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夜猫牝鹿、猿狐

 胃がチリチリと痛む。ストレスなんだか、なんなのだか。ほんの少し不快に思う程度の些細な痛みが何かを訴えていた。そういえば夕飯がまだだったと、狐の後を歩く。辺りには様々な膳が広がっているのを横目に、胃の上を親指の腹でなぞった。

 頭痛がするのは眼精疲労と濃く漂う酒精の所為だろう。あちらこちらから聞こえる賑やかな笑声もまた、痛みを誘発するようだった。今度はこめかみを揉み込んで痛みを散らす。

 伏せた目線の先で牝鹿が笑っていた。

「まぁ、珍し。ハレのお方さんでっか?」

「え、はい」

 頷けば布地を引かれ、引き止められる。視界の端では猫面もまた足を止めたのが見えた。茶色の横長の瞳孔はそちらをチラリと見たのろう。袖で覆い隠した口許から聞こえる甘やかな声音が耳朶に絡みついてきた。

「せやったら、そない獣臭い猿やら、白粉臭い猫なんかとじゃなく、ウチと飲みまへんかえ?」

 その、柔らかな口調とは裏腹な直接的な物言いに艶然と笑ったのは猫である。

「おやまぁ、藤の香りが霞んでござんすと思うたら、すいばが咲き乱れておりんしたか。まぁなんとも可愛いらしゅうて。わっちには、到底よぅ似合いませんわ」

 ケケケッ。笑った猿に、牝鹿の眉が一瞬ひそめられた。

 あぁ胃が痛い。

 すいばが何かは分からないが、それが遠回しな嫌みだということはよく理解できたからだ。出来たからこそ、自分を挟まずやって欲しいと切に思う。猿が笑うだけで口を挟まないのは、こうして二人の間で困っている姿もを楽しんでいるからだろう。

 数歩先で立ち止まった狐は、深くため息をついていた。

「どうしてあなた方は、いちいち場を騒がすのですか」

 それでも戻ってきてくれたのはこれ以上面倒を増やさない為だろう。膝を折り、目線を合わせた狐が牝鹿に向かって軽く頭を下げた。

「牝鹿殿、この方はハレに帰るお方です。どうか手をお引きください」

「ほんまに? こないに夜の匂い、よぅ付けてはるのに?」

 上目遣いに首を傾げられ、そんなに臭うのだろうかと自身の臭いを嗅いでみる。が、分からない。多少汗臭い気はするが、仕事終わりだと思えば許容範囲だろう。まぁどうやら、そういった臭いとは違うらしいけれど。

「そない嗅いでみたって、日のお方には分からへんでしょう」

 クスクスと笑われる。愛らしい姿にカッと頬に血は上った。

「狐、この人本気で日に帰すつもりなん?」

「えぇ。ですから、どうかご勘弁を」

「ほんなら、仕方ないねぇ。……けど、もしまたイウへ来たくなった時には、ウチを頼ってなぁ」

 そう言ってようやく放してくれた手に頭を下げた。了承の意味はないつもりだ。けれど、嫋やかに笑むその顔つきにまた胃は痛みを訴えた。

 小さく手を振る牝鹿から狐の行く方へと視線を戻せば、猫が吸い込んだ煙管の紫煙を吹き掛けられる。思わず咳き込むこちらの様子を一瞥した青色は、ツンと顎を反らして背を向けてった。

「あっはっは。いいねぇ、色男。楽しい夜になりそうだなぁ」

 酒くさい息を近づけ猿はさも面白そうだ。げんなりとした視線を向けたところで効果もない。

「じゃあな嬢ちゃん。ヤり足りなきゃ後でたっぷり相手してやっから、楽しみに待っとけよ」

「あら、お気ぃつけて。またどこかで、お会いしましょなぁ」

 そこからは半ば引き摺られるようにして、猿と二人、狐の後を追いかけたのだった。


 宴からほんの少し夜闇の濃くなった藤の幹の側。喧騒もその分遠い薄闇に腰を下ろした猿面は、さっそくと酒を嗜みはじめた。慣れた手付きで酌をする猫面も時おり酒精を口に含んでは艶然と笑いかけてくる。普段から酒など飲まないというのに。上機嫌に飲む彼らの姿につい喉を鳴らしてしまった。

