第8話:静寂
そうか。ここはこれで展開できるってことは、ここが二乗になって……。
僕が数学の公式をノート上で解いていると。
「さて。名残惜しいでござるが、そろそろ行くとするでござるか」
という只野先輩の小さな声がした。
只野先輩の声に顔を上げると、気づけば時間は五時半を回っている。
気づけばもうこんな時間なのか。勉強に夢中になっていて気付かなかったな。
「有内殿」
「は、はい」
「お主、長月殿の生誕祭はどうするつもりでござるか?」
「せ、生誕祭ですか?」
「うむ」
相変わらず小声のまま、隣で真剣な雰囲気を醸し出している只野先輩。
生誕祭……って、つまり……。
「それって、長月さんの誕生日が近いってことですか?」
「その通りでござる。さる六月六日土曜日こそ、長月千麻生誕祭にござるよ」
へー。そうだったんだ。
よくよく考えると、みんなの誕生日なんてファンタジー・フォレスト時代も含め、そういう話をしてなかったっけ。
「去年はまだ長月殿を知って間もない時期。故に絶好の好機を逃したでござるが、今年こそはこの時を活かし、しっかりと長月殿の心を掴む。そして、いずれ彼女に忍様とお呼びいただいて……フフフフ……」
眼鏡をキラリと輝かせ、また鼻息を荒くする只野先輩。
でも、誕生日にプレゼントをしたいっていうのは、そこまで悪いことじゃないと思う。ちょっと近寄りがたい雰囲気はあるけど。
「お主もこの機会に何か贈り物でもすれば、長月殿に名を覚えてもらえるに違いないでござるよ」
「そうですね。気にしておきます」
「うむ。では、拙者はこれで失礼するでござる」
「はい。お疲れ様でした」
僕の感謝の言葉を聞いて満足したのか。
只野先輩はにこりと笑うと、机に置いていた本を手に取り行列の最後尾に向かい歩いていく。
千麻さんのことだし、今の関係じゃなくてもクラスメイトの名前くらいは覚えてくれる気はするけど、その話をするのは野暮だもんね。
でも、六月六日か。ちゃんと覚えておかないと。
それより、そろそろかな……。
周りを見渡すと、もう閲覧コーナーにいる生徒はいない。みんな行列に並んでいるみたいで 受付と僕の間にできた人だかりで、互いの視界が完全に通らなくなる。
勿論、男子生徒はみんな受付の方を見てて、こっちを見ている生徒は誰もいない。
……っていうことは、ここから千麻さんの言っていた作戦を実践するってことだよね。
僕はゴクリとつばを飲み込むと、緊張しながらノートや教科書をリュックに詰めると立ち上がった。
改めて行列を確認……こっちを見ている人もいないし、彩瀬さんの姿も見えない。
よし。じゃあ、いくぞ。
僕はゆっくりと立ち上がると、みんなの列に向かうことなく、こそこそと多くの本棚の影に向かった。
──実は、お昼休みも終わりに近づいた頃。千麻さんからイズコにメッセージがあったんだ。
そこに書かれていた指示はこう。
『みなさんが行列を作ったら、人目を避けながら本棚の影に隠れてください』
流石に千麻さんも、こういった光景は見慣れているんだろう。
ここまでは彼女の予想した通りの展開になっている。
でも、本当にいいのかな。図書室のルール的に。
本棚の並ぶエリアに入った僕は、その中でも一番奥まった所まで行くと、静かに待つことにした。罪悪感と緊張感を友達にしながら。
◆ ◇ ◆
あれから十五分ほど。
普段過ごすより絶対長く感じる時間を味わっているうちに、受付での貸出のやり取りの声がついに途切れ。
「はーっ。先輩、お疲れ様でした」
少し大きくなった彩瀬さんのほっとしたような声が耳に届いた。
「お疲れ様です。さて。少し早いですが、閉室の準備を始めましょうか」
「はい!」
「では、私は本を戻してきますので、岩良さんはいつもの通り閲覧コーナーをお願い致します」
「わかりました!」
元気な声と共に、二人が図書室内を歩き始める足音が耳に届く。
普段ならそんなに気にならない足音も、今この瞬間は恐ろしく緊張感を醸し出す。
息を殺し、本棚を背に隠れていると、こっちに近づく足音が少しずつ大きくなってくる。
さっきの会話からすると、本棚は千麻さんが担当のはずだよね。
そう思ってはいるんだけど、もしもの不安が一気に襲ってきて、背中を冷や汗が伝う。
近づいてきた足音が途中で何度か止まり、また聞こえ出す。
それを何度か繰り返しているうちに、僕がい背にしている本棚を挟んですぐ後ろまで足音が近づいてきた。
妙に心臓の音がうるさく感じる。
