第13話遠征前日
婚約者(仮)のまま、ノイアーの最後の遠征前日になってしまった。
ノイアーが無事にこの遠征を勝利して帰ってくるのは、今までの三回の人生でも不変のことだから心配はしていないとして、問題はいまだに婚約者に(仮)がとれていないこと。
プラタニア王国が貿易路を確保したら、正直ゴールドフロント王国なんか眼中になくなるよね。価値があるとしたら、塩の専売権を持っているくらい。でも、それを主張してプラタニア王国を押さえつけようとするなら、それこそ戦争して奪っちゃえばいいんだもん。
常にエネルの民や山脈の山賊達と戦ってきたプラタニア軍と、実戦の経験もなくぐうたらしていたゴールドフロント軍ならば、勝敗なんか一瞬でつくだろう。ルチアは両国に戦争が起こった時、勝敗がつく前に三回とも死んでしまっているから、そこのところは予想でしかないが、子供でも容易に想像できることだ。
つまりよ、この遠征が終わったら、ゴールドフロント王国の侯爵令嬢なんて、なんの価値もなくなる。
万が一、婚約が正式に執り行われていないからと国に返されたらと、考えるのも恐ろしかった。
傷物令嬢として放置してくれれば良いけれど、プラタニア王国に唯一繋ぎがとれる人物として、王家に囲われる気がしてならない。正妃は難しいだろうが、アレキサンダーの第二妃くらいにはさせられそうだ。
そして今までの人生通り、アレキサンダーのせいでノイアーに殺されるのか?
今のノイアーとの関係なら、ルチアを殺すことはないかもしれないけれど、今までだってノイアーはルチアを積極的に殺そうとしたことはなかった。最初の二回はアレキサンダーに盾にされたからだし、三回目は数射った矢がたまたまルチアに当たってしまっただけ。これだって、アレキサンダーがライザ第一王女に手を出そうとしなかったら起きなかった戦争だ。
結果としてルチアを殺したのはノイアーだったけれど、誰のせいかって考えたら、アレキサンダーが100%悪いよね。
ノイアーには恨みはないけれど、アレキサンダーには恨みしかない。アレキサンダーの正妃も、第二妃も、妾もあり得ない。
となると、ノイアーに確実にお嫁さんにしてもらわないとだ。
「お嬢様、本当にその格好でいらっしゃるんですか?」
アンの言いたい事は分かる。いつもノイアーの部屋を訪れる時は、部屋着ではあるけれど、露出のまるでない膝下ワンピースで、甘い果実水を飲んでお菓子をつまみ、健全な時間を過ごしていた。
そんなお色気皆無だったルチアが、今晩は気合いを入れて、スカートの丈を短くし、胸元なんかレースでちょい透けのワンピースを着てみた。髪の毛はポニーテールに結い、首筋の後れ毛とか、色気が溢れているでしょ?と、アンの目の前でクルリと回ってみせた。
「どう?少しは攻めた感じになってる?」
「攻めたというか……」
足が出たことで、より子供っぽさが増した気がするし、髪の毛もアップに結い上げ過ぎて、色気よりも元気ハツラツ感が強いです……とは言えないアンだった。
「明日ノイアーが遠征に行く前に、既成事実を作って、正式な婚約者に格上げしてもらわなくちゃ」
「お嬢様は、伯爵様が恐ろしくないのですか?私でさえ、その目を見るだけで震えが止まりませんのに」
アンは武術も嗜んでおり、多少の殺気くらいじゃ圧倒されることはない。そのアンが震える程と言っているのだから、ノイアーの畏眼はかなり強烈なのだろう。
「怖い……のは怖いかな。でも、別に今すぐ殺される訳じゃないし、何よりもノイアーって凄く良い人よ」
「それはそうだと思いますけど……。お嬢様はノイアー様のお嫁様になりたいと、本当にお思いなんですね」
「うん。最初は、アレキサンダー殿下と結婚したくなかっただけだったけど、今はアレキサンダー殿下以外の誰かじゃなく、ノイアーと結婚したいと思っているわ」