「なんだ、お前も呑む気になったか?」

 ケケケッ。笑う猿の盃から酒がこぼれた。

「あぁ、もったいのうござりんす。せっかくのいい酒でござんすから、もっと味わっておくんなし。さぁ、あんたも一杯、」

「いいえ、なりません」

 すぐさま、狐が間に手を差し入れ盃は遮られる。

「とんと、夜の愉しみとは縁の無い方でござんすねぇ」

 流し目に見やる青色は冷めた色をしていた。

「そうしたお役目でございますので。どうぞこちらの事など気にせず、宴をお楽しみください」

 幾度目かのやり取りになろうとも頑なな狐面を、猿はまた笑って酒を呷った。

「そういう訳にゃあいかねぇな。俺らはそいつの話を肴に飲みたくて付いてきてんだからな」

「……私の、ですか」

 ここまで彼らのやり取りを傍観者のように眺めていた意識は、こちらへ向けられた視線に間を空けて反応した。

「そう、お前の」

 ひたと見つめてくる黄色の瞳が舌の動きを鈍くする。いや、見つめているのは猿面だけではない。青色も、茶色も口を噤んで、こちらが喋り出すのを待っていた。

「あまり面白い話は出来ないのですが」

 口内でこもるような話し方は聞き取りづらいだろう。自分でも嫌いな喋り方だ。もっと快活に話せたらとひきつる胸の内を知ってか、知らずか。

「構いません。私共は、あなた様のことを知りたいのです。なぜそうも夜に惹かれるのか。お話ししては頂けませんか?」

 柔らかな狐の声音が詰まっていた喉を少しだけ息がしやすくなった気がした。

 だとしても口下手がすぐに治るわけではない。問いかけにすぐに答えをまとめられない頭は、すぐにも思考を脱線させた。いや、これは嘘か。自分のことを語ることが恥ずかしいが故に、話を逸らしたかったのだ。

「逆にひとつ、疑問なんですが。どうしてここの……方々は、私に酒をすすめたがるのですか?」

 言いつつそのことに気づいた語尾は失速していく。これもまた恥ずかしいと俯きもしたが、周囲はそんなこと気にもしていなかった。

「ひとつは匂いでござんしょう。あんたからはイウとハレ、二つの匂いが混ざったそれは良い匂いがしておりんすからねぇ」

 また顔を近づけて匂いを嗅いでくる猫面に、心臓はドキドキと音を鳴らしている。

「あぁ、そういえば先ほども、そんなことを……」

 早口にどもる姿は面白いだろう。ケケケっと笑った猿面が説明を付け足した。

「そういうやつと飲む酒は、どんな安物だろうと、やたらと美味い酒なるんだよ」

「はぁ、」

 しかしそれにもまた、何故と疑問は浮かぶ。思わず視線を狐へやったのは、こちらからの方がより明瞭な答えが聞けそうな気がしたからである。

 察しの良い狐は、その視線だけで意図を汲んでくれたようだ。滑らかな口調がさらに詳しい話を聞かせてくれた。

「ハレの方々は皆『日だまりの匂い』がするのですよ。夜に混じるとより甘く香る匂いですので、その匂いの強さでその方がどれほど夜に染まっているかが分かります。

 その匂いが一等香るのが夜に溶けた時だと言われています。綻んだ魂の内側からハレの記憶が滲み出した結果なのだと申す者もおりますが、詳しいことは分かりかねます。けれど、幽の住人はその香りだけで酩酊してしまうほどの良い匂いであることは確かなのです。――例えるなら、そうですね。なかなか手に入らない幻の銘酒だとでも思っていただければよろしいかと」

「それが、私だと、」

「えぇ、そう思って頂いても構わないかと」

「でも私に匂いが付いたのは、猿面や猫面が触れたからなんですよね?」

「もちろんそれも理由のひとつです。けれども深い悲しみや苦しみなどの負の感情の持つ暗がりが夜に似ているらしく、それらが夜を呼び寄せ身の内に溜め込み、最後には夜に呼ばれるのだそうです」

