5. 伝説へ
葛孔を仲人として、二人は正式に結婚した。しかし、新婚生活に浸る余裕は無かった。結婚直後、彭明が新たな木簡を徐福に差し出したからだ。以前と同様、徐福宛の木簡を葛孔家の門内で拾ったのだと言う。今度は、こう書かれていたのだ。
「残された時間は短い。あと三年で蓬莱へ旅立たねば、煮殺される。」
徐福は始皇帝の許可証を使って、船の建造を開始した。葛勝と相談して、一隻に三十人が乗れる大型船を、十隻建造する事にしたのだ。船の建造と並行して、勝と陳玲が蓬莱へ同行する若者達を集めていた。その一部は、葛孔の家に置いて、葛孔のつてで職人の技術を学ばせていた。彭明は徐福の妻として、彼らの世話に忙殺された。
一年が過ぎて、船と同行者が揃うと、航海訓練を開始した。最初は、同行者から三十人ずつを二隻の船に乗せて、徐福と葛勝を教官として航海技術を訓練した。やがて、筋が良い者を集めて知識も伝授して、船長と副船長候補者を育成した。
次の一年は、実際に船団を組んで外洋を航海した。こうして、航海訓練をしている最中、徐福と同じ船に乗船していた田洋という者と仲良くなった。彼は徐福と同郷の斉の出身で、徐福より少し若かった。彼は秦に恨みがあるようで、始皇帝を呪う言葉が尽きなかった。徐福も始皇帝には怨みがあり、心情的には同意見だったが、許可証を得ていた立場上発言は控えた。
中国大陸に残った彼の一族は、始皇帝の死後に秦に反旗を翻す事になる。
他にも同行者の中には、始皇帝や秦に怨みを持つ者は多かった。彼等彼女等は、秦から脱出したいために、この博打的な航海に同行するのだろう。
こうして、出航予定の年になった。その年の春に、また、徐福は彭明から木簡を受け取った。今度の木簡には、こうあった。
「必ず八月末の正午までに出航すべし。さもなければ、蓬莱ではなく死へ至る。」
その年は、稀に見る旱魃が続いた。そのため、水や食料の調達は困難であったが、八月二十一日には始皇帝の許可証の力で準備することができた。
後は天気だ。雨雲はほとんど無いが、波が高い。どこかで巨大な嵐が発生している。その嵐に巻き込まれたら、船は持たない。そこへ、始皇帝が近く会稽へやって来るとの情報が、葛孔からもたらされた。木簡のお告げの「八月中」と始皇帝の来訪のタイミングが、ほぼ一致しそうだ。恐らく、始皇帝が近づけば徐福は捕らえられ、生きて戻る事は無いのだろう。
それから九日後。波はまだ高いが、出港は出来そうだ。もう待てない。
徐福は決断した。八月最後の日。食料と水を満載し乗員が全て乗り込んだ徐福の船団は、ついに会稽の岸壁を離れ始めた。一行の副長である葛勝が乗った最初の船が出航してから一時間後、ようやく徐福達が乗る旗艦が船団の最後尾で会稽の港を出たのは、丁度正午の事だった。
徐福と彭明が並んで、名残惜しい会稽の街を海から眺めていると、彼方から旗印を立てた馬が港に向かって走っているのが見えた。徐福は呟いた。
「死神だ。」
恐らく、馬に乗った役人が港に着くと、追跡の船を出そうとするに違いない。
「全船に、全ての帆を広げて全速で前進するよう、指示を出せ。」
徐福が乗員に指示すると、緑色の煙が旗艦から立ち上り、全船が全速力で進み始めた。
死神は徐福の予想通り、船で追跡してきた。屈強な男たちを並べた数隻の手漕ぎ船による追跡で、最初の一時間に猛烈な速度で接近し、次の一時間では徐福の船から五十メートル位にまで迫った。流石の徐福も、手漕ぎ船に追いつかれると覚悟した。
その時、田洋が立ち上がった。未知の場所へ赴く探索船だ、わずかながらも武器を搭載していた。田洋は武器庫へ行くと弓矢を取り出し、手漕ぎ船を撃ちはじめたのだ。それを見た他の乗員達も、武器庫へ殺到した。彼ら彼女らの秦を忌避する気持ちは非常に強く、手漕ぎ船に追いつかれて秦へ戻るのは絶対に嫌だと思っていたのだ。
手漕ぎ船からも反撃の矢が飛んできたが、船の高さが違うため届かない。こちらから射た矢は次々と手漕ぎ船に吸い込まれていく。やがて、無傷の漕ぎ手が減り、残りの漕ぎ手の体力も落ちてきた為か、手漕ぎ船のスピードが落ちてゆく。日が傾く頃には、手漕ぎ船は皆、姿が見えなくなった。
結局、死神は徐福に追いすがる事は出来ず、始皇帝の元へ向かったのだろう。
史記には、その時の事がこう記されている。「徐福は始皇帝から出立を催促されて旅立ち、その帰路で始皇帝は崩御した」と。かの司馬遷の記した史記の事だ、根拠があってそう記述したのだろう。
しかし秦の役人は、徐福に逃げられたとしても、正直に報告する訳がない。正直に報告すれば、始皇帝に罰せられると考えたはずだ。反対に、徐福が役人から逃げ切れなかったならば、どうなったか? 短気な始皇帝は、徐福に出立を催促するはずは無く、刑死させたに違いない。
司馬遷は、正確に史実を書こうとして、当時残っていた記録に基づいて執筆したのだろう。しかし史記の徐福についての記述は、それ故、事実を反映しているとは思えないのだが、どうだろうか?
