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310.物語 誰が為の魔法

本日もこんばんは。

今回もSSと温度差があるかもしれません。物語パートの時はいつも同じようなことを言っている気がしますね。

また、普段以上にノリと勢いで書いたのでわかりにくいところがあるかと思いますが、読者様の想像力に丸投げします。みなさまよろしくお願いします!

(注意:軽度の残酷描写があります。苦手な方はお気をつけください)


長さ目安:SS 26本分

 私たちが立ち寄った村は、これまでとは異なり夜も賑やかな場所でした。店は深夜まで営業し、人々も外で話したり食べたりを楽しんでいます。

 ……エトワテールは別で考えていますよ。あそこは特殊な場所でしたから。

 通常、日が沈んだあとは魔なるものの時間とされています。それを踏まえると、この光景はいささか不思議なものです。強力な結界が張られているわけでもなく、魔物退治を行う強き者がいるわけでもなく、ただ平和な村。

 私と魔王さんは珍しいこともあるものだと顔を見合わせ、宿を抜け出して散策することにしたのでした。

「昼間が平和なのはわかりますけど、いまは夜十時ですよ。こんな村があるんですね」

「ぼくもびっくりですよ。平和でとってもすばらしいです。世界がこうなればいいのですけれど」

「そしたら勇者の仕事もなくなりますね」

「のんびりぐーたらできますよ」

「それはすばらしいです。……割といつもですけど」

 人々の話し声を聴きながら、小さな村をパトロールするように歩いて行きます。

 教会があるような場所ではありません。駐在する聖職者もいないでしょう。

 店先に並んだテーブルでは大人たちが赤い顔でジョッキを傾け、次々運ばれてくる料理をおいしそうに頬張っています。

 明かりはいくつもの店を照らし、まるで眠る気配がありません。

 楽しそうな笑い声が響き、こどもたちが起きてしまわないか心配になるくらいです。

 誰の顔にも魔族や魔物に怯える色は見えません。彼らの中にその存在がないとすら思えます。あまりに異質すぎて、別世界に来てしまったのかと一瞬思ったほどでした。

 でもまあ。

「なにもないならそれで」

「そうですねぇ。異変はないようですし、ぼくたちも一杯やっていきますか?」

「私はお酒飲めませんよ」

「やですねぇ、ジュースに決まってますよう」

「ぎくっとした顔しましたけど、気のせいですかね」

「き、気のせいですね」

 魔王さんに誘われて、私は帰る前にお店に行くことになりました。

 あたたかな光が灯る店先。二人掛けのテーブルに座り、ちょっと夜更かしの乾杯。

 黒いフードを被る私を不審がることもなく、店員さんは楽しそうに接客をしてくれました。

 怪しいとか思わないんですかね? もしかして、村全体で危機意識が異常に低い?

 ストローをくわえながら、私が不審がって辺りを見てしまいます。

 もはや、平和すぎて心配になるというか、不安になるというか。

 いざ魔物が襲ってきた時に然るべき行動を取れるのでしょうか。

 いくら雑魚でも訓練はしておかないと体が動きませ――って、なんで私は人間の心配などしているのでしょう。どんちゃん騒ぎをしたいなら勝手にしていればいいのです。私の知ったことではありません。

「いいですねぇ、この村。住みたいくらい穏やかですよ~」

「住みたくはないですが、今まで見てきた中では一番平穏ですね。平和ボケしているようにも思いますが」

 ため息をつきながらオレンジジュースを吸い込んだ時、うしろから「あなたたち、旅人さん?」と声をかけられました。

「……っ!」

 びっっっっ……くりした。オ、オレンジジュースが変なとこに……。

「そうですよ。どうもこんばんはです」

「こんばんは。女の子二人旅なんてすてきねぇ」

 別のテーブルについた女性はこれまた楽しそうに笑いながら私たちを見ます。

 見るな見るな。あっち行ってください。いや、行かなくてもいいので見ないでください。

 心の中でぶんぶん首を振る私に構わず、女性は椅子をずらしてこちらのテーブルにやってきました。律儀に自分の飲み物も持っています。

 ああああなぜくる。やめろお帰りください。

「この村、なーんにもないでしょう?」

「平和がありますよ?」

「あら、いいこと言ってくれるわねぇ」

 平然と会話する魔王さんですが、自分の方に意識が向くように体をずらしたようです。

「ぼくたち、旅をしている上で夜は外に出ないことが基本なんですけど、この村の人たちはそうでもないんですね。魔物は出ないのですか?」

 気になっていたことを質問する魔王さん。

 魔物が出ないなんて、そんなことあるわけ――。

「そうなのよ~」

 えっ、ほんとに? まじで言ってます?

「この村だけじゃなくて、近隣の森まで平和そのもの。ぜーんぜん魔物も魔族も出ないから、わたしたちはすっかり武器も持たなくなって夜までパーティーしちゃってるってわけ」

「すごいですねぇ。なにか特別な対策でもしているんですか?」

「なーんにも」

 女性は愉快そうに笑いました。

 うそでしょ? なにもしていないのに魔物がゼロなんてことあるんですか?

 勇者、いらないじゃないですか。

「なにもせずに魔なるものの被害がゼロとは、いやはやすばらしいです」

「昔は多かったんだけど、最近はめっきり」

 ……ん? 昔はあったんですね。となると、気になるのは。

「いつから被害がゼロに?」

 魔王さんが訊いてくれました。

「いつだったかしらねぇ~。最近よ。えーっと、九年前くらいかしら?」

 九年前は最近ではないです。

「最近ですね!」

 このロリババアめ。

「ある時からパタッと出なくなってね、理由はわからないんだけど出ないなら出ないでいいかな~って村の人も言っているわ」

「それもそうですねぇ」

「あ、でもね、こんな話を聞いたの」

「なんですか?」

 顔を近づけてくる女性。私はさっと顔を逸らして耳だけ傾けます。

「ここから少し離れた森の中で、獣が唸るような声を聴いたって噂」

「ほお。獣が唸るような声ですか。森の中なら獣がいても不思議ではないと思いますが」

「それが、おかしな点があるのよ」

 女性はどことなく弾んだ声でした。平和すぎて刺激を求めているのかもしれません。

「獣だったら捕まえて肉にしようと思った人が声の方に進んだら……」

「進んだら?」

「なんと、見知らぬ家が建っていたそうよ」

「おうちですか。特におかしくはないと思いますが……」

 魔王さんは首をひねり、女性の話を促します。

「どうやら、獣の声はその家の中から聴こえたらしいのよ! きゃー! 事件ね!」

 やっぱり楽しそうでした。ていうか、作り話じゃないですか?

「どう? こわかったかしら?」

 女性はくすくすと笑いながらグラスを飲み干します。絵に描いたような「ぷはー」を披露すると、

「なんにもないけど夜まで遊べる村よ。だからこわがらずに楽しんでいってちょうだいね」

 そう言って私に笑いかけました。

 フードを深くかぶり、ずっと黙ったままいた私をこわがっていると勘違いしたのでしょう。失礼ですね。私は勇者ですよ。なにもこわがっていません。あなたより強いです。

 ……とも言えず。私は小さく頷いて応えました。

「酔っぱらいの話に付き合ってくれてありがとう、少女たち。これはお礼よ」

 女性は空になったグラスをそのままに、ふたつの伝票を持って店内に消えてきました。

 やがて出てきた彼女は「よい夜を」と告げて夜の道を歩いて行きます。

「ごちそうさまです~!」

 手を振って見送った魔王さんは、フードで見えない私の顔を覗きこむように「どう思います?」と微笑みました。

「どうもなにも、彼女の言うように酔っぱらいの作り話でしょう」

「もしかしたら、その家に魔なるものが出ない理由が隠されているかもしれませんよ」

「だとしても、被害がないことは良いことです。私の出番はありません」

「それもそうですね。村に問題もなさそうですし、明日出発しましょうか」

 そして、翌日。夜更かしで寝起きの悪くなった魔王さんに脳天チョップを食らわせ、私たちは少し遅めのチェックアウトを済ませました。

「まだじんじんしていますぅ~……」

 涙目で頭を抑える魔王さんを、大げさだなぁと横目で見ながら歩いていると、少し遠くに木々が密集している場所が目に映りました。

 昨夜、女性が言っていた森でしょう。道は森の方へ続いています。この先へ行くにはあそこを抜けるしかないようですね。

 それにしても。

「…………」

 ほんとうに魔の気配がありませんね。昼間だって彼らは出ます。森のように人気のない場所はたむろしやすいところですし、歩いている時にばったりこんにちはすることなんて日常茶飯事です。

 まあ、仕事がなくていいですけど。

 ぐーたら最高です。

 これで怠惰勇者の本領発揮ができるというものですよ。最近、どうにも大剣が重くて捨てたいと思っている私ですが、使わなくていいなら背負ってやってもいいでしょう。

 この大剣、私には持てますが重いのは重いのです。

 今まで何も思わなかったのは、ほんとうにどうでもよかったからでしょう。腕に乗る重さを感じ始めたのは、このところ勇者としての私が引っ張られるようになったから……と思います。剣を振るう理由が生まれているから、剣の重みも強くなったのかもしれません。

 でも、それとも別に、この武器はとても扱いにくいのです。

 重いからだけではありません。その大きさゆえに私まで傷つける。ケガをしようがどうでもよく、気にもしていませんでしたが、最近は……。

「敵がいなければ勇者さんが戦う必要もないのでぼくは安心ですよ。きみはいつもケガが絶えませんからねぇ。ぼくは心配で心配で」

「……そんなに気にしなくていいですよ」

「気にします! まったくもう……」

 頬を膨らませる魔王さんは、私の大剣を見て口を尖らせます。

「かっこいいですけど、困りますね」

「仕方ありません」

 これを使うしかないのですから。

 勇者になった時から背中に感じる鈍い重み。はやく行け、使命を果たせと急かされているようで嫌いな冷たさ。

 肩こりもしますしね。はあ、やれやれです。

「勇者さんが縮んでしまわないか心配です」

「やかましいです。そのアホ毛引っこ抜きますよ」

「横暴! このアホ毛は勇者さんを感知するすぺしゃるなセンサーになって――」

 魔王さんの言葉が途切れます。私も呆れた顔をしまい、その気配を感じていました。

 強い魔の気配。とても大きい。ぐるぐると渦巻くような気味の悪さがあります。

 どこから? もう少し先。人間は? 気配はしない。悲鳴や音も聴こえない。

「……魔王さん」

「はい。おそらく超級かと。行きますか?」

「なんですかその質問。無視していいんですか?」

「嫌なことはしなくていいのですよ」

 いつもの笑みであっさりと言う魔王さん。

 ……はあ。いつもは背を押したりローブを引っ張ったりして「勇者としての行動をしてください」と言うくせに。

 魔の気配は道を逸れた先のようです。無視して進めば森を抜けて次の町に辿り着けるでしょう。でも、目を逸らすには魔力が強すぎる。気持ち悪いです。

 仕方ありませんね、人間がいないかどうかだけでも見てあげるとしましょう。

 私は道から足を動かし、生い茂ったままの草を踏みながら進んでいきます。

 誰も歩いた形跡のない場所です。

 魔王さんは私よりも少し先を歩き、辺りを警戒しているようでした。そんな様子を微塵も感じさせない態度と表情ですが、多少はわかるようになりましたよ。

 そのまま歩いていると、やがて人気のない場所に突然一軒家が現れました。

 昨日滞在した村からも離れ、森の道からも逸れた場所に家……。

 まるで隠れるように建つそれは、あたたかな色に塗られて一見するとかわいらしいものでした。けれど、私と魔王さんは感じていました。

 とても強い魔力が家を覆っている。魔の気配がとても濃い。

 なんですか、これ。どうなっているんです?

 人は住んでいるんですか? 住んでいるなら、無事なのでしょうか……。

 魔王さんがこくりと頷き、扉に近づきました。私もあとに続きます。

 手で下がっているようにいわれ、扉から距離を取ったまま魔法の準備をします。ちゃんと用意しておかないと使えないのです。まったく、これもめんどうなことですよ。

 魔王さんがそっと手を伸ばし、コンコンコン。三度のノック。

 返事は――。

「はーい!」

 ……いる⁉ 女性の声です。いや、魔族や魔物の何らかの技の可能性もあります。まだ油断はできません。

「はーい、こんにちは。あら、旅人さんかしら?」

 がちゃりと開いた扉から顔を覗かせた女性は、朗らかな声で私たちを迎えました。

 茶髪を揺らす彼女から魔の気配は感じません。人間……みたいですね。

 じゃあ、この強い魔の気配は一体……。

 私の前にいた魔王さんは警戒を隠して笑顔を浮かべました。

「そうなんです。ぼくたち旅をしている者なんですけど、ちょっとお訊きしたいことが――」

「勇者様?」

 女性はぽつりとこぼしました。

 まあ、いつものことですね。魔王さんの見た目と笑顔で勇者と思う人は数えきれないほど――。

「あなた、勇者様よね? あらぁ! うれしいわ、まさか勇者様がうちを訪ねてくださるなんて!」

 彼女はとてもうれしそうに手を合わせ、顔をきらきらと輝かせました。

 魔王さんではなく、私を見て。

 ……うそ。なんでわかるんですか。だって私、フードをかぶって魔王さんのうしろにいるんですよ?

