697.物語 ⑤名もなき少女
本日もこんばんは。
かつて存在した、とある誰かのお話。
わたしの世界は灰色をしていました。
きれいだと思うこともなく、ただ薄汚れた日々を過ごすだけ。
繰り返される暴力を悲しいと思わなかったのは、それが『悲しいこと』だと知らなかったからです。無知が救いだったと知るのは、しばらく後のこと。
わたしの世界にはいつも赤色がありました。くすんだ灰色の中で真っ赤に輝くそれは、人間にとって恐怖の象徴らしいのです。
世界を壊し、命を踏みにじり、あっけなく人間を殺す魔なるもの。彼らの目は赤く、次の瞬間には見た者が赤になる。
この世において、赤色の目は生命を脅かすおそろしいもの。不吉、不幸、死、恐怖、苦痛、悲嘆、憤怒……。ありとあらゆるよくない感情を引き寄せる色。
ゆえに、わたしが棄てられたのは当然の理といえるでしょう。物心がついた時、わたしは魔族に飼われていました。
酒に酔った魔族が嬉々として語っていた話をお伝えしましょう。わたしはへその緒がついた状態で森の中に棄てられていたそうです。おもちゃを見つけた魔族は、遊びのようにわたしを育てました。ある時は奴隷のように、ある時は犬のように、ある時はおもちゃのように、わたしは人としての尊厳など欠片もなく育ちました。
魔族は人間の絶望が大層好きだったようです。そのため、私がちゃんと踏みにじられていることを実感できるよう、一般的とされる教育を施してくれました。
普通の人間ならばこのように生きる。当たり前を提示しながら、わたしからそれを奪い続けました。
常識を与え、読み書きを教え、娯楽を見せびらかし、正しさを説く。そして、残虐で極悪な態度に出る。魔族は己の欲望に忠実でした。
ある時のことです。魔族はわたしに剣の使い方を教えました。どこを刺せば致命傷になるのか、どこを斬れば殺せるのか、魔族は噓偽りなく情報をしゃべります。そして、剣をわたしに与えたのです。
魔族を殺せば自由になれる。初めて生まれた希望は、当然、あっけなく打ち砕かれます。殺害に失敗した日はひどいものでした。いっそ、このまま殺してくれればいいのにと思いました。
しかし、魔族はわたしを生かす。死にたいと願う人間を無理やり繋ぎ止め、絶望の奥深く、さらに暗いところに突き落とすのが楽しいのですから。
館に鍵がかかっていたことはありません。逃げても無駄だからです。開いたままの扉の向こう、どこまでも広がる世界は縁のない場所。
すり減った心は感情と呼べるものを捨て、希望を抱く強さなどナイフで切り裂かれたまま。魔族に教えてもらった言葉を使うなら、ここを『地獄』と呼ぶのでしょう。
弱い人間は強い魔なるものに勝てるわけがありません。違う場所でも、わたしと同じように蹂躙され、死んでいく人間がいるのでしょう。そう思うと、世界が絶望に染まっていくような気がしました。
逃げても希望はない。逃げた先に待っているのも地獄。救いはどこに?
優しいってなに。あたたかいってなに。うれしいってなに。安らぎってなに。
魔族のてのひらの上で転がされる命に何の意味があるのでしょう。なぜ、人間がいるのでしょう。どうして、わたしは生まれてきたのでしょう。
答えが出るはずもない疑問を胸に留め、灰色を見つめ続けました。そんな時です。どうせ死ぬのなら、最後に光が見たいと思いました。
なんでもいい。明るくきれいなものを。
思い立った瞬間、わたしは館を飛び出しました。息が続かなくても走り、心臓が悲鳴をあげても止まることなく、ひたすらに地面を蹴り続けました。魔族は、追ってきませんでした。
外の世界に出られたことで、わたしは束の間の喜びを得ました。自由というものに手を伸ばしていると実感した気でいたのです。しかし、それが虚無だと知るのは早いものでした。
わたしは、逃げた先で暴力、暴言は当たり前に、武器を持った人々から追われました。彼らはみな、わたしのことを『魔族』と呼びました。その時、わかったのです。
この世界で、わたしは人として生きることが許されないと。赤い目を持つ者は魔なるものと同様に扱われ、迫害されるのだと。けれど、魔なるもののような力はないのです。ゆえに、ただ一方的に危険にさらされることになりました。
人間社会に来ても、わたしは魔族の館にいた時と何も変わりませんでした。いえ、相手が人間だからこそ、悲しみはより一層深かったでしょう。これ以上の絶望はないと思っていたのに、あっけなく覆されました。……悪い方に。
