってきた時見たでしょ? あのフィギアいじってたやつ」

 萌は驚いた。私のことなどまったく無関心な人たちかと思ったら、きちんと見ていたんだ。

「遠野編集長もオタクなの?」

 萌はどうしても遠野編集長に興味がいってしまうのが自分でもわかった。

「オタクに見えますか?」

 大橋くんに切り返された。

「見えない」

「あの人はガンダムおたくです」

 萌は一瞬固まってしまった。

 注文した料理がきた。「お待たせしましたぁ~」という声がかわいい。味はそれほど期待していなかったが、なかなか美味しかった。萌は少し元気が出てきた。

「次はどこ行くの?」

「もう少しディープにいきますか? それともソフトに?」

「う~ん、ソフトにお願いしたい……」

「じゃあ、本来のアキバってことでパソコンでも見に行きますか? これはハードですけどね」

 大橋くんってば面白い。萌はこの同僚に好感を持った。

「自分が見たいからじゃないのー?」

「バレました? 実は買いたいものがあって……」

 メイド喫茶を出るときは「いってらっしゃいませ~」と声を掛けられた。不思議な世界だったが、萌が最初に抱いていた嫌悪感はだいぶ薄れていた。

 会社に戻った時は五時を過ぎていた。大橋くんと一緒に遠野編集長に報告を入れる。

「オタ芸見たの? 俺まだ見たことないんだよね。まあ、そんなに見たくもないけど」

 聞きながら、喋りながら、視線は原稿から離さず朱入れをしていた。

「どう? アキバ見学の感想は?」

 萌は率直に感じたことを話した。

「私や私の周りの人たちにも接点のない世界だったので、あまり関わりのない人の趣味の世界を覗いているようで落ち着きませんでした。だけど、生理的な嫌悪感は少し薄れたような気がします。ただ、十代としか思えない女の子たちが、性の対象になっているような文化はやはり馴染めません」

 ここでようやく、遠野は萌のほうを見た。

「君を入れた甲斐があった。生理的な嫌悪感……あまり大きな声で言わないようにね。君のおかげで次の企画のテーマが決まったよ」

 そう言った後、初日にくどくどとダメ出しをしていた男性――長井くんということが分かった――を呼んで再びダメ出しを始めた。長くなりそうだったので、萌も大橋くんも自席に戻った。時計を見ると六時を過ぎていた。定時は六時だったが、帰る人は誰もいない。

 萌の斜め前の席には、この編集部で萌以外の唯一の女性編集者、徳本さんがいた。各編集部には営業チームが付随していて、そのチームに二人の女性、そして庶務の女性一人を入れると、萌を含め女性は五人になった。社員は萌と徳本さんだけで、あとは契約とアルバイトである。

 萌はとにかく女性と話をしたかった。この男性主体の編集部で徳本さんがどんな気持ちで働いているのか、それを知りたかった。しかし、彼女は忙しそうで、なかなか話し掛けるチャンスがない。そうこうしている内、編集長の遠野が「帰っていいよ」と声をかけてきたので、萌は今日は諦めて帰る支度をした。

帰りのエレベーターで同じ部の営業チームの女性が乗ってきた。萌は仲良くなるチャンスとばかりに話しかけた。見城さんといって、見た目は萌よりも年上に見える。

「よかったら、夕飯一緒に食べてかない?」

 萌は嬉しくなって二つ返事でオーケーした。


 会社近くのお洒落な居酒屋風のお店に入った。いろいろとプライベートな話も聞けそうな空間だった。見城さんは真っ先にビールを注文したので、萌も生ビールを頼んでしまった。

「どう? 仕事はつらくない?」

 こういう質問をされると、無理をしている自分に気づいて、弱音を吐いてしまいそうだった。

「まだ、仕事という仕事はしていないので、なんとも……」

「遠野編集長はどう? やさしい?」

 萌はいきなりの質問に、一瞬詰まってしまったが、まだよくわからないと答えた。実際そのとおりだった。

「私ね、彼の一年後輩なの」

 萌はビックリしてしまった。営業チームの補佐として契約で働いていると聞いていたので、本当のことを言うとこの食事の誘いにしても、仕事や会社の濃い話は聞けないだろうと思っていたのだ。

「元々、編集者として働いていたんだけど、体を壊してからハードな仕事が出来なくなって、一回会社を辞めたのね。その後結婚して、やっぱり働きたくなっちゃって、10時6時の条件で契約社員としてまた雇ってもらったの」

 聞けば三十六歳だという。ずっと続けていれば編集長クラスだったかもしれない。そのことを言うと、とんでもないと謙遜した。

「私はアマちゃんだから、ぜんぜんだめ。すぐ弱音吐くし……。書籍部の編集長の村井さんなんて凄いよ! 私より三つ年上なだけで、男性顔負けの仕事っぷりで、社長ですら彼女には一目置いてるもの」

 萌は面接の時の彼女を思い出した。そんなに凄い人だったんだ……。

 見城さんは他にもいろいろと情報を提供してくれた。各編集者の人となりを説明する時は彼女の毒舌ぶりが炸裂していた。

「徳本さんとは、ほとんど話しをしたことないのよ。彼女根っからのオタクだし。他のオタク社員とは話が合うみたいだけど。敷田さんみたいな普通の女性が入ってきてくれて嬉しいわ」

 さらに大橋くんがこの編集部で一番のオタクと称していた岩崎くんに話が及ぶと「気持ち悪い~」を連発した。

 萌は場が砕けてきた、砕けすぎた? ので、そろそろ一番聞いてみたかったことを見城さんにぶつけてみた。

「遠野編集長って、ある事件がきっかけでこの編集部に飛ばされたって大橋くんから聞いたんですけど、その事件って知ってます?」

 見城さんは一瞬真顔になった。

「そんなこと、もう聞いたの? あらら……」と言った。「実際は、飛ばされたんじゃなくて、立ち上げさせられたんだけどね」

 さらに、萌の顔を覗き込みながら尋ねた。

「敷田さん、もしかして、遠野編集長のこと好きなの?」

 萌は全身の血液が顔に集中したのではないかというくらい、顔が熱くなるのを感じた。

「そんな意味で聞いたわけじゃ……」

 語尾がもごもごしてしまった。これでは誰が見ても肯定している素振りだ。

「やめた方がいいよ。彼は」

 見城さんは冷たく言い放った。

そして萌にとって衝撃的な、ある事件を語った。


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