 女性は目を潤ませて喜び、歓迎の言葉を口にしました。と、思ったら、次は魔王さんを見て口元をほころばせました。

「あなたは魔族よね? それも、魔王。違う?」

「……不思議なことをおっしゃるのですね。こんなところに魔王がいると思うのですか?」

 魔王さんは笑顔のまま問いました。

 この状況で笑顔だと逆に怪しいですよ、魔王さん。

「あら、ごめんなさいね。勇者様がいるなら魔王もいると思って。うふふ、わたし、魔女なのよ。それに、ここで魔力の研究をしていてね、おかげで魔なるものの気配を感知するのが得意になったというわけ」

「魔力の研究……ですか」思わずつぶやきました。

 そんな研究があるんですね。

「ええ。……もしよろしければ、お茶でも飲みながらいかがかしら? 歓迎するわ。なにせ勇者様ですもの! はあ、うれしい。わたしね、ずっと会いたかったのよ」

 女性は私をしっかりと見て家の中へと手を伸ばします。

「わたしの研究について、ぜひ勇者様のご意見をいただきたくて」

「待ってください。では、この魔力はきみの研究によるものですか?」

 魔王さんの問いに女性はあっさり頷きます。

「その通りよ。でもご心配なく。研究で使ったあとはちゃんと倒しているから」

 私はふと気がつきました。

 近辺に魔なるものがいない理由。まさかそれって。

「わたし、研究のためにこの辺の魔物たちを捕まえているの。村や旅人に被害は出ないし、わたしは研究ができてウィンウィンでしょう?」

 なるほど。あの村が平和でいられるのは彼女の功績だったのですね。

 勇者としてはありがたいことです。私の仕事も減らしてくれていますからね。

 これは感謝しなくては。

 それに、魔力の研究というのもちょっと気になります。魔女の研究……。おどろおどろしいイメージが脳内に浮かびます。

 私でも役に立つのでしょうか? それなら……うーん、少しなら。

 私が勇者であることや魔王さんが魔王であることもバレていますし、このまま軽く話を聞いてから行くとしましょう。

 ていうか、魔王だと思っているひとを家にあげますかね、普通。半分冗談で言ったとか?

 その辺もおかしな人です。

 私は魔王さんに向かって小さく頷き、大剣に添えていた手を下ろしました。

 魔王さん、私の順で家にお邪魔します。

 女性はうれしそうに微笑むと、しっかり扉を閉めました。

「お好きなところに座ってちょうだい。いまお茶をいれてくるわ」

 女性が奥へ消えると、魔王さんはそそくさと座ってふうと息をつきました。

「魔女の研究ですかぁ。内容が内容だけに人里離れたところに家を構えるのも頷けます。特に問題はなさそうですね」

 テーブルに大剣を立てかけ、旅行鞄を置くと魔王さんの隣に座りました。

「この魔の気配も捕まえた魔物でしょうか」

「雑魚でも集めればそれなりの魔力量になりますからね。強いのが一体いるだけで跳ね上がりますし、研究用に数を揃えているのかもしれません。魔力は強いですが、あの人は平気そうです。慣れているようですし、たぶん彼女自身も強い魔女です。うん、問題ナッシングですねー」

 のほほんと伸びをする魔王さん。

 この短時間で警戒を解きすぎじゃないですか? 私は濃い魔力が気持ち悪いのですが、魔王さんは魔族なので気にならないのでしょうか。

 できれば研究用の魔物たちをぶった斬ってからお話を聞きたいものです。

 うー、胸の奥がざわざわします。気持ち悪い……。

 あの人、この環境でよく生活できますね。あ、この感覚は勇者だからでしたっけ。

 うーん、うまく頭が働きません。帰りたいです。はやく戻ってきて話して……。

「お待たせしました。どうぞ」

 女性はカップを置くと、うきうきした様子で座ると私を見て微笑みます。

 めっちゃ見てきますね……。

「初めまして、わたしはシェリー。勇者様、よろしければお顔を見せていただけないかしら? せっかく会えたんですもの。ぜひ!」

 女性……シェリーさんは待ち焦がれているように視線を注ぎ、私に注目しています。勇者だとバレているとはいえ、色を見せるのには躊躇いがあります。

 フードの端をつまみ、迷っていると、

「いいじゃないですか。勇者さんのお顔を見せるくらい」

 魔王さんがなんてことないように言いました。

 くらいとはなんです。いろいろあるんですから簡単に言わないでくださいよ。

 ていうか、いつもはそんなこと言わないのに、なんだか今日は変な魔王さんです。

「そぉれ」

 不思議に思っていると、魔王さんはあろうことか私のフードを取ってしまいました。

 ちょっと、なにするんですか!

 露わになった色を見て、シェリーさんは「まあ」と目を見開きます。

 驚いた表情をしたのは一瞬で、すぐに「すてきな色ね」と笑みを浮かべました。

 ほんとに思ってます……?

 まあ、やっぱり魔族だ! なんてことになって追い出されるよりいいでしょう。

「ほらね?」

 なにがほらね、ですか。勝手に取らないでください。

「では、少しわたしの話を聞いてくださる?」

「もちろんです。どうぞどうぞ~」

 のほほんと言う魔王さん。

 私も魔王さんへの不満な感情を押し込んで軽く頷きました。

「ここで魔力の研究をしていると言ったけど、昔は研究所に勤務する研究者だったの。たくさんの人たちと一緒に魔なるものを倒す新しい方法を確立するために日々研究していたわ。わたしは魔女として研究の最前線にいて、もう少しというところまできたのだけど……」

 シェリーさんは言葉を切り、目線を上へ動かしました。

「こどもが生まれたの。名前はミラ。愛しいわたしの一人娘よ」

「なんと! めでたいことですね」

「ええ。でも、うれしいことだけじゃなかったわ。あの子は生まれつき重い病を患っていて、長くは生きられないと言われたわ」

「なんてことでしょう……」

 彼女の悲しみに沿うように、魔王さんが切ない表情を浮かべました。

 私は……いつも通りです。かわいそうだとは思いますが、どうすることもできないので。

「あの子のために仕事を辞め、静かなところで暮らそうと思ってここに越してきたの。でも、諦めきれなかった。ただ死を待つだけじゃなく、あの子が生きられる方法を探そうと思ったわ。だから、研究を続けた。魔女の子として生まれたんですもの。きっと魔力が効くと信じて」

 シェリーさんの目に力がこもりました。

 一人娘のミラさんのために生きることが彼女にとっての支えになっていたのかもしれませんね。

「あの子はほぼ寝たきりでベッドから動けない。だから家を離れて情報を集めることはできなかったの。人里離れたところに建てたせいで訪れるひとも少なくて。でも、わたしは研究を続けた。そして今日、勇者様がやってきた! こんな奇跡はないわ。そう、奇跡よ。これでミラは助かるのだから!」

 唐突に言われ、私は困惑しました。

 今の話を聞く限り、私にできることがあったでしょうか。私は勇者ですが、魔力や魔法について詳しくはありません。神様や魔王さんから聞いた話くらいです。

 それに、研究でしたっけ。私に学はありませんよ。

 それとも、知らないだけで勇者の特別な力があるのでしょうか。

「勇者様、どうかあなたの魔力を研究させてくれないかしら?」

 あ、そういう……。

「世界でひとりだけの存在。魔なるものを倒す勇者様の魔力なら、きっとミラを救ってくれるものになるはずよ! お願い、お願いよ」

 懇願され、私は言葉に詰まりました。

 ええと、どうずればいいのでしょうか。魔力の研究ってどうやるのでしょう。

 魔物を捕まえて研究していたようですが、私は魔物ではありませんし。

 困りました。情報が少なくて判断が……。

「それはよいことですね!」

 隣で賛同する声が聞こえました。

「え……」

「勇者さんは勇者として人々を救う使命があります。シェリーさんの件はまさに、ですよ。お手伝いするべきです」

「それはそうですけど……」

「なにを迷うことがあるのですか? ちょっと魔力を提供するだけです。なにもこわいことはありませんよ」

 いつものスマイルで言う魔王さんですが、なんだか、ちょっと……こわい。

 つい目を逸らし、若干俯きました。

 いえ、言っていることは正しいです。勇者ならば喜んで協力するのが正解でしょう。でも、私が覚える違和感はそこじゃなくて。

 勇者としての使命より私の意思を尊重してくれる魔王さんが、私の意見を聞かずにどんどん進んでいくのがおかしいのです。いつものこのひとじゃない。

 ……いえ、人間が嫌いだと向き合おうとしない私の背を押してくれているのかもしれません。今こそ勇者としてやるべきことがあると言っているのでしょう。

 そうですね、私が少し協力するだけでミラさんが助かるかもしれないのです。賛同する理由は明確にある。断る理由は捨てなくては。

「いかがかしら? わたしの力になってくれる?」

 私は真っ直ぐ目を見られないながらも頷きます。

「はい」

「よかったわ……」

 ほっと息をつくシェリーさん。私を見て、ずっと浮かべていたさらに笑みを深めます。

「ありがとう、勇者様。じゃあ、もう少し詳しく説明をするわね」

「ええ」

「あっ、いいこと思いつきました!」

 突然、魔王さんが手を叩きました。次に飛び出した言葉は私の困惑を確定的にするにはじゅうぶんでした。

「しばらくここに住めばいいんですよ!」

「は……? なに言ってるんですか」

「ミラさんの病気が治ったのを確認してから旅を続ければいいんです。勇者なら人々を助けて当然です。そうですよね?」

「そうですけど……。でも――」

「どうですか、シェリーさん?」

 私の声を遮って魔王さんは問います。さすがに住むのは……と言うと思ったら、彼女もうれしそうに手を合わせるではありませんか。

「すてきね! 勇者様が家にいるならなにも心配がなくなるわ。きっとミラも喜ぶと思うし、家族が増えるわね!」

「ちょっ、ちょっと待ってください。私にはやることが――」

 慌てて立ち上がり、そばの大剣に目をやります。

「やること? 勇者としての使命でしょう?」

 魔王さんが顔を近づけてつぶやきます。青い目が私を捉えて目を逸らすことを許さない。

 シェリーさんに聞こえないよう小声で「私たちには旅があります」と訴えます。

「ですが、きみは勇者です。やるべきこととやりたいことを履き違えないでください」

「…………それ、は」

 いつもより青色が冷たい気がしました。胸の奥に鈍い痛みを感じ、慌てて顔を背けました。

 やるべきことと、やりたいこと……。

 くだらない会話で綴られた旅はどっち? 別に、やりたくてやっているわけじゃ……。

「きみの命が誰かの役に立つのです。すばらしいじゃないですか」

 そっと頬に触れてくる魔王さんの手。思わず後ずさり、触られた部分を手で隠しました。

 驚きを隠せず魔王さんを見ます。

「どうしました?」

「…………」

 こんなことしない。このひとはしない。私が触れられることや肌が当たることを嫌がるのを知っている魔王さんが、なんの断りもなしに触れるなんてありえない。

 会話の流れでくっつこうとしてくる気配じゃない。

 彼女の笑顔がこわい。

 なに……? どういうこと?

「どうしました?」

 それはこちらのセリフです。一体なんですか。今日はちょっとおかしいです。

「せっかくすてきな日が始まるというのに、うれしそうではありませんねぇ」

「……。ミラさんが良くなるために協力はしますが、住むのはお断りします。私はここに長く留まることはできません」

「勇者なのに」

「勇者だからです」

 魔王さんは笑いました。くすくす、くすくす、くすくす。

 笑うだけで何も言わなくなりました。

 無意識に足が動き、気がつくと背中が壁に当たる感覚がしました。

「そんなに緊張しないで。こわいことはなにもないわ」

「…………あの、私も用事があるのではやめにお願いします」

「あら、お急ぎだったの?」

 シェリーさんは私の言葉に困ったように首を傾げ、

「懐中時計……」

 腰につけた時計に目を留めました。

「だめよ、忙しい日々は疲れてしまうわ。時間なんか気にせずここでくつろいでちょうだいね」

 シェリーさんは近寄り、鎖を外して懐中時計を持って行こうとしました。

 やめて、だめ……! これは私の大切な、あの子との――。

「やめてくださいっ!」

 叫んだ瞬間、懐中時計からまばゆい光が飛び散りました。

「きゃああぁぁっ‼」

 シェリーさんの悲鳴が部屋に響いたと同時に、ピシッと嫌な音がしました。

 部屋が……いえ、空間が割れた。

 同じ笑顔を湛えてくすくす笑っていた魔王さんの体にひびが入り、ぼろぼろと崩れていきます。

「魔王さん……⁉」

 声を上げた私は家を包む強い魔力を感じて周囲を見回します。

「あああぁあぁ……あああぁぁぁぁ……よくも」

 低い声。目を覆ったままシェリーさんがゆらりと動きます。

「よくも……わたしの魔法を……許さない、許さない、その光……。わたしの魔法に介入するなんて、あの子のための魔法を壊そうとするなんて、下劣な……‼」

 肌を刺す悪意。体に絡みついて締め付ける悪意。

 それが増幅していくにつれ、シェリーさんの姿がみるみるうちに異形のものに変わっていきます。優しき母の面影は欠片もなく、まるで魔物そのもの。

 敵……⁉ 倒していいの? これはなに。彼女の魔法? それとも魔物?

 魔力を感じようにもぐちゃぐちゃと混ざり合ってわからない。でも、強い魔の気配は感じる。ここにはたしかに魔なるものがいる。

 それなら、魔の気配とは異なる魔力はシェリーさん?