『助けて』という言葉の価値は失われ、灰色だった世界が暗くなっていくのを感じました。ああ、どこに行けばわたしは……。
枯れ果てたと思っていた涙が溢れますが、拭う気力もありません。安心して眠れたことなど一度もなく、意識が朦朧としていきます。
誰も助けてくれない。誰もわたしを人として見てくれない。歩み寄りたくても、彼らが持つのは鈍く光るナイフです。どうすればいいのでしょう。どうすればよかったのでしょう。
ここでも答えは出ず、壊れそうな心を握りしめながら、わたしは口を開きました。自分の魂を慰めるために作った歌です。歌詞もメロディーも体を成していませんが、泣きながら歌いました。嗚咽で途切れ、ぼろぼろになった歌。誰も知らないわたしだけの歌。吹き飛ばされそうな風の日も、凍えそうな冬の日も、溶けて消えそうな夏の日も、歌を歌う時だけは、わずかに安らぎを得られたのです。それがただの幻だったとしても、歌の存在はたしかでした。
わたしは、幽霊のように彷徨い、あてもなく歩き続ける旅をしました。魔物から必死で逃げ、人間たちの悪意を一身に受け、震える足で進みました。
幼いわたしにとって、それはまさしく死出の旅でしょう。期間にして一年程度だったと思いますが、よくがんばったのではないでしょうか。
やがて、旅は終わりを迎えます。がむしゃらに生きてきたわたしは、限界に達して倒れました。もう歌を歌う力はありません。これで終わりだと、悲しんだり後悔したりする思考も残されていませんでした。
ただ、風に揺れる花のように、黙って消えていくだけ。世界のどこかで命が終わる、よくある話のひとつ。それでも、這いつくばってでも生きようとしたわたしは、まだ望むものがありました。それが叶わないと理解した時、愚かしくもまだ涙が流れました。
一度でいいから、優しさを感じたい。生まれてきた意味を知りたい。最後の力を振り絞り、『誰か』と手を伸ばしました。わたしの意識は、そこで途絶えました。
〇
まぶたの裏で炎が揺らめいているのを感じます。遠くで布がすれる音がし、何かが動いているようでした。身も心も冷え切っていたはずなのに、わたしはぬくもりの中にいる気分がします。目を覚ましたくないと拒む自分。起きたら、また地獄が待っているのです。夢でも幻でもいい。こんなにあたたかいのは初めてでした。
起きたくないと誰かが泣いている。幼いわたしが泣いている。頬を伝っていく冷たいものは、落ちる前に拭い取られました。
驚いて目を開けると、
「気がつきましたか?」
年老いた女性がわたしを見ていました。しわの多い指が頬に触れ、いまも流れる涙を受け止めています。
「もうだいじょうぶですよ」
老婆はそう言って、柔らかく笑いました。魔族が浮かべる嘲笑とは違う、安心するものでした。
だいじょうぶ。何が? ここはどこ? あなたは誰なのですか。だいじょうぶってどういう意味?
訊きたいことはたくさんありましたが、女性が繰り返し「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と頭を撫でるので、わたしは言葉を発することができませんでした。代わりに、絶え間なく流れる涙とともに、抑え込んできたものが溢れてきます。わたしは、今度こそ枯れてしまうのではないかと思うほど、泣きじゃくったのでした。
女性は聖女だと言いました。教会で祈りを捧げ、魔なるものの被害を受けた者に手を差し伸べる聖職者なのだそうです。神に仕える聖女は、魔の気配を感知することができます。だからでしょうか。わたしの赤目を見ても魔族だと言いませんでした。
衰弱していたわたしは、しばらくの間、女性の私室に匿われました。ある程度回復すると、教会を自由に過ごしていいと言われました。人々が来たら大変なことになると伝えましたが、女性が管理する教会を訪れる人はほとんどいませんでした。
理由は二つありました。一つは、教会が人里離れたところにあること。もう一つは、聖女である女性が高齢になり、仕事をするのが大変になったこと。いつしか、教会は人々から忘れ去られるようになったといいます。たまにやってくるのは、物資を提供する町の人くらい。
女性を『おばあさま』と呼び、慕うようになっていたわたしは、その事実をとても悲しく思いました。
人間はこわいものではない。手はわたしを傷つけるものではない。おばあさまがわたしに触れる時に感じるものは、恐怖ではない。
本の中でしか知らなかったもの。ほんとうに存在するのか怪しんでいたもの。わたしが願っても願っても得られなかったもの。
