336.物語 ➁刻まれた傷
本日もこんばんは。
今回は勇者さんのトラウマがこんにちはしたりしなかったり。
翌朝。ベッド脇でうとうとしていたぼくは、「やあ、お薬の時間だよ!」という魔族の声で目が覚めました。
いけない。熱が下がったことに安心して気が抜けたみたいです。
朝からやかましい彼女には隣の部屋を使うように言ってありましたが、夜中も何やらがたがた音がしていましたね。
「ボリュームを落としてください。勇者さんに響きます」
「おや、ごめん。……お薬の時間だよ~」
「ぼくに言わなくてもいいです」
やれやれと首を振りながら、椅子の場所を魔族に渡そうとした時。
小さなうめき声が聞こえました。
「……ゆ、勇者さん? 勇者さん! だいじょうぶですか。ぼくがわかりますか?」
「…………っ」
「勇者さんっ」
「…………」
朦朧とした様子の勇者さん。薄く開いた目は焦点が合っておらず、目を覚ましたとは言い難いものがありました。
「結構衰弱していたからねぇ。とりあえずお薬お薬」
昨日と同じように注射器を準備した魔族は、勇者さんに向き直って打とうとしました。
ぼうっとしていた勇者さんの目が注射器を捉えます。その瞬間でした。
「……いや、だっ! それはっ、や……。いや……やめて!」
突然叫んだ勇者さんが無理やり体を起こして逃げようとしたのです。かなり体力を失い、誰かの力なしでは起き上がるのも辛いはずです。それなのに、彼女はベッドから降りようとしている。
「ちょっ、勇者さん⁉ 落ち着いてください、だいじょうぶですですから!」
「いやだ……! やめてそれは、だってっ……。うっ……っ!」
無茶苦茶に暴れるので点滴が外れ、腕から血が流れました。そんなことに目もくれず、魔族の持つ注射器から逃げることに捕らわれている勇者さん。
そばにあった物を手当たり次第に投げ、拒絶します。
虚ろだった彼女の目は恐怖の色に染まっていました。
まずい。勇者さんに傷が増える。それに、パニック状態ではなにをするかわかりません。
ここは彼女の安全を最優先に……。
「ごめんなさい、勇者さん!」
ぼくは彼女を抱きしめました。
「っやめ、て……! 触ら、ないでっ。やだ……いやだっ!」
必死に離そうとしますが、疲労が蓄積した体ではぼくを離すことはできません。離すつもりのないぼくに勝てるはずもなく、勇者さんは震えながら「いやだ」と叫び続けました。
「は、離して……! やめて、さ、触らないで、お願いっ……お、願い……」
パニックのあまり、呼吸状態が著しく悪化していく勇者さん。
暴れた時に酸素マスクも外れているので大変です。
ぼくはどうにか落ち着かせようと呼びかけましたが、届いている様子はありません。
ぼくの頭を掴み、爪で顔を裂き、背中を握って逃げようとしている。
ど、どこからこんな力が湧いてくるんですか~!
ぼくを襲う手は彼女自身をも傷つけ、血を流していきます。
まずい。まずい。どうする。意識を奪ってしまいましょうか。
このまま呼びかけたら我に返って動きを止める? そんな賭けのようなことできない。
勇者さんが一番苦しまない方法はなに?
良くない音を喉から発する勇者さんを見ていられない。仕方ない。いまは眠ってもらいましょう。
首に手を当てようとした時、強張っていた彼女の体からふっと力が抜けました。
拒絶の言葉もぱたりと止まります。
「……勇者さん? だいじょうぶですか?」
ぼくを切り離そうと食い込んでいた手がぱたりとベッドに落ちます。
聞いているだけで苦しくなってくる呼吸音とともに、かすかに「……ま、おう、さん」と聞こえました。
我に返った? よかった……。これで息も戻してケガの治療もできます。
「あ、いま離しますね。というか、これには少しワケがあって――」
「わ、たし、なにして……」
「なにもしていません。ちょっと注射器にびっくりしただけですよ」
「ちゅうしゃ、き……っ」
名前を聞いた途端、ふっと強張る体。震えを抑えようとぐっと目をつぶり、ぼくの腕を掴みました。
「だいじょうぶですよ。勇者さんが元気になるように、お薬をいれるだけです」
「や、やだっ……」
思わず出てしまった拒否。けれど、彼女はすぐに息を飲み込むと、「……ごめんなさい。だいじょうぶ……です」と手を離しました。
もう暴れる様子はないようです。ぼくもそっと離れ、すぐそばに座りました。
痛ましくて見ているのが辛いくらいです。
震えが止まらない体を丸め、荒い息を隠そうと口を押える勇者さん。
そんなことをしてはまた呼吸が苦しくなります。けれど、やめさせるために手を掴むのも……。
一部始終を黙って見ていた魔族は、ぼくを見て大きく笑みを浮かべました。
「魔王サマ、お注射の時間だよ~」
「ぼく? というか、今ちょっとそれどころじゃな――」
「魔王サマにはワタシ特製やばやばスペシャル超絶ビッグとんでも注射器でうはははは」
「こわっ。こわいなに⁉ って、なんですかそれ!」
不気味な笑みでぼくににじり寄ってくる魔族は、その手にばかみたいな注射器を持っていました。
ばかなの⁉ 針どうなってんですか!