 状況がわからない。でも、まずは魔の力を断つ。勇者としてできることはそれしかないのだから。

 崩れ落ちた魔王さんは跡形もなく、不気味な雰囲気を漂わせる家から姿を消していました。

 あれは魔王さんじゃなかった。

「…………」

 わずかに震える息がこぼれます。胸の奥にあった痛みがなくなっていく。

 この状況で感じる安堵に頭を振り、本物の魔王さんのことを考えました。

 あのひとの魔力を感じない。ここにはいない?

 そもそも、ここはどこ。いつから魔王さんは偽物だった?

 そんなことを悠長に考えている暇もなく、私は異形と化したシェリーさんに剣を向けるべく立てかけてあった大剣を――。

「……ない。なんで」

 さっきまであったのに。いつでも手に取れるようにすぐそばに。

 魔王さんもシェリーさんも大剣には近づいていない。一体いつ? どこに?

 置いておいた旅行鞄もない。身ひとつだけ。

 短剣は……ある。よかった。一気に心が落ち着きます。

 これは戦闘用ではないけれど、そうも言っていられません。仕方なく短剣を抜き取ろうと手を伸ばした時、

「うっ……! な、に……」

 うしろから体を固定されて動けない。どうして。私のうしろは壁のはず。

 顔の横からにゅっと出てきたのは腕でした。

 どきっとして息が止まります。

 うしろから抱きつかれるように首に巻かれていく腕。足にも腹部にも髪にも『手』の感触がある。うしろから掴まれている。なんで……。

 ゆっくりとした動作で首を絞めていくそれは、ぐんと首を伸ばして私の顔に近寄ってきました。ほんのわずかな隙間。動かすことはできませんが、少しでも動けば触れる距離です。

「逃げちゃだめですよ、勇者さん?」

「……魔王さ――うぅっ」

 片腕を首に回し、片手で口を塞いでくる。

 少し上から絞められているせいで、引っ張られるように固定されて痛い。体のあちこちを掴む手の感触が気持ち悪い。

 触らないで、やめて。嫌だ。

 口を塞ぐ手は鼻をも覆い、いよいよ息を止めにかかってきます。

 短剣を取ろうにも体はまったく動かない。

 原形をなくしたシェリーさんは生やした無数の腕をうぞうぞ動すだけでそれ以上なにもしてきません。

「いいわぁ、そのままよ、魔王様」

 聞こえる声はシェリーさんのものです。

「心配しないで。すぐには殺さないから。ああ、こわがらないで。あなたはこれからかわいいミラの命になるだけ。喜んで? うれしいでしょう? すばらしいでしょう?」

 天を仰ぐように伸びた腕は震え、別の腕は体を抱きしめるように閉じています。

「すばらしいでしょう? すばらしいでしょう? すばらしいでしょう?」

 機械音声のごとく繰り返す魔王さん。私を絞める腕が力を増し、何もできないまま意識が遠のいていきます。

「……っう、…………」

 だめ、だ。動けない。なにもできない。息ができない。力が入らない。

 必死に開いた目は薄暗い不思議な空間と異形たちを映すだけ。

 霞んできたそこに打開策はなく、ただ意識が消えていく。

 シェリーさんより私を苦しめる魔王さんの方が嫌だった。考えないように、見ないようにと目を逸らしてきた感情が全身を駆け巡っていく。

 偽物だってわかっているのに、嫌だ。このひとにこんなことされたくない。

 いつか殺してもらう約束なのはわかっています。でも、きっと、こんな殺し方はしない。

 無遠慮に口を塞いで肌に触れるなんてしない。

 まがいものの魔王さんは見たくない。

 声も出せない、息ができなくて苦しい。そんなことが気にならないくらい嫌だ。

 だから意識が飛ぶ寸前、心の中で叫びました。

 ――魔王さん!

 どこにいるかもわからない、無事かどうかもわからない、魔王なのに魔王らしくないあのひとを呼びました。

 それに応えたのは懐中時計でした。再び強い光が辺りを満たし、私を掴んでいた無数の手を消していきます。倒れ込み激しくせき込む私を守るように光は狭まり、ぽうっと出てきた淡い色をした光の玉が「だいじょうぶ?」と言わんばかりに顔の前で発光します。

 倒れた弾みで開いたそこには、彼女を思い出す白い光。星型はひときわ強く輝いて存在を主張しています。

 不規則で荒い息のまま、私は懐中時計に触れると壁をつたって立ち上がります。

 なんの変哲もない壁です。腕は生えていない。魔王さんもいない。

 光によってうめき声をあげながら四方八方に腕を動かすシェリーさんは、滅茶苦茶に振り回して家の中を破壊していきます。私に向けて攻撃しているというより、正気を失って暴れているといったほうがいいでしょう。

 さっきの口ぶりからするに、私を生け捕りにしようとしているはずですが、このままでは普通に死にます。一旦どこかに避難をしなくては。

「……うっ、っ……はあ……」

 ふらつく体ではとても戦えない。武器もない。

 文字盤からすうっと光がキッチンの方へ伸びていきました。

 それに合わせて私に寄り添っていた光球も進んでいきます

 こっち、と言っているようです。

 霞む頭では思考もまともにできません。それでも、この光は私の味方であることは深いところで理解していました。

 暴れ狂うシェリーさんを避け、キッチンへと続く扉に体当たりします。

 キッチンならば包丁があるはず。武器として拝借しようと思った私の目の前には、暗く淀んだ空間が広がっていました。

「え…………」

 困惑することも許さず、背後から腕が向かってくる気配がします。道はひとつしかない。怪しすぎる世界に飛び込み、床も壁もないような場所を走りました。

 扉が宙に浮いている。どうやって入るんですか、あれ。

 体が妙に重い。酸素不足だけではなさそうです。

 不気味に散らばる無数のおもちゃ。現実世界の理を無視した世界の構造。異形のシェリーさん。偽物の魔王さん。

 ああ、私はいつの間に……。

 沸々と湧き上がる己の失態への呆れ。愚かな私への怒り。

 魔の気配がするとわかっていたのにこの始末。魔王さんにたくさん心配される未来が見える。

「…………」

 進む先は闇黒の世界。背後からは狂気の異形。武器も鞄もない。

 文字通りお先真っ暗なのに、私は思わず微笑を浮かべていました。

 ……魔王さんに心配される未来ですって。

 当然のようにここを抜け出した先のことを考えている。おかしな私です。

 でも今は、ステラさんの光と同じように私の道を示しているように思えました。

 だいじょうぶ。ひとりじゃない。

 揺れ動く足元を踏みしめながら私は正解のわからない世界へと飛び込んでいきます。

 はやく脱出しなくては。

 ……この歪んだ幻覚の世界から。


 〇


 勇者さんの体を抱きかかえながら、ぼくは魔法で周囲に結界を張っていました。

 この状態になってからはや数十分。勇者さんが目覚める気配はいまだゼロ。

 変わったことがあるとすれば、ある時から懐中時計が光り始めたこと。優しい光でありながら、何かを拒むような強い力を感じます。

「きみが守ってくれているのですか、ステラさん」

 答えはないものの、光は消えることなく勇者さんのそばにあり続けます。

 膠着して進展がない。ぼくは誰もいない室内を見て、作戦を考えるためにここまでのことを脳内で再生しました。

 強い魔力を感知してやってきた森の家。姿を現したシェリーさんは人間です。魔族じゃない。魔女だというのもたしかでしょう。彼女からは人間が持つ魔力を感じました。

 それ以外の魔の気配は研究用に捕えている魔物たちでしょうか。何体いるのかすぐには判別できないくらい、家は魔力で満ちていました。

 勇者として魔を感知する力を持った勇者さんがさぞかし嫌がりそうな場所です。あまり長居はしたくないと思いました。

 こんなに濃い魔力の中にいては悪影響です。普通の人間ならば毒になりえる量でした。

 話をしたいと言われ、勇者さんは承諾しました。きっと、また、自分でも役に立てるのなら……とか考えたのでしょう。まったくお優しい人です。

 ぼくから先に家に入り、警戒を怠りません。

 うーん、特に異変はない……ですかね。なにぶん魔力が多くてぐちゃぐちゃしています。探るために室内を見渡しますが、やはり気になる点はないですね。というか、気になることがありすぎてわかりません。

「この魔の気配も捕まえた魔物でしょうか」

 席についた勇者さんがぽつりとこぼします。立ったままではおかしいので、ぼくも座って「おそらくそうですね。とはいえ、ちょっと濃すぎるような気がします。勇者であるきみなら平気だと思いますが、話を聞いたらすぐに行きましょう。ただの研究であればぼくたちの出番はないでしょうから」

「…………」

 ぼくを見て変な顔をする勇者さん。

 ん? ぼくなにかおかしなこと言いました?

 やがて戻ってきたシェリーさんは勇者さんのお顔を見たいと言いました。

 ぼくが魔族であることはバレていますから、見せても勇者という認識は変わらないと思います。ですが、色を見られることは彼女にとって嫌なこと。無理に見せることもありません。

「取らなくてもいいですよ」

 そう言いましたが、彼女のフードはシェリーさんの手によってはぎ取られました。

 ちょっと! 勝手に取るとは何事です。

 勇者さんがめちゃくちゃ嫌がりますよ⁉

 そう思いましたが、彼女は何も言わずにそこにいました。

 おや、思いがけない。どうしたのでしょう。あまりの驚きで動けないのでしょうか。

 と思えば、彼女はぼくを見て不満そうな目をしました。

 ええ……、なんですか? ぼくなんにもしていませんよう。やったのはシェリーさんじゃないですか。

 むすっとした顔もかわいいですけど、にっこりしてほしいです。

 シェリーさんの話を聞いている時も、勇者さんは度々不思議そうな顔でぼくを見てきました。ほんとにどうしたのでしょう。やっぱり魔力が濃くて気持ちが悪いのかもしれません。

 ううむ、シェリーさんには悪いですが、ここははやく立ち去るとしましょう。

「勇者様、どうかあなたの魔力を研究させてくれないかしら?」

 そう頼み込んできた彼女に、ぼくは「少し考えさせてください」と断りました。

 まずは勇者さん優先です。彼女の研究がどういうものか、まだわかっていません。害がないとは言い切れない。なんだか勇者さんの様子も変ですし、一度外の空気を吸うのがよいでしょう。

 そう思って勇者さんに目をやりますが、彼女には伝わっていないようでした。

 ガマンはよくないですよう……。

 心配で彼女をじっと見つめると、なぜか怯えた色を浮かべて目を逸らされました。

 あれぇ⁉ な、なんでですか。ぼくなんにもしてませんって!

 驚きと戸惑いと悲しみでショックなぼくをよそに、シェリーさんはこう問います。

「いかがかしら? わたしの力になってくれる?」

 勇者さんは答えました。「はい」と。

 その瞬間でした。明るかった室内は暗くなり、一気に魔の気配が増したのです。

 思わず立ち上がった隣で、勇者さんの体から力が抜けたのがわかりました。

「勇者さん⁉」

 呼びかけに応答はなく、規則正しい呼吸音だけ聞こえます。

 意識を失っている。でも、どうして。

 いや、そんなことわかっています。

 ぼくは彼女を抱きかかえて剣と鞄とともに部屋の隅に移動しました。光魔法で結界を作り、強い魔力から彼女を守ります。

 微笑みを浮かべていたシェリーさんの姿はない。勇者さんが「はい」と答えた瞬間に消滅しました。あの時、とても強力な魔法が発動したのです。

 ……やられた。まさかここまで周到な魔法で待ち構えられているとは。

 魔法が発動した今なら完璧に見える。大きな魔法陣が家にある。場所はおそらく下。家そのもので蓋をして見えないようにしていたのでしょう。

 発動ぎりぎりまで痕跡を隠すとは、かなり力のある魔女のようです。厄介ですね。

 それ以上に厄介なのはシェリーさんの属性と固有魔法。

 ああもう、最悪です。

 露わになった魔力でわかる。勇者さんと相性最悪ですよ。固有魔法はぼくの嫌いなタイプ。どういうものか? ぼくが介入できないタイプの魔法ですよ。

 無理に介入しようとすれば主導権を握っている術者に勇者さんを壊されかねない。

 こういう魔法、ぼくはどうでもいいんですけど勇者さんにかけられると厄介以外のなにものでもありません。力でねじ伏せることができない。この子に傷を負わせかねない。

「光属性の幻覚魔法……。はあ、きみは厄介なひとと関わる運命にあるんですかね」

 なんて、きっと「魔王さんにだけは言われたくないです」と言われちゃうでしょう。

 言ってください。きみの言葉ならなんでもいい。

 めんどくさそうな表情で、気だるそうな声で、呆れたような笑みで、「魔王さん」と呼んでくれるのなら、なんでもいい。

 ぼくは今、カフネの時と同じ状況にありました。

 無理やり魔法を解くことはできるでしょう。けれど、それをすれば勇者さんの精神が壊れる可能性が高い。幻覚魔法はその性質上、発動に時間と魔力を要します。逆に、一度自陣に連れ込んでしまえば勝ち。緻密に構成された魔法は簡単に破ることはできず、術者のてのひらの上で転がされる。

 ただ、カフネの夢と異なることがあります。

 無秩序で理がないことが理であるカフネと違い、幻覚魔法は理路整然たる法則に従って構成されます。つまり、魔法の発動条件も解除条件もあらかじめ決まっている。一時の幻覚を見せる程度ならば条件なしでも可能だったはずですが、ここまで強く深い幻覚ならば確実に条件が必要です。

 そして、発動条件はおそらく、協力を申し出て明確に承諾されること。

 これでもまだ曖昧な条件です。対象者に強く確実に魔法をかけたいのなら、一字一句同じ言葉である必要があります。

 おそらく、家に入ったものに簡単な幻覚を見せる魔法があったはずです。それに気づかなかったのは、家に立ち込める魔力が強すぎたから。……言い訳ですね。

 うまくつくったものですよ。魔力を感じることができるものは、強い魔力に呼び寄せられて家にやってくる。警戒しながら扉を叩くと優しげな女性が出迎える。あっけにとられ、用心していた心がほぐれてしまうかもしれません。あれやこれやと理由をつけて招き入れ、魔法をかける。あまりに微弱な魔法で現実と幻覚を交錯させた魔法を。

 かかったものは気づかず、小さな違和感を覚えるかどうかも怪しいくらい。

 そして、少しずつ少しずつ意識を侵し、向こう側へ寄せていく。

 最後に、彼女の完璧な幻覚の世界に引きずり込む言葉をつぶやく。

 はい、おしまい。

「…………はあ」

 ぼくのばか。お間抜け。なんで気づかなかったのです。また彼女を危険に晒してなにをしているのです。悔しい。ぼくの手の届かないところであの子が傷を増やすかもしれない。

 痛くて辛いものから必死に耐えているかもしれない。

 はやくなんとかしなくては。

 発動条件がわかっても意味はない。

 解除条件は何?

