3. 海の果ての越国
冬と初春は海が荒れる。徐福が臨淄に戻って来た頃には、すでに荒れ始めており、辛うじて港へ滑り込んだのだった。徐福は、冬の間に当時としてはやや大型の船を建造し、十五人の水夫を雇った。海が落ち着いて来たのを見計らって会稽へ出帆した頃には、すでに五月となっていた。
出帆に良い季節を選んだものの、それでも時には嵐が来て、船は木の葉のように揺れた。時には、沿岸の港に退避し、少しずつ南下した。こうして、会稽に着いた時には、既に六月。雨が降る中、会稽の港にたどり着いた。
葛孔は、会稽では有名な知識人であり、その家を探すのは容易であった。彭明と二人、身支度を整えて葛孔の家を訪問すると、そこは使用人も多く活気に満ちていた。門前で名乗り、取り次ぎを依頼すると、中から葛孔本人が現れた。
「そろそろ、参られると思っておりました。おおよその事情は存じております。先ずは、弊宅でくつろがれよ。」
徐福は、葛孔本人に会うのは初めてだった。葛孔は彭鐘よりも年長で、六十五歳位だろうか?想像より優しい言葉をかけられて、少しホッとした。徐福と彭明はそれぞれ客間を与えられ、浴室も使わせてもらえた。そして、その後は葛孔、徐福、それに彭明だけの、ささやかな宴が開かれた。
宴の席では、最初に葛孔から彭明へ、彭鐘が亡くなった事に対する哀悼の言葉が述べられた。彭明は、彭鐘の刑死についての連絡等、これまでの厚情に礼を述べた。続けて、徐福は突然の来訪を詫びると共に、これまでの経緯を話した。
すると葛孔は、
「楚の滅亡の際には、徐家にもお世話になりました。彭家と徐家の助けが無ければ、葛家は存続出来たかどうか…。とにかく、お手伝い出来る事があれば、言ってください。ただし、私は隠居の身でして。」
と言って、手を二回叩いた。
「お爺様、お呼びでしょうか?」
徐福よりもやや歳上に見える男女が、ドアを開けて現れた。すると、葛孔が説明した。
「こちらの男が、私の孫の葛勝。女は、その妻の陳玲です。二人共、海の果てへの移住を望む者です。どうか、その日が来たら、お連れ頂けないでしょうか?きっと、徐福殿のお力になると思いますよ。」
葛勝と陳玲は、目をパチクリさせて、顔を見合わせた。それを見て、葛孔は笑いながら言った。
「こちらは、徐福殿と彭明殿だ。お若いけど、凄まじい経験をしている。胆力では、お前たちでも敵うまい。」
そこで、ようやく葛勝と陳玲は状況を理解して、徐福と彭明に向き直って挨拶した。
「私達は、いつか蓬莱に行きたいと願う者です。どうか、蓬莱探索には、我々もお連れ下さい。」
葛孔はしばらく笑っていたが、急に顔を引き締めて言った。
「その前に、皆に少し事実を教えておこう。ただし、今から話す事は、葛家でもごく一部しか知らない事だから、内密にな。」
そう言って、葛孔が語った事をまとめると、こうなる。
葛孔の子供達は、今や方士では無く、商業で生計を立てている。その中には、海を越えて東の果ての国に行った事がある者もいた。葛勝の父親の葛遊である。
葛遊が会稽を出港した後、渤海の先の東の海の果てに流されて着いた場所は、なんと蓬莱では無く越であった。中国大陸内の越はとっくに滅ぼされていたが、海へ逃れた者達が、海の果ての島に越を建国したのだと言う。
だから、蓬莱はさらに東にあるはずだ。まず、越へ行くためには、船を改善し、天文を利用した航海術を身に付ける必要がある。そのためには、三年位、会稽を拠点に貿易船の航海術を身に付けてはどうか?また、同行者もその間に募ってはどうか?
