第十九話 起死回生の予告状
自らが信奉する「計算された混沌」が、アイリス分隊という名の、あまりに無計画で、あまりに醜悪な「本物の混沌」の前に完膚なきまでに打ち砕かれたという事実。
愉快犯トリックスター・ドミノは、その屈辱を、教会の尖塔の先で、独り静かに噛み締めていた。
芸術家としての彼のプライドは、ズタズタだった。
だが、そのプライドは、彼に敗北を認めることを許さなかった。
(…面白い。面白いじゃないか、聖女アイリス)
彼は、この混沌の全てを裏で操る、恐るべき好敵手(だと彼が完璧に誤解している)の顔を思い浮かべ、不敵な笑みを浮かべた。
醜悪な筋肉彫像 、下品な宝探しゲーム 、不快なイルミネーション 、そして意味不明の昼寝。それら全てが、自分への挑戦状なのだと、彼は信じて疑わなかった。
彼は、このまま、黙って敗北を認めるわけにはいかなかった。
芸術家としての、プライドが、それを許さない。
ならば、やるべきことは、一つ。
この混沌の街で、もう一度、自分こそが、真の芸術家であることを証明するのだ。
あの、聖女アイリスという好敵手に、そして、この愚かな民衆に、どちらの芸術が、より上質であるかを、思い知らせてやるのだ。
彼の瞳には、屈辱と、そしてそれを遥かに凌駕する、歪んだ歓喜の光が宿っていた。
「あなたの、その、醜悪な混沌も、今日までだ。…今宵、この私が、あなたに、真の『芸33332術』とは何かを、教えてあげよう」
彼は、自らの芸術家生命の全てを懸けた、起死回生の一手を、打つことを決意した。
それは、これまでの、小手先のいたずらとは違う。
この国の、最も神聖で、最も価値のあるものを、一夜にして奪い去るという、大胆不敵な、犯行予告。
彼の美学の全てを結集した、完璧な、芸術的パフォーマンスだった。
◇
その日の、夕暮れ。
王都ソラリアの、西の空が、茜色に染まり始めた、まさにその時だった。
事件は、起こった。
王城の、真上の、何もないはずの空に、突如として、インクを垂らしたかのように、黒い一点が生まれたのだ。
その点は、瞬く間に、巨大な渦となり、そこから、キラキラと輝く、銀色の文字が、まるで、星屑のように、紡ぎ出されていく。
「な、なんだ、あれは!?」
「空に、文字が…!」
王都中の人々が、足を止め、空を見上げた。
幸運のブタ探しに疲れ果てた者も、筋肉彫像の前でポーズを決めていた若者も、誰もが、その、あまりに幻想的で、あまりに美しい、天からのメッセージに、心を奪われていた。
銀色の文字は、やがて、一つの、流麗な、しかし、どこまでも挑戦的な、文章を、夜空という、巨大なキャンバスに、描き出した。
『―――今宵、月が、最も高く昇る刻。王家の秘宝、「月の涙」を、頂戴する。我が、芸術の、新たな一ページのために。混沌の芸術家、トリックスター・ドミノより』
静寂。
そして、次の瞬間、王都は、これまでにないほどの、熱狂の渦に、叩き込まれた。
「ど、ドミノだと!?」
「予告状だ! あの、愉快犯からの、挑戦状だ!」
「王家の、秘宝を…! なんて、大胆な!」
人々は、もはや、アイリス分隊が作り出した混沌のことなど、忘れていた。
彼らの心は、今、この、あまりにロマンチックで、あまりにスリリングな、一人の怪盗の、挑戦状に、完全に、奪われていたのだ。
王城の警備室は、戦場と化していた。
「全隊員に告ぐ! 宝物庫の警備を、最大レベルに引き上げろ!」
「犯人は、魔術師だ! 対・幻術用の、結界を、展開急げ!」
騎士団長アルトリウスの、怒声が、響き渡る。
その、熱狂と、混乱の中心で。 アイリス分隊の作戦会議室では、アイリスが、窓の外に浮かぶ、その、あまりに美しい予告状を、ただ、呆然と、見上げていた。
(…これは…。私への、挑戦状…?)
彼女は、ドミノが、自分を、好敵手と、誤認していることに、まだ、気づいていない。
ただ、この、あまりに華麗な、犯行予告に、聖女としてではなく、一人の、騎士として、心が、ざわめくのを感じていた。
その、彼女の、複雑な心境を、嘲笑うかのように。
脳内に、あの、不遜な声が、響いた。
『…フン。ようやく、動いたか、三流が』
塔の上のノクトは、水盤に映るその光景を、鼻で笑っていた。
『…面白い。実に、面白い。…ならば、こちらも、それ相応の、演出で、応えてやろうじゃないか』
彼の、その、悪趣味な一言が、この、華麗なる怪盗劇を、再び、混沌の底へと、叩き込むことになるのを、まだ、ドミノは、知る由もなかった。
『神』の、復讐劇という名の暇つぶしは、今、その、最も、悪趣味な、クライマックスへと、向かおうとしていた。




