『「嫁の義務」を果たしました 〜義父の老人ホーム代、夫の給与口座から自動引落中〜』
夕食のビフテキを咀嚼しながら、夫の亮介は平然と言い放った。
「親の面倒を見るのは嫁の務めだろう。血のつながり云々じゃない。嫁いだ以上、それがお前の義務だ」
テレビでは、超高齢社会と介護離職を取り上げていた。義父が脳梗塞で倒れ、要介護3の認定を受けてから、亮介の口から「義務」という言葉を聞くことが増えた。
「私の仕事はどうするの? 係長になったばかりだし、平日は抜けられないよ」
「時短にするか、辞めればいい。母さんだって昔はそうやって祖父母を看取ったんだ。親父の年金も月十万ちょっとある。お前が家にいれば、食い扶持くらい何とかなるだろ」
亮介は手取り三十五万円を自慢にしていたが、都内のマンションのローンと外車の維持費に追われ、貯蓄はわずかだった。
「俺は仕事で忙しいんだからさ。親父の今後のこと、お前が段取りつけてうまくやってくれよ。全部任せるから」
私は怒ることも嘆くこともせず、湯呑みを静かに置いた。
「……わかったわ。あなたの代わりに、妻である私がお義父さんの今後を手配するわね」
「おう。分かればいいんだよ。お前ならうまくやってくれると信じてたぜ」
亮介がビール缶をあおる。私は食卓の脇に置いていた書類を差し出した。
「手続きを進めるには、あなたの署名が必要なの。施設の契約や身元引受人の手続き、それに支払いの口座振替もあるから」
「書類か。面倒くせえな。どこに書けばいいんだ?」
「ここが委任状。その後ろが契約や支払いに関する書類よ。費用はお義父さんの年金や預貯金から出して、不足分は契約者が負担する形になるみたい」
「任せるって言ってるだろ。俺は明日も早いんだ。さっさと済ませてくれ」
亮介は書類をろくに確かめず、署名欄に名前を書き、実印を押した。最後に、口座振替の手続きに必要な書類にも印を押す。
「親父の口座も使えるなら、必要な金はそこから回しとけよ」
「分かったわ」
それが、彼の返事だった。
翌日、私は病院のリハビリ室を訪ねた。車椅子に座る義父は、申し訳なさそうに肩を落としていた。
「香奈さん、本当にすまんな。亮介は『嫁に全部やらせるから心配するな』と言っていたが、仕事を辞めさせるわけにはいかん。わしは、これ以上みんなに迷惑をかけたくないんだ」
「仕事を辞めるつもりはありません。お義父さんが気兼ねなく、リハビリを続けて穏やかに暮らせる場所を探しましょう」
「そんな場所があるなら、プロの手を借りたい。息子夫婦の重荷になって家庭を壊すのだけは嫌なんだ。年金も預貯金も、実家も、使えるものは使ってくれて構わん」
義父本人の希望を聞いてから、私は施設探しを始めた。
義父の実家は築年数が古く、売却しても大きな金額にはならない。預貯金も、入院費や治療費でほとんど残っていなかった。それでも、義父が望むリハビリと安全な生活をかなえるには、相応の費用がかかる。
見学を重ねて選んだのは、医療機関との連携があり、リハビリにも力を入れている介護付き有料老人ホームだった。吹き抜けのエントランスには季節の花が生けられ、看護師が二十四時間常駐している。個別対応の食事も用意されていた。
相談員が費用を説明してくれた。
「入居一時金は七百万円です。月額利用料は管理費や上乗せ介護費を含めて約二十八万五千円。医療費や日用品などは別途となります」
複数の介護情報サイトを調べると、東京都内の老人ホームは、施設の種類や入居時費用の有無によって料金に幅があった。中央値の目安は、入居時費用が約五百万円から九百万円、月額費用が約二十五万円から三十一万円ほど。選んだ施設の費用は、その範囲内だった。
契約者兼身元引受人は亮介。私は、彼から託された委任状を使って手続きを進める代理人。支払い口座には、亮介が指定した給与受取口座が登録されていた。入居一時金には、彼が「俺の自由な金だ」と言っていた定期預金を充てることにした。
義父の引っ越しは、亮介が泊まりがけのゴルフ旅行に出ている週末に済ませた。
陽当たりのよい個室の電動ベッドに腰掛けた義父は、目に涙を浮かべた。
「本当にありがとう。亮介にも、こんな親孝行をしてもらって感謝しきれんよ」
「いいんですよ。亮介さんが『息子の務めとして、親父にはいい環境を用意する』と言って、契約者になってくれたんですから」
翌月二十五日。給料日の夜。
玄関のドアが激しい音を立てて開いた。ネクタイを歪ませ、顔を真っ赤にした亮介がリビングになだれ込んでくる。手にはスマートフォンを握りしめていた。
「おい! どういうことだ香奈! 給料が入った直後に二十八万五千円も引き落とされて、残高が六万しかないんだぞ! おまけに定期の七百万が消えてる! 何をやったんだ!」
私は紅茶を一口飲み、クリアファイルをテーブルに置いた。
「おかえりなさい。お義父さんのホームの費用よ」
「ホーム……? 何の話だ」
「お義父さん本人の希望を聞いて、リハビリを続けられる施設を選んだの。入居一時金が七百万円、月額利用料は約二十八万五千円。医療費や日用品は別だから、毎月三十万円近くかかるわ」
「親父の年金は十万ちょっとだぞ! 足りるわけないだろ!」
「だから不足分は、契約者のあなたが負担する形にしたの。給与口座から支払う手続きも、書類に入っていたでしょう」
「なんで俺の口座から……! お前が仕事を辞めて家で介護すれば、そんな金はかからなかっただろ!」
私はファイルから、亮介の署名と実印が押された書類を取り出した。
