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第六話 感情の洪水

 聖女アイリスが、自らが率いる混沌の化身たちと、彼らが引き起こした国際問題の板挟みで、もはや感情さえも失いかけていた、まさにその頃。

 王城の最も高い塔の頂では、一人の『神』が、全く別の、しかし彼にとっては同等以上に深刻な問題に直面し、その眉間に深い皺を刻んでいた。


「…遅い」


 ノクト・ソラリアは、特注の椅子に深く身を沈めたまま、低い声で呟いた。

 彼の視線は、巨大な魔力モニターの片隅に表示された、小さなプログレスバーに釘付けになっていた。


【ダウンロード中:99%】


 最後の1%。

 その、希望に満ちたはずの数字が表示されてから、すでに一時間以上が経過している。

 プログレスバーは、まるで凍りついたかのように、微動だにしない。

 彼の、完璧な引きこもりライフを次のステージへと昇華させるはずだった、新作MMORPG『フロンティア・ワールド・オンライン バージョン2・0』。

 その広大な新世界への扉は、彼の目の前で、固く閉ざされたままだった。


「…一体、何が起きている…?」


 ノクトは、苛立ちを抑え、冷静に原因究明へと思考を切り替えた。

 彼は、遠見の水盤を起動し、自らの生命線であるマナ通信網の全体図を映し出す。

 そこに広がっていたのは、信じがたい光景だった。

 王国全土を網の目のように覆う、青白く輝くマナの流れ。

 その、滑らかであるべき光の川の、至る所が、まるで汚泥のように淀んでいたのだ。

 それは、物理的な障害や、魔術的な妨害とは、明らかに質の違う異常だった。

 通信網の、いくつかの重要な中継点(ノード)が、奇妙な色に染まっている。

 ある場所は、淡いピンク色に明滅し、またある場所は、どす黒い藍色に沈んでいた。


「…なんだ、これは…?」


 ノクトは、解析の焦点を、一つのピンク色の中継点(ノード)に絞った。

 そこは、王都の商業地区と王城を結ぶ、最も重要な中継クリスタルの一つだった。

 本来であれば、膨大な量の情報が超高速で行き交う、王国で最も忙しい交差点のはずだ。

 だが、そのクリスタルは、今、本来の仕事をする気など、さらさらないようだった。

 クリスタル全体が、幸福感に満ちた、温かいオーラに包まれている。

 そして、その内部からは、まるで甘い歌声のような、微弱な魔力の振動が、ノクトにまで伝わってきた。

(…なんだ、この感覚は…。まるで、このクリスタルが、『もう働きたくない…この幸せな気持ちのままでいたい…』と、言っているかのようだ…)

 本来、寸分の狂いもなく情報を次の中継点(ノード)へと中継すべきクリスタルが、まるで仕事を放棄して恋人気分に浸っているかのように、受け取った情報を全て、自らの内部に溜め込んでいた。

 サボタージュだ。


 次に、ノクトは、藍色に沈む別の中継点(ノード)へと、視点を移した。

 そこは、騎士団の訓練場と、王宮の防衛システムを結ぶ、軍事用の重要回線だった。

 そのクリスタルは、もはや光を放ってすらいない。ただ、深い海の底のような静寂と、絶望に満ちた魔力の残滓だけが、そこにあった。

(…こいつは、泣いているのか…?)

 ノクトの脳裏に、信じがたい仮説が浮かぶ。

 クリスタルから伝わってくるのは、「もうだめだ…全ては虚しい…どんな情報を伝えたところで、世界は何も変わらない…」という、魂の抜け殻のような、完全な諦観。

 クリスタルは、絶望のあまり、自らの機能を、完全に停止させてしまっていた。


 ノクトは、ようやく、この異常事態の、狂った本質を理解した。

 愉快犯ドミノ。

 奴が仕掛けた第三のいたずらは、単なるデータ攻撃ではなかった。

 彼は、「無機質な情報通信に、人間らしい感情の輝きを」という、独善的な芸術思想に基づき、純粋な「感情」そのものを、魔術的なデータへと変換し、マナ通信網に垂流していたのだ。

「初めて恋をした瞬間の、胸が張り裂けそうな喜び」

「絶望の淵で見た、一筋の希望の光」

「愛する者を失った、永遠に続くかのような悲しみ」

 それらの、あまりに高純度で、あまりに高密度な感情の奔流。

 事務的な情報を処理するようにしか設計されていない、無機質な魔導クリスタルたちが、その、あまりに人間的な情報の洪水に「感染」し、次々と、感情的になって、職務を放棄していたのだ。


「…ふざけるな…」


 ノクトの、乾いた唇から、低い、唸り声が漏れた。

 彼の、ゲーマーとして、そして、論理の信奉者としての、魂の全てが、この、あまりに非効率で、あまりに非論理的で、そして、あまりに自己満足に満ちた芸術行為を、拒絶していた。

 人々の心を豊かにするはずの「感情」が、文明の根幹であるインフラを破壊する。

 これ以上の、皮肉はない。

 これ以上の、冒涜はない。

 ノクトは、水盤に映る、まるで感情の坩堝と化したマナ通信網の惨状を、憎悪に満ちた目で見つめた。そして、吐き捨てるように、呟いた。


「…俺の神聖な回線が、三流詩人の、感傷で汚染されている…!」


 彼の怒りは、静かだった。

 だが、その静けさこそが、彼の怒りの深さを物語っていた。

 ビーッ、ビーッ、ビーッ。

 彼の思考を遮るように、魔力モニターから、無慈悲な電子音が鳴り響く。

 プログレスバーは、ついに、その動きを完全に停止し、画面には、赤い、致命的なエラーメッセージが表示されていた。


【ダウンロード失敗:通信環境が致命的なエラーを検知しました。回線を確認してください】


 ノクトの、完璧な引きこもりライフに、初めて、明確な「敗北」の二文字が、刻まれた瞬間だった。

 彼の、ゲーマーとしてのプライドが、音を立てて、崩れ落ちていく。

 ノクトは、ゆっくりと、立ち上がった。

 ダウンロードが終わらないのなら、せめて、ポテチでも食べて、気分を紛らわすしかない。

 それが、今の彼にできる、唯一の、ささやかな抵抗だった。

 彼は、今日届くはずだった、至高の戦利品へと、その手を伸ばす。

 その、最後の希望さえもが、数分後には、無慈悲に打ち砕かれる運命にあることを、彼はまだ、知らなかった。

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