第1話 灰色の観測者
この世界は「色」でできている。
燃え盛る怒りは赤く、静謐な慈愛は青く、生命の息吹は緑に輝く。
万物は八つの色素によって彩られ、その輝きこそが力の証明とされる。それが、このヴァレシア大環帯の絶対の理だ。
けれど――僕の世界だけは、いつだって灰色だった。
「おい、灰被り。またゴミ拾いか?」
背中に石が投げつけられる。鈍い痛みと共に、嘲笑が降ってくる。
振り返ると、鮮やかな「赤」の燐光を肌に纏った少年たちが立っていた。
頭部に生えた小さな角と、爬虫類のような縦長の瞳。竜人族だ。彼らは生まれながらにして火と土の適性を持ち、呼吸をするだけで周囲の気温を上げる。
対して、僕はどうだ。
古びた灰色の布を纏い、肌は土気色。魔力測定器にかければ、針はピクリとも動かない。
無属性族。
魔力を持たず、色を持たず、神に見放された種族。この「灰土境界帯」と呼ばれる不毛の地で、他種族の捨てた廃棄物を漁って生きる最下層民。
「……石を投げるなら、もっと腰の回転を使ったほうがいい」
僕は足元に落ちた石屑を拾い上げながら、淡々と言った。
「なんだと?」
「君の右足、魔力循環が膝で詰まってる。だから投げる瞬間に軸がブレて、狙いが右に逸れるんだ」
竜人の少年が、顔を真っ赤にして怒鳴る。
「魔力ゼロのクズが、知った風な口をきくな!」
次の瞬間、彼の手のひらに火球が生み出された。
熱い。殺意の熱だ。
普通なら恐怖で竦むところだろう。けれど、僕の目は「炎」を見ていなかった。
――ああ、見えた。
彼が作り出した火球の奥。燃え盛る「赤」の光の裏側に、無数の幾何学的な線が走っているのが見える。
それは情報だ。
魔力がどこから流れ、どう収束し、どの角度で放出されるかという設計図。
この世界の魔術師たちは、それを「才能」や「感覚」で処理する。
けれど僕には、それが構造として見えてしまう。
(構成式にノイズがある。赤の純度が低い。三秒後に自壊するな)
僕は逃げなかった。一歩も動かず、ただその「失敗」を見つめていた。
少年が火球を投げつけようと腕を振りかぶった、その瞬間。
火球は彼の手の中で「ボンッ」と間の抜けた音を立てて弾け、黒い煙だけを吐き出して消滅した。
「な、なんだ!? 不発!?」
「くそっ、この灰被りが何かしたのか!」
「言ったろ。循環が詰まってるって」
咳き込む彼らを置いて、僕は背を向けた。
勝ったわけじゃない。ただ、彼らの失敗が見えていただけだ。
僕には魔力がない。火も出せないし、身体能力は人間族の子供以下だ。彼らが本気で殴りかかってくれば、僕は数秒で死ぬだろう。
この眼は、戦う役には立たない。今日の糧を得る役にも立たない。
ただ、世界の「隙間」が見えるだけだ。
僕の名前はレイ。レイ・アトリバル。
後に世界をひっくり返すことになる男は、今はまだ、ただのゴミ拾いの少年に過ぎなかった。
灰土境界帯の夜は早い。
大陸の中央文明圏から捨てられた魔術廃棄物の山が、月明かりの下で不気味なシルエットを描いている。
僕の住む集落は、そんなゴミ山の麓にある。ボロ布と廃材で作られたテントが寄り添うだけの、地図にも載らない場所だ。
「レイ、今日の収穫は?」
声をかけてきたのは、集落の長老だった。全身の皮膚がひび割れ、魔力欠乏症で片目の視力を失っている。
「これだけ。旧式の魔力コンデンサが二つ。まだ微弱だけど『青』が残ってるから、水くらいは作れると思う」
「そうか……。よくやったな、レイ」
長老は震える手でコンデンサを受け取り、悲しげに僕を見た。
「お前は不思議な子だ。魔力を持たぬのに、なぜ埋もれた魔石の場所がわかる?」
「……光って見えるんだよ。みんなとは違う光り方だけど」
嘘ではない。
僕には、廃棄物の中に残った「まだ死んでいない構造式」が、暗闇の中の蛍火のように見えるのだ。
「レイよ。お前はいつか、ここを出ていきなさい」
「どうして? 僕を受け入れてくれる場所なんて、他にはないよ」
「いいや。この土地はもう死んでいる。……それに最近、妙な気配がするのだ。風の味が変わった」
長老の言葉に、僕はふと空を見上げた。
空はいつも通りの、曇った鉛色だ。
だが――僕の眼には、違って見えた。
空のずっと高いところに、巨大な「亀裂」が走っている。
まるでガラスに入ったヒビ割れのように、大気中の魔力色素が不自然に歪み、そこから何かが漏れ出している。
その色は、見たこともないほど毒々しい「紫」だった。
(……なんだ、あれは。自然現象じゃない)
雲の流れでも、魔力潮の満ち引きでもない。
誰かが意図的に、空に「式」を描いている。
「長老、みんなを起こしたほうがいい」
