第十四話 聖なる昼寝と新たなカルト
王都は、混沌の三重奏に支配されていた。
歴史的彫像がことごとく筋骨隆々のマッチョと化し、人々は存在しない「幸運のブタ」を血眼になって探し回り、街の至る所では不気味な光のオブジェが風景を歪め、不協和音を奏でている。
アイリス分隊の作戦会議室は、もはや作戦を練る場所ではなく、次なる混沌を生み出すための、悪魔の孵化器と化していた。
そして、その孵化器の中で、最後の、そして最も予測不能な卵が、今まさに孵化しようとしていた。
ギルは筋肉の福音を広めに、テオは欲望の熱狂を煽りに、そしてジーロスは悪夢のイルミネーションを設置するために、すでにそれぞれの持ち場へと散っている。
会議室に残されたのは、アイリスと、そして、自分の出番はまだかと、わくわくした顔で目を輝かせている、エルフの弓使いシルフィだけだった。
(…もう、これ以上の混沌は、私の胃が持ちません…)
アイリスは、心の底から、そう願った。
だが、彼女の脳内に響いたのは、無慈悲な、そして、どこまでも楽しげな、最後の神託だった。
『―――新人。最後の駒だ。シルフィに、伝えろ』
(…は、はい、神様…)
『お前は、王都のど真ん中で、一日中、昼寝をしていろ』
「……………はい?」
アイリスは、思わず、素っ頓狂な声を上げた。
聞き間違いだろうか。
いや、聞き間違いではない。
神は、今、確かに、そう言った。
昼寝をしろ、と。
それも、この混沌の坩堝と化した王都の、ど真ん中で。
あまりに、意味が分からない。
これまでの指令は、少なくとも、歪んだ形ではあれ、「混沌を生み出す」という明確な目的があった。
だが、昼寝?
それは、混沌ですらない。
ただの、「無」だ。
(神様…! そ、それは、一体、どういう…!?)
『うるさい。黙って、伝えろ。これは、このゲームの、最も重要な、最終フェーズだ』
ノクトの声は、絶対的な自信に満ちていた。
アイリスは、もはや、思考を放棄した。
彼女は、期待に満ちた目で自分を見つめる、純粋なエルフの少女に向き直った。
「…シルフィ」
「はい、アイリス様! 私の任務は、なんでしょうか! 虹色のお花畑を、探しに行くのですか?」
「…いえ。あなたの任務は、もっと、重要で、そして、神聖なものです」
アイリスは、できる限り、厳粛な声を作った。
「―――あなたは、今日一日、王都の中央広場で、ただ、ひたすらに、眠りなさい」
「……………」
シルフィは、きょとんとして、目をぱちぱちさせた。
そして、数秒後。
その顔が、ぱあっと、満開の花のように、輝いた。
「わあ! お昼寝、ですか! なんて、素敵な任務なのでしょう!」
彼女の、超絶ポジティブな思考回路は、その、あまりに突拍子もない指令を、最高の褒美だと、完璧に、誤解した。
「分かりました! お任せください、アイリス様! 私、お昼寝は、とっても得意なのです! この任務、完璧に、遂行してみせます!」
彼女は、元気よく、敬礼をすると、スキップでもしそうな、軽やかな足取りで、会議室を飛び出していった。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、これから一体何が起きるのか、全く予測できない、ただ、途方もない疲労感に包まれた、一人の聖女だけだった。
「…もう、知りません…」
アイリスは、その場に、へなへなと、崩れ落ちた。
◇
王都の中央広場は、混沌の縮図だった。
ギルによって改造された初代英雄の筋肉像の前では、若者たちが、そのポーズを真似て記念撮影をしている。
広場のあちこちでは、「幸運のブタ」を探し求める人々が、血眼になって、植え込みを漁ったり、噴水の水をかき混ぜたりしていた。
そして、その全てを、ジーロスが設置した、歪んだ光のオブジェが、不気味な高周波を放ちながら、映し出している。
その、混沌の、ど真ん中。
噴水の、縁に。
シルフィは、腰を下ろした。
「…ふあ…。なんだか、少し、眠くなってきました…」
彼女は、大きなあくびを一つすると、その場に、ごろん、と横になった。
硬い石の感触も、周囲の喧騒も、彼女にとっては、最高のベッドと、心地よい子守唄でしかなかった。
すー、すー、と。
穏やかで、幸せそうな寝息が、聞こえ始める。
彼女は、眠ってしまった。
この、世界の終わりのような、混沌の中心で、ただ一人、まるで、天国にでもいるかのように、安らかに。
その、あまりに無防備で、あまりに平和な光景。
最初は、誰も、それに気づかなかった。
だが、やがて、一人の、宝探しに疲れ果てた老人が、その姿に、目を留めた。
(…なんだ、あの、エルフの娘は…。こんな、騒ぎの、ど真ん中で、眠っているぞ…?)
