第二十九話 後片付けの終わり、そして…
『史上最悪の後片付けクエスト』が発令されてから、数週間が経過した。
王都ソラリアは、物理的には、元の姿を取り戻しつつあった。
いや、取り戻した、と言ってよかった。
クエスト1「彫像たちの修復」は、ギルとジーロスの、血と涙と罵り合いの共同作業の末、ついに完了した。
王都中の彫像は、そのたくましすぎる筋肉を削ぎ落とされ(魔法の塗料によって、元の姿へと戻され)、再び、歴史の教科書通りの、退屈な姿へと戻った。
だが、その修復作業の最終日、ジーロスが「ノン! このままでは、僕の芸術家としての魂が、醜さに殺されてしまう!」と絶叫し、英雄アレスター像の、その瞳の中にだけ、ほんの僅かに、キラリと輝く星の光を、光魔法で描き加えたことは、まだ誰も知らない。
クエスト2「幸運のブタの鎮魂歌」もまた、テオの詐欺師としての才能を遺憾なく発揮する形で、その幕を閉じた。
ジーロスが生み出した、あまりに神々しい聖なるブタの昇天ショーは、民衆に深い感動と、ほんの少しの喪失感を与えた。
そして、テオは、その感動のどさくさに紛れて、「公式・宝探し終了記念グッズ」を売りさばき、ショーの開催費用を差し引いてもなお、莫大な利益を懐に入れることに成功していた。
民衆は、もはや、存在しないブタを探し回ることはない。
ただ、時折、空を見上げては、「ブタ様は、今頃、天国で、幸せに暮らしているだろうか」と、遠い目をするだけだった。
そして、最後のクエスト3「絶対防御要塞の解体」。
これもまた、地獄だった。
ギルが、その怪力で、自らが積み上げた城壁を、一つ、また一つと、元の場所へと戻していく。
その、数トンの石塊を、ジーロスが、光の魔法で、ミリ単位の精度で、位置調整を行う。
「ノン! ギル! 違う! その角度ではない! あと、コンマ二度、左だ!」
「む、むううううううっ! 姉御! ジーロス殿が、俺の筋肉を、いじめるであります!」「うるさい、筋肉馬鹿! 君の、その、雑な仕事が、この城の、結界バランスを、永遠に狂わせるのだぞ!」
数日間にわたる、不毛な、しかし、極めて高度な共同作業の末、王城の外壁は、奇跡的に、元の姿を取り戻した。
財務大臣ボードワン卿は、その完璧な修復作業の完了報告を受け、安堵のあまり、三日三晩、眠り続けたという。
全ては、終わった。
愉快犯ドミノが残した混沌も、自分たちが生み出した、さらなる混沌も、全て。
王都は、物理的に、元の、平和な姿を取り戻したのだ。
聖女アイリス・アークライトは、自室のバルコニーから、その、あまりに穏やかで、あまりにいつも通りの、王都の夕景を眺めていた。
「…終わった…。本当に、終わったのですね…」
彼女の、か細い声が、夕暮れの風に、溶けていく。
長かった。
本当に、長かった。
リーダーとして、仲間を率い、神の理不尽な指令をこなし、そして、その、どうしようもない後始末まで、やり遂げた。
彼女の心には、疲労と、安堵と、そして、ほんの少しの、達成感が、温かい光のように、灯っていた。
(…これで、ようやく、私も、聖女としての、本来の職務に…)
山のような、書類仕事。
中身のない、貴婦人たちとの、お茶会。
それさえもが、今の彼女にとっては、愛おしい、平穏な日常のように思えた。
彼女は、久しぶりに、心の底から、深呼吸をした。
そして、自室へと戻り、数週間ぶりに、自らの執務机の前に、座る。
机の上は、綺麗に片付けられていた。
だが、その、あまりに綺麗すぎる机の上に、三つの、真新しい、羊皮紙の束が、まるで、新たな墓標のように、鎮座しているのを、彼女は見つけてしまった。
「……………え?」
アイリスは、恐る恐る、その、一番手前の、羊皮紙の束を、手に取った。
表紙には、ギルの、あまりに勢いのある、しかし、どこか子供のような、文字で、こう書かれていた。
『提出書類:【真の英雄育成計画】新・訓練メニュー承認申請書』
アイリスは、震える手で、その、一枚目を、めくった。
「第一項、『精神と時の部屋・ブートキャンプ』。…特殊な結界魔法を用い、訓練場内の時間の流れを、外界の百分の一に圧縮。一日で、百日分の訓練を可能にする、画期的なプログラムであります!」