これを聞いた徐福は、思わず唸った。そんな事は聞いた事が無いが、葛孔の態度や口調から、事実であろうと思った。そこで、葛孔の言に従う事にした。
「葛孔様、秘密を打ち明けて頂き、ありがとうございました。甘えさせて頂き申し訳ありませんが、是非ご協力頂けますよう、お願い致します。それに、葛勝殿、陳玲殿、我々は未熟ですが、是非ご指導賜って蓬莱に到りたいと存じます。」
徐福が頭を下げると、それに倣って彭明も頭を下げた。
その後は、より具体的な話になった。しかし、長旅と気疲れが出た彭明は、眠り込んでしまった。それを見た陳玲は、徐福の許可を得て、彭明を抱えて寝所へ運んだ。それと共に、葛勝も退出した。後には、葛孔と徐福のみが残された。
その間に、葛孔が徐福に問いかけた。
「徐福殿、あなたと彭明殿の関係はどうなっておられるのか?」
「ご存知の様に、彭明は師の娘です。」
「では、質問を変えよう。あなたは、彭明殿をどう思われているのか、伺いたい。女として興味が無く友人か使用人にしたいのか、側女にしたいのか、あるいは奥方にしたいのか?」
葛孔にジッと見られて、徐福は答えに詰まった。と、葛孔の表情が緩み、
「いや、失礼。彭鐘殿が彭明殿をあなたに託したのだ。たとえ彭鐘殿が恩人であっても、あなたが彭明殿をどうしようと、私の知った事では無い。しかし、あなたが彭明殿を娶りたいのであれば、私が媒酌人となる事は、私にとって喜びであると言いたかっただけなのだが…。」
徐福は葛孔の心遣いに気づいて、心のつかえが取れたのを感じた。
泣いていた彭明、順調な旅の途中で見せた笑顔、荒れた海で皆を助けたいと頑張っていた彭明…。そして、彭明は師の彭鍾の一人娘である。そんな彭明を、使用人や側女には出来ない。だが、妻がおらず彭明との年齢差が親子ほどには無い徐福が彭明を養女とするのは、後々彼女にとって立場が悪くなるかも知れない。
となると、彼女を妻にむかえるのが最善だと思った。しかし、彭明はどう思うのだろう?この時代の貴族の女性ならば、今の彭明の年齢…十二歳位で婚姻するのは珍しくない。それよりも問題は、相手が徐福で良いと彭明が思うかどうかだ。
このように葛孔に正直に答えると、葛孔は吹き出してしまった。
「失礼した。あなたを侮辱する気は毛頭無いので、許して欲しい。周りから見れば、あまりに明らかなのに、一番近くにいるあなただけがわからないとは…。いや、男女の仲とはそんなものだろうよ。」
徐福は少しムッとしたが、態度には出さなかった。
すると、葛孔は続けた。
「三年程、あなたが葛勝と共に航海術を学ばれている間に、彭明殿に陳玲と共に薬草や医術の知識を教授しよう。お望みなら、彭明殿のあなたへの気持ちも陳玲を通して聞いておくが、如何かな?」
徐福は新しい師を得た心地がして、全てを葛孔に委ねる事にした。
「私と彭明の事、宜しくお願いします。」
徐福は、また頭を下げた。
その夜更け、ドアを叩く音がして目が覚めた。ドアを開けると、そこに居たのは彭明だった。
「徐福様、夜遅くにすみません。でもその…一度目が覚めたら眠れなくて…。お近くで休んでも良いでしょうか?」
「良いよ。ここにおいで。」
徐福の隣で横になった彭明は、直ぐに寝息をたてた。
その寝顔を見ながら、徐福は頭を撫でた。可愛い彭明。しかし、まだまだ子供だ。異性としては、とても考えられない。美形の女の子である彭明は、いつしか美しい女性になるとは思っているが、それはずっと先の事だろう。葛孔殿も気が早い事だ。