397.物語 ⑧待ち望んだ王子様
本日もこんばんは。
幕間のルーチェです。
少女の世界は美しき地下神殿だけだった。
物心ついて時から過ごしている彼女の家。
煩わしいとか落ち着くといった感覚すら感じなくなった水の音。
広い空間に響くのは自分の呼吸音と絵本をめくる音、そして少女が意味も知らずにつけている足枷がこすれる音である。
彼女は自分が幽閉されていることすら知らないが、外に出たいと言っても許されないことには不満を抱いていた。けれど、それ以上するべきことがない。
ルーチェを構成するのはクオンの言葉と絵本の世界。
食事を運び、時に光の神を説くクオンの話は難しく、幼い少女にとっては楽しいものではなかった。ただ、『そう言われたからそうなのだろう』と、意識の奥底にたまっていくだけ。彼女が楽しいという感情を抱くのは絵本の世界に飛び込んでいる時だけだった。
外の世界への憧れが募っていくたびに、彼女は一人芝居でさみしさと欲を紛らわせた。
シンデレラも白雪姫もラプンツェルも、すてきな王子様と結ばれて幸せになっていった。
ぺたりと座ってページをめくるルーチェ。彼女を囲むように広げられた絵本たちは清閑な神殿には少々似合わない。
いつも彼女の目の前にある絵本は決まってラプンツェルだった。
シンデレラも白雪姫も好き。だけど最後、お姫様たちはお城に住むのでしょう?
ルーチェは城に住むプリンセスになりたいわけではない。
「……王子様」
丁寧に結われた長い三つ編みを撫でる。
突然現れた白雪姫と同じ髪色の王子様。りんごと同じ瞳の色をした王子様。ものを知らないルーチェは、もしかして白雪姫だったのだろうかと小首を傾げる。
クオンしか会ったことのない彼女は、あの人以外に会うのならばそれは王子様だろうと思っていた。……信じていた。
ゆえに、王子様だと叫んでしまったのだった。
あの時のルーチェは勇者しか見えていなかった。彼女には待ち望んだ存在がやっと来た、そう思えて仕方がなかったのだった。
ものを知らない良さもある。ルーチェは「女性の王子様もいるよね」と、勇者が少女であることに違和感を覚えなかった。
加えて、絵本のおとぎ話には魔なるものが出てこなかった。黒色が不吉だとか、赤目は魔の象徴だとか、ルーチェの中にその知識はない。むしろ、白雪姫と同じ色だとうれしく思った。
勇者と出会った時のことは感情が高ぶり過ぎてまるで夢のようだと思えた。
曖昧な記憶にならぬよう、頭の中で反芻するルーチェはいつものようにページをめくりながら彼女の言葉を思い出していた。
――ここを出て、広い世界で生きる。
『助ける』と言ってくれた王子様は、『またあとで』と去って行った。
思わず「行かないで」と言ってしまいそうになったけれど、ルーチェはおとぎ話を思い出して留まった。
シンデレラの王子様はガラスの靴を持ってお姫様を探しに来た。
ラプンツェルの王子様は何度も会いに来て一緒に外の世界に旅立った。
白雪姫は……。
「あれは毒りんごを食べていたからしかたないよね」
若干言い訳をしつつ、王子様は一度キリで終わらないと言い聞かせる。
だから、だいじょうぶ。黒い髪と赤い目の王子様はまた来る。
ほんとうは走って会いに行きたいけれど、クオンに捕まってしまう。
裸足で走るには地下水路の道は少し荒れている。
以前逃げ出した時は足裏をケガしてクオンに怒られてしまった。
「…………」
ルーチェはラプンツェルの絵本を抱きしめた。
待っているだけなんていやだ。でも、王子様の言葉は信じたい。
ルーチェは儀式で自分が死ぬことを知っている。
肉体を棄て、人々を救う真の神に昇格する儀式だとクオンは言った。
幼い彼女は『死』がなにか、よくわかっていない。けれど、本能的に拒絶の感情が芽生えていた。だから逃げ出した。王子様に会いたい気持ちで恐怖を隠して神殿を飛び出した。
すべて失敗に終わり、普段静かなクオンから身が縮むような雰囲気を感じて目を逸らしたルーチェ。
彼女を支えるものは絵本だけ。ルーチェではないお姫様に手を差し伸べる王子様だけ。
小さな手を伸ばしてみても、その先には誰もいない。透明な水が流れ続ける神殿は彼女を抱きしめてはくれない。
「…………ルゥの、王子様」
自分に手を差し出したのは彼女だけ。待っていよう、信じていよう。
ルーチェは手鏡を伏せてその時を待った。
彼女のことを唯一『ルゥ』と呼んでくれる王子様を、ただずっと待ち続けた。
お読みいただきありがとうございました。
そろそろ終盤です。お楽しみくださいませ。