「第二項、『筋肉との対話』。…先日、ダミー人形との対話に成功した経験を応用し、今度は、自らの筋肉細胞の一つ一つと、対話し、そのポテンシャルを、最大限に引き出す、精神修行であります!」
「第三項、『対・聖女様(姉御)用、模擬戦闘訓練』。…あまりに強大すぎる姉御との、万が一の戦闘に備え、姉御の、神速の剣技を、完璧に再現した、ゴーレムとの、模擬戦闘を、導入するものであります!」
あまりに、壮大で、あまりに、非現実的で、そして、あまりに、ギルらしい、狂気の訓練計画。
その、最後のページには、騎士団長アルトリウスの、血の涙で書かれたかのような、か細いサインと共に、「…聖女様の、ご承認を、切に、願う…」と、記されていた。
アイリスは、その羊皮紙を、そっと、机に戻した。
そして、二つ目の、やけに、デザイン性の高い、羊皮紙の束を、手に取る。
表紙には、ジーロスの、流麗な、カリグラフィーで、こう書かれていた。
『芸術的企画書:【王都美化計画バージョン2・0】~醜さを纏った、真の美の、再生~』
「…バージョン、2・0…?」
アイリスは、眩暈を覚えながら、その、一枚目を、めくった。
「第一章、『光と影の、再定義』。…先日、私が発見した、新たなる芸術様式、『醜さを纏った美』。それを、王都全体へと、応用する。すなわち、王城の、全ての美しい装飾を、一度、醜悪な、灰色の幻影で、覆い尽くすのだ! そして、選ばれた、真の芸術を理解する者だけが、その、内なる美を、見ることができる! なんと、哲学的だろうか!」
「第二章、『筋肉の、再評価』。…あの、筋肉馬鹿の、醜悪な彫像。あれは、確かに、醜い。だが、その、有り余る情熱には、見るべきものがあった! よって、王都の、全ての彫像に、月に一度だけ、筋肉隆々の姿へと変貌する、特殊な、変身魔法を、付与する! 驚きと、意外性こそ、芸術の、母なのだ!」
その、あまりに、前衛的で、あまりに、理解不能な、芸術計画。
その、予算の欄には、国家予算の、約半分に相当する、莫大な額が、美しい文字で、記されていた。
そしてそこには、財務大臣ボードワン卿の、「…どうか、却下してください…お願いします…」という、怨念のこもった、メモが、添えられていた。
アイリスは、もはや、何も、考えられなかった。
彼女は、最後の、そして、最も、胡散臭い、羊皮紙の束を、手に取った。
表紙には、テオの、悪魔のような笑みが、似顔絵で描かれ、こう書かれていた。
『新規事業計画書:【宗教法人・聖女様カルト教団】設立許可申請書』
「……………」
アイリスは、無言で、その、一枚目を、めくった。
「事業概要:『幸運のブタ』、及び、『聖なる昼寝』の儀式を通し、民衆の間に、自発的に生まれつつある、聖女アイリス様、及び、シルフィ様への、個人崇拝の熱狂。それを、組織化し、一つの、巨大な宗教団体として、正式に、法人化するものである」
「事業目的:一、民衆の、精神的な救済。二、王国の、安定への貢献。…そして、三、適正な、『お布施』による、健全な、教団運営と、その、利益の、一部の、国庫への還元」
その、あまりに、もっともらしい、大義名分。
そして、その、計画書の、最後のページ。
教団の、組織図。
そこには、こう書かれていた。
【教祖:聖女アイリス・アークライト】
【副教祖(眠れる森の聖母):シルフィ】
【代表理事(兼、会計責任者):テオ】
アイリスは、静かに、その、羊皮紙を、閉じた。
混沌は、終わっていなかった。
それどころか、組織化され、計画書にまとめられ、より、厄介な形で、再び、始まろうとしていた。
アイリスは、深呼吸を、一つした。
そして、脳内に響く、あの、絶対者の声を、待った。
だが、脳内は、静かだった。
塔の上の『神』は、完全に安定した回線で、満足げに、新しいゲームの世界へと、旅立っている。
彼女は、一人だった。
この、三つの、巨大な混沌の、承認申請書を前に、ただ、一人、立ち尽くしていた。
彼女の、平穏な日常は、まだ、遥か、遠い彼方にあるようだった。