「…………」

 わからない。わかったら苦労しません。

 条件不明の幻覚魔法ほど厄介なものはないのです。一度破ってしまえば簡単ですが、そこにいくまでが難題。

 幻覚世界に入り込んで条件を探ろうとしましたが、向こうから弾かれました。

 意図的な拒絶です。

 しかし、拒んだのはシェリーさんの魔力ではない。

 あれは魔物の魔力でした。

 ぼくの頭の中で少しずつ考えがまとまっていきます。

 幻覚魔法は魔女シェリーのもの。

 家に渦巻く魔力は魔なるもののもの。

 これだけ濃い魔力の中ではいくら魔女だろうと限界があるでしょう。

 とすれば、可能性は四つ。

 一、魔物がシェリーを取り込んで彼女の魔力と魔法を使っている。

 二、何らかの方法でシェリーが魔物の魔力を自分のものにし、毒を回避している。

 三、シェリーと魔物が協力関係にある。

 四、それ以外のなにものかが関わっている。

 どれであろうと勇者さんが魔法にかけられているのに違いはありません。なにか手立ては……。

 深いため息で焦りを落ち着かせ、できることを考えます。

 現実世界でぼくにできること。

 シェリーさん、もしくは魔物を見つける。魔法を解除させる、もしくは倒す。

 いや、倒したら勇者さんに影響が出るかもしれません。

「……っほんとに、魔女って厄介ですね」

 苛立ちを覚え、慌てて再度息をはきました。

 いけない。落ち着け。今回のこともぼくの失態です。もっと警戒していれば回避できたかもしれないのだから。勇者さんを危険にさらした状態で冷静さを欠くなど言語道断。

 せめて解除条件さえわかれば、一気に形勢逆転のチャンスがあるのですが……。

 簡単にわからないからこそ、完全発動した幻覚魔法は強い。

 人間も魔なるものも関係なしに飲み込み、自分の世界で主導権を握れるのです。

 魔王であるぼくだって、幻覚世界に連れていかれたら多少は困ります。時間稼ぎくらいはできるはずなのに、正体不明の魔物はそれを拒んだ。

 ということは、ぼくに幻覚世界に来られると不都合?

 世界を壊されるから? 何らかの理由で解除条件に関係しているから?

 それとも、他の理由で……?

 思考が解決策を見いだせず、勇者さんの鼓動を感じながら上を見上げました。

 縮こまっていてはいざという時に動けません。考えすぎて息すら止めていました。

 いけないいけない。脳を働かせなくては――。

「……写真?」

 顔を上げた時、棚に置かれた写真立てが目に入りました。勇者さんを壁によりかけ、魔法でがちがちに結界を張ると、さっと写真立てを拝借して戻ります。彼女の隣に座り、ほこりにまみれたそれを手ではたきながら観察しました。

 ベッドの上でかわいらしい笑顔を咲かせるひとりの少女。ぬいぐるみやおもちゃに囲まれ、こちらに向かってうれしそうな表情をしています。

 クマのぬいぐるみを抱きしめて幸せそうな少女の様子に、この状況ながら穏やかな感覚を得ました。

 この子がシェリーさんの一人娘のミラさんでしょう。

 たしかに、この無邪気な笑顔を守りたいと思いました。あどけなさの残る顔を眺めていると、ふと写真がズレているのに気がつきました。

「もう一枚?」

 留め具を外し、写真立てを開けます。やはり、写真は二枚重ねで収納されていました。

 表に出ていた写真はミラさん。もう一枚は。

「これは……」

 慈愛の笑みを浮かべて赤子を抱きしめる女性の写真でした。

 シェリーさんとミラさんでしょう。

 幸せを切り取ったすてきな写真。深い深い愛を感じます。

 どんなにうれしかったのでしょう。どんなに幸せだったのでしょう。

 それがどうして、こうなってしまったのでしょう。

 病気の娘のために越してきたと言っていました。では、この家にミラさんもいるのでしょうか。……生きているのでしょうか。

 ぼくは写真を戻そうとして、裏になにか書いているのに気がつきました。

 ベッドの上のミラさんの写真には《Milla 5th Birthday》の文字。

 五歳の誕生日に撮られた写真なのでしょう。

 もう一枚には……。

 ――《I can’t live without you》

「……あなたなしでは生きられない、ですか」

 シェリーさんにとってミラさんの存在がどれほど大きかったか窺える言葉でした。

 あまりに大切な存在。それを得ることは幸せであると同時に苦しいことでもあります。

 たとえば、抗い難いなにかによって奪われようとした時。

 シェリーさんにとって、それはミラさんの病だったのでしょう。

 大切ゆえに、大事ゆえに、愛ゆえに、過ちを犯すかもしれません。娘のために仕事を辞め、遠い地にやってきた彼女です。娘を助けるために手段を選ばなかったとしても頷けます。

 だって、ぼくも同じことをしてしまいそうだから。

 誰かを傷つけてでもあの子を守りたい。魔王として積み重ねてきた罪に苛まれようとも一緒にいたい。

 ぼくは、「魔王だから」という最強の言い訳で簡単に道を踏み外すことができます。そこに罪悪感はあまりない。けれど、秩序の元で生きる人間にとって、そこから外れることは大きな罪として後をつく。だからこそ、彼らは理性をもって踏みとどまれる。では、その理性すら壊す強い想いがあった時は……。

「感情というものも厄介ですね」

 抱かなければ苦しまずに済んだ。何度も思っては「それでも」と感情が覆いかぶさってくる。

 きみにも大切なものがある。それはとてもすばらしいことです。

 そしてぼくにも。だから譲れない。

 あの子は返してもらう。

 彼女は渡しません、絶対に。

 ぼくにとって勇者さんは唯一無二の存在です。ぼくの感情、存在の鍵なのです。

 ……鍵?

「あっ、もしかして」

 写真の中で笑う少女。シェリーさんにとっての宝物。……その可能性はあります。

 ぼくは写真立てを勇者さんの膝に置き、彼女の手をその上に動かしました。

「勇者さん、ミラさんを探してください。きっと幻覚を解く鍵になるはずです」

 意識のない彼女に呼びかけ、ぼくは立ち上がりました。

 現実世界でまだやることがあります。

「ステラさん、どうか勇者さんを守ってください」

 光り続ける彼女に勇者さんを託し、ぼくは部屋を出ていきました。


 〇


 幻覚だとわかっても解けることはなく、道とも言えぬ道を走りながら私は摩訶不思議な世界を彷徨っていました。

 シェリーさんの魔法による世界ならば、カフネちゃんの時と同じように私は術にかけられた者として支配下に置かれているはず。主導権を握るシェリーさんが圧倒的に有利です。

 でも、きっと穴はある。魔法は絶対じゃない。

 他者の意識を閉じ込める強力な魔法だからこそ、確定的な欠点があるはずなんです。

 たとえば、魔法陣。

 強力な魔法は簡単には発動できないから魔法陣で魔力や構築式を固定、安定させる。魔法陣を壊せば発動不可になるのに加え、中断も可能だったはず。

 ……ん? すでに魔法にかかっているのなら、魔法陣があっても外側ですよね。

 いや、知らないだけで内側にもあるのでしょうか。ていうかこの魔法、幻覚で合っているのでしょうか。まったく別の世界に来ているように思うのですが、そもそも幻覚ってどこまで――。

「ううううう~……。どうしろってんですか……!」

 他にできること。異形になったシェリーさんを倒す? 武器がないんですよ。魔法で倒す? だから私、魔法を使うには準備が必要で、魔女であるシェリーさんに魔法で敵うかどうかも怪しいですし、これ何属性ですか? 相性はええと……ぜえ、はあ、しんどい。

 まるで作りかけの世界のよう。あちこち曖昧で欠陥だらけでつぎはぎ。

 彼女の魔法によってつくられているから、地面から腕は生えるし突然行き止まりになるし綿が出たぬいぐるみは襲ってくるし……。

 悪夢を見ているようです。夢ならカフネちゃんの夢の方が好きだなぁ。

 ここは苦しい。魔力が濃すぎるのもありますが、私を害せんとする強固な意思が満ち満ちている。そしてなにより、私を捕らえるべく伸びる無数の腕。

 人間の手が苦手な私にとって、悪寒が止まらない光景でした。純粋に気持ち悪いですし、嫌なことを思い出してうまく体が動かなくなる。光はステラさんの星以外にほとんどなく、どこまで続いているかもわからない暗い世界が広がっているだけ。

 無意識のうちに短剣と懐中時計を触りつつ、私はなんとか平静を保っていました。

 まったく出口が見つからない。扉を開けたらまた知らない場所。もはや家の広さを破壊した無限の空間です。幻覚だから当然ですが、進む先の検討すらつかない。

 シェリーさんから逃げながら、隠れながら、命がけの鬼ごっことかくれんぼを繰り返す私は着実に消耗していきました。

 どうなったらゲームオーバーなのかもわからない。だからひたすら逃げるしかない。

 この行動が正しいかどうかも不明の中、私はなんの変哲もない棚の横で重い体を縮めました。

「……はあ……っはあ……」

 疲労が激しい。白い光が心配するようにちかちか輝きます。鈍い動きで手を出すと、光はてのひらの上でふわりと発光しました。

 あたたかい……。優しいきらめきを感じる。

 私の疲労を回復してくれるかのように、ぬくもりがじんわり体に広がっていきました。

 てのひらを閉じ、胸の辺りでぎゅっと握りしめます。

 ありがとう、だいじょうぶ。がんばります。

 深く深呼吸し、さあ行こうと心を入れ替えた時でした。

 どてん! と派手な音とともに目の前でクマのぬいぐるみが転びました。

 …………は?

 疲れて思考が停滞している私は音に驚いて体を強張らせました。

 違う、強張らせている場合じゃない。逃げないと。あれは襲ってくる。

 もつれる足で立ち上がろうと時、とてとてと歩いてきた少女と目が合いました。

 …………だ、誰。いや、敵か? まずい、距離が近い。急がないと――。

 少女は茶色の瞳で私をじっと見ると、

「…………」

 無言で手を差し出しました。

 困惑と警戒で動けないでいると、少女は何を思ったかクマのぬいぐるみを拾い上げ、そのふわふわした手をこちらに差し出しました。

 ……なに? どゆこと?

 少女は無言のままぬいぐるみを抱きしめ、ちらちらと様子を窺っているようです。

 ……敵意は感じない。悪意も。

 この子は一体何者なのでしょうか。わかりませんでしたが、これまで襲ってきたシェリーさんやおもちゃたちとは異なるようです。

 もしかしたら、この世界から脱出するヒントになるかもしれない。

 ここはチャンスだと考えましょう。

 私は光を握っていた手でぬいぐるみの手を取りました。めちゃふわふわでした。

 それでもって立ち上がった時に棚に腰をぶつけました。いだっ……。

 ちょっとふらふらし過ぎです。しゃんとしなくては。

 と思った時、棚にぶつかった衝撃で物が落ちました。

 ああああ、なんですかなんですかごめんなさい。

 幻覚世界だとわかっていながらも音がリアルなのでびくっとします。

 嫌な音がしましたけど、割れていませんよね? 何が落ちたのでしょう。

 ていうか、さっき棚の上に物なんかありましたっけ。

「写真立て?」

 拾ったそれには、クマのぬいぐるみを抱きしめて微笑む少女が映っていました。たくさんのぬいぐるみやおもちゃでベッドの上が埋め尽くされ、なんともかわいらしい光景です。茶髪を低い位置でふたつに縛った幼い少女は、どこかで見たことがあるような――って、ここにいる子じゃないですか!

 え、なんで? どうして?

 写真と隣の少女を交互に見比べると、写真の方が幼いようです。昔に撮られたものなのでしょうか。

 いや、この子誰ですか。どこから出てきたんです?

