新しい環境
(いや、お母様‥‥‥じゃないわ)
天蓋に戻されたわたしは一度冷静になって、自分の意味不明な状況で母親に感動できる異常さを省みた。
わたしの近況を説明してやろう。まあ、簡単に言うと、寝た。
(寝た。寝たよ。何が悪いの? 今のわたしは赤ちゃんなんだから、母親の胸で揺らされながら子守唄を聞かされたら寝るものなの)
誰かに対して言い訳をしながら、動かすのに慣れてきた体に反動を付け、ベッドの端から端をゴロゴロ転がって往復する。そして、何だかんだ、この世界に馴染み、冷静に思考を巡らせられる事に疑問を覚えた。
聖蘭 夕凪はただの十六歳の高校生だ。いきなり異世界の赤子になり、帰り方もここがどこかも分からないというのに、この場所から父や兄と接する時の安心感を感じていた。
何故、冷静に思考を巡らせる事ができるのか。それは、ネルミオーラの体が覚えている安心感が、聖蘭 夕凪の心にも影響しているからかもしれない。
そして何より疑問だったのが、家族と会えない状況となったのに、それほどの喪失感を感じていない事だ。
寂しい事は寂しい。だが、それで不安を覚えるほど、心は萎れていなかった。
今のわたしは、先程のお母様を母親として認識している。言葉も理解できないものが多かったが、一応馴染みがあるし、この世界に疑問を感じても違和感は感じない。この世界の子として、産まれた時から暮らしていたようにも感じる。
この新しい環境に感じるものが、家族に会えなくなった喪失感を埋めているのだろうか。
(それにしても、お母様って言うの変な気分だな)
「お嬢様、朝ご飯ですよ」
思考を遮るレトリヤーバの声が天蓋の外から聞こえてきた。
失礼しますね、と四角いお盆を持ったレトリヤーバが天蓋を軽く開けて、隣にいた若い侍女にわたしを抱かせる。
「今日はオーレルの葉とお肉が入ったスープらしいですよ〜。レトリヤーバ様がオーレルを入手して下さったのです」
「お嬢様の食の進歩にはちょうどいいと思って」
あーん、とスープを差し出され、戸惑いがちに口を開けると、ぬるま湯くらいの温度のスープが口に入ってきた。
もぐもぐしながら、もしやこれは白菜では?と食材当てクイズが始まる。
(オーレルの葉って言ってたよね。なるほど。オーレルの葉は向こうで言う白菜。お肉は豚肉かな? 美味しい〜。金持ちって感じがする)
口を休めずにもぐもぐしてると、いつの間にかスープは無くなっていて、レトリヤーバが手際よく片付けているのを見ながら、わたしはある事に気が付いた。
(わたし、歯がある)
体の大きさと、自分で思うように動けない事、喋れない事から、ネルミオーラは0歳〜一歳くらいかと思っていた。
(前歯と犬歯と‥‥‥十九本。生えかけてるのが一本だから、計二十本!? 二歳くらいじゃん!)
衝撃だ。もうちょっと積極的に体を動かそうよネルミオーラちゃん。
記憶を見たところ、体を拭いたり、たまに大人に抱かれる以外はずっとベッドに居て、碌に歩く練習もしていない。外にも出たことがないし、これじゃあ世間知らずな箱入り娘になるではないか。
若い侍女がわたしをベッドに戻すと、「お嬢様はなかなか話してくださいませんね」と少し困った顔をした。
(そう、今その事を考えてた)
「個人差があるもの。旦那様は三歳になったら"変わりの会"に出すつもりでいるけれど、このままだと難しいわね。そろそろ喋り始めないと、お坊ちゃまの不満も強くなっていくでしょうし‥‥」
(お坊ちゃま? わたしのお兄ちゃんかな)
七割が理解できなかったが、わたしが喋らないと困る事は分かった。ここは本気を出すところではないだろうか。
(レトリヤーバ、ちゃんと聞いててね)
「れぇ、れとらーば」
「‥‥‥‥え?」
(まって違う。レトリバーみたいになっちゃった)
「れとりあーば」
今のは良かったのでは? と二人を見上げると、目を見開いたままのレトリヤーバがわたしを見つめていた。
「レトリヤーバ様! 奥様をお呼びしてきます!」
「え、ええ。お願い」
若いメイドがわたしをレトリヤーバに渡すと、ドタバタと部屋を出ていった。
わたしを託されたレトリヤーバは、「私の名を‥‥‥」と目を潤ませ、お嬢様が初めて口にした名前が乳母のものだという事に感動していた。
「お嬢様、もう一度言えますか? レトリヤーバ、です」
「れとりやーば」
「ううう‥‥‥」
(超感動してる。今更だけど、一番最初の言葉はお母様じゃなくて良かったのかな)
ちょっぴり後悔してると、ドタドタバン!と扉が開かれる音がして、天蓋の中に、お母様と小さい男の子が入ってきた。
(誰?)
「奥様! 今、お嬢様が‥‥‥」
「ネルミオーラが喋ったのね?」
「はい。レトリヤーバ、と」
「あら、良かった‥‥‥」
お母様は一度小さい男の子に目を向けると、わたしに視線を移し、「ネルミオーラ。お母様よ」と美しく微笑んだ。
「言えるかしら。おかあさま」
「おかぁさま」
「あらぁ〜上手ね〜」
お母様はわたしの頭をポンポンと撫でると、小さい男の子の頭も撫でながら、少し不安そうな顔をした。
「カイスラウト、ネルミオーラに言ってみたらどう?」
何かを促されたカイスラウトと言う男の子は、不満そうな顔でわたしに一歩近付いた。
「……ネルミオーラ、お兄様だ」
(お兄様。てことは、お坊ちゃまはこの子か)
「おにぃさま」
「……母上、私はもう戻ります」
わたしに呼ばれた事で更に不機嫌になったお兄様は、お母様に一礼をしてから部屋を出た。
(なんか嫌われてる‥‥‥)
お母様は困った顔のままわたしを抱き上げると、優雅にソファに腰を下ろした。まったく、と溜息を付く時ですら美しい。
「カイスラウトも困った子ね。二歳の妹に嫉妬するなんて」
(二歳! 二歳って言った!)