僕は立ち上がった。背筋に冷たいものが走る。
「逃げなきゃ。空が、落ちてくる」
その直後だった。
――キィィィィィィィン。
耳鳴りのような高周波音が世界を叩いた。
次の瞬間、上空の「亀裂」が弾けた。
降ってきたのは雨ではない。
光だった。
粘り気を帯びた、毒々しい紫色の光の雨。
それが地面に触れた瞬間、物理法則が狂った。
「ぐ、あ……ッ!?」
すぐ隣にいた長老の体が、風船のように膨れ上がった。
皮膚の下で血液が沸騰し、目玉が飛び出し、体中の血管が紫に発光する。
「あ、が……レイ、に、げ……」
言葉は続かなかった。長老の体は内側から弾け飛び、紫色の結晶となって四散した。
「な……」
悲鳴を上げる暇もなかった。
集落のあちこちで、同じことが起きていた。
テントから飛び出してきた無属性族の人々が、光の雨を浴びた瞬間に変質していく。
ある者は炎に包まれて炭になり、ある者は体が泥のように溶け崩れ、ある者は影だけに変わって地面に張り付く。
色素暴走。
体内の魔力が外部の干渉によって制御を失い、肉体を崩壊させる現象。だが、こんな規模のものは聞いたことがない。
「うわあああああッ!」
「助けて! 体が、体が熱い!」
地獄だった。
慣れ親しんだ隣人が、昨日パンを分けてくれたおばさんが、ただの肉塊と光の飛沫に変わっていく。
僕は走った。
なぜ僕だけが無事なのか、考える余裕もなかった。
ただ、降り注ぐ紫の雨を避け、燃え上がる廃材を飛び越え、集落の外へ。
(違う。これは災害じゃない)
走りながら、僕の「眼」は無意識に解析を続けていた。
降り注ぐ光の雨。その一本一本に、緻密な「記述」が施されている。
『対象:魔力保有体』
『命令:強制励起および構造分解』
『範囲:E-7地区全域』
これは実験だ。
誰かが、この集落をモルモットにして、新兵器のテストをしている。
僕が無事なのは、僕が「魔力保有体」ではないからだ。無属性である僕だけが、この殺戮のプログラムから除外されている。
集落の端までたどり着いたとき、僕は足を止めた。
小高い丘の上に、人影があったからだ。
夜闇に紛れるような黒いローブ。顔は見えない。
だが、その男が右手を軽く掲げると、空の亀裂がゆっくりと閉じていくのが見えた。
「……感度良好。初期値としては悪くない」
男の声が、風に乗って聞こえた。
人の死を、数字としてしか見ていない声だった。
男は眼下に広がる地獄――かつて僕の故郷だった場所を一瞥もしないまま、手元のクリスタルに何かを記録している。
「待てッ!」
僕は叫んだ。喉が裂けそうだった。
恐怖よりも先に、理解できないほどの怒りが湧き上がっていた。
「お前がやったのか! みんなを、実験に使ったのか!」
黒衣の男が、ゆっくりとこちらを向いた。
フードの奥から、冷ややかな視線が僕を射抜く。
「……ほう。生き残りがいたか」
男が指先を僕に向ける。
それだけで、空気が凍りついた。圧倒的な死の予感。
殺される。
だが、男はすぐに指を下ろした。
「ああ、無属性族か。……なるほど、ゴミには『色』が反応しないというわけだ。サンプルとしての価値もない」
男は興味を失ったように背を向けた。
僕の命など、殺す手間をかける価値すらないと言わんばかりに。
「忘れろ、少年。これは時代の進化に必要なプロセスだ」
男の姿が、陽炎のように揺らいだ。転移魔術だ。
待て、逃げるな。
僕は地面を蹴ろうとしたが、足が震えて動かなかった。
「……進化だと?」
燃え落ちる集落。灰になって消えた長老。
これが進化?
ふざけるな。
男が消える直前、僕の眼は捉えていた。
男が展開した転移魔術の構成式の端に、小さな紋章が刻まれているのを。
それは、大陸中央にある巨大な国際機関の紋章に似ていた。
男は消えた。
後に残されたのは、紫色の炎に焼かれる廃墟と、ただ一人の「灰色の観測者」だけ。
僕は灰を握りしめた。
熱い。痛い。
でも、この痛みだけが、僕が生きていて、彼らが確かにここにいた証だった。
「……忘れない」
僕は焼けた大地に誓った。
僕には力がない。魔力もない。
けれど、僕には「見える」。
お前たちが隠した魔術の継ぎ目も、嘘も、その傲慢な計画の構造も、全部見つけ出してやる。
最弱のゴミが、世界の設計図を書き換えてやる。
僕は立ち上がった。
目指す場所は決まった。大陸の中心、あらゆる魔術師が集う場所。
中立都市〈ルミナ・ヴィス〉。
そこなら、あの男の手がかりがあるはずだ。
灰色の少年は歩き出す。
その背中には、まだ何の色も乗っていない。だが、その瞳だけは、世界の深淵を静かに見据えていた。