流石にこんな音で気づかれたりしないはず。大丈夫、大丈夫……。
両手で口を覆い、じっとその場で身じろぎ一つせず立っていると、足音が本棚の横に回り込み──。
「こちらでしたか」
聞き覚えのあるささやき声が耳に届いた。
声の方を見ると、ひょっこりと本棚の向こうから顔を出している千麻さん。
……良かったぁ。
露骨に安心した僕を見て、彼女は笑顔でこちらまで歩み寄って来る。
「申し訳ございません。お手間をお掛けして」
「ううん。大丈夫だよ」
「もう少しだけこのままお待ちくださいね」
「うん。わかった」
ひそひそ声で短い会話を終えた千麻は、軽く会釈するとまた本棚の向こうに消えていく。
でも、本当に緊張した。
ホラー映画で襲われる人って、きっとこんな感じなんじゃないかな。
でも、お弁当箱を返すのに、毎週これを経験するのは流石に辛い。次回は別の方法にしてもらったほうがいいかも。
そんな事を思いながら、僕は再び足音に注意をしながら、ただ静かに時を待つことにしたんだ。
◆ ◇ ◆
あれから更に時間が過ぎ。
「後は私が戸締まりしますから。先に上がってください」
「はい。先輩、お疲れ様でした!」
「ええ。では、また」
元気な彩瀬さんと落ち着いた千麻さんのやり取りが終わると、図書室の扉が閉じる音がした。
しばらく図書室を包んだ沈黙。
そして。
「優汰君。出てきても大丈夫ですよ」
そんな控えめな千麻さんの声がした。
ふぅ……。
やっと終わった。長い三十分だった。
胸を撫で下ろし、リュックを背負い直した僕は本棚の裏から出ると、受付の方から歩いてきた微笑む千麻さんと向かい合う。
「お待たせしてすいません」
「大丈夫だよ。お弁当箱は今返したほうが良いかな?」
「そうですね。では、あちらに」
彼女に促され、僕は一緒に並んで受付に向け歩き出した。
「それで、お味はいかがでしたか?」
「うん。すごく美味しかったよ」
「そうでしたか。良かった……」
隣で不安げな顔を見せた千麻に笑顔を返すと、心底安心した表情になり胸をなでおろす。
「でも、ハンバーグもかなり手が込んでいたし、作るのにかなり時間掛からなかった?」
「はい。ですがご安心くださいね。私は楽しんで料理しておりましたし、苦にはなっておりませんから」
答えるだけでなく、先にこうやって気遣ってくれる千麻さんは流石だと思う。
ここまで言ってもらってるのに、それでも大変だよねなんて言うのはもっと気を遣わせるだけ。余計な心配は口にしないようにしよう。
受付に着いた僕は、カウンターにリュックを置くと、お弁当箱の包みを取り出す。
千麻さんも足元に置いていたであろう鞄を手にすると、並べてカウンターに置いた。
「本当にありがとう。お弁当箱を洗って返せなくてごめんね」
「構いませんよ。その代わり……こうやって二人でいられますから」
僕がお弁当箱を差し出すと、ほんのり顔を赤らめた千麻さんが、はにかみながらそれを受け取る──はずだった。
手渡そうとした瞬間、互いの手が触れる。
それに驚いて僕が思わず手を引くと千麻さんも思わず手を離した。
支える相手がいなくなり、いきなり重力に惹かれ落ちるお弁当箱。
しまった!
とっさに両手を伸ばして、なんとかカウンターに落ちる前にお弁当箱を掴んだんだけど、一瞬遅れて千麻さんの両手が僕の両手に重なった。
思わず顔を上げると、顔を真っ赤にしたまま目を丸くしている千麻さん。だけど、お弁当箱が落ちるのが怖かったのか。手を離そうとしない。
ぎゅっと力強く握られた手に伝わる温もりが、彼女と手を繋いでいるって強く感じさせてくる。
こ、これって、このままでいいの?
ううん。よくないよね?
「ち、千麻さん?」
「……あ。も、申し訳ございません!」
思わず疑問符付きで彼女の名前を呼ぶと、はっとした千麻さんが慌てて手をどけると、胸の前で手を組んだまま恥ずかしそうに俯いてしまう。
そのまま、ゆっくりと上目遣いでこっちを見る千麻さん。
眼鏡の下の潤んだ瞳が、何かを訴えようとしてるようにも見える。でも、彼女は何も言わない。
そして、恥ずかしさで赤面する僕もまた、この状況に何も言えなくなっていた。
ど、どうしよう? 何か言われるのを待ったほうがいいのかな?
それとも僕から話しかけるべき?
未だお弁当箱を返せないまま沈黙し、カウンター越しに見つめ合う僕ら。
え、えっと。こ、こういう時は……。
僕が困惑していると。
ガチャガチャッ
突然、図書室の扉を開けようとする音が耳に届いたんだ。




