第三十一話 次なるクエスト
『史上最悪の後片付けクエスト』という名の、悪夢のような茶番劇が終わりを告げてから、数日が過ぎた。
王都ソラリアは、物理的には、元の、平和な姿を取り戻した。
だが、その平和は、聖女アイリス・アークライトの心に、安らぎをもたらしはしなかった。
彼女の執務机の上には、以前よりもさらに高い、絶望的な標高を誇る、新たな書類の山脈が築き上げられていたのだ。
『提出書類:【真の英雄育成計画】新・訓練メニュー承認申請書』
『芸術的企画書:【王都美化計画バージョン2・0】~醜さを纏った、真の美の、再生~』
『新規事業計画書:【宗教法人・聖女様カルト教団】設立許可申請書』
ギルの、あまりに非現実的な訓練計画。
ジーロスの、国家予算を揺るがす芸術企画。
そして、テオの、あまりに悪魔的な宗教法人設立計画。
混沌は、終わっていなかった。
それどころか、組織化され、計画書にまとめられ、より厄介な形で、再び、始まろうとしていた。
アイリスは、その、三つの巨大な混沌の、承認申請書を前に、ただ、一人、立ち尽くしていた。
(…もう、嫌です…。逃げ出したい…)
彼女の、心の叫び。
リーダーとして、仲間を率い、国を救った(ということにされている)達成感など、もはや、欠片も残ってはいない。
ただ、ひたすらに、この、終わりのない責任の連鎖から、解放されたい。
その一心だけが、彼女の心を支配していた。
彼女は、そっと、窓の外に広がる、夕焼け空を眺めた。
あの、美しい茜色も、今の彼女の目には、ただの、灰色のグラデーションにしか、見えなかった。
彼女が、深いため息をつき、自らの運命を呪った、まさにその時だった。
『―――新人』
脳内に、静かな、しかし、どこか、いつもとは違う響きを持った声が、響き渡った。
アイリスは、はっと、顔を上げた。
(神様…?)
その声には、いつものような、怠惰な響きも、不遜な響きも、なかった。
ただ、ひたすらに、静かで、真剣で、そして、どこか、新たなゲームの始まりを告げる、子供のような、純粋な期待に満ちた、声だった。
『…緊急クエストだ』
(…はい)
アイリスは、ごくりと喉を鳴らした。
どうせまた、どこかの国で、幻のポテチが発売されたのだろう。
彼女は、もはや、それを、運命として、受け入れる覚悟だった。
だが、次に続いた『神』の言葉は、彼女の、その、ささやかな覚悟を、根底から覆した。
『…ポテチでは、ない』
「……………え?」
アイリスの、口から、間の抜けた声が漏れた。
ポテチでは、ない?
この『神』が、あの、彼の生命線であり、生きがいであり、全ての行動原理であるはずの、ポテチ以外のことで、自分に、クエストを?
ありえない。
天変地異の、前触れだろうか。
アイリスが、混乱の極みにいると、ノクトの声は、絶対的な、確信に満ちた響きを帯びて、続いた。
『これより、お前に与えるのは、この世界の、運命を懸けた、本当の、メインクエストだ』
(世界の、運命…?)
『そうだ』
ノクトの声は、絶対的な、司令官の、響きを帯びる。
彼の、本当の戦いが、今、始まろうとしていた。
『先日、我々が対峙した、愉快犯ドミノ。奴が使っていた、あの、混沌の魔力。あれは、ただの、魔術ではない。世界の法則そのものに、干渉する、極めて、特殊な力だ』
アイリスは、息をのんだ。
『そして、その力の源流は、この王国が抱える、古く、そして、根深い呪いと、繋がっている』
(呪い…!? まさか、それは…!)
アイリスの脳裏に、王国に古くから伝わる、忌まわしき伝説が蘇る。
初代英雄が、魔王から受けた、子々孫々に続く執念深い呪い。
王家の血を引く者は、その身に、光と大地に見放されるという、悲劇の宿命を背負うとされている。
『その通りだ。ソラリア王家の呪い。それは、この世界に打ち込まれた、秩序の楔。だが、その楔が、今、混沌の力によって、揺らぎ始めている。…放置すれば、いずれ、より巨大な災厄を、この世界に、もたらすだろう』
ノクトの、その言葉は、アイリスにとって、天啓だった。
そうだ。
この、平和なはずの世界で、次から次へと、混沌とした事件が起きる、その、本当の理由。
全ては、この、古代の呪いが、原因だったのだ、と。
(…では、私たちは…)
『ああ。火種は、元から断つに限る。…我々の、次なるクエストは、その、呪いの、そして、混沌の、全ての始まりの場所を、突き止めることだ』
アイリスは、息をのんだ。
古代の呪いを、解く。
その、あまりに遠大で、あまりに、非現実的な、目標。
だが、ノクトの声には、一片の、迷いもなかった。
『愉快犯ドミノが、その力を得た場所。…そして、初代英雄が、魔王を封じ、忌まわしい呪いを受けた、因縁の場所。世界の法則が、歪み、あらゆる常識が、通用しない、禁断の領域。…全ての、始まりの場所』
ノクトは、静かに、しかし、確かな熱を帯びて、告げた。
『―――「混沌の源泉」。…それが、我々が、目指すべき場所だ』
彼の、そして、アイリスたちの、本当の戦いが、今、始まろうとしていた。
それは、もはや、王国を救うための、英雄譚ではない。
この世界の、根源的な歪みを、正すための、神聖な、聖戦。
そう、アイリスは、信じて疑わなかった。
その、背後にいる『神』の、真の目的が、ただ、自らにかけられた「呪い」を解くためだとは、もちろん、知る由もなかった。
アイリスは、立ち上がった。
その、瞳には、もはや、絶望の色はない。
ただ、絶対的な司令塔への信頼と、そして、これから始まる、未知なる旅への、確かな、決意の光だけが、燃え盛っていた。
彼女は、机の上に、山と積まれた、三つの、混沌の申請書を、見下ろした。
そして、ふっと、口元を緩めた。
(…そうですね。こんな、退屈な書類仕事をしている場合では、ありませんね)
彼女は、その、三つの申請書の、全てに、力強く、一つの、サインを、書き記した。
『―――保留。追って、検討する』
リーダーとしての、彼女の、最初の、そして、最も、的確な、決断だった。
聖女の、長い心労の日々は、終わらない。
だが、その先に、確かな「希望」の光が見えた今、彼女は、もう、一人ではなかった。
彼女は、窓の外に広がる、夕焼け空を、見上げた。
その、茜色の空は、彼女の、新たな決意を祝福するかのように、どこまでも、美しく、輝いていた。
―――そして、最後の物語が始まる。