「あなたが言ったのよ。『親父のことは全部任せる』って。施設との契約も、支払いの手続きも。書類を確認せずに署名したのはあなたよ」
「こんな金額になるなんて聞いてないぞ!」
「費用の説明は書類にあったわ。署名する前に確認してって、私も言ったはずよ」
亮介は書類を乱暴につかみ、何枚かめくった。やがて手が止まる。
「こんな金、払えるわけないだろ! 車のローンもあるし、俺の小遣いはどうなるんだよ!」
「車は売ってローンを清算すればいいじゃない。今の残高から光熱費と携帯代を引いたら、自由に使えるお金はかなり少なくなるでしょうね」
「ふざけるな! 解約しろ! 今すぐ親父を実家に連れ戻せ!」
「入居一時金には初期償却があるから、すぐ退去しても全額は戻らないわ。それに……」
私は、もう一枚の書類をテーブルに滑らせた。緑の枠線が印刷された離婚届だった。私の署名と捺印は済んでいる。
「私は明日、この家を出るわ。会社の近くに部屋を借りたの。離婚届に署名して、提出してちょうだい」
「は……離婚……?」
「民法上、扶養義務を負うのは原則として直系血族と兄弟姉妹よ。特別な事情があれば、家庭裁判所が三親等内の親族に扶養義務を負わせる場合はある。でも、『嫁いだ以上、私が当然に介護をしろ』ということにはならないわ。扶養の方法も、本人の必要や扶養する側の事情によって決まる。私が仕事を辞めて、家で身体介護をしろとあなたが一方的に決められるわけじゃない」
亮介の顔から血の気が引いていく。
「施設を続けるのか、退去して実家で介護するのか。今後のことは、実子であるあなた自身で決めてちょうだい」
手取り三十五万円のうち、毎月二十八万円以上が施設費用に消える。車を手放すか、仕事を辞めて自宅で介護をするか。どちらを選んでも、これまでの暮らしは続けられない。
「待ってくれ、香奈。悪かった。俺の言い方が悪かったんだ。頼むから考え直してくれ」
「嫌よ。親の面倒を見るのは『義務』なんでしょう? これからは、ご自身の給料と人生で、その義務を果たしてくださいな」
私はスーツケースのハンドルを握り、玄関のドアを開けた。
秋の夜風が、驚くほど心地よく頬を撫でた。
*
玄関のドアが閉まり、香奈の足音が夜の中へ消えていった。
亮介は床にへたり込んだまま、離婚届と施設の契約書類を見つめていた。
「嘘だろ……なんでこんなことに……」
頭の中を駆け巡るのは、金のことばかりだった。毎月二十八万五千円が引き落とされれば、手取り三十五万円から残るのは六万五千円。マンションの管理費や光熱費、携帯代を払えば、車どころか食費も心もとない。
「あいつ、俺への嫌がらせで、わざと高級な施設を選びやがったな……」
亮介はスマートフォンを握り、検索窓に文字を打ち込んだ。
『老人ホーム 費用 東京』
『安い 老人ホーム』
「月三十万なんて、そんなにかかるわけがない。年金で入れるところだってあるはずだ」
検索結果には、特別養護老人ホームや、入居一時金のかからない施設も並んでいた。
要介護3なら、特別養護老人ホームのように、もっと安価に入れる施設もある。だが、すぐに入居できるわけではなかった。施設や地域によって違いはあるものの、空きが出るまで早くても半年、長ければ一年ほど待つという。
「半年から一年……そんなに待てるわけないだろ」
今すぐ入居できる民間施設も探したが、月額が低いプランは都心から遠かったり、義父が望むリハビリや医療連携が十分でなかったりした。安さだけで決められるものではなかった。
亮介は、香奈が手配した施設の料金をもう一度調べた。
複数の介護情報サイトを見ると、東京都内の老人ホームの費用は、施設の種類や入居時費用の有無によって幅がある。一時金が約五百万円から九百万円、月額が約二十五万円から三十一万円ほどという中央値の目安は、珍しい数字ではなかった。
一時金七百万円。月額二十八万五千円。
香奈が選んだ施設は、二十四時間の看護体制とリハビリを備えた、相場の範囲内の施設だった。亮介が想像したような、贅沢のためのホームではない。
画面に映る、日当たりのよい個室の写真を見ながら、亮介は義父の顔を思い出した。
「親父を、今さら別のところに移すのか……」
香奈は腹いせに高い施設を選んだのではなかった。父親の希望を聞き、必要なケアを受けられる場所を探した。その費用を、契約者である自分が引き受ける形にしただけだった。
『親の面倒を見るのは嫁の義務だ』
『食い扶持くらい何とかなるだろ』
自分がビフテキを噛みながら口にした言葉が、胸に刺さる。
何とかなるわけがなかった。香奈の仕事と時間を差し出させる前提でしか、成り立たない考えだった。
亮介は震える手で香奈に電話をかけた。
「頼む……出てくれ、香奈。俺が悪かった……」
返ってきたのは、機械的なアナウンスだけだった。
テーブルの上には、緑の枠線の離婚届と、来月も引き落とされる施設費用の書類が残されていた。
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**法律表現について:**民法877条は直系血族・兄弟姉妹を扶養義務者とし、特別な事情がある場合は家庭裁判所が三親等内の親族にも扶養義務を負わせられると定めています。扶養の程度や方法は、本人の需要や扶養する側の資力などを考慮して定められます。本文では「嫁だから当然に身体介護を担う義務がある」という亮介の主張を否定する形に整えました。




