第7話出会い2…ノイアー視点
「なあ、ノイアー。今日はおまえのお嫁ちゃんが来るんじゃなかったのか」
公務を抜け出して、ノイアーの執務室でお茶をしていたサミュエルが、鍛錬から戻ってきたノイアーを見て驚いたように声を上げた。
「嫁じゃなくて婚約者(仮)だろ」
「どっちも同じだし、どっちでもいいじゃん。で、お嫁ちゃんは何時につくの?」
ノイアーはミッタマイル中将からタオルを受け取ると、壁掛け時計に目をやる。
「もうついているだろうな」
「おいおいおい、出迎えないとかあり得ないだろ。長旅してわざわざ来てくれたのに」
ノイアーがミッタマイル中将を見ると、彼もサミュエルの言葉に頷いていた。
「しかし、本当に婚約する訳でもないし、屋敷も使用人も最低限用意したぞ。彼らに見張らせておけば、何も問題ないだろう」
数日前、サミュエルから「あの婚約話、承諾する手紙を出しておいたから」と言われ、さすがのノイアーもあ然として言葉を失った。
サミュエルいわく、ゴールドフロントが何を目論んでいるのか、どこまでこちらの状況を知っているのか探る為に、ルチア・シンドルフと婚約するふりをして欲しいということだった。
「問題ありありだよ。仲良くなって情報を引き出して欲しいのに、最初から距離を作ってどうするのさ」
「しかし、彼女の本意はわからないからな。あっちはあっちで俺から情報を仕入れたいだろうし、最悪は暗殺者という可能性もあるだろう」
「ノイアーなら、たかが女のスパイにやられたりはしないだろ」
「それはそうだが……」
「それに、色々調べたんだけどね、あの肖像画の娘が本当にくるのなら、その娘はシンドルフ侯爵令嬢で間違いないみたいだよ。プラチナブロンドに、薄紫色の瞳。その他の情報も、この肖像画の娘と侯爵令嬢は一致したから」
サミュエルは、懐から肖像画を取り出してノイアーに手渡した。
「侯爵令嬢がスパイか。ゴールドフロントもずいぶんと大胆なことを仕掛けてくるな」
「まぁ、暗殺とかよりやっぱうちの戦況を探るのが一番の目的だろうね。さすがに軍に入り込むとかはできないだろうから、ノイアーに仕掛けてくるのかな?ハニートラップ的なやつを?」
(ハニートラップって……こんな子供がか?)
肖像画の笑顔を見て、世も末だとノイアーはため息をつく。
「逆に、ゴールドフロントに俺がこんな子供に手を出す変態だと思われてるのか……」
(雷靂、鬼人、悪魔……色んな二つ名で呼ばれて来たが、変態扱いはさすがに凹むぞ)
「アハハ、それはお嫁ちゃんに悪いよ。十六は成人した立派な大人だし、肖像画は清楚系美少女だったけど、脱いだら実はダイナマイトボディーで、男を骨抜きにするテクニシャンかもしれないじゃないか」
(この顔でテクニシャン?小悪魔ってやつか?悪魔扱いならされたことはあるがな)
「骨抜きにされるつもりはない」
「なんでさ?相手がその気なら乗っかっちゃうのも手だよ。色んな意味で!」
サミュエルは、「うまいことを言った」と膝を叩いてゲラゲラ笑い、ノイアーは呆れて言葉も出なかった。
「それもありですよ。大将のテクニックで、ゴールドフロントの情報を聞き出せたるかもしれませんし」
ミッタマイル中将まで、サミュエルの下品な話に乗ってきた。
「ノイアーのテクニックって、熟練の娼婦のお姉さん仕込みなんでしょ」
「は?」
サミュエルはニヤニヤ笑いながら、ノイアーの娼館事情を口にし出した。
軍人は、戦争の最中は気が高ぶるせいか、性欲が強い者が多い。遠征に娼館丸々連れて行くこともザラで、恋人も妻もいなかったノイアーも、何度か利用したことはあった。大抵は馴染みの娼婦に相手をしてもらっていたのだが……。なぜそのことを、戦争に行ったことのないサミュエルが知っているのか?