 悶々と考えていると、ふと思い当たることがありました。

 シェリーさんの魔法によってつくられた世界にいる少女。ということは、もしかして。

「あなたは……ミラさんですか?」

 おそるおそる尋ねると、少女はぬいぐるみの手で写真立てを指しました。

 少女の視線とぬいぐるみの手に導かれ、私は写真立てを開け、中身を取り出しました。

 あれ、二枚入っていますね。

 一枚は愉快なぬいぐるみたちと少女。もう一枚は女性と布にくるまれた赤子。

 ぬいぐるみが裏を示します。

「Milla……。やっぱりあなたはミラさんなんですね」

 私の言葉に、彼女はこくりと頷きました。

「ここは現実世界ではありませんよね。あなたも閉じ込められているのですか? もしそうなら、一緒に行きましょう。ひとりでは危険です」

 とは言ったものの、彼女がいつからここにいるかわかりませんが、もしかしたら私よりはだいじょうぶなのかもしれません。怯えている様子もありませんし、隠れようとする気配もありません。ぬいぐるみを抱きしめてこちらを見ています。

 ということはですよ、ミラさんと一緒にいた方が私は安全ってことでは?

 出口や脱出方法もわかるかもしれません。

 ごめんなさい、利用させていただきます。

 意思を固めた私に注がれる強い視線。

「あの……?」

「…………」

 ミラさんが写真立てを凝視していました。あまりに見ているので、彼女に差し出します。

「これはあなたが持っている方がいいと思います。どうぞ」

「……!」

 彼女は頬を赤く染め、こくりこくりと頷きました。その喜びように緊張が解けていく気がします。おっと、いけない。まだだめですよ、私。

 再度「一緒に行こう」と言おうと口を開きかけた私は、

「…………!」

 きらきらした目で今度は懐中時計を見つめるミラさんに気づきました。申し訳ないですが、これをあげることはできません。別のことならいいでしょう。

「触ってみますか?」

 ミラさん、こくこく。

「どうぞ。優しく触ってくださいね」

 ミラさん、こくこくこく。

 クマのぬいぐるみで触ろうとして、慌てて自分の手を伸ばします。

 そうっと指でつつき、その感触を確かめながら両手で包みました。

「…………っ!」

 ぱあっと笑顔を咲かせ、白く輝く星を眺めます。懐中時計から飛び出た光が私の周りからミラさんへと移動しました。

 光は彼女の顔の前でぴかぴか発光し、ミラさんはこくりこくりと頷きます。

 時折、年相応の無邪気な笑顔を浮かべ、やがて小さくこぶしを握りました。

 任せて、と言っているように見え、そのかわいらしさに笑みがこぼれました。

 ……あ、いえ、別にこどもは好きじゃないですけど、かわいらしいのは確かなので。こういう状況ですし、ちょっと気が緩んだというか、他に意味はないので。いやほんと、ほんとですから。

「……っ! ……っ!」

 ミラさんは私に手を差し出しました。クマのぬいぐるみではありません。小さな少女の手です。

「どこに行くのですか?」

「……!」

 彼女は言葉を話しませんが、表情は豊かです。真っ暗な世界の先を指さし、きゅっと口を結びました。意気込んでいるようです。ステラさんの光は私とミラさんを行ったり来たりしながらまばゆい光を伸ばします。

 幼い少女ふたりに導かれている。なんだか、私が一番頼りないですね。

 私はミラさんの手を取り、道なき道に足を踏み出しました。

 彼女が歩く道にはぽつりぽつりとぬいぐるみが座り、おもちゃが散らばり、幼子が描いたであろう絵が世界に直接現れていきます。私を襲っていたおもちゃたちはミラさんを見て動きを止め、ゆっくりうしろに下がっていきました。

 暗い世界ゆえ、ついいろいろな物につまづいてしまいます。

「…………っあぶな……い。痛い……」

 思い切り転びかけました。恥ずかしいです。

 もう、なんですか何があったんですか出てこいなにやつ。

「……積み木? あ、字が書いてある。こういうおもちゃもあるんですねぇ」

 字の勉強をしている時に魔王さんから渡されたら焚き火の材料直行だったかもしれません。てのひらサイズの積み木はかわいらしいですが、いささかこども向け過ぎです。いやたしかに、ついこの間までは識字レベルはこども過ぎましたけども。

 もうばっちり読めるし書けるので。

 とかなんとか。ひとりで悶々と考えていると、

「…………」

 積み木を見ながら心ここにあらずといったミラさんがいました。

「ミラさん、だいじょうぶですか?」

「……! ……」慌てて頷く彼女。

 私、ミラさん、クマのぬいぐるみ、ステラさんの光という愉快すぎる仲間たちとともに不思議な世界を進むことしばらく。

 私はよくわからない物体に寄りかかり、すぐ近くで遊ぶ少女たちを眺めていました。

 なにをしているか、ですか? 休憩です。

 というのも、ミラさんに手を引かれて歩いていた私は、

「……はあ。…………」

 どうにも疲労が深く、時折立ち止まってしまいました。

 明確に私をターゲットにしている気味の悪さが体にまとわりつく感覚。脳が混乱するような異様な空間を彷徨い続け、何かがおかしくなりそうでした。

 単なる精神的な疲労か、それとも。

 そんな私を心配し、ミラさんは立ち止まって休憩しようと提案してきました。

 言葉に甘えた私は、彼女の心配する顔をどうにかしたくて懐中時計に触れたのです。

 白い光がミラさんに近寄り、ぴかぴかと輝きました。

 あ、そうだ。

「少し休みますので、二人は遊んでいてください。私はここで見ていますね」

「……!」

 いいの? とでも言いたげに勢いよく振り向いたミラさんに頷くと、彼女は光とともに駆け回りました。

 写真立てとクマのぬいぐるみは私が預かっています。それにしても、めちゃもふもふですね。触り心地が最高です。私もほしいくらいです。枕にしたらよく眠れそう。

「……あれ」

 よく見ると、その辺に転がっているぬいぐるみたちと違って少し歪です。両腕の大きさが若干違ったり、背中の一部の布が別の色の物で補われていたり。

 かなり使い古しているのか、最初からこうなのか。

 いやいや、最初からこれだと売り物としてどうなのです。手作りならわかりますけど。

「そもそも、ぬいぐるみって作れるものなんですかね」

 相変わらずそういったことの知識が皆無です。魔王さんに訊いて――いえ、あのひとの不器用を考えるに無理でしょうね。手が針山になる方がはやいです。

 ていうかこのぬいぐるみ、さっき動いていませんでした? 気のせいかな。

「……動くなら動くって言ってからにしてください。ほんと。お願いします」

 ぬいぐるみに向かって謎の圧をかけている私の向こうでは、ミラさんが飛んだり跳ねたり、くるくる回ったり走ったり。

 はたから見たら少女が光を率いて踊っているようです。でも、私には幼い少女が二人、笑顔を咲かせて楽しく遊んでいるように見えるのです。

 思わず小さく笑ってしまいました。

 なにを言っているんでしょうね。幻覚でも見えているのでしょうか。でもそう見える。ステラさんもミラさんも仲良く手を繋ぎ、無邪気な顔で笑い合っているように。

 ……ミラさんは病気を患ってほぼ寝たきりだといっていましたね。

 この家から出たこともあるかどうか怪しいです。ということは、ステラさんと境遇がよく似ている。年齢も同じくらいでしょうか?

 外の世界を知らずに育った幼い少女たちです。こんな状況ですが、穏やかな時間を過ごしてほしいと思いました。

「……っ! ……!」

 声のない遊び場ですが、私の耳には少女たちの笑い声が聴こえた気がしました。

 ……とてもいいですね。壊したくない。どうかこのまま、と願わずにはいられない。

 無垢で優しい彼女たちに安らぎを……。…………。…………。

「……っ! わっ、な、なんですか⁉」

 突然、頬を叩かれた気がして我に返りました。叩かれたといっても、その感触はふわふわです。

「あ、あなたですか。あれ、動いた? いま動いた?」

「…………」こくり。私の腕の中でクマのぬいぐるみが頷きました。うわぁぁ。

「……あれ、なにしてたっけ。寝てた?」

「…………」ふるふる横に首を振るクマさん。

「寝そうになってた?」

「……。……」少し迷い、こくりと頷くクマさん。

「この世界で寝るのは危険そうですね。ありがとう、クマさん。でも動くときは動くって言ってほしい……ほんとにびっくり、あ、いや、びっくりというかその、はあ、びっくりするんで……」

 言い繕う体力もないです。もふもふだからまだだいじょうぶでしたが、人の手だったらやばかったです。ぶん投げてたかも。

 クマさんは「……」と、何か言いたげな顔。いや、何か言いたげな顔ってなに。表情変わっていませんよ。ぬいぐるみなんですから。ああもう、しっかり、私。

 やがて、満足げに戻ってきたミラさんは、はしゃぎすぎたのか片方の髪の結びが緩くなっていました。

「……よろしければ、私が結び直しますよ」

「……! ……っ!」こくり。

 ふたつに分けた髪は肩の上あたりで結ばれていました。もっと上じゃなくていいのでしょうか。

「この位置でいいのですか?」

「…………」こくり。

「わかりました。少しじっとしていてくださいね」

 櫛がないので手で髪をとかし、長い茶髪を丁寧に揃えていきます。

 結び目が頭のうしろにいかないよう、私の方に寄せて髪紐を結びました。

 解けないよう、きゅっと力をこめました。

「どうでしょうか?」

「……! ……!」こくりこくり。ミラさんはうれしそうでした。

 再出発した私たち。ミラさんは鼻歌でも歌いそうな表情でにこにこし、軽やかに足を進めます。

 とてとて歩く彼女は、少し進んでは私を見て、少し歩いては私を見てを繰り返しました。

 だいじょうぶ? 疲れてない? 表情はそう言っているようでした。

「平気です。ミラさんはだいじょうぶですか?」

「…………」こくこく。

「あの、いつからここにいるのか訊いてもよろしいですか?」

「…………」人差し指を立てるミラさん。

「一年……ですか?」

 こくこく。

「ここはシェリーさんの魔法によってつくられた世界ですよね」

 こくこく。

「どうしてあなたがいるのですか?」

「…………」

 少女はさみしそうな笑顔を浮かべました。幼子がする表情ではなく、胸の奥がざわりとします。なにかよくない質問をしてしまったでしょうか。間違えたのでしょうか。

 私の手を握る彼女の手に力がこもった気がしました。

「…………」

「ごめんなさい。答えたくないのならいいのです。他のことを話しましょう。……ええと、出口。ここから出る方法を知っていますか?」

 そういえば訊いていなかった質問です。差し出された手を取ってここまで来てしまいましたが、本当に彼女についていくことが正解なのでしょうか。

「…………」こっくり。深い頷きでした。にこっと微笑んで自分の胸に手を当てます。

 それは任せて! と言っているようでした。

「ミラさんについていけばいいのですか?」

「…………!」こくり。

「ありがとうございます。私はこの世界のこともあなたたちのことも詳しく知りませんが、できることなら一緒に……」

 私は最後まで言えませんでした。無責任なことは言えない。一緒に外に出ようなんて、勝手すぎる。

 知りたいことはたくさんある。シェリーさんのことやミラさんのこと、魔法のことやこの世界のこと。私には情報がなさすぎる。だからといって彼女に訊くのは憚られるのです。

 まだ完全に味方かどうかわからない。油断はできない。

 でも、繋いだ手のあたたかさはたしかなものでした。これは幻覚なんかじゃない。

 ぴかり、ぴかりと光りながらミラさんの隣にいるステラさん。彼女がこんなに気を許しているのなら、どうか味方であってほしいと思いました。

 指先に止まったり、頬にすり寄ったり、彼女たちはこの短時間でとても仲良くなっているのです。引き裂きたくない。

「…………?」

「……いえ、なんでも……」

 ミラさんと行動するようになってから敵が出なくなった。

 彼女を襲うことができないのか、彼女もそちら側だからか。

 できれば、前者であってほしいと思いました。

 口を開こうとして閉じてを繰り返し、その回数が二桁になろうとした時でした。

「……っ‼」

 楽しそうに歩いていたミラさんが、突然私の手を引いて物陰に隠れました。

「どうしました――」

「……!」

 静かに、と口にぬいぐるみを当てるミラさん。

 ひょいと顔を出した先で闇が動く気配がしました。誰かいる。何かいる。

 ぬっと出てきたのは無数の腕。シェリーさんだ。

 あらゆる場所から規則性のない腕が伸び、ぺたりぺたり、ガシッと何かを探しているようでした。

「……うっ」

 あまりに気味の悪さにうめき声がこぼれてしまう。慌てて口を押え、気配を殺します。

「ううぅうぅぅあぁあぁぁみぃぃいいぃぃみぁぁぁあぁあぁぁあ」

 低くざらつき、何重にも層になったような声が空間に響きます。

「どこぉおぉぉぉぉドこォォおドコぉおぉおぉぉォォどこぉおおおぉぉ?」

 気味が悪い。申し訳ないけど気味が悪すぎる。それなのに、どこか悲しげな声から耳をふさぐことができない。

「みぃぃぃぃいいいミぃぃぃいいイィいイみっみっみみみふフフふフふふ」

 壊れたおもちゃのように何かを言いながら、体を引きずってゆっくりと動いていくシェリーさん。

 声を聴き、姿を見るたびに頭がくらくらするようです。息が浅くなる。意識が良くない方に引っ張られる危険な感覚に囚われそうになる。

 べたん、どたん、ぺたり、がたん。腕は周囲をかき回してこちらに伸びてきます。

「…………っ!」

 目前まで腕が迫った時、ミラさんが私を守るように抱きつきました。そのまま横にずれ、腕を回避します。

「……っはぁ、……あ……はあっ。……ミラ、さん」

「…………」こっくり。鋭い目は強い意思を湛えています。

 シェリーさんは行った。これでしばらくはまただいじょうぶなはず。

 そう思った時。

「みミみぃぃぃみみみぃぃいいぃイミミアハハふふふふふみあははハハははっ‼」

 隠れていた棚を放り投げ、異形のシェリーさんが狂気の笑いとともに向かってきました。

 勢いよく立ち上がったミラさんが私の手を引き走り出します。

「ままッまママママってままままってまてママままあはははハッはあアアはは!」

 ぶ、不気味……!