「あぁだから猿面が手を掴んできたのですね」

 いえ。直ぐにも否定し頭を振った狐は心底嫌そうな顔つきで猿を睥睨した。

「いえ、ふとした瞬間にこちらへ迷い込むか、我々が迎えに行くのが本来ですので。あなた様の場合は、違いましょう。そこの馬鹿に連れて来られたのであって呼ばれた訳ではございません」

「こんなに奥深くから、夜の匂いがしておりんすのに、不思議な方でござんすねぇ」

「ケケッ。だからこそ、是非とも酒の肴にさせてもらおうじゃないかってな。さぁそろそろ話せよ、お前の中に揺蕩う夜の理由を」

 再び話題はそこへ帰結した。これは逃げられそうにもないと諦めの心地だ。しかし改めて何故、と自問したところで明瞭な答えはない。

 それ相応の理由があれば良いのにと、自分だって思っているのだ。

 もぞり。空気を食むように口が動いた。

「理由と、言われましても……。これと言って思い当たるような不幸は、思い当たらないんですよね。今がひどく苦しくて辛い訳でもないですし……」

 しなだれかかる猫面が首を傾げる。

「でも、夜に惹かれてござんしょう?」

「それは、まぁ、そうですね。夜に溶けたいとは、随分長い間考え続けていますね、」

「“死にたい”ではありんして?」

 ぱちりと瞬いた青色に頷く。いつの間にやら舌は滑らかだ。

「えぇ。だって死んだら、後の処理が大変じゃないですか。家族や友人、もしかしたら会社の人たちは、わざわざ悲しまなきゃいけなくなるかもしれない。そういうのが、申し訳ないんですよね。

 だから、全部夜の暗がりに溶けて消えてしまえばいいって思ったんです。私が生まれたことの記憶も記録もここまでの痕跡も何もかも。夜に溶けて、朝露と一緒に消えて無くなればいいって思ったことは、何度かありますかね」

「そう思う、理由は何かござんしょう?」

 猫面の相槌に促されているのだろう。そう分かっていながら喋り続けるのはきっと、彼らになら聞かせても大丈夫だと確信があるからだ。

 なんせここは、幽なのだから。

 あちらの世界ではとても口には出せない。胸の奥の奥、いつもは漏れ出ないよう意識をしているどろりとした暗がりが、気付けば溢れ出ていた。

「だって生まれてきたことすら、間違ってるような人間ですよ? どうやったって割り切れない余りで、余分で、必要がない。本当は邪魔なだけで大人しく息を吸ってることだけを許されたそんな、存在。なんだと、思ってしまうんですよ。別に何があった訳でもなく、大きな理由もなく。……私は、私の生を許せずに生きているんです」

「ははっやっぱおかしなヤツだな、お前」

「自分でもそう思います。でも生まれてきてしまったから。“死ぬ”という選択肢を選んでも迷惑をかけてしまうから、しょうがなく生きてるんでしょうね」

 言いながら、だから朝がどうにも苦手なのかと納得した。楽しいことがあろうと無かろうと、直ぐには起き上がれず、部屋に残った暗がりをぼんやりと見つめ考えてしまうのはこれが理由だろう。

 どうしてこの身は夜に溶け、朝靄と一緒に消えてくれなかったのだろうと。始めから何もなかったように消えてしまえたなら、良かったのにと。願ったところで叶わなかったその思いたちに、また苦笑した。

「それでもあなた様は生き続けることを選択し続けているではありませんか。なら、そのままで良いのではないでしょうか。余分でも、余りでも、生まれてきたのですから。あなた様は、ハレで寿命を全うすべきです」

「自分でもそう思いますよ。けど、記憶も、記録も、全部はじめから無かったことに出来ることを私は、幸福だと思ってしまっているんですよ。正直とても魅力的なんです。この誘惑は」

「なら飲みんしょう。幸せになりんしょう。記憶も身体も全部なくすまで、飲みんしょう。飲みんしょう」

 嬉々としてぐい飲みを持たせた猫に慌てた狐の姿が視界に入った。ここまでくれば恒例のようなものだろう。咎めようと口を開こうとしたその姿に、己の内側からも理性が止めに入ってきた。

