第二十八話 クエスト3『絶対防御要塞の解体』
王都ソラリアの中央広場では、地獄のような、しかし、どこか生産的な活気に満ちた二つの後片付けクエストが、それぞれのクライマックスを迎えていた。
一方は、筋肉と美学の不協和音。
激情のギルと光輝魔術師ジーロスが、互いを罵倒し合いながらも、王都中の彫像を元の(ギルに言わせれば貧弱な)姿へと修復していく、地獄の共同作業。
もう一方は、嘘と感動のスペクタクル。
不徳の神官テオが、自らの私財を投げ打って(そして新たな記念グッズを売りさばいて)、『幸運のブタ』の物語に、涙と感動の最終回を演出する、壮大な詐欺ショー。
聖女アイリスは、その二つの混沌の同時進行を、もはや魂の抜け殻のようになって、ただ見守っていた。
(…もう、これで、終わりですよね…?)
彼女は、心の底から、そう願った。
だが、彼女の脳内に響いたのは、無慈悲な、そして、どこまでも楽しげな、最後の神託だった。
『―――さて、と。いよいよ、メインイベントの時間だな』
ノクトの声は、最高の娯楽を前にした、子供のように弾んでいた。
(メ、メインイベント…!?)
『ああ。クエスト3、「絶対防御要塞の解体」。…あの筋肉馬鹿が、お前の部屋の周りに築き上げた、あの醜悪な壁を、元に戻す。…それだけだ』
それだけ、では、なかった。
アイリスは、絶望的な請求書の、最後の項目を、思い出していた。
王城の外壁を、物理的に引っこ抜いてきたことによる、城全体の結界バランスの崩壊。
その、天文学的な、修復費用。
アイリスは、震える声で、尋ねた。
(…神様。あの壁は、ただ、戻せばいいという、ものでは…)
『その通りだ』
ノクトの声が、悪魔的な、歓喜の色を帯びる。
『クリア条件は、ただ戻すだけではない。「古代の防衛術式を、一ミリの狂いもなく、完璧に、再構築すること」。…さて、この、最も繊細で、最も芸術的な作業。誰に、やらせるべきかな?』
アイリスの脳裏に、最悪の、組み合わせが、浮かび上がっていた。
◇
「―――ノンッ! 断じてノンだ! この僕に、あの筋肉馬鹿が作り出した、醜悪なガラクタの後片付けをしろと!? それも、あの脳筋と、共同でだと!? 芸術に対する、最大の冒涜だ!」
王城の東棟、アイリスの私室の前。
そこには、もはや、美しい部屋の面影はなかった。
ギルが、王城の各地から引っこ抜いてきた、巨大な城壁のブロックが、無造作に積み上げられ、一つの、醜悪な要塞を、形成している。
その、絶望的な光景を前に、ジーロスは、扇子で顔を覆い、本気で、この世の終わりのような顔をしていた。
「姉御! このギル、姉御の寝室を守るため、ただ、一心不乱に、壁を積み上げただけであります! どの壁を、どこから持ってきたかなど、全く、覚えておりやせん!」
ギルは、悪びれる様子もなく、胸を張った。
彼の、あまりに清々しいまでの、記憶喪失。
「…あなたたち、二人で、やるのです」
アイリスは、もはや、感情を失った虚無の表情で、告げた。
「物理的な、力仕事は、ギルが。そして、術式の、精密な再構築は、ジーロスが、担当しなさい」
「だから! なぜ、この僕が、土木作業員の真似事を?!」
「これは、ただの土木作業では、ありません」
アイリスは、壁の一点を、指さした。
そこには、古代のルーン文字が、青白い光を放ちながら、複雑な紋様を描いていた。
「これは、初代英雄が編み出したという、王城を守る、大結界の一部。…この、古代の防衛術式を、一ミリの狂いもなく、完璧に、再構築すること。それが、あなたに与えられた、芸術的な、任務です」
「…古代の、防衛術式…?」
その言葉に、ジーロスの、芸術家としてのアンテナが、ぴくりと反応した。
「…ふむ。確かに、この、寸分の狂いもない、幾何学的な紋様の配置…。無駄がなく、洗練されている。…まあ、僕の芸術には、遠く及ばないが、古代人の仕事としては、評価に値する、かもしれない…」
彼は、まんざらでもない、という顔で、その術式を、鑑定し始めた。
アイリスは、その隙を、見逃さなかった。
