第十六話 中間管理職の深淵
聖女アイリス・アークライトは、地獄の中心にいた。
それは、燃え盛る炎や、阿鼻叫喚の悲鳴が響き渡るような、分かりやすい地獄ではない。
もっと、静かで、陰湿で、そして、魂をじわじわと、しかし確実に削り取っていく、書類と、報告と、謝罪だけで構成された、完璧な地獄だった。
王城の東棟、彼女に与えられた執務室。
その、美しい彫刻が施された巨大なマホガニーの机は、もはや、その美しい木目を見ることはできなかった。
そこには、王国中から雪崩のように押し寄せてきた、羊皮紙の山、山、山。
その、絶望的な標高を誇る書類の山脈に埋もれるようにして、アイリスは、魂の抜け殻のようになって、椅子に座っていた。
彼女の、虚ろな瞳が、一枚の報告書を、ただ、なぞる。
『報告書:ギル特別名誉教官による「王都美化計画」の進捗について』
『本日、王立大聖堂前の慈愛の女神像に対し、「鋼の肉体こそが真の慈愛である」との独自の解釈に基づき、完璧な上腕二頭筋、及び、腹直筋の鍛刻を完了。これにより、王都の彫像における「筋肉化率」は、目標の八割を達成。これもひとえに、聖女様の深遠なるご指導の賜物と、ギル教官は涙ながらに感謝しておりました』
(…私は、そのような指導は、しておりません…)
アイリスは、その報告書を、力なく、脇に置いた。
そして、次の山から、一枚を、引き抜く。
『緊急経済報告:「幸運のブタ探し」による、経済的影響の試算』
『宝探しに熱狂するあまり、職務を放棄する者が続出。王都の生産性は、前週比で約三十パーセント低下。一方、テオ氏が販売する「公式・宝探しグッズ」の売上は、すでに、国家予算の〇・一パーセントに達する見込み。財務大臣ボードワン卿より、「このままでは、国家が、一人の詐欺師に、経済的に敗北する」との、悲痛な訴えが寄せられております』
(…ボードワン卿。心中、お察しいたします…)
彼女は、もはや、ため息をつく気力さえなかった。
次から、次へと、悪夢の報告が、彼女の精神を、蝕んでいく。
ジーロスが設置した不気味なオブジェのせいで、夜泣きが止まらなくなった赤ん坊の親からの、苦情。
シルフィの「聖なる昼寝」を一目見ようと、仕事をサボって中央広場に集結した衛兵たちに対する、騎士団長からの、懲罰動議。
その全てが、彼女の、リーダーとしての、監督不行き届きを、問うていた。
彼女は、ただ、『神』の言葉を、伝えただけ。
そして、仲間たちは、その、あまりに突拍子もない指令を、自らの、純粋な情熱と欲望で、完璧に、遂行しただけ。
その結果が、これだ。
誰が、悪いのか。
もはや、誰にも、分からなかった。
その、彼女の、ささやかな、現実逃避の時間を、無慈悲に打ち破るかのように。
机の上に置かれた、四つの、魔力通信用の水晶が、一斉に、けたたましい光を放ち始めた。
国王、騎士団長アルトリウス、アヴァロン大使、そして、財務大臣ボードワン卿。
地獄の四重奏の、始まりだった。
アイリスは、びくりと肩を震わせ、逃げるように、部屋の隅へと後ずさった。
だが、その水晶は、彼女がどこへ逃げようと、その声を、容赦なく、彼女の脳内に、直接、叩きつけてくる。
『アイリス! いったい、どうなっているのだ! あの、筋肉隆々の女神像は、何なのだ! 国の威厳が、地に落ちたぞ!』
国王の、疲弊しきった、怒声。
『アイリス分隊長! 君の部下は、何を考えている! 宝探しに熱狂する民衆を鎮めるどころか、騎士団の者まで、その熱狂に加わっているとは! 規律が、乱れる!』