「一回刺してみたかったんだよ~。ね、ちょっとだけ、ちょっとだけだからさぁ」
「いやですよ! そんなぶっとい針、痛いに決まって――」
まじで嫌がっていたぼくですが、怯えた顔でとんでもない注射器を見る勇者さんが視界に入り、決意を決めました。
「痛かったら承知しませんからね!」
「へーきへーき。アタシは注射針選手権で世界トップクラスと言われたり言われなかったりしているから」
「どっちですか」
「はい、腕とか首とかお腹とか背中とか出して~」
「どこですか」
「派手にやるなら首?」
「派手にやるってなに!」
というか、注射器の中身なに……?
見たこともない色の液体が入っているんですけど……。
「ワタシのスペシャルお薬さ~」
「嫌な予感しかしない」
「そぉれ~」
「ぎゃーーーーーー‼」
ぼくの断末魔に驚いた様子の勇者さん。アッ、いけない。怖がらせないために打たれたんですから、こういう時は、ええと……!
「あ、あれ? 全然痛くないですね?」
「そうだろう~? ワタシは上手だから」
「意味わからんくらい太い針で痛くないのですから、きっとだいじょうぶですよ! なんだか元気になってきましたし!」
「実はこの中身、魔物を爆散させる劇薬――ぐはっ⁉」
「元気百倍な魔王になりましたよ、勇者さん!」
いらんことを言う魔族を蹴っ飛ばし、ぼくは勇者さんに向かって笑顔を咲かせました。
中身がどうであれ、ぼくにはどうでもいいことです。
赤色の目から恐怖の色が消えない勇者さんは、表情を繕うこともできずにぼくをじっと見つめています。
「だいじょうぶ……ですか?」
「はいっ! このとーり!」
「元気そうだからもう一回~うははははは~」
ぶかぶかの袖から何本もの注射器を覗かせ、魔族は楽しそうに這ってきました。
あの、気味わるいんですけど。
「魔王サマ、実験体になっておくれよ~」
「いやだぁぁぁぁ!」
「待ってぇぇぇぇ~うははははは~」
「来るなぁぁぁぁ!」
駆け回れるほど広くない部屋を追いかけっこするぼくたち。勇者さんをリラックスさせるために注射されましたけど、二回目は聞いていません。というか、この魔族の勢いが不気味で普通に嫌だ!
途中から本気で逃げていたぼくは、かすかな笑い声を聞いて立ち止まりました。
「……ふふっ、魔王さん、ガチモードじゃないですか、ふふ」
「勇者さん……!」
よかった。やっと笑顔を見せてくれましたね。呼吸の状態もよさそうです。
ひとまずパニックは落ち着いたと考えてよいでしょうか。
となると、次はゆっくり慎重に……。
「勇者さん、注射がこわいことは悪いことではありません」
「魔王サマもばちばちに怖がっていたものねぇ」
こわかったのはきみの勢いです。
「きみが元気になるために、少しだけがんばってはくれませんか? ぼくにできることがあれば、なんでもしますから」
「ぎゅってして注射器を見えないようにするのも効果的だよ。こどもに注射する時は親御さんによくやってもらうんだ」
隣からいろいろ言ってくる魔族。やってみる価値はありそうですね。
あ、でも勇者さんは触れられるのが苦手でした……。では、別のもので視界を隠すのはどうでしょう。おっ、ミソラさんなるすばらしきぬいぐるみがありますね!
「勇者さん、ミソラさんを抱きしめて顔を隠――」
渡そうと近寄った時、腕を引っ張られて体勢を崩しました。咄嗟のことで踏ん張れず、そのまま勇者さんに倒れ込みます。
あわや押し倒すところでしたが、彼女の方から受け止めてくれました。
ぼくの意図とは別に、再度抱きしめる形になりましたが……あの、これは……。
……いいんでしょうか⁉ いいんですかね⁉ いいってことですよね⁉
『いい』の活用を頭で作成して冷静を努めます。
「ゆゆゆゆゆ勇者さん、あのぼく、これ、あの、えと、あの!」
無理でした。無理です。だって勇者さんから腕を引っ張って……えぇ⁉
「…………なんでもするって言いました」
「そ、そうですけど、勇者さんはだいじょうぶですか?」
「……注射よりまし、です」
「注射より……」
ぼく、そんなになんですかね。まあ、いいですよ。勇者さんに頼っていただけていますし、こうしてくっつけていますし、これで注射できるなら全然問題ないですし……。
注射よりましか……注射より……うん……。
というか、ぼくたちの間にミソラさんが挟まっていますからね。完全なるハグとは言えませんね、これ。きれいな青い目がこちらを見ているようです。
なんだろう、勝ち誇っている目に見えます。やんのか、ミソラさん。
ぼくはぬいぐるみ相手でも負けるつもりはありませ――。
「はい、ちょっと触るよ~」
魔族の声にぐっと体を緊張させる勇者さん。ぼくを掴む手に力が入ります。
いま、ぼくは頼られています。つまり、多少は許されるということです。……よね?
