第5話 指揮棒なきコンダクター
「う、うわあああッ!?」
絶叫が響いた。
目の前で、竜人帝国の護衛兵が一人、紫色の光に触れた。
瞬間、彼の自慢の赤き鱗がドロドロに融解し、肉体が「泥」へと変わっていく。熱も痛みもなく、ただ物質としての定義を書き換えられたかのように、彼は床の水たまりとなって消滅した。
「ヒッ……!? なんだこれは、防御結界が効かんぞ!」
「魔法を撃つな! 吸われるぞ!」
阿鼻叫喚の地獄絵図。
大陸の支配者たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
あの傲慢だったグラウ将軍でさえ、顔面蒼白で部下を盾にして後退していた。
「チッ、なんだありゃあ! 魔力じゃねえ、生き物か!?」
ザラフが僕の襟首を掴んで引きずりながら、悪態をつく。
彼の言う通りだ。
床から噴き出した紫色の奔流は、まるで意志を持つ触手のようにうねり、魔力を持つ者――つまり魔術師たちを優先的に狙って襲いかかっていた。
(……解析完了)
僕の眼には、その「ルール」が見えていた。
『対象:魔力濃度ランクC以上』
『行動:追尾および同化』
これは、高濃度の魔力を持つ者を喰らって成長する、自律型の捕食術式だ。
だから、慌てて強力な防御魔法を展開したエリートほど、真っ先に餌食になる。
「――そこだ、アルミナ!」
僕はザラフの腕を振りほどき、叫んだ。
前方で、光の王女アルミナが逃げ遅れた文官を庇い、杖を構えていた。
彼女の周囲に、極大の光壁が展開される。
「来ないで……! 聖光よ、彼らを拒絶なさい!」
ダメだ。それが一番まずい。
彼女の強大な魔力は、暗闇で松明を振るようなものだ。
紫の触手が、歓喜するように鎌首をもたげ、アルミナの光壁へと殺到する。
「やめろ、結界を解け!」
僕の声は、爆音にかき消される。
触手が光壁に触れた。バギィッ、と嫌な音がして、絶対防御のはずの光があっさりと食い破られる。
「え……っ?」
アルミナが凍りつく。死が、鼻先まで迫る。
――間に合え。
僕は走りながら、足元に落ちていた金属製の水差しを蹴り上げた。
狙いは、アルミナの杖の先端。
カーン! と甲高い音がして、彼女の手から杖が弾き飛ばされた。
同時に、展開されていた光壁が霧散する。
「きゃっ!?」
魔力を失った瞬間、紫の触手は標的を見失い、アルミナの金髪を数センチかすめて虚空を薙いだ。
「な、何を……!」
尻餅をついたアルミナが、怒りの形相でこちらを見る。
僕は彼女の腕を掴み、無理やり立たせた。
「礼は後だ! 死にたくなければ魔術を使うな!」
「でも、防がないと……!」
「防ぐんじゃない、『逸らす』んだ! ザラフ、右の柱だ!」
僕は背後の狼男に指示を飛ばした。
「あぁ!?」
「その柱をへし折って、あの触手の進路に投げろ! 魔術強化は使うな、筋力だけでやれ!」
ザラフは一瞬目を丸くしたが、すぐにニヤリと笑った。
「無茶を言いやがる……だが、そいつは得意分野だ!」
ザラフが唸り声を上げ、大理石の支柱に体当たりをかました。
ドゴォォォン!
轟音と共に、太い石柱が根元から砕け、倒れてくる。
落下した瓦礫が、迫りくる紫の奔流の上に覆いかぶさった。
物理的な質量。
魔力を持たないただの石塊。
紫の光はそれを「捕食対象」と認識できず、進路を塞がれて行き場を失い、液状になって四散した。
「……効いたぞ」
ザラフが拳を鳴らす。
「魔術は通じねえが、物理攻撃なら通じるってか」
「あいつは魔術式で動いてる。想定外の物質には反応できないんだ」
僕は議場全体を見渡した。
出口は二つ。だが、メインゲートは瓦礫で塞がれている。残るは演壇の裏にある貴賓用通路だけだが、そこへ至る道は紫の海に沈んでいる。
どうする?
