692.会話 月がきれいの話
本日もこんばんは。
『月がきれいな』話ではなく、『月がきれいの』話です。
「魔王さん、今日は月がきれいですね」
「えっ⁉ な、え? いま、月がきれいと言いましたか? ぼくに?」
「はい。それがなんですか」
「ご説明しましょう!」
「静かにしてください。夜なんですから」
「ご説明しましょう。昔、とある文豪が『アイラブユー』を『月がきれいですね』と訳したことで、この言葉は愛の告白を表すとされているのです。つまり、勇者さんがぼくに」
「違います。断固として否定します。誰が魔王さんにそんなこと言いますか」
「でしょうね。知っていたら言わないと思いますから」
「私はただ、ほんとうに月がきれいだったからそう言っただけです」
「共有しようとしてくれてありがとうございます。うれしいですよ」
「まったく、よくわからないことで盛り上がるんですから」
「ちなみに、返し方にも定番のセリフがあるのですが」
「興味はありません」
「ですよね。お顔にめんどくさいって書いてありますもん」
「勝手に告白の土台にされてしまって月も迷惑しているでしょう」
「応援している可能性もありますよ」
「今まで星の数ほどの恋人たちを見てきたはずです。もう飽きていますよ」
「ぼくも見てきました。心が通じ合う瞬間、ひとつ先に進む人間たちのワンシーンを物陰から、草陰から、屋根の上から、マンホールの下から、そっと見守ってきました」
「ただの不審者ですよ」
「胸がきゅんきゅんして、心がぽかぽかして、お月様もきらきらでした」
「携帯電話をプルプル鳴らしておきますね」
「勇者さんもロマンチックしたかったら言ってください。いつでもおっけーです」
「ロマンチックって動詞で使うものなんですか」
「世界にひとりの勇者と魔王が一緒に月を眺める。まるで映画のワンシーンですね」
「毎日見ているじゃないですか」
「だって、今日は勇者さんが『月がきれい』と言うから……!」
「昨日も言いましたよね」
「そうですね。昨日は幻聴かと思って笑顔で終わらせました」
「一昨日も言いましたよね」
「そうですね。一昨日は風が強くて気づかず、後から悶々と考えることになりました」
「今までも何度も言っていると思います」
「そうですね。今日この話をしたのは、そろそろいいかなと思った次第です」
「何がいいのですか?」
「勇者さんに『アイラブユー』を伝える頃合いかと」
「それも毎日言っていますよね」
「『びっぐらぶ』と『大好き』は毎秒言っていますが」
「毎秒は言い過ぎかも」
「『愛している』と『アイラブユー』は毎日言っていませんよ」
「意味が一緒かも」
「さすがのぼくも照れちゃって……」
「今更すぎませんか」
「ですが、知識を増やした今日こそ、ぼくは言います。勇者さん、月がきれいですね」
「そうですね」
「すごい。一切の感情の揺らぎもなく一言で終わった」
「月はきれいですよ。他は暗くてよく見えませんし、魔王さんは……」
「ぼくもきれいですよ? ほら、今日も超儚げ美少女」
「暗くてよく見えません」
「焚き火ありますよね」
「今日は月しか見えません」
「それは上を向いているからです。目線を下げて、ぼくを見て」
「あ、目が慣れてくると星も見えます。きれいだなぁ」
「ぼくは? ねえ、勇者さん。ぼくはどうですか?」
「黙っていればきれいですよ」
「それは難しいですね」
「おしゃべりの封印もできないのですか」
「勇者さんに今日の分のびっぐらぶを伝えないといけませんから」
「お好きにどうぞ」
「ありがとうございます」
「それにしても、ほんとうにきれいな月ですね。手が届きそうですよ」
「えぇ、死んでもいいです」
「おかしなことを言いますね。魔王さんは不老不死でしょう」
「不老不死にすら死を与える月がこの世にはあるのです」
「どういうことですか?」
「いえ、今日は少し肌寒いなと」
「私の方が焚き火に近いので、寄ってきてください」
「いいのですか?」
「肌寒いのでしょう? あったまらないと風邪をひきますよ」
「ぼくは風邪をひきませんが……。でも、お言葉に甘えて」
お読みいただきありがとうございました。
勇者さんが訳すなら『くだらないですね』だと思います。
勇者「今日はほんとうにきれいな月の夜ですね」
魔王「ぼくはもっときれいな月を知っていますよ」
勇者「へえ。さすが長生きの魔王さん。いつどこで見たんですか?」
魔王「いつも、ここで」