ベテルギウス
星が綺麗な夜だった。
本格的な冬が始まる12月の中頃、ふたご座流星群が空を埋め尽くしていた。
こんな寒い日に、私は1人近所の公園で歌っていた
将来への不安がどうたらとか、やりたいことがどうたらとか、
多感な16歳によくある、いわゆる眠れない夜ってやつだ。
パチパチパチパチ
「歌、上手ですね!すっごく良かったです!」
後ろを振り返ると、同い年ぐらいの女の子が拍手しながら笑っていた。
「あ、ありがとうございます。びっくりした、まさかこんな時間に人がいるなんて。」
「それはこっちのセリフですよ!寒くないんですか?今晩マイナス5度ですよ?」
富良野の冬は冷える。
私は家から徒歩数分だからよく来るけど、私以外に真冬の夜中にこの公園を訪れる人間なんていままで見たことなかった。
「私は地元なのでこのぐらいなら大丈夫です。それより、どこから来たんですか?パッと見た感じ私と同じ高校生ですよね…?」
「東京から家族旅行で来ました!高校二年生です!」
よく話してみると、どうやら家族旅行で富良野に来たはいいが、飛行機と車で寝すぎて寝れなくなったから散歩に来たらしい。
というかその子が泊まってる宿、私の家のコテージだった。
「実家がコテージなんて羨ましい!ねえ、名前はなんていうの?」
「私はカナタ、漢字は無くてカタカナで。貴女は?」
「カナタ!いい名前だね!私はハルカ、私もカタカナだけだよ!お揃いだね!」
同い年とわかったからか、けっこうグイグイくるなこの子。
「ねぇ、カナタって歌の動画とかアップしてないの?私フォローしたいんだけど!」
「ざんねん、私ここで1人で歌っているだけだから、そんなものはないよ。SNSだって友達と連絡する用にインスタやっているぐらい」
「ええ!もったいない!!こんなに歌上手なのに!そうだ、私動画編集得意だからさ、一緒に歌ってみた動画作ろうよ!きっとカナタちゃん人気者になれるよ!すっごく歌上手だもん!」
「え、えぇ…恥ずかしいよ」
突然の提案、戸惑う私を置き去りにハルカは続ける。
「私、カナタちゃんのファンになっちゃったからさ、この先もカナタちゃんの歌声を聴きたいの!お願い!!!」
「そ…そこまで言うなら…とりあえずちょっとだけなら…。」
「いいの!?やったー!約束ね!!!」
高校二年生の年の瀬、私は新しい友達と趣味ができた。
悪い気は、しなかった。
ハルカが東京に戻った後、私たちはテレビ電話で動画アップの準備を進めていった。
アカウント名は『遥か彼方』
お互いの名前をくっつけただけという笑えるほどシンプルな名前だが、案外気に入っていた。
初めて歌声のデータを送る時は顔から火が出るほど恥ずかしかった。
ハルカがベタ褒めしてくれてなかったら、多分アップロード止めていたと思う。
最初の動画は、出逢った時に歌っていた人気シンガーソングライターの星をテーマにしたラブソング。
初めて動画をアップした時、恥ずかしくて死にそうだった。だから私は動画を見ないことにした。
再生数も、コメントも。
ハルカにももちろん口止めした。ハルカはもったいないと口を尖らせていたけど、心の平穏は何物にも代え難いのだ。
その後は、週1ペースで動画をアップロードしていった。私は歌うだけだから大丈夫だけど、ハルカが大変じゃないか心配になり聞いてみると
「部活とかやってないし、私の高校エスカレーター式だから受験もないし大丈夫!なんならカナタちゃんがいけるなら週2本に増やせるよ?」
なんて言うものだから、身の危険を感じてそれ以上追求するのはやめた。
「ハルカはいーなー、進路決まってて。都内の名門大学附属高校から内部進学して、人生安泰ルートじゃん。私なんて何も決まってないよ。」
「歌で食べていけばいーじゃない!カナタちゃんの歌声なら行けるって!」
「いやいやいやいや、さすがに無理だよ!そりゃあ、歌うことは好きだし、小さい頃の夢は歌手だったけど、そろそろ現実見る歳だよ?ハルカと過ごしたいし、来年は東京の大学でも受験しようかな。」
「えー、カナタちゃんならいけると思うけどなぁ。」
ハルカは少し不服そうだった。
ハルカと動画を作ったり話したりする時間を過ごして1年近い月日が経った高校二年生の秋の終わり頃のこと。
ハルカと恋愛について話す機会があった。ハルカに言わせれば、人は恋するとその人と話しているだけで笑顔になれて、常にその人のことを考えていて、その人の声を聞くとドキドキするらしい。
恋愛したことなかった私は話半分でハルカの話を聞いていたが、ハルカの笑い声を聴いてドキドキしている自分がいることに気づく。
次の電話も、その次の電話も、私の心臓は高鳴っていた。
なんなら電話が待ちきれなくて電話と電話の間の期間もドキドキしていた。
女の子同士の場合は友情ってことになるのかな?
