698.物語 ⑥結晶世界
本日もこんばんは。
優しいものになればいいなと思います。
目を覚ますと、私は見知らぬ場所にいました。水面にいるようですが、沈む気配はありません。動くたびに波紋が起き、とてもきれいでした。覗き込むと、鏡のように私が私を見ています。
どこまでも続く空は青く、はいた息が風にさらわれていきます。海と空の狭間に立っているようで、幻想的ですが少しだけこわい。
他に何かあるかと見渡すと、
「…………」
遠くで白い光が瞬きました。結晶と同じものです。近づこうか迷っていると、光は私の方に動いてきました。
逃げ場もなく、その場に留まっていると、やがて光は数メートルの距離で止まりました。
どうしましょう。触った方がいいのでしょうか? それより、ここは一体どこ。普通なら、そうした疑問が生まれてくるはずですが、私は思考が別のことに埋め尽くされていました。
目を覚ます前に見ていた光景。過去の記録だと思います。いにしえの時代に存在した大聖女の生涯。初代勇者の少女。
「…………クレイドさん」
彼女の名前を呼びます。
浮遊するそれは、私に近づくと人の形に変化していきました。
「…………」
声を失った私は、眼前に現れた人から目を離すことができませんでした。幾重も広がる白い羽。透き通るような白い髪。頭上には淡く光る輪。
本の中で見た天使の姿でした。あまりに神々しく、まとう雰囲気はひとの領域から外れているように思えます。
ただ、それ以上に目を離せない理由がありました。クレイドさんの過去の時からずっと思っていたことです。彼女の見た目は、魔王さんと瓜二つでした。明確に違うのは、瞳の色。クレイドさんはうつくしい赤色をしています。
ステンドグラスを見た時と同じような後ろめたさを感じますが、からだを動かすことができません。耐えきれなくなり、視線を足元の水面に落としました。
ふと、視界の中で白い羽根が舞っていきました。クレイドさんが羽を動かしたようです。私に触れないわずかな距離。見ると、彼女が目を伏せて様子を窺っていました。
「……ごめんなさい。こわい想いをさせました」
開口一番、彼女は謝罪をしました。
「ここに連れてくるためには、わたくしの過去を通る必要がありました。ゆえに、不要な傷をあなたに負わせることになった」
……傷。それはどういう意味なのでしょう。
「わたくしの記憶は、あなたにとって他人事ではないでしょうから」
「……赤い目のことですか?」
「えぇ。苦しい思い出を呼び起こしたでしょう。ですが、もうだいじょうぶ。ここにはあなたを傷つけるものは何もありません」
羽が広がり、辺りを示します。どこまで続く青い世界に、色とりどりの花が咲き乱れていきました。遠くで鳥が飛び、うさぎが駆けていきます。羽ばたく蝶が肩に止まり、安息を告げるようでした。
「なんでも言ってください。あなたの好きなものを具現化しますよ」
「……えっと」
それよりも訊きたいことがありました。花や動物にほっと息をついたことで、抱くべき疑問が脳内に生まれます。一つずつ掴み取り、順番を考えました。
「あなたはクレイドさん……ですか」
「えぇ。今の時代では名は失われ、大聖女と呼ばれているようです」
「初代勇者というのは」
「はい。あなたが見た記憶の通りに」
「いまは、天使なのですか……?」
彼女は静かに微笑み、頷きました。
「わたくしは死後、神より命を受けて天使となり世界を見守ってきました。歴代の勇者のことも、魔王のことも」
「ずっと……?」
「ずっと。そして、これからも」
人と感覚が異なる魔王さんですら長い時間なのです。人間として生きてきたクレイドさんは、一体どれだけの時を過ごしたのでしょうか。考えるだけで意識が薄れ、倒れそうでした。
頭を振り、次の質問を口にします。
「ここはどこですか」
「結晶世界と呼んでいます。わたくしの固有魔法により創られた世界です。大聖堂にあった結晶を覚えていますか?」
「はい」
「触れた者の意識を連れてくるように設定しておいたのです。先に説明できず、ごめんなさい。びっくりしたでしょう」
「ま、まあ……、それなりに」
嘘です。めちゃくちゃ驚いています。一周回って冷静になりそうです。
「触れた者といっても、あなた以外は発動しませんけれど」
「私だけ? 勇者だからですか?」
結界に入れるのは勇者だけのようですし、何か伝えたいことがあるのかもしれない。『ちゃんと仕事しろ』だったらどうしよう。ついに天使に怒られるのでしょうか。
しかし、彼女はゆっくりと首を横に振りました。
「いいえ。勇者であることは理由ではありません。あなたがあなただから、です」
「……それはどういう」
「単刀直入に言いましょう。ここにいれば、もう悲しい思いも苦しい思いもしなくて済む。わたくしが守ります。死ぬまで結晶世界にいませんか?」