徐福の方士としての力量は、後世の記録にはほとんど記されていない。しかし、彭鐘の元で修行し、その後も葛孔や自然そのものに鍛えられた方士であった。方士の眼力で、徐福には役人の正体が死神だと判っていたのだ。
死神は、彼が関与した者に死をもたらす事が運命付けられていた。始皇帝にはそれに気付かず、死神の復命を受けた。彼は始皇帝に、
「徐福は神薬の材料を集めつつあり、皇帝のご来訪に合わせるように、最後の材料を採取しに行ったそうです。」
とでも報告したのだろう。
その後、徐福が秦に戻ることはなく、死神に取り憑かれた始皇帝はその後あっけなく死んだ。そして、多くの人々の怨みをかったその国も、始皇帝の死後間もなく滅亡する事になった。
時期に十分注意して出航した徐福の船団ではあったが、それでも幾度かの嵐に遭遇した。強風が吹き狂い、船の長さを超える高い波。一度は竜巻を見ることもあった。その都度、船団は散り散りになった。
だが、各船の船長と副船長には極星(北極星)の探し方を教えて、極星を前にして右(東向き)へ進むように指示してある。お互いに見失っても船団の船は同じ方向へ進むため、視界が良くなるとお互いに見つけることができるようになり、再度合流したこともしばしばあった。
合流できなかった船を探索する余裕は無いが、その乗員達も蓬莱山のある島に上陸し、幸せに暮らす事を祈るしかない。
こうして、徐福の旗艦と葛勝が指揮する船を含めて五隻にまで船団が数を減らした時、彭明が徐福にまた木簡を差し出した。葛孔から預かっていたものだと言う。だが、木簡には船中で書いたような字で、
「船団が五隻になって三日、徐福は越に達する。」
と記されていた。
既に水と食料を失いつつあった船団は、パニック寸前であった。乗員の中には、群れ泳ぐイルカを見て食糧にしたいと言うものもいたが、イルカを捕まえに行った彼が船に戻ってくることはなかった。しかし、彭明の木簡に励まされ、それ以上の混乱は起きなかった。すると、二日後に陸地を発見し、三日後には上陸した。
上陸後、すぐに兵が現れて、徐福達は抵抗することなく拘束された。兵の長は徐福達と言葉が通じ、そこが越の地である事が判った。その時、西風が吹いてきた。ここでは、西風ですら砂を含まず、血生臭くも無い。徐福は、この東の果ての島こそが、自分達が根を張り生きて行くべき地であると確信した。
やがて、越国の王の前に引き出された徐福と葛勝は、以前に越に来たという葛勝の父である葛遊の話、蓬莱を探しに海を越えて来た話をした。すると、越王は
「葛遊は面白い奴だったが、お前達もその仲間であったか。お前の言う蓬莱という山は知らない。だが、蓬莱は方丈、瀛州とセットで、神仙の住む三山とされていると聞く。そんな雰囲気を持つ三山としては、ここから南東の彼方に、畝傍、耳成、香具山という山があるそうな。行ってみるが良い。」
と言って、徐福達の蓬莱探索に協力してくれる事になった。
その日から、徐福達は越王の客になった。
越王に仮の住まいを与えられ歓待された夜、久しぶりに徐福は彭明と寝所を共にした。方術には「房中術」が含まれ、二人はそれを実践しようとしていたのだ。
「房中術」というと、現代の日本では色欲を満たすための行為というイメージが強い。しかし、本来は子孫を残すための行為である。儒教でも、孝道のために重要であるとしていたのだ。先祖、親から引き継いだ命を、子供、子孫へ繋ぐ為の行為だからだ。
徐福と彭明は、子々孫々、この島に根付こうと決意していた。房中術の実践は二人にとって真剣なものであり、彭明は徐福に導かれて高みに達した。
やがて、高みから戻って来た彭明に、徐福は問うた。
「愛する彭明よ。貴女はいつも私が行き詰まると木簡を差し出し、私はいつもその木簡に導かれてきた。私をここまで導いてくれたのは、貴女自身ではなかったのか?」
「徐福さま、それはある意味で正しく、ある意味では違います。」
「どういう事だ?」
「時々、私の夢に父が現れるのです。父は占うと、その結果を木簡に書き、徐福さまに渡すように言うのです。夢の中の木簡は、徐福さまには渡せません。そこで、覚えておいて、目が覚めると書き写して徐福さまにお渡ししたのです。お役に立てましたでしょうか?」
「もちろんだよ。彭明がいなければ、貴女の木簡が無ければ、ここに至る事はできなかっただろう。」
徐福はそう告げると、再び彭明と高みを目指した。
徐福達がその後何処へ行ったのか、誰も知らない。だが、大和三山に近い熊野周辺には、徐福ノ宮など徐福に関わる伝承が多く残されている。また、その近くにある葛城という地名は、葛一族の城という意味ではなかろうか?
それに、徐福の船団と別れた船も、その一部は日本の各地にたどり着いたに違いない。彼等もきっと、団長の「徐福」の名前を旗頭にしたはずだ。また、彼らは秦と言う国家に反目しつつも、やがて滅亡した秦から逃れて来た人々を助けたのだろう。それ故に、今もなお「徐福」の名前は「秦」という国名と共に、伝説として日本中に点在する。
二人が生きた時代から二千年以上が過ぎ、秦はもちろん「海の果ての越国」もとうに消えた。しかし、読者の貴方や著者の私は、徐福と彭明の遠い子孫であるかも知れないのだ。徐福の伝説は、今もなお生き続けている。
最終話までお読み頂き、ありがとうございました。
自信が無いながらも、初めて歴史小説を書いてみましたが、如何でしたでしょうか?
宜しければ、感想等頂けると嬉しいです。