遠慮がちに背中を撫で、だいじょうぶですよと声をかけます。
「勇者クン、もう少しリラックスしておくれ~」
声色の変わらぬ魔族に少しずつ緊張を解き、何度か深呼吸をすると目を閉じました。
「ねえ、勇者さん。最近ミソラさんがライバルのように見えてきたのですが、ぼくはどうしたらよいのでしょう」
注射に意識が向かないよう、どうでもいい話を口にします。パッと出てきた話題ゆえ、ぼくとしてはどうでもよくない議題なのですが、仕方ありません。
「きみに愛されるミソラさんが羨ましくて羨ましくて……。ぬいぐるみというだけで勇者さんと一緒に眠れるミソラさんは前世でどんな徳を積んだのでしょうか!」
「……魔王さんに前世とかないと思うのですが」
彼女も注射のことを考えたくないのでしょう。ぼくを掴みながらわずかに震える声で応えてくれました。
「とはいえ、ミソラさんを抱きしめて眠る勇者さんを見ることができるぼくも、かなり徳を積んだ存在だと判断できますよね」
「魔王が徳って……」
「ぬいぐるみはこどもっぽいからと言いつつ、たくさんかわいがってあげていること、知っていますよ。この間、お店で見つけて買った金色のリボンを毎日結んであげていることも知っています」
「毎度毎度よく見ていますね……っ」
さすがに針に刺される感覚を無視できないのでしょう。気づかないふりをしつつも閉じた目に力がこもるのがわかりました。
震えも大きくなります。
「ミソラさんのふわふわを感じてください」
「三メートルくらいのミソラがほしい……」
「オーダーメイドしましょうか」
「持ち運べないから言うだけにしておきます……はぁ」
魔族が離れた気配を察知し、勇者さんは大きく息をはきました。額に汗が浮かんでいます。かなり耐えたのでしょう。よくがんばりましたね、とよしよししてあげたいです。
「……ごめん、なさい。お手数をおかけしました」
「とんでもないです。ぼくは勇者さんとハグできてはっぴーでしたよ」
間にミソラさんのハグ、ですが。
魔族は注射器を鞄にしまい、深呼吸を繰り返す勇者さんにガーゼと消毒液を見せ、
「ケガの治療もさせておくれ」
と近寄りました。
点滴針を無理やり引き抜いたことによる出血がそのままでしたからね。
魔族は何をするか丁寧に説明し、使う道具をこれでもかと見せました。
「いいかい?」
「……はい。ごめんなさい」
「いーよいーよ。よくあることさぁ」
魔族は慣れた様子で血を拭き処置を施すと、暴れた時のケガも同時に治療していきました。
見事な動きです。無駄のない動作により、あっという間に終了しました。
勇者さんは関心を示した様子でそれを眺めました。
「はい、しゅーりょ~。お疲れサマ」
魔族は医療器具をそそくさと片づけたと思ったら、何かを抱えて戻って来ました。
「やあ~、よくがんばったね、勇者クン。ご褒美にシールをあげようね。いまはねぇ、この鬼のシールが人気かな。アタシのおすすめは炎をまとった鬼でねぇ」
「……そこまでこどもではありませんよ」
「こどもさぁ。アタシからしたらしゃべれる赤子って感じだよ」
「しゃべれる赤子」
「シールよりぬいぐるみの方がいいかい? たくさん持ってるよ~」
「いえ……お気づかないなく」
魔族と会話する勇者さんに上着をかけ、コップを手渡します。
「白湯です。飲めそうでしたら、一口だけでも」
「ありがとうございます。たぶん、飲めます」
「無理はしなくていいですからね」
「はい」
まだしんどいはずの勇者さん。ぼくはクッションを背中に当て、なるべく体力を使わせないように配慮すると、
「さて」
ぶかぶかの袖で無数のぬいぐるみを持って来た魔族を見つめました。
勇者さんの体調が良くなってきたところで、このひとの番です。
「きみは誰ですか」
「えっ、お知り合いじゃないんですか」
口を開けてぼくを見る勇者さん。
そうなんですよ、知らないんです、このひと。
「知りもしない魔族にきみを治療させたことについてはのちほど全力で謝って謝罪して土下座して切腹する予定ですので悪しからず」
「怒っていませんけど……」
「だめです。ぼくがぼくを許せません」
「めんどくさいな……」
呆れた表情の勇者さん。いつも通りでうれしいです。
「アタシは怪しい者じゃないよ~。名前はないけど、アタシのことを知っているひとは類稀な天才医師だとか天賦のヤブ医者って呼ぶねぇ」
天才医師……ヤブ医者……ヤブ医者ですって⁉
『➁刻まれた傷』お読みいただきありがとうございました。
たまにくるシリアスです。