「えっ…………?」
予想だにしていない言葉でした。一体どういうことです? たしかに、この世界には敵意も悪意もありません。とても穏やかで優しい空気が漂っています。
でも、私を留めておいて、彼女に何の利益があるのでしょうか。いま初めて会ったのです。結晶世界のことも詳しく知りません。混乱してまともに思考が働きませんでした。
狼狽する私とは裏腹に、クレイドさんは落ち着いて言葉を紡ぎます。
「わたくしは、訳あってあなたのことを生まれた時から見守っていました。ですが、天使が人間に介入するのは許されていません。あなたが受ける仕打ちを黙って見ていることしかできませんでした」
驚愕の真実です。彼女は箱庭時代の私も知っているのですか。
「やっと許可され、わたくしはどうにか安らぎをもたらそうと歌を歌いました。それも、夢の中が限界でしたけれど」
「…………」
クレイドさんの過去を見た時から思っていたことがもう一つありました。彼女が歌っていた『安らぎの唄』は、私が幼い頃、夢で聴いた歌と同じでした。ぼやけた世界で鮮明に聴こえた優しい歌。まだ詳しく知っているわけではありませんが、愛というものがあるのなら、彼女の歌がそうだと思うのです。
幼い頃は知らなかったこと。魔王さんと過ごすうちに知ったこと。あのひとからもらったもの。名前の知らないそれは、多分、クレイドさんが『おばあさま』からもらったものと同じ。私が求めることをやめてしまったもの。
答え合わせの時でしょうか。訊いてもよいのかどうか、それもわかりません。でも、私は歌を歌ってくれたひとに会ったら言いたいことがあるのです。
「クレイドさん」
「なんでしょう」
「私の夢で歌ってくれたのは、あなたなのですね」
「えぇ。それしかできませんでした」
やっぱり。あの歌声は彼女のものでした。
「優しさとか愛とか、私にはまだよくわかりません。それでも、あなたの歌を聴いていると、痛みが和らいで眠ることができました。クレイドさんは『それしかできなかった』と言いましたが、私にとってはあまりにも大きなことです」
ゆっくりと、深く深く頭を下げました。
「ありがとうございました。あなたの歌で、私は安らぎを得た。こわい夢から守ってくれて、感謝します」
「…………」
少しずつ姿勢を戻すと、クレイドさんは涙ぐんでいました。
「ずっと守ってくれていたのですね」
「わたくしは何も……、何もできませんでしたよ」
「いいえ。今になってわかりました。私は……、愛されていたのですね」
言語化してなお、素直に受け入れることはできません。けれど、彼女の歌を表現するのに、他の言葉は思いつきませんでした。
生まれた時から見守ってくれたクレイドさん。悪夢をみないように子守唄を歌ってくれたクレイドさん。それはまるで、親のようだと思いました。
「ララ……」
透き通る赤の雫をこぼしながら、彼女はそうつぶやきました。
「ララ?」
「あっ……、ごめんなさい。あなたは名前がないから、わたくしが勝手に呼んでいるだけです。子守唄を『ララバイ』と言う地域もあると知って」
クレイドさんがつけてくれた私の名前。安らぎの唄で育った私に『子守唄』とは、なんだか照れくさいですね。でも、うれしいです。彼女が名前を呼ぶたびに安らぎをもらっていることになるのですから。
「呼んでください。あなたがつけてくれたのなら、うれしいです」
「ほ、ほんとう? いいの?」
笑顔を咲かせて喜ぶクレイドさん。姿は少女なので、こうしていると年相応ですね。しかし、ふと声を落として姿勢を正します。
「……わたくしは、勝手に見守って勝手に名付けて、今回も勝手に結晶世界に連れてきました。大切なあなたに、これ以上傷ついてほしくないというわたくしのエゴのために」
「…………」
「魔王と結んだ約束のことは知っています。その時がきたら、ここから出します。それまでは、痛みのない優しい世界にいてほしい。もう、誰にもあなたを傷つけさせない……」
「クレイドさん……」
「人々と世界を見守る天使として、あるまじき行為だと理解しています。ですが、たとえあなたに嫌われたとしても、わたくしはララを守ります」
強い意思と信念を感じました。今回強行したのは、私が彼女と同じ運命を辿ってきたからでしょう。きっと、数日前の件も見ていたのでしょう。部屋の隅でうずくまる私を見て、胸を痛めたのだと思います。だから、あの歌を歌ったのでしょう。
私の意思に反しても、というのは確かにエゴかもしれません。すでに結晶世界にいるのです。姿も現さず、何も告げずに捕らえることだってできたはず。でも、クレイドさんは説明を選んだ。非難を受け入れるつもりでしょうが、私にそのつもりは毛頭ありません。