「んー、でも……」

 流されかけていた状況からの急な方向転換だ。褐色の瞳が慎重にこちらを見据えている。訝しげな眼はすぐ側から。

「躊躇う理由はなんでござんすか?」

 不満げな声音にぎこちない笑顔を浮かべて答えた。

「止めてくれている狐面さんに悪い気がするので。それに自分でも馬鹿なことを考えるなって理性が止める感覚があるんですよね。矛盾してますが、消えて無くなることが、怖くもあります」

「意気地無し」

「ですかねぇ」

 へらりと今度は軽薄に笑って誤魔化してみた。そうして時間が経るにつれて理性は暗がりを、元の通り心の奥へと仕舞いこんでいく。

 それが見えているわけでもあるまいに。つまらなそうに目を細めていた猿面が、新しい遊びを提案するかのように発語した。

「なら、ひと思いに暗がりへ染まってみるか」

「へ?」

「いい考えでありんすね。ねぇ、あんたも誰かと一緒なら、怖うはありんせんでしょう?」

「だから、どういう、」

 意味ですかと尋ねるより先に目を輝かせた猫面が、大きくひとつ柏手を打ち鳴らす。途端に辺りの空気から藤の甘やかな香りが消え去った。

 代わりに鼻腔へと届いたのは水の匂いである。明かりのない視界にはよく見えないが、どうやら橋の上へと移動したらしい。流れる水の音を足元に、猫面ははしゃいだ様子で冷えた指先を左手に絡めてきた。

「ほら、狐に捕まる前に。わっちと一緒に、心中いたしんしょう?」

 待ってと踏み止まる間もない。きゃらきゃらと笑う声に引っ張られ落ち始めた背中を誰かがさらに押して川へと突き落とした。案の定、首をひねって見た先では猿面がケケケと笑っている。

 そこから、一秒もかからず。

 どぼんと落ちた体を水が絡めとった。ごぽりと吐き出した息に苦しさを感じていたのはそれから間も無く。もがけば入り込む水が否応なく目の前に、まざまざと死を突き付けてきた。

 脳裏には走馬灯が巡っていた。それが徐々に消え失せていったのは、川の水を飲み込んだ内側から夜に溶けていっているからだろう。外側からもそれは進行しているようで、表皮がゆらゆらと溶け出しているような感覚もした。

 ――あぁ……。

 吐き出した吐息は詠嘆か、感嘆か。

 全てを受け入れ、全てを投げ出そうとした意識が、強い力で引き上げられた。かと思えば、腹部へ入った強烈な一撃が目の前に火花を散らす。

「ぅぐっ――」

 まだこの身体は生きたいらしい。げほっと水を吐き出し息をしようとする背中が波打った。ついでに胃液までも吐き出したんじゃなかろうか。ヒリヒリと焼き付く痛みを覚える喉をさすり、浮かんだ涙をそのままに見上げた先にいたのは仏頂面の狐である。

「馬鹿共が、ご迷惑をお掛け致しました。どうかあなた様もこれに懲りて、幽のことなどお忘れください」

 深々と下げられた頭をぼんやりと眺めた。その背後から「残念だったな」と猿面がにやついた顔を出す。当然反応など出来るはずもなく、また込み上げてきた咳に言葉も失った。

「ひでぇヤツだな。これでもまだ、日へ帰れと言うのか」

「えぇ何度でも、申し上げましょう。夜に溶けるなど、そんな憐れな最期なんて、私は選んで欲しくないのですから」

 頭上では何度目かの言い争い。それからまたひとつ鳴らされた柏手に顔を上げた。

「どうぞ日へお帰りくださいませ。出来ればこれきりとなることを願っております」

 反論も、同意も返す暇もなく。ぜーぜーと、呼吸を整える間の出来事だった。漏れでた笑い声まで喘鳴に消えていく。

 本当に、今さら日へ帰れと言うのかと、狐の優しさに笑ってしまうのだ。

 帰ったとて、夜はあとどれ程の時間余っているのだろうか。くらりと一瞬の目眩の中で、やがて来る朝に思いを馳せた。何てことはない、今まで通りの日常が繰り返されるのだろうことも一緒に思い描き、嘆息する。

 もういいよ。己の内側は疲れた声でそう言った。

 もう、いいよと、なんの感情もなく。死にたがる心を理性がまた諭している。幾度となく繰り返されてきたそのやり取りに――疲れたな。呟きが暗がりに揺れて、消えてゆく。

 夜は、静かだった。

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