「ですが、五歳にしては所作がしっかりしていると教師は褒めていますよ」
「ええ、努力家なんだけれどね。もう少し余裕が持てるようにならないと、心配だわ」
なんだか、気難しいお兄ちゃんのようだ。これは可愛がられるように"あざとい"を習得するべきだろうか。
(いや、その前に言葉だね)
「おかぁさま、おにぃさま」
わたしが言葉を練習したり、歩く練習をしたり、ついでに"あざとい"を習得しようと試行錯誤を続けて約一週間。未だにお父様らしき男性には会っていない。
旦那様という言葉はちょくちょく聞くものの、今何をしているのか、お母様との関係などは全く分からない。わたしが超可愛く「おとぉさま」と口にした時にも「ええ、ネルミオーラには騎士団長のお父様いるわ」とだけしか言われなかった。騎士団長という事は、激務なのだろうか。だからなかなか会えないのだろうか。この世界の常識についてわざわざ言う人は居ないので、自分の立場も何も分からない。
知りたい欲求を抑えている内に、ネットを欲する心もすでに無くなっていた。
お母様とソファの上で歩く練習をしていると、レトリヤーバが感心したように息を吐いた。
「最近はお嬢様の成長が凄まじいですね」
「ええ。カイスラウトも喋り出してからが速かったから、兄妹は似るのかしら」
お母様がわたしにしか聞こえない声量で「血は争えないわね」と呟く。
緑の瞳は、相変わらず綺麗にお母様の存在を引き立たせていた。
それから更に一週間ほど、わたしは爆速で言葉を習得していた。
「兄も成長が速かった」なんて情報を手に入れたのだから遠慮はいらないだろう。私は早く外の空気を吸いに行きたいのだ。
(たまに換気するだけの引き籠もり生活、絶対体に良くないし)
このままだと本格的に箱入り娘になってしまう。
(とりあえず部屋の外から出たい。部屋の外に出て、この家について詳しく知りたい)
ここが異世界な事と、この家がお金持ちな事はなんとなく分かる。だが、それがわたしの常識とどれだけかけ離れているのかが分からない。下手な事を言えば、最悪命が危ういかもしれない。
だからと言って、わたしの他にも元の世界の人間は居るのかすら知らずに、ずっとここで過ごす訳にはいかないのだ。
どうするべきかと唸っていると、いつもレトリヤーバと一緒にわたしを世話している侍女が天蓋の中に入ってきた。
「お嬢様、今日はお坊ちゃまがガラークイルズのお屋敷へ向かっているので、歩く練習をしに行きましょうか」
「うん」
いつもはベッドの中で立ち上がる練習をするだけだったが、今日は天蓋の外で歩く練習ができるらしい。
どこで練習をするのかと、なんとなく周囲を見回すと、レトリヤーバが居ない事に気が付いた。
「‥‥‥レトリヤーバ?」
「え?あぁ‥‥‥レトリヤーバ様はお坊ちゃまと一緒に外出しています。奥様も明日まで戻らないので、私がお嬢様を任されました」
(レトリヤーバってお兄様にも付くんだ)
レトリヤーバはわたしの専属なのかと思っていたが、お兄様の従者としても動くらしい。
わたしを抱き上げた侍女が、じっと顔を覗き込んできた。首を傾げると、寂しそうに微笑んだ侍女は「お嬢様は私の名前をなかなか呼んでくださいませんね」と言った。
(いや! だって貴女、自分の名前教えてくれないじゃん!)
呼べるものなら呼びたい。脳内で「侍女」と呼ぶのが定着してきて困っているのだ。お母様もレトリヤーバも彼女の名前を呼ばないし、侍女自身からも名前を教えてくれないので呼べる訳がないと思う。
そんな思いを込めて、む〜っと睨むと、少し考える素振りを見せた侍女がニコリと微笑んで名前を教えてくれた。
「ハークロンノです、お嬢様。言えますか?」
「は、ハークロンノ‥‥‥」
レトリヤーバより比較的言いやすい名前だが、今更覚えようとすると違和感がある。
一生懸命呼ぶわたしに、侍女……ハークロンノは小さく笑って「ゆっくり覚えてくださいね」と言った。
「それでは、行きましょうか」
(え?)
天蓋を出たハークロンノは部屋の扉に向かっている。
てっきり部屋の中で歩く練習をするのかと思っていたが、外に出るのだろうか。
(こんなサラッと? 出られるの?)
できるだけ顔に出さないように気を付けていたつもりだが、わたしの動揺はハークロンノに伝わったらしい。視線が泳ぐわたしを見て苦笑いした。
「お嬢様がお部屋の外に出るのはいつも寝てる時でしたから、不思議な気分ですよね。一つ隣のお部屋に行くだけですよ」
なんと何度か部屋の外に出たことがあるらしい。寝てる時に出たとして、何の用があるのだろうか。
ソファの前の机から布に包まれた何かを手に取ると、ハークロンノは金色のドアノブを傾けて扉を開けた。
2話、とんでもなく時間が掛かりました。最近は毎日「これでいいのか?」と頭を捻っています。
次は(確か)「子供部屋」です。
また何ヶ月も放置状態にならないようにしないと‥‥‥。