ううん、きっと違う。
私は、私はハルカに恋をしていた。
「12月、ふたご座流星群の日にハルカに会いに東京に行こうと思うんだけど、どうかな?」
「か、カナタちゃん、急にどうしたの?そもそもふたご座流星群の日はまだ学校あるんじゃ…」
「知らないの?北海道は夏休みが短くて冬休みが長いの。親にはオープンキャンパスの為って許可とおこづかいもらったし!……迷惑だった?」
「う、ううん!迷惑なんかじゃないよ!わかった!楽しみにしているね!」
心が飛び跳ねそうだ。
私は、遥か遠くにいる貴女に、1秒でも早く会いたい。
初めてできたやりたいことだった。
12月15日の夕方、渋谷区の端っこにある小さな公園。
ハルカとの待ち合わせ場所はここで間違いないはずだったが、待ち合わせの時間から1時間経ってもハルカは来なかった。
4回目の電話をかけようとしたその時、公園の入り口でハルカの姿を見つける。
「ごめん!ほんとに遅れてごめん!!どうしても学校抜け出せなくて!!」
「ほんとだよ!もう、心配したんだから…。」
口では怒っていても、心の中は久しぶりにハルカと会えた嬉しさでいっぱいだった。
確信した、私はこの人が好きなんだ。
公園のベンチで隣に座って、他愛のない話をする。この時間が永遠に続けばいいのに。
気づいたら空は暗くなり、頭上には満天の星空が咲いていた。
「カナタちゃん見て、ベテルギウス!初めてアップした曲のタイトルの星だよ!カナタちゃんの家の近くみたいに綺麗には見えないけど、都内も捨てた物じゃないでしょ?」
「うん、とっても綺麗。あの日の星空も綺麗だったけど、ここも負けてないよ。」
「今日は冬の晴れの日だから、流れ星もきっとギリギリ見える!カナタちゃん、流れ星見つけたら何お願いする?」
「そうだなぁ、あんまないかも」
「無欲だな~。私はね、カナタちゃんが世界一の歌姫になりますように、ってお願いするんだ」
「えぇ、恥ずかしいよ!てか無理無理、そんなの無理だって!」
「ううん、そんなことないよ。カナタちゃんの歌は誰にも負けないんだって、私は信じてる」
知らなかった。
好きな人に信じてもらえることが、こんなにうれしいことだなんて。
気持ち悪がられるかもしれない、断られるかもしれない。
でも、こんなに真っすぐ私を信じてくれる人に、嘘なんてつきたくない。
伝えると心に決めた。
「私、願いごと決めた」
「なになに?!カナタちゃんのお願い気になる!」
息を整える。
手が震える。震えるのは、きっと寒さのせいだ。
そう、思い込んだ。
「ハルカと、恋人としてずっと隣にいれますように。そうお願いするんだ。」
時間が止まる。まるで時計の針が凍り付いたみたいに。
高鳴る心臓の音がうるさい。静寂が、私の鼓動を強調する。
「カナタちゃん、それって…」
その時、夜空の星がひとつ流れた。
見間違いじゃなければ、それはベテルギウスのすぐ隣だった。
「流れ星、見られたね。私はお願いしたよ。ハルカ。」
強がってみた。どうかな、どうなんだろうな。
断られちゃったら、『遥か彼方』はなくなっちゃうのかな。
「カナタちゃん。うれしい、心から嬉しい。ありがとう。」
あ、これは振られるやつだ。
経験はないけどわかる。だって、ハルカのことは誰より知っているから。
「でもごめん。カナタちゃんとは付き合えない。私ね、一つ嘘をついていたの。」
「嘘?」
「私ね、付属大学にはいかないの。来年から4年間海外に留学する、だから、カナタちゃんが東京の大学に来ても一緒には過ごせない。女性としても、歌手としても大事なカナタちゃんの時間を縛りたくない。」
ひと呼吸おいて、ハルカは私の方を向く。
「カナタちゃん、遥か彼方は解散しよう。告白のせいじゃないよ?もともと言うつもりだった。」
「え、なんで、」
「カナタちゃんの動画ね、実はものすごくたくさん再生されているの。それこそ、企業から案件が来るぐらい。それでね、この前音楽レーベルの人からデビューしないかって連絡をもらったの。だから、『遥か彼方』ではなくカナタちゃんとして羽ばたいてほしい。」
ハルカが私に見せたスマートフォンには、初めて歌ったベテルギウスの動画が映っていた。その再生数は500万を超えていた。
