表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

五月人形の独り言

作者: 星渡リン
掲載日:2026/05/05

端午の節句に飾られる五月人形は、「強くあれ」という願いの形をしています。

けれど本当の強さは、声を荒げることでも、我慢し続けることでもなくて。

怖いままでも一歩を選べること、そして戻れる場所を残すことなのかもしれません。


この短編は、年に一度だけ箱から出される五月人形の視点で、ある家族の“節目の春”を見つめます。

すきま時間に、風が通るように読んでいただけたら嬉しいです。

 暗い。静かだ。

 箱の中の一年は、長いようで短い。外の季節は勝手に走っていくのに、こちらは「待つ」しかない。


 待つ、というのは案外、強い行為だと私は知っている。

 私は鎧兜。強さの形をして、動かない。


 けれど今日。闇がほどけた。


 ガムテープが剥がれる音。紙が擦れる音。押し入れの奥から引っ張り出される、箱の揺れ。

 ふわり、とほこりが舞い、眠っていた漆の匂いが目を覚ます。


「よいしょ……重い……っ」


 聞き慣れた声。母だ。息が少し上がっている。

 毎年同じ動作のはずなのに、今年の手は落ち着かない。テープを剥がす指先が、やけに忙しい。


 テープというものは不思議だ。

 焦っている人間にだけ、強く貼りつく。


「なんで、こんなに……。去年の私、どんだけ頑張って貼ったの……」


 母は小さく悪態をつき、また剥がす。

 蓋が開き、光が差し込む。


 まぶしい、というより……胸の奥がほどける感覚がある。

 私は棚に座る役目を思い出す。


 私は“強さ”の飾りだ。端午の節句に合わせて、家の中心に置かれる。

 だが強さは、飾られるためだけにあるのではない。


 強さは、守るためにある。


 守る、という言葉の意味は、人が大きくなるにつれ変わっていく。

 その変化を、私は毎年、ここから眺めてきた。



「まず台、拭いて……と」


 母は台座を取り出し、布で拭き始める。布の擦れる音が、家の空気を整えていく。新聞紙のインクの匂いが混ざり、少しだけ昔が戻ってくる。


「今年こそ、ちゃんと……」


 母の独り言が落ちた瞬間、スマホが鳴った。


「あ、はい……すみません、今ちょっと……はい、すぐ折り返します……」


 母は通話を始め、肩で受話口を挟みながら、布で拭く速度を上げた。

 速度が上がると、丁寧さが薄くなる。薄くなると、眉間が深くなる。


 忙しさとは、祈りを押しつぶしに来るものらしい。

 それでも母は、私を出す。


「ごめんね。重いよね」


 母は私を抱え上げながら言った。

 誰に向けた「ごめんね」かは分からない。たぶん、全部に向けた言葉だ。


 棚に布が敷かれ、屏風が立ち、弓太刀が置かれる。小さな飾りが並べられる。

 母の手つきは忙しいのに、どこかで丁寧にしようとしている。


 祈りの作業は、だいたいこんなふうに不器用だ。


「あ、鯉のぼり……」


 母はベランダをちらりと見て、首を振った。


「今年も小さいのでいいか。外は無理だし」


 外に泳がせる鯉のぼりは、去年の春に諦めた。隣家との距離だとか、物干しだとか、規約だとか、生活の都合だとか。

 代わりに、棚の端へ小さな鯉の飾りが置かれる。


 ちいさい。だが、尾が上がっている。泳ぐ気持ちはある。


 母は一度、私を見上げて笑った。


「直、帰ってきたら見てくれるかな」


 笑いは短い。息が浅い年だ。



 夕方。玄関が開く音。靴が揃えられる音。鞄が床に置かれる音。

 少年が帰ってきた。


 いや、少年と呼ぶには大きくなった。結城直、十八歳。

 足音に迷いが混ざるようになった年齢だ。


「ただいま」


「おかえり。直、ほら、出したよ」


 母が居間から声をかける。

 直が障子を開けて入ってくる。私を見る。ほんの一瞬、視線が止まる。


 だがすぐに、逸れた。


「……うん。ありがとう」


 礼は言う。だが“ありがとう”が遠い。

 彼は今、別の戦場にいる。紙と、言葉と、未来の形の戦場だ。


 鞄の口から、封筒がちらりと覗いた。学校の書類。進路。

 直は見せないように、そっとファスナーを閉める。


「疲れてる?」


「大丈夫」


 大丈夫、は便利な盾だ。

 鎧の私は盾の意味がよく分かる。分かるからこそ、ずっと握っていると腕が疲れるのも知っている。


 母はそれ以上、踏み込めなかった。

 踏み込めないのは、優しさの形をしていることもある。



 夜。食卓。

 今日はカレーだ。忙しい日の味。煮込まれた匂いが家を柔らかくする。母は「端午の節句だから」と柏餅だけ買ってきた。行事は、生活の隙間にねじ込まれる。


 父もいる。仕事帰りの疲れが肩に残っている。

 父は私を見ると、いつもの調子で言った。


「今年も出したか。偉いな」


 偉いのは母だ。

 だが父は、そういう言い方しかできない。