老人は、訝しげに、彼女を見つめた。
だが、その、あまりに幸せそうな寝顔を見ているうちに、彼の、ささくれだった心が、不思議と、穏やかになっていくのを感じた。
そうだ。
自分は、一体、何を、こんなに、必死になっていたのだろうか。
存在するかどうかも分からない、幸運を追い求めて。
この、エルフの娘のように、ただ、静かに、時の流れに身を任せる、という生き方も、あるのではないか。
老人は、いつの間にか、宝探しを、やめていた。
ただ、その、平和な寝顔を、じっと、見つめている。
一人、また一人と、その、異様な光景に気づく者が、現れ始めた。
彼らもまた、最初は、訝しげな顔をしていた。
だが、やがて、その、穏やかな寝息と、幸せそうな寝顔に、自らの、荒んだ心が、洗われていくような、不思議な感覚に、囚われていった。
「…あれは、確か、聖女様の、お仲間の一人…」
「…そうだ。『森の乙女』の、シルフィ様だ…」
「…なぜ、こんな場所で、眠って…?」
人々の、ひそひそとした、囁き声。
その中で、一人の男が、はっと、息をのんで、言った。
「…まさか…。これは…『聖なる儀式』に、違いない…!」
その、あまりに突拍子もない、しかし、どこか、説得力のある一言。
それが、引き金だった。
「儀式…? そうか! あの、聖女様のお仲間が、ただ、昼寝をするはずがない!」
「この、混沌とした王都を、鎮めるための、祈りの儀式なのだ!」
「あのお方が、眠ることで、我々の、荒んだ魂を、浄化してくださっているのだ!」
噂は、熱狂となって、瞬く間に、広場全体へと、広がっていった。
人々は、もはや、宝探しなど、どうでもよくなっていた。
彼らは、一人、また一人と、シルフィの周りに、集まり始めた。
そして、その神聖な眠りを妨げないように、静かにひざまずき、祈りを捧げ始めたのだ。
数時間後。
王都の中央広場は、異様な、しかし、どこか荘厳な、静寂に包まれていた。
噴水の周りには、巨大な、人だかりの輪ができている。
その、数千の人間が、誰一人として、言葉を発することなく、ただ、静かに、祈っている。
その、祈りの中心で。
シルフィは、まだ、すーすーと、幸せそうな寝息を立てていた。
彼女の、ただの「昼寝」は、今や、王国を救うための、「聖なる儀式」として、完璧に誤解されていた。
新たな、そして、最も、平和的なカルトが、誕生した瞬間だった。
その、あまりにシュールな光景を、塔の上のノクトは、水盤越しに眺め、腹を抱えて、笑い転げていた。
「面白い! 実に、面白いじゃないか、このクソゲーは! あはははは!」
『神』の、復讐劇という名の暇つぶしは、今、その、最も予測不能なクライマックスを迎えていた。