「そうですか。それではお嬢様、私が少し手直しさせていただきます」
アンは、私を鏡台の前に座らせると、まず髪型を直しだした。高い位置で結っていたポニーテールを解き、緩い編み込みにして片側に垂らした。薄化粧をして、肩にストールをかけてくれる。
「こちらの方が、さっきよりは落ち着いて見えますよ。ガバっと見せられるよりも、チラっと見えた方が色気があるものです」
「そうなの?」
「じゃあ、頑張っていってらっしゃいませ」
アンに肩を叩かれ、「よし!」と気合いを入れて立ち上がる。
(既成事実を作ると言ったものの、色仕掛けってどうすればいいのかな)
前世に二回結婚経験があるルチアだったが、自分から閨に誘った経験など皆無であった為、どうやって既成事実に持って行くかもノープランだった。
★★★
「ノイアー?」
扉をノックしたルチアは、返事を待たずに扉を開けた。顔を出すと、ノイアーはソファーでくつろぎながらブランデーを傾けており、その手には書類が持たれていたが、目を通している様子はなく、扉が開くと書類をテーブルに置いてルチアの方へ顔を向けた。
「ルチア、ただいま」
「お帰りなさい。お夕飯はちゃんと食べました?」
「ああ、会食があったからな」
明日の遠征に向けての壮行会があり、ノイアーは遠征の総責任者として出席してきたのだった。
部屋に入ると、ノイアーが座る位置をずれたので、ルチアはノイアーの隣に腰を下ろした。目の前のテーブルには、チョコレートの盛り合わせや、王城での茶会で出たクッキー、その他ケーキやサンドイッチなどの軽食が置いてあった。ノイアーが果実水をグラスに入れてくれる。
「すまないな、明日からしばらくいないのに、一緒に夕飯も食べられなくて。壮行会に一緒に出席できれば良かったんだが」
「しょうがないわ」
壮行会には、王族に長老院、貴族院の面々、遠征に出る兵の家族や婚約者などが呼ばれていた。ルチアは正式な婚約者ではないし、今の肩書きはゴールドフロント王国の侯爵令嬢なのだから、呼ばれる筈もなかった。
「これ、ルチアが好きそうだと思って、土産にもらってきた」
ノイアーが重箱を取り出して開けると、中にはローストビーフが薔薇の花のように盛り付けられてあった。
「すっごい!綺麗だし美味しそう」
「こっちはデザートだ」
「うわぁっ!」
もう一つの重箱には、デザートがぎっしり詰まっていた。上品な一口サイズのデザートは彩り豊かで、見た目も楽しめた。
何より、こんな可愛らしいデザートを土産に頼んでいるノイアーの姿を想像すると、胸の奥が温かくなってきて、何やらニマニマとした笑みが溢れてしまう。
もちろん、どんなに目に楽しい食事やデザートだとしても、食べないという選択肢はない。
ルチアはいつもの調子でパクパクと食べながら、今日あったことなどをノイアーに話し、ノイアーはそれを聞きながらブランデーを嗜んだ。ノイアーのお土産にテンションが上がったルチアは、既成事実を作ろうとしていたことなどすっかり忘れていた。
忘れていたからこそ、スカートが短く足がむき出しだったのも、肩からストールが落ちてしまっていることも気付いていなかった。
ノイアーは、微妙にルチアから視線をそらし、これはどう指摘すれば良いのか考えた。
ソファーに落ちてしまったストールを肩にかけてやるべきか、足にかけてやるべきか、それとも自分のガウンを脱いで着せれば良いのか。
夜会などで、肩や腕が丸出しで胸がポロリしそうなくらい露出した令嬢や、スリットが際どいところまで入ったドレスを着ている令嬢も見たことがあった。それに比べれば、ルチアのワンピースは膝が見えるくらいだし、肩は出ていて胸元は多少透けてはいるが、首まで布はある……が!
