第十八話 愉快犯の誤算
王都ソラリアは、狂っていた。
自らを「混沌の芸術家」と称する男、トリックスター・ドミノは、王都で最も高い教会の尖塔の先、そのわずかな足場で、自らが作り出した混沌とは似ても似つかない、あまりに醜悪で、あまりに巨大な混沌の渦を、ただ呆然と見下ろしていた。
「…なぜだ…?」
彼の、完璧に計算され尽くした芸術家としての脳が、目の前の光景を理解することを、完全に拒絶していた。
彼の芸術は、常にエレガントで、知的で、そして、人々の日常に、ほんの少しのスパイスと、美しい混乱をもたらす、完璧なパフォーマンスだったはずだ。
命乞いをする案山子。
入れ替わった店の看板。
マナ通信網の渋滞。
荷札のシャッフル。
それらは全て、この退屈な世界を、ほんの少しだけ面白くするための、彼からの挑戦状。
人々は、彼の芸術に驚き、戸惑い、そして、最後には熱狂するはずだった。
だが、現実はどうだ。
中央広場では、建国の英雄アレスターの騎馬像が、ありえないほどの筋骨隆々の肉体を誇示し、一部の若者たちが、そのポーズを真似て記念撮影をしている。
商業地区では、人々が仕事もせずに、存在するかどうかも分からない「幸運のブタのぬいぐるみ」を血眼になって探し回り、その熱狂が、一つの巨大な社会現象と化している。
街の至る所では、見る角度によって風景が歪み、不快な高周波を放つ、悪夢のような光のオブジェが、人々の精神をじわじわと蝕んでいる。
そして、極めつけは、中央広場の噴水の縁で、すーすーと幸せそうな寝息を立てる、一人のエルフの少女。
彼女の、ただの昼寝は、今や「この混沌とした王都を鎮めるための聖なる儀式」と誤解され、その周りには巨大な人だかりができ、人々は静かに祈りを捧げている。
ドミノが仕掛けた「オシャレないたずら」など、もはや、誰も覚えていない。
彼の、計算され尽くした、芸術的な混沌は、今、目の前で繰り広げられている、あまりに無計画で、あまりに大規模で、そして、あまりに醜悪な「本物の混沌」によって、完全に、霞んでしまっていた。
「…私の、芸術が…。負けている、というのか…? この、醜悪な混沌に…?」
ドミノは、わなわなと、震えていた。
芸術家としての、彼のプライドが、ズタズタに引き裂かれていた。
彼の芸術は、常に、計算の上に成り立っている。
だが、目の前の混沌には、計算が、一切感じられない。
筋肉、欲望、不快感、そして、無。
それらは、あまりに、バラバラで、統一感がなく、そして、何より、美しくない。
だが、人々は、その、醜悪な混沌に、確かに、熱狂していた。
なぜだ。
なぜ、私の、洗練された芸術よりも、この、ただの暴力的な混沌の方が、人々の心を、捉えているのだ。
彼は、必死に、思考を巡らせた。
そして、一つの、結論にたどり着く。
この、混沌の中心には、必ず、一人の、芸術家がいるはずだ、と。
この、あまりに無計画に見える混沌を、その、巨大な掌の上で、完璧に、コントロールしている、自分と同格か、あるいは、それ以上の、恐るべき、混沌の芸術家が。
彼の、視線が、王都の、混沌の、発生源を、一つ、一つ、たどっていく。
そして、その全ての混沌の中心に、必ず、一人の少女の影があることに、彼は、気づいた。
救国の聖女、アイリス・アークライト。
民衆を導き、魔王さえも改心させたという、奇跡の少女。
ドミノは、これまで、彼女のことを、ただの、純粋で、真面目なだけの、退屈な駒だと、思っていた。
だが、違ったのだ。
あの、純粋そうな仮面の下に、彼女は、自分とは全く違う、恐るべき、混沌の哲学を、隠し持っていたのだ。
(…そうか。…そうだったのか…!)
ドミノの脳内で、全ての線が、繋がった。
あの、筋肉彫像。
あれは、既存の権威に対する、あまりに直接的で、暴力的な、アンチテーゼ。
あの、幸運のブタ探し。
あれは、人々の欲望を、根源から揺さぶり、社会そのものを、一つの劇場へと変貌させる、壮大な、インスタレーション。
あの、不気味なオブジェ。
あれは、大衆の、安易な美意識を、根本から否定する、挑戦的な、問題提起。
そして、あの、エルフの昼寝。
あれこそが、究極の芸術。
混沌の、極致。
混沌の中心に、「無」を配置することで、逆に、周囲の混沌を、際立たせるという、神の領域の、高等技術。
(…私は、彼女を、見誤っていた…!)
ドミノは、戦慄した。
聖女アイリスは、自分とは、全く違う流派の、しかし、紛れもなく、自分と同格か、それ以上の、恐るべき、混沌の芸術家なのだ、と。
彼女の芸術は、美しくない。
洗練もされていない。
だが、そこには、人の心を、根源から揺さぶる、圧倒的な「力」がある。
ドミノは、生まれて初めて、自分以外の芸術家に、嫉妬と、そして、畏怖の念を、覚えていた。
彼は、このまま、黙って、敗北を認めるわけには、いかなかった。
芸術家としての、プライドが、それを許さない。
ならば、やるべきことは、一つ。
この、混沌の街で、もう一度、自分こそが、真の芸術家であることを、証明する。
あの、聖女アイリスという、好敵手に、そして、この、愚かな民衆に、どちらの芸術が、より上質であるかを、思い知らせてやるのだ。
彼は、不敵な笑みを浮かべた。
その、瞳には、屈辱と、そして、それを遥かに凌駕する、歪んだ、歓喜の光が、宿っていた。
「…面白い。面白いじゃないか、聖女アイリス」
彼は、誰に言うでもなく、呟いた。
「あなたの、その、醜悪な混沌も、今日までだ。…今宵、この私が、あなたに、真の『芸術』とは何かを、教えてあげよう」
彼の、その、あまりに壮大な誤算が、この混沌の物語を、次なる、そして、より面倒くさい、クライマックスへと、導こうとしていた。
彼は、まだ、知らない。
自らが、好敵手と認めたその聖女が、今、中間管理職としての、限界を超えた心労で、部屋の隅で、体育座りをしている、という、あまりに情けない真実を。
そして、その、全ての混沌の、本当の黒幕が、塔の最上階で、ポテチを片手に、高みの見物を決め込んでいる、一人の、引きこもりであることを。