「カナタちゃんには、夢を叶えてほしい。カナタちゃんの初めてのファンである、私のわがまま。」
「わからないよ、私。歌うことは好きだけど、そんな風に自分を信じられない。」
「大丈夫。カナタちゃんなら、私の信じるカナタちゃんなら、どこまでだっていける、どんな夢だって叶えられる。」
あぁ、この笑顔だ。私は、この笑顔に惚れたんだ。
我慢していた涙があふれてくる。
「なら、一緒にいてよ、一緒に夢を叶えてよ!カナタとしてではなく、『遥か彼方』としてなら、私頑張れるよ!」
ハルカが、ゆっくりベンチから立ち上がる。
「ごめんね、カナタちゃん。大好きだったよ、貴女のこと。」
公園の出口へ向かって歩きだす。
何か、何か言わないと。
いやだ。このままお別れなんて嫌だ。
「ハルカ、一つだけお願いしていい?」
ハルカは振り返らず、出口を向いたまま立ち止まる。
「私がもし、もし世界のどこでも活躍できるぐらいの歌手になれたら、貴女のことを迎えに来てもいい?貴女と一緒に過ごしていい?」
ハルカは何も言わない。かまわず続ける。
「ハルカの留学が終わるとき、5年後の同じ日にこの公園に来るから。もし、私がハルカの留学した国に名前が届くぐらいの歌手になれたら、ハルカも来てほしい。お願い、そしたら私は頑張れる。だから、お願い…。」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、最後まで言い切った。
少しの沈黙の後、貴女は小さく頷いた。
結論から言うと、私は世界中に名前が届く歌手になった。
ハルカが繋げてくれた会社が日本でもトップクラスのレーベルだったこともあり、私は海外のヒットチャートにKANATAの名前が載るぐらいにはなれた。
輝かしい成功とは裏腹に、私のこの5年間は虚無という他ないだろう。
悲しいぐらい初恋が忘れられなかった私は、仕事に没頭する以外道はなく、それが逆に功を奏した。
特に失恋ソングの人気はすさまじく、感情がこもっており共感するらしい。
そりゃそうだ、初恋を両想いの失恋で終えて5年も引きずっている純情な乙女はなかなかいないだろう。
でも、私の心はあの時と同じかそれ以上に高鳴っていた。
だって、私は約束を果たせたから。
もしかしたら、ハルカがあの場所に来てくれるかもしれない。
そんな期待が私の胸を高鳴らせる。
渋谷に向かうタクシーの中で、ふと悪い考えが脳裏をよぎる。
いなかったらどうしよう。
想像だけで泣きそうになったので、私は考えるのをやめた。
心を無にして、約束の場所へ向かう。
「まぁ…そう…だよね。いるわけない、か。」
夕暮れと共についた公園には、誰一人として人影はなかった。
あの日語ったベンチに座る。
このまま凍え死んでもいいや、死ぬまで待ってみよう。
夜明けが来た。
結局、ハルカは来なかった。
もうこのまま死のうかとも考えた。
だけど私は弱いから、都合のいい妄想を信じてみる。
「もしかしたら、留学から5年と思っていたのかもしれない。来年また来よう。」
1年後、再びあの公園に訪れる。もちろんだれもいなかった。
「まだ私は世界的歌手じゃないのかもしれない。ヒットチャート数回乗った程度だし」
1年後、この気持ちをぶつけたKANATAの新曲は世界28ヵ国で1位を獲得した。
でも、やっぱり誰もいなかった。
「大学院まで行っていたとしたら、まだ在学中かもしれない。もう少し待ってみよう。」
1年後、やっぱり貴女はいなかった。
「来年で、貴女と出会って10年…か。来年いなかったら、私もう死んじゃおっかな。」
眼を開くと、病院の天井が目に映る。昨日無理した影響か、身体が非常に重い。
左腕が痛い、腕を見ると点滴が少しずれてしまっていた。
ナースコールをしようか迷ったが、そもそもが自業自得なのに迷惑をかけたくなくて手を止めた。痛みは全て罰として受け止めよう。
私は大きな嘘をついた。
留学も、高校も行っていない。私はずっと病院の中にいた。
高校1年生の頃、骨髄に病気が見つかった。
難しい説明はよくわからなかったけど、どうやら治らないらしい。
何年生きられるかわからないが、長く生きられたとしても10年は生きられないし、来年からは一生入院しなくてはいけない。