それを愛と呼ぶものだと知ったのは、紛れもなくおばあさまがいたからです。人間として扱われなかったわたしは、こうして『わたし』になりました。
読み書きができたわたしは、おばあさまと一緒に聖書を読みました。神様の言葉を聖女が記したものです。人を愛しなさい、人を助けなさい、人を赦しなさい。神様は清く正しい教えを説いてくださいました。
でも、おばあさまは違いました。わたしの過去を知った時、『すべてを赦さなくてもいい』とおっしゃいました。
「赦さないことであなたが救われるのなら、わたくしは受け入れましょう。そして、ともに背負いましょう」
泣きながら抱きしめてくれたおばあさま。わたしは彼女に泣いてほしくはありませんでした。笑顔をというものを知ったのです。泣くよりもずっと心が晴れるすてきなものです。
わたしが笑うとおばあさまも笑いました。私が泣くとおばあさまも悲しい顔をしました。それならば、わたしは笑顔でいましょう。あなたがくれた愛を少しでも返せるように。
だから、わたしは赦しました。愛を知り、優しさを知り、ぬくもりを知ったわたしは、魔族が悲しい存在だと気づきました。赤目を恐れ、ナイフを持った人々に安らぎをもたらしたいと思いました。灰色の世界が色づくように願いました。
そのために、わたしは歌いました。ちっぽけだった自分に微かな安らぎを与えた歌を口ずさむと、おばあさまが穏やかな顔で微笑むのです。
「あなたの歌は子守唄のようですね」
「こもりうた?」
「そう。クレイドル・ソングともいいます」
「クレイド?」
小首を傾げたわたしに、おばあさまは何かを閃いたようでした。
「あなたの名前にしましょう」
「名前……?」
「人間は、生まれた時に名前をもらうのです。最初にもらうプレゼントですよ。でも、あなたはそれがない。何もかもを奪われ続けたあなたに相応しい名を考えていましたが、やっと見つけられました」
おばあさまは頭を撫でました。しわしわですが、わたしはその手が大好きでした。
「クレイド。あなたの名前です」
「わたしの……!」
「愛も安らぎも知らぬ幼子だったあなたが、今では慈愛と安寧をもたらしてくれる。この奇跡を忘れぬよう、名に込めます。クレイド、どうか、優しさを失ってしまった世界に光をもたらしてください。赦しの心を持つあなたなら、きっとできる」
「はい、おばあさま」
わたしの歌で誰かが救われるのなら、声が枯れるまで歌いましょう。助けを求めて伸ばした手は、おばあさまが握ってくれました。次は、わたしが握る番です。
できることなら、魔なるものも人間も、等しく幸せになってほしい。夢物語だとしても、理想を抱くことは悪ではありません。
迷える存在はわたしが導きます。それが魔族だったとしても、歩み寄りたいと願うのであれば、わたしは道を照らしましょう。
決意をした日、わたしは神の声を聴きました。そして、聖女になったのです。とてもうれしかったのを覚えています。おばあさまと同じ立場になり、人々を導くことができるのだから。あの日、『わたし』は『わたくし』になりました。聖女クレイドとして、新たな人生を始めたのです。
〇
聖女になったといっても、初期の頃は大変でした。赤目は魔の色という認識が根強いのです。どれだけ人を救っても、手を差し伸べても、彼らはわたくしを恐怖の対象として見ていました。それでも、わたくしは諦めません。何度裏切られても信じました。何度刃を向けられても逃げませんでした。
人々に安寧をもたらすため、できることはなんでもしました。少しでも届くようにと、安らぎの唄を歌いました。
これだけ聞けば、さぞかしわたくしは清廉潔白な人間のように思えるでしょう。しかし、それは事実ではありません。私室としてあてがわれた部屋の机、鍵のかかった引き出しに一冊の本が入っています。
「…………」
そこには、わたくしの赤裸々な想いが綴られています。聖女として相応しくない感情が文字として具現化しています。
わたくしを飼っていた魔族に対する殺意。わたくしの言葉を聞かずに「魔族は死ぬべきだ」とナイフを振りかざした人々への恨み。
愛してほしいと叫ぶ心がいっぱいに書かれています。幸せになりたい。ただ穏やかに生きていたい。求めることすら罪なのですか、と神に問うわたくしが泣いている日記。
とても人様に見せられるものではありません。墓場まで持って行くべきものですが、書くことをやめませんでした。
