第三十話 神の実験結果と決意
王都ソラリアに、ようやく日常が戻ってきた。
いや、戻ってきたのは、日常という名の、新たな混沌だった。
聖女アイリスの執務机は、ギルが考案したあまりに非現実的な訓練計画書、ジーロスが提出した国家予算を揺るがす芸術企画書、そしてテオが画策する悪魔的な宗教法人設立許可申請書によって、再び物理的な標高を取り戻していた。
彼女の平穏は、やはり、この世のどこにも存在しないらしい。
だが、その混沌とした喧騒は、王城の最も高い塔までは、届かなかった。
そこは、外界とは完全に隔絶された、一人の『神』のための、完璧な聖域。
ノクトは、特注の椅子に深く身を沈め、目の前の巨大な魔力モニターに映し出された、新作MMORPGの世界に没頭していた。
回線は安定し、ポテチの供給も万全。
彼の、完璧な引きこもりライフは、ようやく、その輝きを取り戻した。
だが、彼の意識の半分は、もはや、そのゲームの世界にはなかった。
モニターの片隅で、彼がこの数週間、水面下でずっと続けていた、もう一つの、より重要な「ゲーム」の解析が、ついに完了したのだ。
(…面白い)
ノクトの口元に、いつもの、不敵な笑みが浮かんだ。
彼の目の前の、遠見の水盤には、愉快犯トリックスター・ドミノが、王都を去る際に悔し紛れに放っていった、微弱な混沌魔術のデータが、複雑な幾何学模様となって、映し出されている。
常人には、いや、この国のいかなる魔術師にも、ただのノイズとしか認識できない、その魔力の波形パターン。
だが、ノクトの、『神』の領域にある情報処理能力は、そのノイズの奥に隠された、驚くべき法則性を、完全に見抜いていた。
(これは、ただの幻術や、破壊魔法ではない。世界の、法則そのものに、僅かな「揺らぎ」を与える、極めて高度な、概念魔術だ…)
彼は、あの日の、あの、ほんの一瞬の、奇妙な感覚を、忘れてはいなかった。
自らを、この塔に縛り付ける、「魔王の呪い」。
その、絶対的な「ルール」が、ほんの僅かに、揺らいだ、あの、奇跡のような、感覚。
ドミノの、計算された混沌と、アイリス分隊の、計算不能な混沌。
その二つが衝突し、融合した瞬間、世界の法則そのものが、僅かに乱れたのだ。
(…あの、綻びは、偶然では、ない)
ノクトの、瞳が、鋭い輝きを、放つ。
(ドミノの、計算された混沌だけでは、何も、起きなかった。だが、アイリス分隊の、あの、計算不能な、純粋な混沌が、触媒として加わった瞬間。世界の法則が、乱れた…)
彼は、水盤に、新たな、解析用の魔法陣を、描き出した。
それは、彼が、これまで、決して、本気で向き合おうとはしなかった、自らの呪いの、構造解析のための、魔法陣だった。
呪いを解き、外の世界へ出る。
それは、彼にとって、自らの、完璧な引きこもりライフを、破壊しかねない、禁断の果実。
だが、今、彼の心には、初めて、その果実を、味わってみたいという、微かな、しかし、確かな好奇心が、芽生え始めていた。
(…この、混沌の、魔力の、波形パターン…。そして、俺の呪いを構成する、古代の、魔術言語…。この二つの間に、何らかの、相関関係が…?)
彼の、指先が、空中で、舞い始めた。
それは、もはや、ゲームのコントローラーを操る、指の動きではなかった。
自らの、運命という名の、最高難易度の、クソゲーに、初めて、本気で、挑もうとする、一人の、天才ゲーマーの、挑戦の、始まりだった。
彼は、自らの呪いの構造を、一つの、複雑なプログラムとして、解析していく。
そして、ドミノが残した混沌魔術のデータを、そのプログラムに干渉させるための、「チートコード」として、再構築していく。
何時間にも及ぶ、神の領域での、超絶的な、思考の応酬。
そして、ついに。
彼の脳内で、最後の、パズルのピースが、カチリ、と音を立てて、はまった。
(…なるほどな。そういうことか…)
ノクトは、一つの、驚くべき、そして、あまりに悪趣味な、結論にたどり着いていた。
自らを縛る「魔王の呪い」は、世界の法則に、絶対的な「秩序」と「安定」を強制する、一種の、古代のプログラムだった。
それに対し、ドミノの混沌魔術は、その法則に、意図的に「揺らぎ」と「不確定要素」を与える、カウンタープログラム。
だが、ドミノの混沌だけでは、力が弱すぎる。
呪いの、絶対的な秩序を、打ち破ることはできない。
だが、そこに、アイリス分隊という、予測不能な、純度百パーセントの「天然の混沌」が、触媒として加わった時。
二つの混沌は、化学反応を起こし、呪いの秩序を、一時的に「中和」するほどの、巨大なエネルギーを生み出すのだ。
(…つまり、俺の呪いを、一時的に、無効化できる可能性がある、ということか…)
だが、それには、条件があった。
アイリス分隊が、あの数日間で巻き起こしたような、大規模で、純粋で、そして、計算不能な混沌。
それと、同等か、それ以上の、混沌が、この世界に、満ち満ちていること。
それが、絶対条件。
彼の心に、ついに、決意が、固まった。
呪いを解くという、未知の可能性に、賭けてみるか。
それとも、このまま、快適な、聖域に、留まるか。
彼は、初めて、自らの意志で、外の世界へと繋がる道を、探すことを、選んだ。
それは、呪いを解くための、壮大な「実験」の始まりだった。
もはや、彼の目的は、暇つぶしでも、復讐でもない。
自らの、運命を、懸けた、最高の、ゲーム。
彼は、満足げに、頷いた。
そして、脳内の通信回路を開くと、自らの、新たな実験の、最初の、そして、最も重要な「クエスト」を、あの、哀れな、しかし、最も優秀な駒へと、下すのだった。
その頃、アイリスは、山積みの書類を前に、絶望していた。
(…もう、嫌です…。逃げ出したい…)
その、彼女の、心の叫びに、答えるかのように。
脳内に、久しぶりに、あの、不遜な声が、響いた。
だが、その声は、いつものような、怠惰な響きではなかった。
どこか、真剣で、そして、新たなゲームの始まりを告げる、子供のような、期待に満ちた、声だった。
『―――新人。…緊急クエストだ。…ポテチでは、ない』