アルトリウスの、胃痛が伝わってくるかのような、叱責。
『聖女殿! 我が国の、最高機密である、「完璧な芝生の育て方」の設計図が、なぜか、テオ殿の店の、景品として、出回っているのだが! これは、どういうことかな!?』
アヴァロン大使の、氷のように冷たい、詰問。
『ひぃぃぃ…! 聖女様ぁ…! もう、だめですぅ…! 国の、経済が…。幸運のブタに、滅ぼされてしまいますぅ…!』
ボードワン卿の、もはや、正気を失いかけた、悲鳴。
四つの、全く異なる、しかし、等しく、理不尽な非難の嵐が、アイリスの、か細い精神に、同時に、叩きつけられる。
彼女は、ただ、耳を塞ぎ、その嵐が、過ぎ去るのを、待つことしかできなかった。
「も、申し訳、ございません…。そ、その件につきましては、現在、全力で、調査中で、ありまして…」
彼女が、かろうじて絞り出した、あまりに無力な、返答。
その、彼女の、最後の気力を、へし折るかのように、今度は、部屋の扉が、威勢よく、開かれた。
「姉御! ご覧ください!」
ギルだった。
その、巨大な体は、埃と、石の粉で、真っ白になっている。
「初代様の、あの、貧弱だった腕に、完璧な、力こぶを、授けてまいりました! これも、姉御の、深遠なるご指導の、おかげであります!」
彼の、一点の曇りもない、純粋な、笑顔。
「ノン! アイリス! 見てくれたまえ!」
次に、現れたのは、ジーロスだった。
「僕の、この、不協和音のアートが、ついに、新たな芸術の扉を開いた! あの、退屈な、宮廷音楽家たちが、僕の、この高周波にインスピレーションを受けて、『不安と絶望のソナタ』なる、前衛的な楽曲を、作り始めたのだよ! これぞ、真の、芸術の、化学反応だ!」
彼の、狂気にも似た、歓喜の、報告。
「ひひひ…! 隊長、朗報だぜ!」
最後に、現れたのは、テオだった。
「幸運のブタ探しブームが、ついに、国外にも飛び火した! 隣国から、巡礼団が、押し寄せてきてやがる! こいつは、最高の、インバウンド需要になるぜ! 外貨を、稼ぐぞ!」
彼の、悪魔的な、商才。
叱責と、報告と、そして、感謝。
その、あまりに、混沌とした情報の奔流の中心で、アイリスの、か細い理性の糸が、ぷつり、と音を立てて、切れた。
「……………」
彼女は、何も、言わなかった。
ただ、ゆっくりと、立ち上がると、ふらふらとした、夢遊病者のような足取りで、部屋の隅へと、歩いて行った。
そして、その場に、体育座りの形で、ちょこんと、座り込んだ。
自らの膝を、両腕で、ぎゅっと、抱きしめる。
その姿は、まるで、嵐の夜に、一人、震える、小さな子供のようだった。
「…姉御…?」
仲間たちが、訝しげに、彼女を見つめる。
アイリスは、顔を上げなかった。
ただ、その、膝の間に、顔をうずめたまま、か細い、そして、魂の抜け殻のような声で、呟いた。
「…もう、どこか、遠くへ、行きたい…」
その、あまりに、悲痛な、呟き。
それは、英雄でも、聖女でもない。
ただの、一人の、疲れ果てた少女の、心の底からの、悲鳴だった。
分隊員たちは、初めて、気づいた。
自分たちの、この、あまりに自由で、あまりに自分勝手な行動が、この、か細いリーダーの、その両肩に、どれほどの重荷を、与えていたのか、を。
部屋は、静まり返っていた。
ただ、窓の外から聞こえる、王都の、混沌とした喧騒だけが、やけに、大きく、響いていた。
聖女の、長い、長い、心労の一日は、今、その、最も深い深淵へと、たどり着こうとしていた。