綺麗事のようですが、過去があったからこそ、わたくしは『今』を得たのです。様々な経験を経て、絶望に打ちひしがれてもなお、安らぎをもたらしたいと思ったのは、地獄を見たからです。
他人が同じ思いを味わうことがないよう、地獄はわたくしでおしまいにしたいと思いました。
おばあさまと出会えたのも、愛を知ったのも、聖女になったのも、悪いものの先に生まれた『わたし』の結果。ならば、すべてを受け入れようと思いました。
何もかもが自分を作るものです。捨てる必要はないと思いました。恐怖は安らぎを求め、悲しみは慈愛をもたらした。聖女として間違いだらけのまま、わたくしは前に進むと決めました。
やがて、微かな変化がやってきます。おばあさまが管理する聖アイビアナ教会に、ぽつりぽつりと人々が訪れるようになったのです。すぐにおばあさまを呼びましたが、彼らは躊躇いがちにこう言いました。
「……安らぎの唄を聴きたいんだ」
この時の感情といったら、とても言葉では表せません。わたくしは歌いながら涙を流しました。うれしくて泣いたのは、これが初めてでした。
わたくしの唄は人伝に広まり、近隣の町や村だけでなく、遠方からも訪問者が増えました。噂を聞きつけた聖職者もおり、歌を覚えた彼らは自身の地にも安らぎをもたらします。そのように過ごす中で、わたくしに武器を向けた人々から謝罪され、握手を交わすこともできました。
いつしか、聖アイビアナ教会には多くの人々が安らぎを求めてやってくるようになったのです。彼らはわたくしを『大聖女』と呼ぶようになっていました。
そして、その時はやってきました。わたくしは神より天啓を得たのです。世界を壊し、蹂躙する魔王を討伐せよ、と。
気がつくと、そばに大きな結晶が浮かんでいました。白く発光するそれは、わたくしの力のようです。名も知らぬ不思議な力も授かりました。これで魔王を倒せと言われているのがわかります。
神は、わたくしを『勇者』と呼びました。悲しみを生むものを倒し、平和をもたらす光の存在。これまでの努力が報われたと思いました。そして、より多くの人を救うことができると感謝しました。
聖女として人々に慕われていたわたくしは、神のお言葉を彼らに伝えました。『勇者』として戦うことを告げると、彼らは不安や期待、願いや祈りの表情を浮かべます。準備を整え、出発する日のことでした。
「クレイド、これを」
おばあさまがくださったのは、彼女がいつも祈りの時に使う装飾品でした。
「お守りです。無事に帰ってこられるように」
わたくしは微笑みます。腰に携えた細剣に触れ、置いてきた結晶を脳裏に浮かべました。
「わたくしは、愛と安らぎをもたらす聖女。そして、勇者です。灰色だった世界に色をくださったおばあさま、そして愛する人々のために、戦って参ります」
だから、どうか。わたくしは祈りました。
「泣かないでください、おばあさま」
「帰ってくると約束してください、クレイド」
わたくしは微笑むだけです。
「大切なものを得たわたくしにはやるべきことがあります。……おばあさま」
手を差し伸べてくださった時よりも年老いた体。震える彼女を抱きしめ、こぼれそうな涙をぐっとこらえました。
「わたしに愛をくださったこと、感謝申し上げます。どうか、お元気で」
そして、さようなら。
わたくしが愛したすべての人々。
たくさん愛されたクレイド。
さあ、参りましょう。勇者の対となる魔王の元へ。
大切な教会から離れながら考えました。なぜ、わたくしが勇者に選ばれたのか。
胸元で見守る神のシンボルを握りしめ、理由を脳裏に浮かべました。おそらく、いいえ、きっと……。
それならば、わたくしは身をもって伝えましょう。やっとわかりました。わたくしが生まれてきた意味と、果たす使命を。
これは今の物語ではありません。気の遠くなるような果てなき未来まで続く物語の始まりに過ぎないのでしょう。
わたくしは呼び水となり、命と物語の流れに一石を投じるだけ。広がった波紋がすぐに届かなくとも、いつか水面を揺らすのでしょう。
わたくしは、そのために存在しているのです。
おばあさまと約束を結びたかった気持ちも、震える手も、心の奥底で渦巻く感情も、すべてわたしを表すもの。人の身には荷が重くとも、あらゆるものからわたくしが消え去っても、必ずやり遂げなくてはいけないのです。
世界から『クレイド』がいなくなっても、わたくしは安らぎをもたらす。
人々に、世界に、魔なるものに、勇者に。そして、魔王に。
お読みいただきありがとうございました。
魔王さんの過去編で少しだけ出てきた彼女の物語でした。