 伸びてくる無数の腕を間一髪でかわしながら走り、転がるもちゃを飛び越えて進んでいきます。ただ闇が広がる世界を知った道のように突き進むミラさんを疑っている暇もありません。でも、立ち止まったらおわりだとわかります。

 疑念の消えない自分が嫌だ。彼女はこんなにも真っ直ぐ私を見てくれているというのに、私はまだ見れない。

 繋いだ手を自分から離す時があるかもしれないと考えている。

 小さなこの手を……。少女たちの小さな絆を……。

 ふたつに結んだ茶髪を揺らしていた彼女がちらりと私を見ました。

「…………‼」

 かわいらしい笑顔で口を開きます。声はなく、何を言ったのかわかりませんでした。

 繋いだ手を強め、ピッと前方を指さす彼女。

 そこには宙に四角い箱がありました。なんだか現実らしさのない箱です。らくがきが浮いているみたい。少し歪な直線が長方形を描き、空間に出現したそれは、よく見ると扉のようにも見えました。

 あれなら開けられそうです。ミラさんが催促するように手を引きました。

 扉の前に辿り着きましたが、おかしい。ドアノブがない。これでは開けられない。

 やっとそれっぽいものを見つけたのに、また振り出しですか。

 いや、そんなこと言っている場合ではありませんよ。

「やややあヤヤアアめめめめえあアアテえてっテテえあははははああハハは‼」

 振り返るのが嫌です。背後から叫び声をあげて近づいてくるシェリーさんの姿が易々と脳裏に浮かぶ。

 まずい。膨大な数の腕が道を塞ぎ、もう戻れない。先もない。

 どうする。どうする……。

 まさかはめられた? ミラさんに?

「…………っ!」

 ミラさんは扉と私、シェリーさんをひっきりなしに見ると、ハッと顔を上げて慌ててポケットを探りました。

 なにをしているのでしょう……?

「……! ……!」

 私の手に握らせたのは一本のクレヨンでした。扉を指さしたと思ったら、彼女は向かい来るシェリーさんに向かって行きました。

「ミラさん⁉」

「…………っ!」こっくり!

 強い頷きで応える彼女。再度扉を指さし、私にやるべきことを教えます。

 クレヨン……。絵を描くものですよね。

 ならば。

「……描けってことですよね」

 私は本来ドアノブがある位置にそれっぽい物を描き足しました。

 はたから見たら大きなお絵描きです。それでも、ここは幻覚の世界。幻が本物になる世界です。

 描いたドアノブに指を伸ばすと……触れる。ドアノブが回る。

「ミラさん、開きました! ……あっ」

 すぐ目の前に腕がありました。

「……っぅ! うああぁ……うぅ」

 伸びてきた腕に首を掴まれ、勢いそのままに扉に叩きつけられました。頭と背中に強い衝撃が走ります。

 一瞬意識が飛びそうになり、クレヨンが手から落ちました。

「…………っ! …………。…………‼」

 私を見て悲しげな目をしたミラさんは、わけのわからないことを叫び続けるシェリーさんに向かって何かを投げました。がしゃんと音を立てて落ちたそれを見て、シェリーさんの動きがぴたりと止まります。

「ああァアああァぁぁあァアぁァアアあ…………みみみミみみらああらららラ……」

 すべての腕がそれに集中し、大事そうに撫でました。

 解放された私は呼吸を整えながらその光景を見守ります。

 腕に隠れてよく見えませんでしたが、一瞬目に映った輪郭は四角かった。

「っしゃ、しん立て……」

「……………………」

 ミラさんはシェリーさんを見つめ、小さく口を動かしました。

 そして振り返り、私に手を差し出します。

 彼女が向かう先はこどもが描いたような扉。

「ミラさん……」

 行ってしまっていいのでしょうか。シェリーさんをあのままにしていいのでしょうか。

 もう襲ってくる気配はなさそうですが……。

「…………」

 彼女はふるふると首を振り、私の手を引っ張ります。はやく、と言っているようでした。

 おもちゃの扉を開け、その先へ進みます。

「ああぁぁァァアあぁぁァァああアぁ……………」

 泣き声のようなシェリーさんのうめき声を背に、私たちは扉の向こうへ。

 弱々しく伸ばされた腕が届くことはなく、はるか遠くに残したまま扉は閉まりました。

 やってきたその場所は、今までの不思議な世界と打って変わって平凡な部屋でした。

 かわいらしいレースが施されたベッドが置かれ、おもちゃがたくさん散らばっています。どこもかしこもぬいぐるみでいっぱいで、少しだけびっくりしました。

 窓の外はなにもない。小さな部屋だけが息を潜めて存在しているようでした。

 閉まった扉は微動だにせず、向こう側から開けられる気配はありません。

 ミラさんは扉をじっと見つめ、憂愁の色が浮かぶ瞳を揺らしました。

 ぬいぐるみを強く抱きしめ、ぐっとこらえるように俯く彼女に何も言うことができない私。幼い少女が抱くには大きすぎる悲しみが彼女を苦しめているようでした。

 名前も呼べず、優しく触れることもできず、彼女を見ていることしかできない。目を逸らすことだけは許しませんでした。見届けろ、見届けろと自分に言い聞かせます。

 やがて顔を上げたミラさんは、私の顔を見て驚いたように目を開き、困ったように笑いました。

 クマのぬいぐるみの手を動かし、私に近づけます。

「…………」

「……?」

 手を引き、しゃがむように促します。ひざを曲げると、頭にふわふわした感触がありました。同時に、彼女の小さなてのひらも私の頭を撫でていました。

「……ミラさん」

「…………」優しく笑む彼女。

 なにしているんですか、私は。私がするべきことのはずなのに、彼女に慰められるなんて愚かにもほどがあります。

 同じようにしてあげたくても、震える手では不安にさせてしまうだけ。

 苦しさを隠す顔では彼女も悲しいだけです。

「……ありがとう、ございます。ミラさん、もうだいじょうぶ。だいじょうぶですよ」

「…………!」こくり。

 安心したように頷いた彼女は、何を思ったか私の腰から短剣を抜き取り、

「…………」

 しっかりと握らせました。

「え……?」

 私の困惑をよそに、とてとてと歩いて行った彼女は慣れた様子でベッドに上がります。

 すぐそばにクマのぬいぐるみを置き、いろんなぬいぐるみで溢れる中に体を寝かせると、仰向けになった彼女はちらりと私を見たのです。自分の胸元に手を置き、ここだと教えているようでした。

「…………」とてもとても穏やかな笑み。見る者を安心させる安らかな顔。

 でも、私はとても落ち着けやしません。

 どうして短剣を……? どうして彼女は自分の心臓を示しているんですか?

 ……い、嫌です。嫌です。そんなの嫌です。

 勝手に正解を導き出す頭を振り、否定するように奥底で「嫌だ」と叫びました。

 なんで、だってこれじゃあ、ここから出る方法は、短剣は、ミラさんは……。

 短剣を持つ手が震えて止まらない。息が苦しくなる。ズキズキ、ズキズキ。胸の奥の痛みが増していく。

 シェリーさんから逃げて、ここから出る方法を探して、ミラさんと出会って、やっと辿り着いた正解がこれ? 他に正解はないのですか?

 彼女を……ミラさんを、殺すしかないんですか?

「…………どうしてっ……!」

 彼女はずっと微笑みを湛えて運命を受け入れているようでした。

 ここは幻覚の世界。だから彼女も幻覚なのかもしれない。

 それでも私は、短剣を使いたくなかった。

 痛い。痛い。この痛みは幻覚なんかじゃない。

 躊躇いがちにすり寄ってくる白い光は淡く、ちか、ちかと瞬きます。

 それはまるで、ステラさんが泣いているようでした。

 彼女もミラさんとの別れを悲しんでいる。一時でも仲良くいられた。友達と呼べるような相手と今からさよならをしなきゃいけない。嫌なはずです。それなのに、光は消えることなく短剣の上で光り続ける。

 やめてください。言わないで。わか、ってる。わかってるけど、でも……!

 ミラさんの顔を見たくなくて、ステラさんの光も見たくなくて、ぐいっと目を逸らした時、視界の隅に木のおもちゃが見えました。

 ひとつひとつの積み木に一文字が彫られた知育玩具。

 それらが紡ぐ小さな言葉。

 ミラさんが心に抱き続けた母への言葉。

「……ああぁ……そう、なんですね。あなたもシェリーさんと同じ……」

 私は一歩、彼女の方へ足を進めました。

 一歩、一歩と近づくたびに、ミラさんは安心したように頬を緩めるのでした。

 ……ばかだなぁ、私。彼女が味方かどうかわからないと言いながら、まだ疑っているからと振る舞いながら、心の中ではとっくに気を許して手を繋いでいた。

 そうですよ、最初から手を取っていたじゃないですか。あの状況で疑念の感情も抱かずにあっさりと繋いだんですよ。

 それっぽく理由を言いつつも疑いたくなかったのでしょう? ミラさんをステラさんと重ねてしまったから味方であってほしいと願ってしまったのでしょう?

 疑う自分はちゃんといると繕ってまた気づかないふりをしただけ。

 そうすれば、裏切られた時、お別れの時、痛みを抱かなくて済むと思ったのでしょう。

 ばかな私。どうせ痛いのなら、最初から笑えばよかった。

 彼女に心配させなくて済んだのに。

 ああ、ごめんなさい。もうだいじょうぶ。あなたの優しさも強さも隣で見ました。

 だから迷うことは許されないのです。

 ベッドのそばまでやってくると、私は震える声をそのままに「ごめんなさい」と謝りました。彼女は首を横に振って応えます。

 短剣を手に取り、彼女の心臓へ――。

 それを見たミラさんが静かに目を閉じました。けれど、短剣が胸を貫くことはありませんでした。

「…………っ!」

 彼女が驚いたように体を震わせたのがわかりました。

 ええ、驚いたでしょうね。

 私がベッドに眠る彼女を抱きしめたから。

「私を助けてくれてありがとう、ミラさん。とても不思議なこの世界で、あなたに会えたからここまで来ることができた。ステラさん……この光の子と仲良くしてくれてありがとう。きっとすてきな思い出になったと思います」

 光は私たちを包むようにくるくると回りました。

 ステラさんもミラさんと同じように、病を理由にベッドの上で生きることを強いられた。外の世界を知らずに生き、うつくしい星になった。私とともに旅をして、遠い地で少女に出会った。短い時間でしたが、二人で遊んだ記憶は幻覚じゃない。たしかに、彼女たちに刻まれたと信じます。

 ミラさんを離し、短剣を取った手に光が近寄りました。

 一緒に……、はい、わかりました。見届けましょう。

「さようなら、ミラさん。どうか安らかに」

 彼女は私たちを見たまま優しい笑顔を浮かべました。目を閉じることはありませんでした。

 短剣は真っ直ぐ心臓を突き刺し、ミラさんの小さな体を跡形もなく消し去りました。

 まるで夢だったかのように誰もいなくなったベッド。彼女がずっと持っていたクマのぬいぐるみが支えを失ってこてりと倒れました。

「…………っつ。あぁ……」

 短剣を握りしめ、ただ耐える私に光が寄り添います。

 痛い。私はどこもケガをしていないのに、短剣で貫かれたような痛みが心臓を突き刺してくる。

 ごめんなさい。ごめんなさい。こうするしかなかった。

 幼い少女ひとり救えない。私はいつも役に立たない。

 力が抜けてへたり込んだ私に、白い光は寄り添ってくれました。

 そんなことをされる資格もないのに。あなたはいつも優しいのですね。

 少女が消えた部屋で短剣を握りしめ、壊れそうな心臓に押し当てました。

 やがて辺りの景色が薄れ、私たちを包み込んでいきます。

 幻覚の世界のおわりが訪れたのでした。


 〇


 遠い地の研究所。歓声をあげる研究員たちに連れられ、ひとりの女性が喜びを露わにしていました。

「こんなに強い魔物を捕まえるなんて、さすが我らのリーダーだな!」

「運がよかっただけよ」

「君の魔法のおかげだよ。これで研究がぐっと進むぞ」

「今は大人しいけど気をつけてちょうだいね。最初はかなり暴れたから」

 別の研究員が「幻覚が効いたんじゃないか?」とグラスを渡しました。

「単純に諦めたのかも。私をじっと見て急に静かになったから」

「シェリーの強さにひれ伏したってことだな!」

「あんまりおだてないでよ。調子に乗っちゃうじゃない」

「おう、乗れ乗れ! 今日は飲むぞ。過去イチ強い魔物を拝みながらな!」

 賑やかな研究所でした。女性……シェリーさんも彼らに囲まれながら頬を緩めました。

 ぷつんと映像が変わり、白衣を着たシェリーさんが建物内を歩いていました。

 そのお腹は大きく、彼女は愛おしそうに撫でながら微笑みを浮かべます。

 通りすがりの研究員がパッと顔を明るくし、彼女に手を振りました。

「やあ、シェリー。もうすぐかい?」

「ええ。やっとこの子に会えるわ」

「ぎりぎりまで仕事をしなくても、うちでゆっくり体を休めたらどうだい」

「心配してくれてありがとう。でも、あの人が取り組んできた研究を完成させたいし、この研究こそが私たちを繋いでくれたものだから……。できる限り力を注ぎたいの」

 シェリーさんは少し悲しそうな色を浮かべました。

「もう半年になるか。研究中の……事故であいつが死んだのは」

「あっという間よね。悲しむ暇もなかったくらい、この半年は忙しかったわ。逆によかったかもしれないけれど!」

 強がって笑うシェリーさんに、研究員は一瞬表情を曇らせましたが、すぐに笑顔を浮かべました。

「しっかし、あいつもばかだよなぁ。かわいい娘の顔も見ずに逝っちまうとは」

「毎日自慢してやるつもりよ。ほーら、かわいいでしょう? って」

「羨ましがって帰ってくるかもな」

「あっはは! ほんとに帰ってきたら一発殴ってやるんだから」

「げっ、じゃあ絶対帰ってこないぜ」

「あらやだ。失礼ね」

 笑う二人が薄れていく。次に出てきたのは絶望するシェリーさんと辛そうな顔をした人間。

「うそでしょう……。あの子が……、ミラが長くは生きられないなんて……。ち、治療法は? 助かる方法はないの⁉」

「まだ解明されていないことが多い病なのです。わかっていることは、原因不明で体の機能が低下すること。常時苦痛を伴う症例も報告されています。また、声を出すこともできないと。……彼女の命はもって五年でしょう。申し訳ございません。私にできることは、苦しむ前に彼女を――」

