整理してゆきましょう
貴方が私をあまり見なくなってから、もうどれくらいが経つだろう。
前は朝のおはようから、夜のおやすみまで。一日中私を傍で眺めては、熱と切なさのこもった眼差しをくれたのに。今では、行ってきますとただいまの時だけになってしまった。微笑ってはくれるものの、その顔はあまりにも清々しく、何の躊躇いもなく私を置き去りにする。だから私は、もう何もすることがなく、一人ぼっちで貴方の帰りを待つしかない。
「行ってきます」
今日も清々しい顔で微笑う貴方。新しい焦茶のチェスターコートと紅葉色のクラヴァットは、貴方にも秋の空にも合っている。癖のある前髪を丁寧に撫で付けているこんな日は、きっと彼女と会うのだろう。
「行ってらっしゃい」
私も笑顔でそう言うと、どんなに手を伸ばしても触れられない、広い背を見送った。
もう、これが最後になるのだと────
しっかりと開け放たれたカーテンの間。晴れた空から降り注ぐ朝日が、紅い木々と窓硝子を通して、室内を柔らかく染めている。
日差しが強すぎるから……雨が降りそうだから……。そんな風に理由を付けて後回しにしてきた私には最高の日だ。
本当はもっと早く、貴方の元を去るべきだったのに。顔を見たらまた決心が鈍ってしまう。さっさと荷物を整理してゆきましょう。
まずはルビーの可愛い婚約指輪。
彼女のことを思えばこれは外すべきだろうけど。もう私の一部になってしまったから、絶対に置いていけない。……貴方が嵌めてくれたんだから、仕方ないわよね?
次は二人の似顔絵。
初めてのデートで歩いた街で、記念にと絵師に描いてもらった物だ。ドキドキして眠れなかったせいか、頬に出来ていた不細工な吹き出物まで正確に描かれちゃって。がっかりして、貴方にあげるって不貞腐れながら押し付けちゃった。はあ、子供っぽくて我ながら笑っちゃう。要らないでしょうからもらってゆくわね。本当にごめんなさい。
次は私が貴方にあげたクラヴァット。
貴方の瞳と同じ、蜂蜜色のサテンはすごく綺麗なんだけど……。不器用な私が刺繍なんかしてしまったことも、それを贈ってしまったことも、すごく後悔した。
喜んでくれたのは嬉しいけど、わざわざ夜会で着けたり、会う人会う人に見せびらかすものだからすごく恥ずかしくて。本当は止めて! って叫びたかったの。だから、これももらってゆくわね。
次は私が貴方に書いた手紙。
言わずもがな……酷い。当時流行っていたポエム風に愛を綴ったものばかりで、読み返してみても何を言いたいのかさっぱり分からない。そんな黒歴史が最初から最後まで、日付順に一つ残らず丁寧に束ねてある。几帳面な貴方を尊敬していたけれど……こればかりは恨むわ。もちろん、全部もらってゆくわね。
次は枯れた白い薔薇。ドライフラワーと言うべきかしら。
きちんと処理しなかった為に、ボロボロと落ちた花びらだけが、瓶に寂しく入れられている。
あの日、眠る私に添えるつもりだった花。どうしても添えられず、手元に残してしまった花。哀しいからもらってゆくわね。
一通り整理してみたけれど、ほとんどがもらってゆくものばかりで。
どうしよう……私も何か、貴方に素敵なものを遺してゆきたいのに。早くしないと帰ってきちゃう。
机にあった本を、何とはなしにパラパラと捲っていると、何かがスルリと落ちた。
これは……
胸がきゅっとなる。
それは二人で見つけた四葉のクローバーを挟んだしおり。『きっと幸せになるね』と、無邪気に明日を信じていた頃の想い出だ。
時々ふと思う。
喧嘩をするのも、冗談を言って笑い合うのも、手を繋ぐのも、キスをするのも、『またね』って手を振るのも。もしあの時が最後だと知っていたなら……
私は一番可愛く見える角度で頬を膨らませ、とっておきの話で貴方を笑わせる。一本一本長い指の感触を確かめ、唇の間のもう少し深い吐息まで味わって……『またね』だけじゃなく沢山の愛を伝えていたのに。
もっと丁寧に、幸せを抱き締められただろう。けれど手放せなくて、余計に辛くなってしまったはずだ。だから、あの時が最後だったと後から知らせてくれるのは、神様なりの思いやりなのかもしれない。
微笑む私を収めた写真立ての前に、しおりをそっと置く。
明日も明後日も……貴方達がずっと幸せでありますように。当たり前の幸せがずっと続きますように。
たっぷりの荷物を抱えた私は、薄暗い部屋から出て、軽やかに舞い上がる。振り返らず、寄り道もせず、清々しい秋風に乗って真っ直ぐに。
もっと抱き締めたかった最後が沢山ある。
そんな私の物語《人生》は、この夕陽よりも眩しくて、蕩けるほどに幸せだった。
ありがとうございました。