戦争のどんな局面にも冷静なノイアーが、ルチアの格好に酷く動揺していた。間違えて、甘いチョコレートを口にして、その甘さを流し込む為にブランデーを飲み過ぎてしまったくらいには。
ある意味、ルチアの色仕掛けは成功していると言えた。
食べるのに集中していたルチアだったが、ノイアーがさっきテーブルに置いた書類が重箱の下敷きになっていることに気がついて、その書類を重箱の下から救出した。
「これ、食べ物の下にあったら汚れちゃうわ」
「ああ、そうだ。それにサインを」
「何、これ」
手にした書類は、婚約誓約書だった。
「前に話しただろ。正式な婚約は今回の遠征が成功した後になるが、先に誓約書だけ作って、信用のおける人物に預けておくと」
見ると、そこにはすでにノイアーのサインがあり、証人の欄にもサミュエル第二王子のサインがあった。
「もちろん、ルチアがいまだに俺と婚姻を結ぶつもりがあるのなら……だがな」
「ある!あります、ありまくりですから」
「万が一俺に何かあったら、これは破棄するように言ってある。ルチアに傷は残らないから安心していい」
「縁起でもないこと言わないでください」
ルチアはペンを借りると、重箱の蓋を下敷きにして、ノイアーの名前の隣に自分の名前をサインした。
「これが受理されたら、私はノイアーの正式な婚約者になるのね」
「本当にいいのか?」
「じゃあ逆に聞くわ。ノイアーは私みたいな小娘で良いの?はっきり言って、この遠征が終われば、ゴールドフロント王国なんかプラタニアの脅威でもなんでもなくなるのよ。私と結婚しても、プラタニアに旨みなんか何もないんですから」
ルチアはノイアーの顔を真剣に見つめながら言う。ノイアーの忌眼を真っ向から受け止め、ルチアはその夜空のような濃紺の瞳を心底綺麗だと思った。
「俺の目を真っ正面から見て、気絶しない女はルチアくらいだろう。俺を見て青褪める妻より、笑顔を向けてくれる女が良いに決まっている」
「もし、そんな女性が私以外にいたら?」
「そんな女はいない。いたとしても……俺はルチアを選ぶ」
ルチアはノイアーに飛びつき抱き締めた。
「それって、私が好きってことで間違いない?」
「え……いや、それは……」
ノイアーはシドロモドロになり、返答に困る。
ルチアとの婚約を勝手に決めたのはサミュエルだった。ノイアーは今まで結婚する気はなく、実家の侯爵家には兄がいるし、いずれノイアーが継いだ伯爵位も、ノイアーに何かあったら侯爵家に返還すれば良いと考えていた。
そんな中、ポッと現れた婚約者候補は、ノイアーの畏眼も恐れることなく、可愛らしい笑顔を向けてくれる少女だった。可憐な少女の横に厳つい自分が並んで良いのかとか、年が離れ過ぎているんじゃないかとか考えないこともなかったが、そんなことが吹き飛ぶくらい、ルチアと過ごす時間は楽しくて、自分の横で笑ったり拗ねたりする表情豊かな彼女の存在は、ノイアーの中ですぐに大きくなった。
(俺はルチアのことが好きなのか?)
今までルチアに対する感情に名前をつけて意識をしていなかったが、真っ直ぐに見つめてくる薄紫の瞳に自分の顔が映り込んでいるのを見て、ノイアーは覚悟を決めた。
「俺は……」
ルチアは眉を寄せて険しい表情のノイアーを見た途端、その頬を両手で挟むと、勢い良く伸び上がるようにして顔を寄せた。
ゴツンという音がして、ルチアのおでこがノイアーの高い鼻にぶつかる。
「痛っ!」
いや、より痛いのはノイアーの方だろうが、おでこを押さえて崩れ落ちたのはルチアだった。
「大丈夫か!?」
「も……目測誤った」
涙になっておでこを擦るルチアを、ノイアーは心配そうに覗き込んだ。
「何がしたかったんだ」
「何って……。好きじゃないとか言われたくなかったんですもん。そんなの言われる前に、口を塞いじゃおうかと思って」
ルチアは、キスをして口を塞ごうとしたのだ。ただ、勢いが付き過ぎたのと、思ったよりもノイアーの顔の位置が高過ぎて、唇まで到達できずに鼻に頭突きをする形になってしまった。
「口を塞ぐ……」
鼻に衝撃を受けても顔色を変えなかったノイアーが、ルチアの言葉に表情を曇らせた。それを見て、ノイアーが勘違いしていることに気がついた。
「ノイアーが想像してるのと違うからね。攻撃を仕掛けたんじゃなくて、キスをしようとしたの!」
ルチアはヤケクソ気味に叫ぶ。これぐらいでそんなことする人だとは思わないけど、雷靂将軍と言われるノイアーに攻撃を仕掛けたとか思われて、斬り捨てられたら洒落にならない。
