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第八話 神の復讐劇、開幕

『―――奴の、その、くだらない芸術家としてのプライドを、完膚なきまでに、叩き潰すぞ』


 聖女アイリスの脳内に叩きつけられたのは、もはや神託ではなかった。

 それは、自らの聖域を汚された一人の『神』による、純粋で、底なしの私怨に満ちた、復讐の宣誓だった。


(…叩き潰す…?)


 アイリスは、アヴァロン大使館の執務室へと続く、大理石の廊下の真ん中で、呆然と立ち尽くしていた。

 ほんの数分前まで、彼女の頭の中は、捕らえられたシルフィをどうやって取り戻すか、そして、怒り狂う大使をどうやってなだめるかという、極めて現実的で、しかし絶望的な外交問題でいっぱいだったはずだ。

 だが、今、彼女の脳内を支配しているのは、それらとは比較にならないほど、巨大で、理不尽で、そして、どこまでも個人的な、神の怒りの奔流だった。


「…アイリス様? どうかなさいましたか?」


 供の騎士が、心配そうに彼女の顔を覗き込む。

 アイリスは、はっと我に返ると、力なく首を横に振った。

「…いえ、何でもありません。行きましょう。大使が、お待ちです」

 彼女は、自らの心を、分厚い氷の壁で覆った。

 今は、目の前の問題に集中しなければならない。

 神の、子供のような癇癪に付き合っている暇はないのだ。

 そう、彼女は、固く決意した。

 その決意が、数時間後には、木っ端微塵に砕け散ることになるとも知らずに。


 ◇


 アヴァロン大使との交渉は、地獄だった。

 アイリスは、聖女としての威厳を総動員し、シルフィの行動に一切の敵意がなかったこと、全ては看板シャッフル事件が引き起こした不幸な偶然であったことを、涙ながらに(半分は、本心からの涙だった)訴えた。

 大使は、氷のように冷たい表情を崩さなかったが、最終的には、国王からの正式な謝罪と、「完璧な芝生の育て方」に関する王家の秘伝の書(テオがそれっぽく偽造したもの)を献上するという条件で、しぶしぶシルフィの身柄の引き渡しに合意した。


 心身ともに疲れ果て、魂の抜け殻のようになったアイリスが、解放されたシルフィ(相変わらず、何が起きたのか全く理解しておらず、大使館の庭で食べた木苺の味について嬉しそうに語っていた)の手を引いて王城に戻ってきた時、彼女を待っていたのは、国王レジスからの、緊急の召喚だった。


 玉座の間は、戦場のような緊張感に包まれていた。

 国王は、玉座で頭を抱え、財務大臣は、血の気の失せた顔でそろばんを弾き、騎士団長アルトリウスは、苦虫を噛み潰したような顔で、壁の戦況図を睨みつけている。

「…アイリスか。よく戻った。…アヴァロンの件、ご苦労だった」

 国王は、疲弊しきった声で、言った。

「だが、休んでいる暇はない。新たな、そして、より深刻な問題が、我々を待っている」

 国王は、アイリスに、この数時間で王国を襲った、混沌の全てを語った。

 自我に目覚めた案山子(ダミー人形)

 シャッフルされた看板。

 入れ替えられた荷札。

 そして、王国全土を蝕む、マナ通信網の謎の不調。

 そして、犯人が残した、挑戦状。


「―――トリックスター・ドミノ」


 国王は、その名を、忌々しげに、口にした。

「正体も、目的も、何も分からん。だが、このまま、奴の、悪趣味ないたずらを放置しておけば、王都の機能は完全に麻痺するだろう。アヴァロンとの関係も、いつ、最悪の事態に発展するか…」

 国王は、玉座から立ち上がると、アイリスの前に、進み出た。

 その顔には、一国の王としての、苦渋の決意が浮かんでいた。

「聖女アイリスよ。そして、その、分隊員たちよ。王の名において、命ずる」

 彼の、重々しい声が、玉座の間に、響き渡る。

「―――愉快犯『トリックスター・ドミノ』を、速やかに捕縛し、王都の秩序を、取り戻せ!」


 アイリスは、その、あまりに真っ当な王命に、深く頭を下げた。

(…よかった。これで、神様も、ようやく本腰を入れてくださるはず…)

 彼女の、その、淡い期待。

 それを、嘲笑うかのように、脳内に、あの不遜な声が響いた。

『フン。捕縛、だと? 面白くない。実に、面白くないな』

(神様!? ですが、国王陛下のご命令は…!)