 食べ始めて少しすると、父の言葉が直へ向かう。


「進路、腹決めたのか」


 直のスプーンが止まる。

 母がすぐに柔らかい声で繋いだ。


「まだ時間あるしね。焦らなくても……」


 父は「焦らなくても」と言われると、逆に焦る生き物らしい。


「時間あるって言ってもな。男なら腹を決めろ。逃げるな」


 男なら。

 鎧の内側が少し冷たくなる。


 私は“男の強さ”の象徴として扱われがちだ。だが、強さは性別で決まるものではない。

 強さは、選ぶ背骨だ。守るための骨だ。


 直は黙る。黙るほど大人の言葉は増える。増えるほど直は薄くなる。


「……別に逃げてない」


 直が小さく言う。父は聞こえないふりをした。


「だったら決めろ。推薦出すんだろ? 工学部、いいじゃないか。安定だ」


 安定。

 その言葉は強い。強すぎて、ほかの道を細くする。


 母が皿を持ちながら言った。


「直、ちゃんと考えてるよね? ちゃんと……」


 ちゃんと。

 母の口癖は、祈りの裏返しだ。だが硬い。硬い言葉は当たると痛い。


 直の目が、ほんの少し潤んだ。

 潤んでも、怒りにも悲しみにもなれない曖昧な色。


「……俺、食べ終わった」


 直は立ち上がり、皿を流しに運んだ。


「直、待って」


 母が呼ぶ。

 直は返事をしない。返事をしない背中は、盾を背負っているみたいだ。


 父は舌打ちしそうになり、やめた。

 父もまた、言葉の戦い方が下手なのだ。



 夜更け。家が眠る。

 居間の灯りが小さく残る。私は棚の上で闇に浮かぶ。


 端午の節句は、勝ち負けの行事ではない。勝つための飾りでもない。

 私は勝て、と命じられて座るのではない。守れ、と願われて座る。


 守るとは、閉じ込めることではない。

 守るとは、選ばせることだ。選ばせたうえで、戻れる場所を残すことだ。


 直の小さい頃を思い出す。


 五歳の直は、私の前で剣の真似をした。プラスチックの刀を振り回し、転んで、泣いて、また立った。

 七歳の直は熱を出し、居間の布団でうなされながら私を見上げた。母は一晩中そばにいて、眠れない目で私を睨んだ。「守ってよ」とでも言いたげに。


 私は動けない。

 だがその夜、母の手は私よりずっと強かった。


 十歳の直は、初めて嘘をついた。宿題をやったと言って、やっていなかった。父に叱られて、直は「ごめんなさい」を言えずに泣いた。

 十一歳の直は、初めて「ごめんなさい」を言えた。泣かずに言えた。母が台所で小さく拍手した。父は「よし」とだけ言った。


 私は見てきた。

 強さは、声を荒げることではない。

 強さは、謝ること。

 強さは、黙って耐えることではなく、言葉を選ぶこと。


 今夜の直は、眠れないらしい。廊下を静かに歩く気配がする。

 やがて居間の障子が、そっと開いた。


 直が入ってくる。灯りはつけない。月明かりだけが床に薄い線を引く。

 直は私を見上げて、少しだけ笑った。子どものころみたいな、薄い笑いだ。


「……毎年さ。お前、そこにいるよな」


 お前。

 彼は私に名前をつけていない。けれど、こういう夜だけ話しかける。話しかける相手が必要な夜があるのだ。


「俺、さ」


 直は続けようとして、やめた。

 言葉は出す前に形を探す。形が見つからないと、喉で止まる。


 直は喉元を指で押さえ、息を吐いた。


「……ごめん。やっぱいい」


 そう言って、障子を閉めた。

 閉まる音が静かすぎて、余計に胸に残る。



 翌日。風が強い。

 窓が鳴る。洗濯物が踊る。小さな鯉が棚の端で尾を揺らす。泳ぐ気持ちが部屋の中で暴れている。


 母が換気のために窓を少し開けた。

 その瞬間、風がもう一度強く吹く。


 棚の上の軽い飾りが揺れ、結び紐が踊り、弓太刀の小さな部品が……ころり、と落ちた。


「えっ……!」


 母が手を伸ばすが遅い。

 そのとき、居間に直が飛び込んできた。


「危ない!」


 直は床に膝をつき、部品を拾い上げた。

 手つきが丁寧だ。丁寧さは、焦りとは別の強さだ。


 直は部品を確かめ、紐の結び目を見て、静かに結び直す。


 結ぶ。

 結ぶという行為は、背骨に似ている。真っ直ぐに立てるようにする。ほどけないようにする。ほどけても、また結べるようにする。


 母は息を止めたまま直を見ている。

 直は結び終え、指先をちょっとだけしかめた。


「……大丈夫? 指」


「平気。これ、弱ってた」


 直は原因を責めない。母を責めない。風を責めない。

 ただ、弱ってた、と言う。現実に対して正直な言葉だ。


 母の顔が少し救われる。


「ごめんね。私、窓……」


「いい。閉めなくていい」


 直が言った。

 昨日より少し太い声。背骨が入った声。


 母が目を丸くする。

 直は続けた。


「風、通った方が……なんか、息できる」


 母の肩が、少し下がった。

 母は直が今まで息を止めていたことに気づいた顔をした。


 直は手を膝の上で握り、ほどき、また握る。