お父さんとお母さんは死ぬほど悲しんでいたけど、私はそうでもなかった。
もちろん悔しいしなんで私がって思うけど、別にやりたいこともなかったし、抗ったってしょうがない。
私が外出できなくなる前の最後の思い出作りとして、両親が私を旅行に連れて行ってくれた。旅先で、私は生まれて初めて生き甲斐といえるものに出会った。
カナタちゃん。
私の歌姫。女の子だけど、初恋の人。
信じられないぐらい綺麗な横顔と、華奢な見た目からは想像できないぐらい力強く美しい声。
幼い少女のように可愛く笑ったかと思えば、真剣な眼差しは胸を刺すぐらい凛々しい意志が灯る。
世界で一番、大好きな人。
時間はいくらでもあったから、電話でカナタちゃんとたくさん話したくて、動画作りを提案した。
もちろん、カナタちゃんの素晴らしい歌を世界中に広めたい気持ちも本物だったよ。
本当に幸せな時間だった。
この時間を胸に抱いて死ねるなら、早逝したっていい人生だと思えた。病気のおかげでカナタちゃんに会えたわけだからと、この病気に感謝すらしていた。
うれしいニュースがあった、なんと『遥か彼方』の最初の動画が100万再生を突破した。
やっぱりカナタちゃんはすごい!
自慢だし、鼻高々だ。カナタちゃんというスターがこの世界に輝くなら、それがきっと私が生まれた意味なんだろう。貴女は私の夢になった。
こまったことが起きた。
カナタちゃんが私に会いにくるらしい。
どう言い訳しても最終的に苦しくなる。
そもそも、カナタちゃんは東京の大学受けるって言っているし、さすがに嘘をつき続けることが難しくなってきたなぁ。
待って、よく考えたら私って今後カナタちゃんを苦しめるんじゃないかな?
私の考えすぎかもしれないけど、カナタちゃんが私を必要とすればするほど、私が死んだときカナタちゃんを苦しめるし、タイミングや時間の長さによってはカナタちゃんの歌手としての人生を潰しかねない。
もちろん、杞憂ならそれがいいし、そんな風にカナタちゃんが私を想ってくれていたらって思うと身震いするぐらいうれしい。
でも、貴女の夢を邪魔する可能性があるって考えたら、絶望で心臓が苦しくなる。
病気を宣告されたときよりよっぽどキツかった。
だから決めた、私は貴女にさよならを言う。
今後のカナタちゃんを音楽レーベルに押し付けて、自分のために留学に行ったことにすれば、一時的にカナタちゃんは悲しむかもしれないけど、私はカナタちゃんを捨てたクズとして嫌われるかもしれないし、時間をおいて人生が成功すればきっと私のことも忘れてくれる。
そうしたら、カナタちゃんは本当のスターになれるんだ。
病院を無理やり抜け出して、カナタちゃんに会いに行く。
本当は外出禁止だったからナースさんの眼を盗んで抜け出すのにめちゃくちゃ手間取ってしまって、カナタちゃんを待たせてしまった。もう帰っちゃったかな。
病院のすぐ目の前の公園にたどり着く。よかった、ちゃんといた。
カナタちゃんと再会できた喜びは、そりゃあもう天国としか言いようがなかった。
星が降りはじめた頃、私はカナタちゃんに告白された。
気が狂いそうなぐらい嬉しくて、息が止まりそうなぐらい絶望した。
もし今日サヨナラを言わなければ、私は本当に彼女の夢を潰していたかもしれない。
残酷な嘘を塗り重ねる。
私はこの罪を背負って地獄に行くのだろう。
カナタちゃんの名声と歌声、地獄まで届いたらうれしいな。
叶えられない約束をした。
もう二度と、会うことはないだろう。
ありがとう、ごめんなさい、さようなら。
最初で最後に好きになった人。
5年の月日が流れた。
運良く私は死ななかった。
でも私にとっては最悪で、約束を叶えたカナタちゃんが冬の公園で1人震える姿を窓から一晩眺めることになった。
苦しかった、すぐにでも会いに行って抱きしめたかった。
おめでとうって言いたかった、よく頑張ったねって言いたかった、愛しているって言いたかった。
大好きだから。
……だからこそ、会えないよ。ごめんね、ごめん。ごめんなさい。
1年後、カナタちゃんはまた公園にいた。
いやな予感がした。カナタちゃんはあきらめる気も忘れるつもりも無いんじゃないか。
だとしたら、私のしていることは無駄…?