『それは、表向きのクエスト目標だ。俺が、お前に与える、真のクエスト目標は、違う』

 ノクトの声には、悪魔的な、歓喜の色が、浮かんでいた。

『奴は、自らを「混沌の芸術家」と、名乗った。そして、俺の、神聖なる聖域を、汚した。…ならば、こちらも、芸術には芸術で応えてやるまでだ』

 アイリスは、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。

『奴の、その、計算され尽くした、ちっぽけな混沌など、本物の混沌の前では、児戯に等しいということを、教えてやる。…どちらの混沌が、より上質で、より予測不能か。奴と俺の、代理戦争だ』

 それは、もはや、王国の平和のための戦いではなかった。

 ただ、一人の『神』の、復讐劇。

 そして、プライドを懸けた、悪趣味な、ゲームの始まりだった。

『―――これより、「カウンターカオス作戦」を開始する。お前は、この、壮大な不協和音の指揮者だ。せいぜい、俺を、楽しませてみせろ』


 ◇


 その日の、午後。

 アイリスは、地獄の中間管理職として、その困難な任務に、取り掛かっていた。

 分隊員の、招集である。

 彼女は、まず、宗教施設と化した訓練場で、案山子(ダミー人形)に「魂の在り方」を説いている、ギルの元へと向かった。

「ギル! 緊急の任務です! 王国の危機です!」

「姉御! ですが、この、哀れなる魂たちの、教育が…!」

「その愉快犯は、王都を混乱させ、人々を不安に陥れています。そして何より…」

 アイリスは、意を決して、彼の心を最も確実に動かすであろう、嘘を口にした。

「その者のいたずらは、この私を…聖女である私を、そして、その私を守るあなたの名誉を、著しく傷つけるものです!」

「な、なんでありますか、それはあああああっ!!!」

 ギルの、単純な脳は、「姉御の名誉」という、パワーワードに、完全に、着火した。

「考えてもみてください、ギル! 自我に目覚めた案山子(ダミー人形)が現れたのは、あなたが教官を務める訓練場です! 看板が入れ替わり、私が守るべき王都の民が混乱している! これは、もはや単なるいたずらではありません! 我々アイリス分隊に対する、明確な挑戦状なのです! あの者は、私たちがこの程度の混沌すら収拾できない、無力な存在だと、嘲笑っているのです!」

「姉御を、そして姉御を守る俺を、コケにするとは! 万死に値するでありますぞ! 行きましょう、姉御! その、不埒な輩の顔面を、原型が分からなくなるまで粉々にしてくれるであります!」


 次に、彼女は、街中で、芸術テロを繰り広げている、ジーロスの元へと向かった。

「ジーロス! 王からの、勅命です!」

「ノン! 僕は今、この、退屈な街に、美の革命を起こしている最中なのだよ! 国王であろうと、僕のアートを、邪魔する権利はない!」

「…ドミノと名乗る、芸術家が、あなたに、挑戦状を叩きつけてきました。『ジーロスの芸術は、古い』、と!」

「な、なんだと…!? この、僕の、常に進化し続ける、最先端のアートを、古い、だと…!?」

 ジーロスの、天よりも高いプライドは、その、アイリスのでっち上げた、真っ赤な嘘によって、完全に、炎上した。

「面白い! 受けて立ってやろうじゃないか! その、ドミノとかいう、田舎者に、真の芸術とは何かを、教えてやる!」


 最後に、彼女は、賭博場と化した、テオの情報屋へと、向かった。

「テオ! あなたにも、任務です!」

「ひひひ…! 悪いが、隊長。俺は今、この、世紀の大イベントで、大儲けしている最中でね。ボランティアに付き合う暇は、ねえんでさあ」

「…国王陛下が、おっしゃっていました。この事件を解決した真の英雄には、金貨一万枚の報奨金を、与える、と」

「……いちまん、まい…?」

 テオの、金貨を数える手が、ぴたり、と止まった。

「…ひひ…。ひひひひひ…! 行く! 行くぜ、隊長! 王国の平和のためなら、この俺様、いつでも、命を懸けまさあ!」


 こうして、アイリスは、それぞれの、欲望と、プライドと、忠誠心を、巧みに(そして、不誠実に)煽り、史上最も厄介な分隊を、再び一つに束ねた。

 彼女は、作戦会議室で、集まった仲間たちを前に、深いため息をついた。

 そして、脳内に響く、悪魔の囁きを、そのまま、告げる。

「…皆さん。これより、愉快犯ドミノを捕らえるための、作戦を開始します。…作戦名は、『混沌には、より大きな混沌を』、です」

 仲間たちの、きょとんとした顔。

 聖女の、長い心労の日々が、再び、幕を開けた。

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