 言葉の形を探している手だ。


「母さん」


「なに?」


「俺、工学部じゃなくて……デザイン、行きたい」


 母の目が揺れる。驚きと、怖さと、ほんの少しの喜びが混ざった揺れだ。

 母はすぐに否定しない。できない。言葉が詰まっている。


「デザインって……?」


「プロダクト。形作るやつ。……ずっと、そっちが好きだった」


 直は笑おうとして、笑えない。

 笑えないけれど、視線は逸らさない。


「でも……それで食べていけるの?」


 母の言葉は責めではない。祈りだ。祈りはだいたい心配の形で出てくる。


 直は少しだけうつむき、すぐ顔を上げた。


「分かんない。けど、やりたい。強くなるって、殴られても平気になることじゃないだろ」


 言葉を探しながら言う。


「俺は、俺で決める。決めて、責任持つ」


 母の目に涙が溜まった。

 母は泣くのを我慢する人だ。それでも今、居間で泣きそうになっている。


「……怖いのよ」


 母が小さく言った。


「あなたが、傷つくのが」


 直は一瞬、肩を震わせた。泣きそうになる。

 泣きそうになって、それでも踏ん張る。


「俺も怖いよ。でも、怖いままでも……行けると思う」


 母は息を吐いた。

 その息は、ようやく家の中を通った風みたいだった。


「……分かった」


 母は短く言った。

 それは許しでも、承認でもない。ただ、直の背骨を見たという合図だ。


 直は目を閉じて、少しだけ笑った。薄いけれど、本物の笑い。


 私は棚の上で独り言を落とす。


 よく結んだ。

 乱れた紐を結び直す手は、もう立派な武者の手だ。

 鎧は強さの形をしているだけだが、お前の手は、もう中身だ。



 端午の節句当日。

 柏餅を食べる。父は仕事で遅い。母は「今日は少しだけ早く帰る」と言っていた。直は自室で書類と格闘している。


 居間の空気は、昨日より軽い。

 ふわふわではない。骨が通った軽さだ。


 夜、父が帰ってきた。

 母が言う。「直、話がある」


 直が居間に出てきて、父に言った。


「俺、デザイン行く。推薦は出さない。一般で受ける」


 父は一瞬固まった。

 口を開き、閉じ、眉を寄せる。怒りが出かけて、迷って戻っていく。父の中にも戦場があるのだ。


「……それでいいのか」


 父は低い声で言った。


 直は頷く。視線を逸らさない。


「いい。俺が決めた」


 父は黙った。

 黙って私を見た。鎧兜を見て、直を見て、母を見た。


「……分かった」


 短い。ぶっきらぼう。

 だが、その短さが父なりの降参だ。降参は、時に強い。


 母が泣きそうな顔で笑った。

 直は照れたようにそっぽを向く。


 私は独り言を続ける。

 よし。今日の家には、風が通っている。



 五日が過ぎると、片付けの気配が来る。

 母は毎年「早くしまわないと」と言う。湿気。ほこり。傷み。生活の都合。


 だが今年の母の声は、少し優しい。


「片付け、明日しようか」


 直が居間に来て、棚の前で立ち止まる。


「今年は、俺がしまう」


 母が驚く。


「いいの?」


「いい。……やりたい」


 直は手袋をはめ、私の紐をほどく。ほどく手つきが丁寧だ。

 締めるだけが強さじゃない。必要なときにほどくのも、強さだ。


 部品を一つずつ包み、薄紙にくるみ、箱に収める。

 急がない。急がないのに止まらない。

 このリズムが背骨だ。


 最後に直は、私の前で一瞬だけ立ち止まった。

 母は台所に行っていて、居間には直と私だけ。


 直は声を小さくした。私にだけ届くような声。


「ありがとう」


 そして、少し間を置いて、息を吸って。


「……俺、行ってくる」


 それだけだった。

 それだけで十分だった。


 私は独り言で返す。


 行け。

 鎧は置いていけ。

 お前の背骨は、もう自分のものだ。


 箱の蓋が閉まる。

 闇が戻る。だが今年の闇は静かで、寂しくない。闇の中に、風の通った跡が残っている。


 外では、小さな鯉が尾を上げているだろう。

 泳ぐ場所が外でも内でも、泳ぐ気持ちがあるなら、それでいい。


 私はまた一年、待つ。

 待つという強さで。

 次の春、次の風が、誰かの背中をそっと押すのを聞くために。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


五月人形は「強さ」の象徴として飾られますが、物語の中で私が描きたかったのは、もっと生活に近い強さです。

迷っている自分を責めないこと。

怖さを無かったことにせず、言葉にして誰かと分けること。

そして、選んだ道の責任を“自分の足”で引き受けること。


守るというのは、閉じ込めることではなく、選ばせること。

この短編の風が、あなたの中の緊張を少しだけほどき、背中をほんの少しだけ軽くできたなら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