ならば会ってもいいのかな。
でも、年々自分が弱っていくのがわかる。きっともう、私は長くない。
1年後、カナタちゃんはやっぱり約束の場所にいた。
申し訳なさと会いたさと苦しさで、頭がおかしくなりそうだ
1年後、カナタちゃんは今年も来てくれていた。
来年で発病から10年。
余命宣告通りならもうカナタちゃんの顔を見られるのはこれで最後かな。
心残りがあるとすれば、最期に見る貴女の顔が、哀しみに満ちた顔であること。
でも、あの日見たベテルギウスのように、ずっと遠くから貴女を見守っているからね。
今年も約束の公園に来た、だけどやっぱり貴女はいない。
出会ってから10年、実は去年よりは可能性あるかなって期待していたんだけどな。
予定通り大量の睡眠薬とお酒をベンチに並べて、準備を始める。
貴女に会えない無意味な人生を、終わらせるための準備を。
一通り準備を終えると、最期に歌ってみたくなった。
曲は何がいいかな、やっぱりあれかな、ベテルギウス。
歌ったら、ハルカ会いに来てくれるかな。
こないか。何回無意味な期待しているんだ私。
思い出の歌を1人歌う。どうしてこんなに辛いのだろう。
なんであの日、ラブソングなんて歌ったのだろう。
いろんな思いを吐き出すように、最期の歌を歌い終えた。
「カナタちゃん」
幻聴かと思った。9年心待ちにしていた声だった。
振り返ると、入院着姿で息を切らしているハルカが立っていた。
私の両目から、信じられない量の涙が流れる。
「ハルカ」
それだけ、喉から絞り出した。
涙が落ち着くと、ハルカにめちゃくちゃ怒られた。
死のうとするとは思わなかったと。
その後、死ぬほど謝られた。死ぬまでするとは思わなかったと。
たくさん、たくさん、これまでの時間を埋め合わせるように話した。
ハルカからこれまでの事情も聞いた。
なるほど、納得したけど心からあきれた。
「ハルカって、賢いのに時々抜けているよね」
「え…どうして?」
「言ったでしょ?私の願いは、貴女の隣にいること。歌手としてスターになることじゃない。」
いつか再会できた時、渡すと決めていた箱を取り出す。
「ハルカ、私と結婚してほしい。」
箱を開き、指輪を差し出す。
「私、もうすぐ死んじゃうんだよ?病院からほとんど出られないんだよ?1人じゃもう何もできない、そんな私でいいの?」
「貴女がいい、貴女じゃないなら、きっと意味がないから。だから、私と結婚してください。」
「………こんな…こんな私で良ければ………最期まで…一緒にいさせてください………」
この時の貴女の表情を、私は一生忘れないだろう。
誰にだって伝えられないし、伝えるつもりもない。
頼まれたって忘れてやらない、私だけの、宝物。
永遠に続けばいいと思った時間は、やっぱり長くは続かなった。
物語みたいに奇跡が起きたりすることなんてなくて、
現実は北海道の冬よりも冷たくて残酷だ。
でも、初めて出会ったあの日の富良野の美しさが、
2人で作ったたくさんの動画が、
数えきれないほど交わしたメールの履歴が、
一緒に選んだ結婚指輪が、
2人で過ごしたこの部屋が、
数えきれない、かけがえのない大事な物が、こんなにもたくさんこの世界に残っているから。
貴女とのかけがえのない日々が、いつだって私に寄り添ってくれるから。
全部全部、抱きしめて生きていくよ。
「ハルカ、大好きだよ。」
数年ぶりの復帰ライブのステージに立つ。
KANATAとしてではなく、今の私は、私たちは
「遥か彼方」