第二十一話 絶対防御要塞
その夜、王都ソラリアの夜空は、二人の芸術家による、あまりに醜悪で、あまりに自己主張の激しい光の戦争の舞台と化していた。
愉快犯トリックスター・ドミノが、その美学の全てを懸けて夜空に描いた、流麗な銀文字の犯行予告。
それは、光輝魔術師ジーロスが、ノクトの悪趣味な神託を受けて放った、巨大な自らのキメ顔のイルミネーションによって、無慈悲に、そして完全に上書きされていた。
王都の民衆は、もはや怪盗の予告状のことなど忘れ、夜空に浮かぶ巨大なナルシストの笑顔を見上げ、ただ呆然と立ち尽くしている。
「…馬鹿な…! なんだ、これは…!?」
教会の尖塔の先で、ドミノは信じられないものを見る目で、その光景を見つめていた。
自らの、完璧な芸術が。自らの、起死回生の第一幕が。
開始一秒で、全く意味の分からない、別の芸術(という名の暴力)によって、台無しにされてしまったのだ。
(…なぜだ…? なぜ、私の、この、完璧な美学が…。あの、醜悪な、自己顕示欲の塊に、負けているのだ…!?)
彼の、論理的な脳が、悲鳴を上げていた。
だが、彼は、まだ、諦めてはいなかった。
芸術家としてのプライドはズタズタにされたが、彼は神出鬼没の怪盗でもある。
予告が台無しにされた以上、実力行使あるのみ。
彼はマントを翻すと、その姿を闇夜に溶け込ませた。
目的地は、ただ一つ。
王家の秘宝『月の涙』が眠る、王城の宝物庫。
彼の芸術的な潜入術の前には、いかなる警備も無力なはずだった。
◇
その頃、塔の上のノクトは、水盤に映るその光景を、鼻で笑っていた。
「…フン。空での陽動は、うまくいっているようだな。駒はあくまで駒だが、言われたことだけは、完璧にこなす」
彼の思考は、常にゲームの盤面全体を支配している。
ジーロスの光のアートが、ドミノの予告状を台無しにするのは、面白い余興だ。
だが、それだけでは足りない。
ドミノの目的は、王家の秘宝『月の涙』。
物理的な、宝物庫への侵入。
ならば、こちらも、物理的な、そして、ドミノの計算を遥かに超える、不条理なカウンターを仕掛けるまでだ。
アイリスの脳内に、ジーロスへの指令とは全く別の、新たな『神託』が、すでに下されていた。
『―――新人。あの筋肉馬鹿に伝えろ。「宝物庫を守れ」。ただ、それだけだ』
その、あまりに簡潔で、しかし、あまりに危険な香りのする神託。
アイリスは、ジーロスの暴走を空に見上げながら、会議室の隅でそわそわと出番を待っていたギルの元へと向かった。
「ギル! あなたへの、指示です!」
「おお、姉御! ついに、このギルの出番でありますか!」
「―――宝物庫を、守りなさい」
◇
激情のギルは、悩んでいた。
姉御から、直々に下された、あまりに重く、そして、あまりに名誉ある、任務。
「宝物庫を、守れ」
その、たった一言。
だが、その言葉の裏に込められた、姉御の、深遠なる意図を、彼は、必死に、読み解こうとしていた。
(…宝は、宝物庫の中にある。…宝物庫は、分厚い壁で、守られている。…だが、本当に、それで十分なのでありますか?)
彼の、単純な、しかし、一点の曇りもない脳が、思考を巡らせる。
(いや、違う! 姉御は、そんな、陳腐なことを、俺に命じるはずがない! あの、ドミノとかいう変態仮面は、魔術師だ! 壁など、すり抜けてくるかもしれん! もっと、こう…絶対的な、物理的な、そして、情熱的な、防御が必要なのでありますぞ!)
そうだ。
宝物庫の壁が、薄いのが、問題なのだ。
ならば、もっと、分厚い壁で、守ればいい。
この城で、最も、分厚く、最も、頑丈な壁。
それは、どこにある?
ギルの、大きな瞳が、窓の外、王城を囲む、巨大な外壁を、捉えた。
そして、彼は、天啓を得た。
(…そうだ! あの、外壁を、持ってくればいいのであります!)
あまりに、壮大で、あまりに、非論理的で、そして、あまりに、ギルらしい、完璧な結論。
彼は、もはや、誰の許可も待たなかった。
ただ、ひたすらに、純粋な、忠誠心だけで、動いていた。
数分後。
王城の、東棟に、凄まじい、地響きが、鳴り響いた。
夜番の衛兵たちが、何事かと、駆けつける。
そして、信じられない光景を、目の当たりにした。
そこに立っていたのは、上半身、裸の、ギルだった。
その、巨大な両腕には、ありえないものが、抱えられている。
王城の、外壁。
それも、一枚岩でできた、城の、基礎部分。
彼は、それを、まるで、ただのレンガでも持ち上げるかのように、軽々と、抱え上げていたのだ。
「うおおおおおおおおっ!」
彼は、雄叫びを上げると、その、巨大な城壁を、アイリスの私室と、宝物庫の、周りに、まるで、積み木でもするかのように、積み上げ始めた。
ドン! ドン! ドン!
地響きと、轟音が、夜の王城に、木霊する。
「姉御の、寝室の、周りに、第二の、城壁を、築くであります!」
「これで、いかなる変態仮面も、姉御に、指一本、触れることは、できん!」
彼は、もはや、正気を失っていた。
ただ、ひたすらに、純粋な、忠誠心だけで、動いていた。
その頃、愉快犯ドミノは、芸術的な、潜入の、真っ最中だった。
彼は、影から影へと、音もなく移動し、衛兵たちの、完璧な警備網を、まるで、存在しないかのように、すり抜けていく。
(…フン。この程度の警備、僕の芸術の前では、無力だ)
彼は、ついに、宝物庫へと続く、最後の廊下へと、たどり着いた。
そして、その、信じられない光景に、足を止めた。
「…………は?」
彼の、目の前に、そびえ立っていたのは、もう一つの、壁だった。
それも、明らかに、後から、付け足されたような、歪で、醜悪で、そして、物理的に、絶対に、そこに、あるはずのない、城の、外壁。
その壁は、アイリスの部屋と、宝物庫を、完全に、覆い尽くしている。
隙間、一つない。
物理的に、侵入不可能な、醜悪な、筋肉の塊のような、要塞が、そこに、出現していたのだ。
ドミノが、潜入する隙など、もはや、存在しなかった。
「な…なんだ、これは…!? 建築法を、完全に、無視している…! 非論理的すぎる…!」
彼の、芸術家としての、完璧な脳が、再び、悲鳴を上げた。
自分の、計算された混沌が、全く、通用しない。
それどころか、全く、別の、理解不能な混沌によって、上書きされていく。
彼は、その、醜悪な壁の前で、ただ、立ち尽くすことしか、できなかった。
『神』の、復讐劇という名の暇つぶしは、今、その、最も、醜悪で、最も、物理的な、クライマックスを、迎えようとしていた。