「冗談じゃないわ! あの子はわたしの生きる意味なの。あの人との約束なの。ミラがいないのならわたしは死んでやる。……ええ、だいじょうぶよ。わたしがなんとかしてみせる。必ずあの子を救ってみせるわ……」

 ふらつく足で部屋を飛び出していったシェリーさん。

 また場面が変わる。研究所の奥。

 限られた研究員しか入ることができないエリアで、シェリーさんはぶつぶつと何かを言いながら片っ端から資料を広げていました。

「あの子のためよ……あの子のためならわたしは…………」

 赤く光る数字が並ぶ暗い通り。警備員らしき人物たちが廊下に倒れていました。

「だいじょうぶ……だいじょうぶよ、ミラ。安心して、わたしが助けてあげるわ……」

 コツコツと廊下を進み、《49》と書かれた部屋の前で立ち止まります。

「たとえお前を使ってでも、ミラのためなら…………」

 そして、彼女は厳重に閉ざされた部屋を開け、鎖に繋がれていた魔物を連れて外へと向かいます。途中、他の部屋の鍵をひとつ、ふたつと解除していくシェリーさん。

 捕らわれていた魔物たちが怒りの叫び声をあげ、狂気をまとって見るものすべてを破壊していきます。

 事態を察知した研究所ではけたたましいサイレンが鳴り響き、研究員がパニックになりながら逃げ惑いました。そんな彼らに見向きもせず、シェリーさんは闇の中へと消えていきました。

 彼女と知り合いだった研究員はシェリーさんを探しましたが、見つけることはできませんでした。

「室長! あの魔物が……半年前研究員を食い殺した魔物が見当たりません!」

「なにっ⁉ まさか、シェリー……」

「室長、どうしますか!」

「……っ! みんなに伝えてくれ。四十九番脱走につき、総員研究所を棄てて逃げろ、と」

「他の魔物たちはどうするんです」

「放っておけ。そこまで強くはない。ただ……あいつだけはだめなんだ。いいか、はやく伝えてお前も逃げろよ」

 研究員は赤いランプが光る方へと足を向けました。

「室長⁉ どちらへ」

「最高責任者がいない今、この研究の責任はおれにある。できる限り落とし前はつけるよ」

「……わかりました。どうかご無事で」

 走り去った研究員を見届け、彼は魔物が暴れ狂う死地へと姿を消しました。

「…………」

 私は過去と思われる光景を眺めていました。これも幻覚なのでしょうか。でも、シェリーさんが知らない過去も含まれている。そもそも、これが真実かどうかもわかりません。けれど、ミラさんと同じように彼らも幻とは思えませんでした。

 場面が変わる。彼女が越してきたという家。私たちが訪れたあの場所です。

 二階の一室、ベッドの上でミラさんがぬいぐるみと遊んでいました。まだとても幼い彼女は、かたわらのシェリーさんに満面の笑みを向けます。

「わたしのかわいい子。大切な宝物。いつまでも元気でいてちょうだいね」

 頭を撫でながらつぶやくシェリーさんは、「あなたのお薬のためにママはお仕事してくるわ。ひとりで遊んでいられる?」

 少女は言葉の意味を理解して、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめました。こくりと小さく頷きます。

「いい子ね。じゃあ、またあとで」

「…………」

 部屋を出て行く母の背に、ミラさんは何かをつぶやきました。けれど、それが声として出ることはなく、母にも伝わりませんでした。

「…………」

 少女はひとり、母が出て行った扉を見つめ続けたのでした。

 私が瞬きした瞬間、ミラさんは少し成長していました。

「ミラ! 五歳の誕生日おめでとう! うれしいわ。だって五歳よ。プレゼントを受け取って。この日のためにママが手作りしたの。どうかしら?」

「…………っ‼」

 プレゼントの箱からはクマのぬいぐるみが出てきました。彼女の周りにはたくさんのおもちゃがありましたが、それでも少女はうれしそうでした。

「ミラ、ちょっと貸してくれる?」

「……?」

 ミラさんからクマのぬいぐるみを受け取ったシェリーさんは、ぬいぐるみに隠れるようにして声を変え、手をちょんちょんと動かして少女に振ります。

「やあ、ミラ! 今日はきみの五歳の誕生日! ほんとうにおめでとう!」

「……っ! ……っ!」

「うふふ、どう? クマさんとおしゃべりできたかしら?」

「…………!」こくこくっ。顔を輝かせるミラさんはとても幸せそうでした。

「……ママね、これからもっとミラのためにがんばるわ。だから、一緒にいられる時間が減るかもしれないの。でも、クマさんがいる。病気が治ったら、ママもずっと一緒にいられるから、もう少しだけガマンしてちょうだいね」

「……」こくり。

「ありがとう、いい子ね。さて! せっかくの誕生日ですもの。写真を撮りましょう? ミラ、クマさんと一緒に」

「……!」

「あっ、ちょっと待ってね。ミラ、髪が解けているわ」

「……?」

 娘の髪を大切にとり、可憐な少女を彩るように髪紐を結ぶシェリーさん。

 母の指が髪をとかすたびに、少女はその頬を桃色に染めました。

「さあ、できたわ。うん、とってもかわいい!」

「……っ!」

「ミラ、こっちを見て。いくわよ~」

 カメラを構えたシェリーさんはおもちゃに溢れるベッドを中心に、クマのぬいぐるみを抱きしめる娘の笑顔をしかと写真に残しました。

 愛おしそうにそれを見ると、「じゃあ、クマさんと仲良くね」と部屋を出てきました。

 扉を閉める直前、隙間から名残惜しそうに娘を見たシェリーさんでしたが、彼女のもとに戻ることはしませんでした。

 それから、シェリーさんは今までミラさんと過ごす時間として確保していたすべてを研究につぎ込むようになりました。理由は簡単です。

 ミラさんの容体がどんどん悪化していったから。

 研究によって作った薬を飲ませますが、良くなるどころか悪くなるだけ。

 ベッドから体を起こすこともできなくなった娘のそばで、シェリーさんは魔法を発動させます。

「だいじょうぶよ。わたしの魔法の中でなら、あなたは元気で幸せで、走って遊んで、痛いのも苦しいのもないわ。クマさんとおしゃべりもできるし、ママとも一緒にいられる。だから、がんばって。……生きて、ミラ」

 祈るように娘の手を握り、彼女に向けて魔法陣をつくります。

「ミラのために創った魔法よ。心配せずにたくさん遊んでいらっしゃい」

「…………。……」……こくり。

 娘を幻覚の世界に送り、シェリーさんはひとり涙を流しました。

「どうして良くならないの……。こんなに、こんなにやっているのに……! 今まではなんとか保ってきたのに、どうして急に……。いや……いやよ。ミラはわたしの大切な……。だいじょうぶ、やってみせる。必ず助けるわ。だからママを信じてちょうだいね」

 目を閉じる娘に告げ、シェリーさんは去りました。

 場面が変わる。薄暗い部屋でした。ここは……? まるで別の場所のようですが、どうやら家の地下のようです。こんなスペースがあったのですね。

 名前も知らない道具が大量に置かれ、溢れんばかりの資料が積み上がった机。

 あちこち黒く汚れた痕があり、清潔とは呼べない場所でした。

 その奥に、強い魔力をにじませる魔物が鎖で繋がれています。

「魔族も魔物も魔法使いも魔女も、みんな薬にして飲ませてきたけどうまくいかない。きっと、特別な魔力じゃないとだめなんだわ。お前はどうなのかしら。あの子の命になる魔力になってくれる?」

 研究所から連れ出した魔物は唸り声をあげるだけ。

「あの子を救う魔力はどこにあるの。誰の魔力なら救えるの?」

 大きなため息をついたシェリーさんは、ぽつりと「勇者……」とこぼしました。

「世界でひとりだけの存在。魔なるものを倒し、人々を救うあの人なら、特別な力があっても不思議じゃないわよね。……でも、わたしはここから離れられない。ふふっ、ねえ、お前。解放してほしかったら勇者を連れてきてちょうだいよ。……なーんて、ばかみたいね」

 憔悴しきったような顔で笑うシェリーさん。魔物はその様子をじっと見つめていました。

 また景色が変わる。ミラさんの部屋。

 ひとり、ぬいぐるみで遊ぶ彼女は開かない扉を見てはさみしそうな顔をし、逸らしてはまた見るを繰り返していました。

 最後に扉が開いたのはいつだっただろう。名前を呼び、頭を撫でてくれたのはいつだっただろう。世話以外で一緒にいてくれたのはいつだっただろう。

 少女は数年前を懐古し、やがて何か決めたように口を結びました。

 本を広げて言葉を学び、一文字一文字を丁寧に頭に入れていく。

 誰も教えてくれる人がいないから、独学でページをめくり続けました。

 そして、病の進行によって動かなくなってきた体を必死に動かし、ベッドから転げ落ちながら部屋の隅に移動します。

 おもちゃが散らばる中に、言葉が刻まれた積み木がありました。

 こどものための知育玩具です。ミラさんは難しい表情を浮かべ、ひとつひとつの字を並べていきます。

「…………」

 完成した言葉を見て満足げなミラさん。指でなぞり、そっとつぶやきます。

「――――」

 声は出なくとも、言葉はたしかに生まれました。ただ、届けたい人がそこにいない。

 どうか、届きますように。彼女は祈るように手を結び、目を閉じます。

「……あれ?」

 一瞬、彼女の周りに紫色の光が見えた気がしたような――。

 よく見えず、目を凝らそうとした時、彼女はふっと表情を変えました。

 もう何度見たかわからないさみしそうな顔。彼女はそれを癒す術がないままベッドに戻ろうとして、

「……っ‼」

 背後にいた魔物に襲われました。

 魔物はミラさんの喉元に喰いつき、噛み千切ります。飛び出した鮮血が部屋を赤く染め、おもちゃたちを血の海に沈めていきます。

 倒れ込んだミラさんの小さな体は大きな口に放り込まれ、鋭い牙でばらばらにされていきました。腹をえぐられ、腕をもがれ、足が折れ、頭が砕けました。

「……ぁ…………」

 瞬く間の惨劇に声が出ない。思い通りにならない手で口を押え、溢れそうな感情を必死に押し込めました。

 眼前では、口からぼたぼたと滴り落ちる血は彼女の命があっけなく散ったことを如実に物語っていました。

 魔物は楽しそうにおもちゃを踏みつぶし、壁を壊し、暴れました。

 ミラさんの綴った言葉が、彼女の体と同じようにばらばらに散らばります。

 その時、階下から娘を呼ぶ声が響きました。

 息を切らして部屋に飛び込んできたシェリーさんは、魔物の口からはみ出る腕を見て、血だまりを見て、壁を彩る血しぶきを見て、聞いたこともない悲鳴をあげて泣き崩れました。

 一瞬にして光を失った目は魔物を見てすらいません。ミラ、ミラと名前をこぼすだけで逃げることも戦うこともする気配はありません。

 魔物はうれしそうに体を揺らし、今しがた少女を喰らった大きな口でシェリーさんを飲み込みました。

 魔物は部屋を出ると、不気味な唸り声とともに地下へと戻っていきました。


 〇


「…………っ‼」

 目を開けると、そこは知った部屋でした。家に招き入れられ、シェリーさんの話を聞いていた最初の部屋です。ただ、電気は消え、人の気配はありません。

「……戻ってきた?」

 私を包む光の結界。これはステラさんの光ではありませんね。魔王さんの魔法でしょうか。

 懐中時計を見るとすでに光は消え、いつもの時計に戻っていました。

「ありがとう、ステラさん」

 時計を撫で、辺りを見回します。

 すぐそばに大剣と鞄が置いてある。膝の上には写真立て。

「これって……幻覚の世界で見たのと同じ……?」

 がたんと音がしました。ハッと顔を上げると、床下からじわりと滲み出てくる黒いものがありました。無数の腕。向こうの世界で私を襲ってきたものと同じです。

 すぐに大剣を取り、戦闘態勢に入ろうとしました。けれど。

「おあオオあおあぁオアおあおアアオアォぉあおアあぁっっ‼」

 相手の方が速い。まずい、食らう――。

「おあおアアぁ……?」

 魔物と呼ぶには気味が悪く、魔力が入り乱れるそれは呆けた声とともに崩れ落ちました。

 そのあっけない最期は、シェリーさんとミラさんを喰ったおそろしい魔物と呼ぶには首を傾げるものでした。とても弱い。消えていく魔力も少なく、別の魔物かと思ったほどです。