「そして、ギル。あなたは、ジーロスが、その神業を披露するための、土台となりなさい。彼が、術式を再構築する間、この、数トンの石塊を、一ミリの狂いもなく、完璧な位置で、支え続けるのです。あなたの、その、鋼鉄の筋肉でなければ、到底、不可能な、神業です」
「おお! 俺の筋肉が、ジーロス殿の芸術の、土台に! なんと、名誉なことでありましょうか!」
アイリスの、絶妙な、口車。
筋肉と、美学。
二人の、最も、くすぐられて嬉しい部分を、的確に刺激された、単純な英雄たちは、しぶしぶながらも、その、地獄の共同作業を、開始せざるを得なかった。
その、全てのやり取りを、少し離れた場所から、財務大臣ボードワン卿が、血の気の失せた顔で、見守っていた。
彼の、唯一の仕事は、この、悪夢のような修復作業で、これ以上、国の財産が、破壊されないように、監視することだった。
地獄の、共同作業が、始まった。
「―――ノン! ギル! 違う! その、持ち上げ方! なんて、無粋なのだ! もっと、こう、バレエダンサーが、パートナーを持ち上げるように、優雅に、そして、愛を込めて、持ち上げたまえ!」
「む、無茶を言うな、ジーロス殿! これは、バレエでは、ない! 筋トレであります!」
「ああ、なってない! 君の、その、力任せの、雑な作業が、この、古代の芸術品を、傷つけているのだよ! もっと、繊細に!」
「繊細に、と言われましても!」
最初の、一つの石塊を、動かすだけで、すでに、一時間が、経過していた。
ギルは、数トンの石塊を、その巨大な両腕で、抱え上げる。
そして、その石塊が元々あったであろう、城壁の穴へと、ゆっくりと、運んでいく。
「ストップ! ストップだ、ギル!」
ジーロスが、叫んだ。
「その角度! 違う! あと、コンマ三度、右だ! そう! そして、高さを、あと、二ミリ、下げて!」
ジーロスは、光の魔法で、完璧なガイドラインを、空中に描き出し、ミリ単位での、修正を、要求する。
ギルの、額に、汗が、滝のように、流れる。
それは、重さによる、疲労ではなかった。
純粋な、精神的な、ストレスだった。
「…ど、どうでありますか、ジーロス殿…!」
「…ふむ。まあ、いいだろう。…では、ギル。そのまま、動くなよ。…僕が、術式を、再接続するまで、だ」
「…へ?」
ジーロスは、宙に浮いた石塊の、断面に、そっと、手を触れた。
そして、目を閉じ、精神を集中させる。
彼の、指先から、金色の、光の糸が、何本も、伸びていく。
その光の糸が、石塊の断面と、城壁の断面、その両方に刻まれた、古代のルーン文字の、途切れた部分を、一本、また一本と、まるで、外科手術のように、精密に、繋ぎ合わせていく。
それは、まさしく、神業だった。
だが、その神業は、恐ろしく、時間がかかった。
数十分が、経過した。
ギルは、まだ、同じ姿勢で、数トンの石塊を、抱え上げたまま、静止している。
その、鋼鉄の肉体が、ぷるぷると、小刻みに、震え始めていた。
「…ジ、ジーロス殿…。ま、まだで、ありますか…?」
「静粛に! 今、僕の、芸術的集中力が、最高潮に達しているのだ! 君の、その、野蛮な息遣いで、僕の、繊細なアートを、乱さないでくれたまえ!」
「む、むううううううううっ!」
ギルの、顔が、真っ赤に、染まっていく。
その、あまりに不毛で、あまりに、シュールな光景。
アイリスは、もはや、見ていることさえ、辛くなっていた。
彼女は、そっと、その場を離れ、自室のバルコニーから、活気を取り戻した王都の街並みを、ただ、ぼんやりと、眺めていた。
(…本当に、これで、元に、戻るのでしょうか…)
彼女の、その、か細い問いに、答える者は、誰もいなかった。
ただ、彼女の脳内に、久しぶりに、あの『神』の、どこまでも楽しげな声が、響き渡った。
『…フン。まあ、あと、数日は、楽しめるか、このクソゲーも』
彼女の、リーダーとしての、そして神の駒としての、長くて面倒な後片付け地獄は、こうして、ようやく終わりを告げた。
だが、彼女の本当の平穏が、まだ遠い先にあることを、この時のアイリスは知る由もなかった。