「キス……」
あ然としたノイアーの声に、ルチアは恥ずかしさで顔が熱くなる。
「もう、おしまい!」
部屋に戻ってしまおうとルチアは立ち上がったが、ノイアーに手を引かれてよろめいた。
「え?」
綺麗にノイアーの膝に座ったルチアは、何が起こったのか分からずに、間近でノイアーと見つめ合った。
「どうやら俺はルチアのことが好きなようだ」
「ようだって何よ!?」
ルチアの唇が不満気に尖る。
何故、断定じゃなくて推定なのか。確たる根拠がない曖昧な告白など、何の意味もないではないか。ノイアーの上に座っているという予想外の出来事に恥ずかしがることも忘れ、ルチアは不満を爆発させる。
「酷いわ。私は、ノイアーのことが好きだって、ビシッとはっきり言えるのに。どこが好きかって?美味しい物をいっぱい食べさせてくれるとことか、真夜中だから食べるなとか言わないとこととか。それに、こうやってお土産まで持って来てくれるでしょ」
「食べ物関連が多いな」
そう言われると確かに。
「ギャップ、そうギャップが素敵なの!強面なのに優しいでしょ、強面なのにたまに可愛いでしょ、あと強面なのに……」
「強面はマストなんだな」
ノイアーの唇の端が上がり、クツクツと笑い声をたてた。
「ほら、それ!いつも笑わないノイアーの、たまに見せてくれる色んな表情が好きよ。ふふ、笑顔は初めて見たけどね」
「そうか?」
「そうよ。苦笑だったり、微笑んでるくらいは見たことあったけど、声をたてての笑顔は初めてだわ」
「そう言えば、あまり笑った記憶はないな。いや、笑顔だけじゃなく、感情をあまり出さないように訓練しているせいだろう」
「そうなの?」
ノイアーいわく、ノイアーの実家のエムナール侯爵家は代々優秀な軍人を輩出してきた家門で、子供の時から軍人になる為の英才教育を受けるらしい。自ら剣を振るうことはもちろん、指揮官としての兵法などと共に、感情のコントロールの仕方も徹底的に仕込まれるらしい。
「じゃあ、ノイアーの表情筋が動かないのは、訓練の賜なんだ」
「いや、元から感情の起伏は少ない方だったな。笑わない子供だと、スーザンにもよく言われていた」
「スーザンって誰」
いきなり出てきた女性の名前に、ノイアーの過去の女かと思い、ルチアは不機嫌さを隠さずに聞く。
「侍女頭のスーザンだ。彼女は俺の乳母だったからな」
ふっくらとしていて人の良い中年女性が頭に浮かぶ。仕事も丁寧で、使用人の少ないエムナール伯爵邸が居心地良く整えられているのは、スーザンの采配のおかげだった。
「そうなんですね。ノイアーの過去の恋人かと思って、モヤモヤしちゃいました。でもそっか、侍女長が乳母かぁ。なんか、ノイアーの子供の頃って想像できないな」
「ルチアはそのまんまだったんだろう」
「どうせ今も子供っぽいって言いたいんでしょ」
プンっと膨れてルチアはそっぽをむく。
誰にも言えないが、ルチアはこの人生は四回目だ。トータルすれば今よりも七歳くらいは余分に生きているのだから、年齢相応に見ないで欲しい。ノイアーとの年の差だって、そう考えればそこまでないのだから。
「そうじゃない。元気で、笑ったり怒ったりする小さなルチアが想像しやすいというだけだ。それに、俺は子供が好きな訳じゃないしな」
「じゃ、誰が好きなの?」
ルチアはそっぽを向いたまま聞く。
「ルチアだ」
ルチアはパッと笑顔になってノイアーに向き直った。
「もう一回。目を見て言ってください」
「目を見てか。おまえは本当に俺の目が怖くないんだな。俺と真正面から視線を合わせて笑顔を浮かべられるのは、ルチアくらいだ」
「怖くなくはない……かな。でも、それ以上にあなたの瞳が好きだし、見たいって思うから」
何回もやり直した人生を思い出す。恐怖と共に見つめたノイアーの瞳、あの畏眼に射抜かれた瞬間、夜空のようなこの瞳に飲み込まれたのかもしれない。
「俺はルチアが好きだ」
ルチアは笑み溢れる。
愛情籠もった告白の筈が、ノイアーの表情は凝り固まり、畏眼からは覇気が漏れていたからだ。こんな告白を受けて、ノイアーからの愛情を信じられるのは自分くらいだろうと思うと、嬉しさとおかしさが同時に込み上げてくるのと同時に、こんなに綺麗な目を直視できないノイアーの周りの人を可哀想に思う。
「私もノイアーが好きです」
しっかりと目を見て言い、今度こそは自爆しないように、ノイアーの肩に手を置いて伸び上がって唇を合わせた。ノイアーの唇は少し乾燥していたが、思っていたよりも温かくて柔らかくて……。