全員助けるのは無理だ。だが、ここにいる主要メンバー(こま)を失えば、世界は混乱して終わる。
(……指揮するしかないか)
僕は腹を括り、大きく息を吸い込んだ。
「おい、そこの竜人たち! 炎を吐くな、床を熱して上昇気流を作れ!」
パニックになっていた帝国の兵士たちが、ギョッとして僕を見る。
「は、あぁ!? 無属性のガキが命令すんじゃ……」
「死にたいなら続けろ! 生き残りたい奴だけ聞け!」
僕の怒号が、爆音を切り裂いた。
アルミナが、ザラフが、そして各国の代表たちが、呆気に取られて僕を見る。
「あの紫の光は『濃い魔力』を追う! 高出力の攻撃は自殺行為だ! いいか、魔力出力は全員『ランクE(生活魔法級)』まで落とせ!」
僕は手で合図を送る。
「竜人部隊は後方へ熱風を送れ! 煙幕を作って視界を切る!」
「光国部隊は『屈折率』だけ上げろ! 光で幻影を作って囮にしろ!」
「獣人は瓦礫を運んで壁を作れ! 物理防壁だ!」
誰も動かない。
常識外れの命令に、思考が追いついていないのだ。
「――やれッ!!」
その時、最初に動いたのはアルミナだった。
彼女は杖を拾い上げ、唇を噛み締めながら叫んだ。
「……やりなさい! 彼の言う通りに!」
「で、殿下!?」
「今の私たちには、状況が見えていない。でも……彼には見えている! 従いなさい!」
その言葉が引き金になった。
プライドの高い竜人たちも、渋々と、しかし必死に魔力を絞り、熱風を送り始めた。
光の魔術師たちがプリズムを作り出し、紫の触手を幻影へと誘導する。
その隙に、ザラフ率いる獣人たちがテーブルや柱を積み上げ、安全地帯への道を作り出す。
機能し始めた。
バラバラだった各国の力が、僕という「目」を通して一つに噛み合う。
「右舷、30度! 精霊使い、風で瓦礫の隙間を埋めろ!」
「次、左! 光量を下げろ、見つかるぞ!」
僕は戦場の中央で、指揮棒を振るうコンダクターのように叫び続けた。
魔力ゼロの最弱種族が、大陸最強の魔術師たちを顎で使っている。
滑稽で、痛快な光景だった。
やがて――。
紫の奔流をどうにか押し留め、生存者たちが貴賓用通路へと雪崩れ込む。
「……抜けたか」
最後尾で殿を務めていたザラフが、分厚い扉を叩き閉めた。
重厚な金属音が響き、紫の光が遮断される。
薄暗い通路に、荒い呼吸音だけが充満していた。
生き残ったのは、各国の代表と護衛を含めて三十名ほど。
全員が泥と煤にまみれ、へたり込んでいる。
その視線が、一点に集中した。
壁に寄りかかり、肩で息をしている灰色の少年――僕に。
「……おい」
沈黙を破ったのは、竜人帝国のグラウ将軍だった。
その顔は煤け、プライドはずたずただったが、その瞳には明確な困惑と、ある種の畏怖があった。
「貴様……一体、何者だ?」
「ただの観測者ですよ」
僕は短く答えた。
だが、もはや誰も僕を「ただの灰被り」とは見ていなかった。
光の王女も、獣の将軍も、敵対していたはずのエリートたち全員が、理解してしまったのだ。
この異常事態の中で、唯一「正解」を知っているのが、この最弱の少年であるということを。
「……まだ終わってない」
僕は扉の向こう、地獄と化した議場の方を見据えて言った。
「あれはただの『溢れ出し(オーバーフロー)』だ。本体はまだ、地下にいる」
世界を壊す何かが、目を覚まそうとしている。
僕たちの、本当の戦いはここからだ。