だって、ここはずっと優しいのです。きれいな青色があって、鳥が飛んでいて、うさぎが跳ねて遊んでいる。風が頬を撫で、日差しがぬくもりをくれる。
ずっといたいなぁ。ここで暮らせるのは、まさしく幸せでしょう。でも、私は……。
「クレイドさん」
「……なんでしょう」
「私はだいじょうぶです」
「…………」
「あの頃と違い、私は大切なものを得ました。友人もいます。宝物もあります。好きなこともありますし、旅も……、大事なものです」
「そう……。ララには大切なものがあるのですね」
「最初にくれたのはクレイドさんです」
「わたくし?」
「はい。子守唄と、『ララ』という名前を」
生まれた子に名を与え、優しい夢をみられるようにと寝かしつける彼女は、まるで。
「なんだか、母のようですね」
「…………母」
目を見開いたクレイドさんは、赤い宝石のような瞳を揺らし、おどおどした様子で指先を絡めました。
「……もし、あなたさえよければ、いいのですよ」
「……?」
「そのように頼っても、いいのですよ」
「……そのように」
つまり、母のように。
心臓がどきりと跳ね上がりました。思ってもみなかったことです。私の親。存在したはずですが、顔も名前も知りません。私を棄て、親子の縁を切ったであろう誰か。
決して得られないと早々に諦めた親の愛。望むことすら許されないと思っていました。きっと、私の目の色で迷惑をかけたでしょうから。棄てられることは当然で、責めることはできないと。
それが、今になって、親の愛をもらえるなんて。……いいのでしょうか。許されるのでしょうか。私のような人間が、クレイドさんのような立派な人から……。
「…………」
彼女は慈愛の笑みを私に向けていました。いいのですよ、と言われているようで、迷いが薄らいでしまう。
私と同じなのに、彼女の赤色はとてもきれいでした。クレイドさんが繋いだ人の絆は、長い時の中で消えてしまったかもしれません。でも、私はいまを生きている。
彼女の想いを引き継ぐなんておこがましいですが、人々に安らぎを与える一端を担えるのなら、私も歌おうと思いました。彼女が歌ってくれた安らぎの唄を。
いにしえの時代から口伝により広まった大聖女の唄。形を変えて伝えられたのは仕方がないでしょう。でも私なら、同じ形で歌うことができます。これが、私にできる感謝の仕方だと思いました。
「クレイドさん」
「はい」
「これからも私を見守ってくれますか」
「もちろんです。あなたが望めば、わたくしは歌いましょう」
「それなら、安心して眠れます。だから、この世界にいなくても平気です」
「ララ…………」
「心配してくれてありがとうございます。大切にしてくれてありがとうございます。私は幸せ者ですね」
「いいのです。もう二度と苦しまずに幸せでいればいいのです。わたくしが赦しますから、どうか」
「それでも」
ここにはないものがあります。私はあのひとの隣にいたいと思うのです。それが間違いでも、魔王さんは受け入れるでしょう。
「わがままでごめんなさい」
「……いいえ。わたくしの方こそ、わがままを押し付けました。ララ、あなたの気持ちを聞けてよかった。ほんとうによいのですね?」
「はい」
「わかりました。ですが、これだけは忘れないでください」
真っ白な羽が広がり、舞った羽根が空へと消えていきます。手を伸ばしても届かない高い場所。でも、目の前にいるクレイドさんには届きます。彼女は両手を広げ、私を受け止める微笑みを湛えました。
「ララ、あなたを愛しています。これまでも、これからも、ずっと」
そこにあるのは優しい少女の笑顔です。しかし、聖母のようにも見えました。
どこまでもうつくしい世界がゆっくりと崩れていきます。消えていくのが寂しく思える。でも、悲しんでばかりではいられません。
私は足を踏み出し、彼女の腕の中に飛び込みました。自分からこんなふうにするなんて信じられません。でも、人の手がこわいという気持ちは欠片もありませんでした。
抱きついた私を、彼女は泣きながら受け止めてくれました。うつくしい涙でした。
世界が消えていく。彼女の姿も薄らいでいく。結晶世界が終わる前に、私は伝えたいことがありました。未だに言葉にするべきか迷いがあります。一度、言ったものは戻せません。
だから、他の誰にも聞かれないように、神様にすら隠すように、私は彼女だけにつぶやきます。
「――ありがとう、お母さん」
抱きしめる力が強くなったのを感じました。応えるように、私も羽に触れる手に力をこめます。
ただひたすらに優しい世界で、私たちは安らぎを感じていました。
お読みいただきありがとうございました。
生きていくにつれて得るものが増えていく勇者さん。
今回はきっとよいものだと思います。