「だってさ、娼館でもノイアーのことを怖がって、なかなか若い娼婦のお姉さん達がついてくれないって言うじゃないか」
「……それはどこ情報だ」
「やっと相手をしてくれたお姉さんも、最近定年で辞めちゃったんでしょ?熟女中の熟女だったとか」
「だから……どこ情報だ」
「素人の女性を相手にしたことはないんだよね。なら、初で知識のない侯爵令嬢より、ハニトラするくらい知識も経験も豊富な相手の方が相性か合うかも」
「なぜそんなことまで……」
ノイアーは、王族の諜報網に恐れおののいたが、情報源はもっと近くにいたりするのだが……。
「まあ、どこ情報とかはどうでもいいじゃないですか。それよりエムナール大将、さすがにもう屋敷にお戻りになった方が良いかと。今からならば、ディナーに間に合います。これ、お持ちになってください」
情報源……もといミッタマイル中将がピンクと薄紫の大きな花束をノイアーに差し出した。
「まずはシャワーを浴びてからのがよくないか?」
サミュエルが、ノイアーの側で鼻を鳴らす。
「問題ない」
ノイアーは花束を奪い取るように手にすると、軍服の上着を肩にかけて執務室を出た。
「坊ちゃま……」
「ううん!セバス、坊ちゃまはよせ」
「失礼いたしました」
ノイアーが屋敷に戻ると、出迎えに出て来たセバスチャンに咎められるように名前を呼ばれ、ノイアーは咳払いをしつつ軍服の上着を渡した。
「令嬢は?」
「ご婚約者様ではないですか。そんな他人行儀な……。ルチア様でございましょう」
「まだ、正式な婚約者じゃないぞ」
屋敷の使用人は、全て侯爵邸に勤めていたプロフェッショナルを連れてきた。それぞれ武術の嗜みもあり、万が一侯爵令嬢が暗殺者だとしても対応できる者ばかりだった。
セバスチャンも元軍人で、平民ながら異例の大佐まで昇進した兵で、怪我による退役後、侯爵邸にスカウトされ、ノイアー付きの執事兼師範をしていた。
「またそんなことをおっしゃって」
「で、ルチア嬢は?」
「お部屋でおくつろぎいただいております」
「そうか」
ノイアーは花束を持ったまま、セバスチャンを引き連れて階段を上がる。
夫婦の寝室を通り越して、ルチアの部屋の前に立つ。ノックをしたが、ルチアの返事はない。ドアに手を伸ばすと、鍵はかかっていないからドアは手前に開いた。中を覗くと、誰もいない?
(まさか逃走したのか!?)
ノイアーが慌てて部屋に足を踏み入れると、ソファーの上で丸まり眠る塊が……。
「眠られてしまったようですね」
セバスチャンの穏やかな声が小さく響き、ノイアーはそこに眠る少女に視線を落とした。
(なんだこの物体は……。)
触れたら壊れてしまいそうなくらい華奢で、あまりに小さくて頼りない。十六歳と聞いていたが、年齢詐称なんじゃないだろうか?十二……三でも納得できる。柔らかそうなフワフワしたプラチナブロンドは、それ自体が発光しているんじゃないかというくらいキラキラしているし、閉じられた目を囲む同色の睫毛は、影を作るくらい長かった。ツンと尖った鼻は愛らしく、ふっくらと小さな唇はわずかに開いていた。
(これを嫁にするのは……さすがに犯罪じゃないのか?)
あまりに自分とはかけ離れた愛くるしい姿に、ノイアーは戸惑い狼狽えた。戦場でも、これだけ心が乱れたことはなかったくらいだ。
「旦那様、ベッドに運んでさしあげた方がよろしいのでは?」
「俺がか!?」
ノイアーは怯み、生まれて初めて後退った。もし万が一抱き上げた瞬間に目を覚まし、自分の顔を見て泣き出されたりしたら……。
「旦那様のご婚約者様ですから」
「いや、だからまだ正式に婚約した訳じゃない」
「ソファーから落ちたら危ないですし、こんなところで寝て、風邪をひかれたら大変です」
頑として引かないセバスチャンにノイアーは眉根に深い皺を刻み、手に持っていた花束をセバスチャンに渡した。
「生けてまいります」
「ああ」
ノイアーはルチアに向き直り、肩と膝下に手を入れて持ち上げる。そのあまりの軽さに、つい勢いよく抱え上げてしまい、ノイアーの胸元にルチアがぶつかった。ルチアが目覚めることはなかったが、彼女から漂う甘い香りに、ノイアーはピシリと固まってしまう。
いつも鍛錬でぶつかり合う兵士達にはない香りだし、何よりも身体の柔らかさが違った。さり気なく香るルチアの甘い香りを前に、自分が汗臭いのではないかと、ノイアーは初めて気にした。
しかも、起きていない筈のルチアが、人肌を感じてか、ノイアーの肩に頬を擦り寄せてフニャッと微笑んだではないか。
(うぉっ!?なんだこの顔は!?小動物か!)
ノイアーはその目つきの鋭さと、常に漏れる殺気から、記憶にある限り、女性から笑顔で接せられることがなかった。それ故、ルチアの笑顔に衝撃を受け……心を射抜かれた。二十六年生きてきた中で、初めて感じた胸の高鳴りに、ノイアーは戸惑い、そして自分に芽生えた感情を正しく理解することができなかった。
「旦那様、ルチア様をベッドに運んでさしあげないと」
抱き上げたままフリーズしていたノイアーに、花を生けて戻ってきたセバスチャンが声を掛ける。
「あ……あぁ」
ノイアーは大股でベッドまで歩き、慎重にルチアをベッドに降ろした。タイミングよくセバスチャンが上掛けを剥がし、横になったルチアにかける。
「少し夕食の時間を遅らせましょう。旦那様、よろしいですか?」
「ああ、なんなら起きるまで寝かせておいてやれ」
ノイアーは、腕の中に残った感覚を消すかのように拳を握り、精神力をフル稼働させてルチアから視線をそらす。思わずそれが殺気として漏れ出てしまい、セバスチャンがたまらずにノイアーから視線を外した。ノイアーの殺気に慣れている筈のセバスチャンでさえ、一歩後退ってしまいそうになるくらいの殺気の強さだったようだ。
「坊ちゃま……」
「悪かった。俺は部屋に戻る。夕食まで時間が開きそうだから、軽食を部屋に持ってきておいてくれ」
「かしこまりました」
ノイアーの殺気でも起きないルチアは、かなり鈍感なのか神経が図太いのか……、なんの夢を見ているのかわからないが、またもや笑みを浮かべていた。