 魔物が倒れた向こうに魔王さんが立っていました。

 彼女は厳しい顔をして手をかざし、魔法を発動させて魔物を殺したようでした。

「おかえりなさい、勇者さん。おケガはありませんか」

「……ただいま、魔王さん。へいきです。……守ってくれた人がいたので」

「そうですか。よかったです」

 私に近寄ってくる魔王さんに、幻覚の世界のこのひとを思い出して一瞬びくりとしました。

 彼女は私と一定の距離を空けて立ち止まり、魔物との間に入って警戒を怠りません。

「お伝えしたいことはたくさんありますが、一旦外に――」

 魔王さんが言葉を止めたのは、床に散った魔物の中から声がしたからです。

 私の耳にも届いたそれは、シェリーさんのものでした。

 這いずり出てきた彼女は必至の形相でこちらに向かってきます。その手にはナイフが握られていました。

「ミらぁ……みら……み、みラ、あの子の、あの子のための魔法を……魔、力を……!」

 彼女の体には不可思議な模様が浮かび、それは命を蝕んでいるように見えました。

「よクも、よくモ、よくも、魔法……マほう、あの子ノ……あアアァあアァ……」

 彼女の手が動く。ナイフを投げる動作。

「ぜんブあの子のため、あのコの……ミラぁぁァァァああァァぁ‼」

 私に向けられたナイフは途中で見えなくなりました。

「ごめんなさい、勇者さん」

 魔王さんが横から私を抱きしめて、隠してしまったから。

 でも、わずかな隙間から見てしまった。

 魔王さんがシェリーさんの上に魔法陣をつくり、そこから無数の光剣が降り注いだのを。

 彼女の体に突き刺さり、ナイフごと動きを停止させたのを。

 じわりと広がる赤い色。でも、それも見えなくなりました。

 魔王さんが腕を動かし、私の視界を覆ってしまったから。なにも見えないように抱きしめて離さなかったから。

 それでも、目に映った光景は幻じゃない。漂ってくる鉄の匂いで息が詰まる。

「…………あ、ぁ」

「……だいじょうぶです。……ごめんなさい」

「……………………」

 声が出ない。出せない。どうして、と言ってしまいそうだったから、口をつぐむしかなかった。

「……ミ、ら。……み、ら……ミ…………」

 泣きそうな声で娘の名を呼ぶシェリーさん。

 ……どうして。大事に想い合っていたのにこんな……。

 消えてしまう。なにもかもがもうすぐ消えてなくなってしまう。

 ミラ、ミラと泣き続けるシェリーさんの声が胸に刺さって痛い。痛い。彼女たちのことを考えると痛い。苦しい。

 でも、二人はもっとずっと……。

 母を待ち続けて消えた小さな命があまりにかわいそうでした。求めた愛も伝えたかった言葉も――言葉?

 そうだ、言葉。伝えたくて積み木でつくった彼女の言葉をシェリーさんに……!

 私は魔王さんを押しのけて死にゆくシェリーさんを見ました。

 私が言っていいものではありません。でも、伝えるには私が言うしかないのです。

 ごめんなさい、ミラさん。あなたの言葉、言わせていただきます。

「――《I love you, Mummy》」

「…………っ! み、みラ、みら、ミラ……‼」

「彼女があなたに伝えたかった言葉です。シェリーさん……」

「……フふ、ふふフ、みみミら……ミラ、ミラ」

 涙と血でぐちゃぐちゃになった顔がうれしそうに、安心したようにほころびました。

「……ミラ、わたし、も……愛してる…………」

 穏やかに閉じられた目。やがて、苦しそうだった息が静かに消えていきました。

 間に合った……? ちゃんと伝えられた?

 これで……よかったのでしょうか。

「大切な人を守りたい。その気持ちは強くて尊いものです。けれど、時に誰かの命を奪う毒となる。……彼女も、ぼくも」

「……魔王、さん」

「ごめんなさい、勇者さん。無事でよかった。……ほんとうに」

「私もごめんなさい。ご心配をおかけ……しました?」

「しました! 心配しました! もう……!」

 たった今、私の目の前で命を奪った魔王さん。

 体の奥で形のない感情がぐちゃぐちゃと暴れる気がしました。

 魔王ならば人間を殺すなんて当然のことです。でも、このひとは『ぽく』ないから、今までそんな場面を見なかった。

 いつも笑顔で愛を振りまき、くだらない会話を楽しむ彼女だからつい忘れてしまっていた。……いえ、見ないふりをしたのかもしれません。

 たとえ見ないふり、気づかないふりをしても事実は変わらない。

 このひとは魔王。この世界の絶対的な悪。

 わかってる。わかっています。わかっていて、私は手を取ったはずです。

「…………」

 魔王さんは何も言わずに私を待っていました。

 幻覚じゃない。これが現実。そう、わかっています……。

 私たちが生きるということは、誰かの命を奪うということ。

 真っ白なこのひとの手が赤く汚れるということ。

 それでも、私は――。

 血の上に立っていようと踏み出してしまう。

 私たちが生きる世界は幻覚のように優しくはないのだから。

 その手がどんなに汚れようと私は離れないでしょう。

「ごめんなさい、人間を大切に想うあなたにこんなことをさせて。私がやるべきだったのに」

 魔王なのに人間好きな彼女にとって、あの行動は辛いものだったはずです。

「謝ることはありません。ぼくは魔王。きみは勇者。ぼくはぼくのエゴで守りたいものも壊したいものも決めていますから」

「私だって……わがままです」

「ぼくほどではありませんよ」

 魔王さんは微笑み、息絶えたシェリーさんを埋葬すると言いました。

 場所は庭。埋葬用の穴を用意するために外に向かう魔王さんに、「私が行くまで埋めるのは待っていてください」と告げて二階にあがりました。

 ノックをして開けたそこは、悲劇をそのまま閉じ込めているようでした。

 散乱したおもちゃたち。壁や床、ベッドにしみ込み変色した血の痕。

 私はぬいぐるみを踏まないように進み、ある場所でしゃがみました。

 血がついた積み木を手に取り、一文字、一文字と並べていきます。

「i、l、o、v、e……」

 ああ、字が読めてよかった。彼女の言葉を理解することができてよかった。

 彼女が伝えたかった愛があのまま消えなくてよかった。

「I love you, Mummy……。ミラさん、よくがんばりましたね」

 私はベッドに転がるクマのぬいぐるみを抱きあげます。ほこりをかぶっていますが、血はついていないようです。

 他のぬいぐるみよりも少し歪。縫い目が見えていたり、布が足りなくて別の布をくっつけたりした痕が見えます。それでも、とてもかわいらしいものでした。少女がずっと抱きしめていたもの。母の愛を感じるもの……だったのかもしれません。

「ミラさん、このぬいぐるみ、シェリーさんと一緒に眠らせてあげてもいいですか?」

 応えは当然ありません。けれど、私はぬいぐるみを持ったまま魔王さんが待つ庭に向かいました。

「お待たせしました」

「いえいえ。それは?」

「これは……私のわがままです」

「きみのわがままですか。わかりました。どうぞこちらへ」

 魔王さんが作った穴は人ひとり分。かたく目を閉じるシェリーさんはきれいな顔をしていました。血は拭き取られ、安らかな表情です。体は白いシーツに包まれ、あとは閉じて埋めるだけ。

「あのままじゃ悲しいと思いまして。勝手に家の物を使ってしまいましたけど」

「魔王さんのわがまま?」

「はい、ぼくのわがままです」

「そうですか。では、私たちのわがままとお別れしましょう」

 シェリーさんの胸元にクマのぬいぐるみを置き、目が覚めた時からずっと持っていた写真立ても添えました。

「おやすみなさい、シェリーさん、ミラさん」

 安からな眠りを祈り、シーツをかぶせて土をかけていきます。

 ふたりで少しずつ彼女たちの眠りの場を整えていく。

 無言の空間に落ち着かなくて、私から口を開きました。

「魔王さんは幻覚の世界に行かなかったんですね」

「はい。ですので、こちらからできることをしていました」

「できること?」

「幻覚の世界に無理やり介入するときみがどうなるかわかりませんでした。だから、きみのことはステラさんにお任せし、魔法が破かれた後に備えていたんです」

 魔王さんはそう言うと、私から離れたあとのことを教えてくれました。


 〇


 部屋を出たぼくは、その足で地下へと続く道を探しました。

 家中を覆い尽くす濃い魔力。彼女を閉じ込めた幻覚魔法。

 魔法陣の気配は家の下から。魔なるものの魔力も同じく下。

 地下への入り口は簡単に見つかりました。扉を開け、薄暗い階段を下りていく。

 辿り着いたそこは、『研究室』にふさわしい陰湿とした空気と禍々しい気配で充満していました。

 乱雑に収納された品々には規則性がなく、彼女の持ち物と考えるにはいささか不自然でした。机の上には大量の器具や資料。

 手に取り、書かれた文字を眺めます。

「『魔力を抽出する実験結果と魔物への応用可不可について』……。なんだか、どこかで聞いたような気がしますね。他には……『抽出した魔力の性質変換』、『魔なるものの魔力の毒性』、『魔力の薬学的可能性とその実験結果』。どうやら、怪しい研究であることはたしかですね」

 ぼくの言葉が正しいと思えるような痕跡が地下研究室には当時のまま残っていました。

「……血痕ですか」

 魔なるものの血か、はたまた。

 手掛かりがあるかと思い何枚か資料を読みましたが、あまり有力な情報は得られませんでした。わかったことと言えば、彼女の研究は『49』と呼ばれる魔物を軸に行われているということ。

 それだけ生かしながら他の魔なるもの、魔力を持つ人間を捕らえて実験に使い、殺し、捕らえ、使い、殺し……。

 一体、ここでいくつの命が消えたのでしょう。魔なるものはどうでもいいですが、人間たちは……。

 いたるところに飛び散る血痕を辿り、研究室の奥へ。

 厳重な檻と鎖。暗いそこは中がよく見えませんでした。

「…………」

 破られた痕。魔物がここから逃げ出したことが読み取れます。

 まあ、無理でしょうね。低級ならまだしも、この魔力をみるに上級……、限りなく超級に近い上級魔物。とても抑えきれないはずです。

 いっぱしの魔女が簡単に捕らえられる相手ではないはずです。

「……遊び、ですかね」

 人間に捕らわれたふりをしてコミュニティに侵入し、タイミングを見計らって人間を喰い、暴れ狂うものもいます。強い魔物ならばその程度の知能があっても不思議ではありません。

 この魔物がターゲットにしたのがシェリーという魔女だったのなら……。

「いつから狂ってしまったのでしょう。こうなってしまえばもう、ぼくにも……」

 魔法で作った剣を手に、さらに奥へ。

 こつこつと鳴る靴音だけが響く中、ぼくはふと疑問を抱きました。

 なぜ、魔物はシェリーさんをすぐに喰わなかったのでしょう。

 見た感じ、それはしばらく彼女に飼われていた。油断させるため? 何らかの方法で消耗させるため? 意外にもチャンスがなかった? 彼女の緻密な幻覚魔法を我が物とする自信がなかった? それとも。

「……見つけた」

 家の最も深いところに魔法陣がありました。それ以外は何もない広い空間です。

 まるで、魔法陣を設置するためだけにつくられたような空間。

 ぼくはその中心に立ち、光剣を振り下ろしました。

 バキン。弾かれる。やっぱりだめですね。

 ほんとうに厄介なことをしてくれましたよ。こちらから攻撃するだけでは壊せない魔法陣。一体どれだけの時間と魔力でつくったのでしょう。

 魔法陣を壊すためにも条件が必要。

「ちっ……」

 無意識のうちに舌打ちをしてしまいました。

 おっと、いけない。勇者さんに嫌われてしまう。

 とはいえ、こちらからできることがなくなった。魔法陣さえ壊せば幻覚が解けると踏みましたが、相手の方が一枚上だったようですね。

 いえ、諦めるな。魔力を探るのです。糸口が見つかるかもしれない。

 すうっと息を吸い、立ち込める魔力をかいくぐって解いていく。

 強い魔物の魔力。シェリーさんの光属性の魔力。他には?

 彼女が喰わせたか、魔物が喰ってきたか、そのどちらかの魔なるものの魔力もありますね。他には?

 ……ああ、魔法使いたちの魔力も感じる。やはり喰わせた? 実験に使ったのちにエサとして処分した可能性も。

 他には? 他には……。

「……ん? なんでしょう、これ」

 混ざり合った魔力の深く、深く、そのまた向こうに『生きている魔力』がある、ような。

 いやまさか、そんなはずはありません。ここまで混ざり合ったら個別の魔力が残っていられるわけ……。

 いえ、待ってください。魔法として残っているのならありえます。

 たとえばそう、エトワテールで魔力を閉じ込め続ける勇者の結界魔法。術者が解除しない限り発動し続ける魔法は存在します。かなり状況が限られますが、可能です。

 魔法ならば、混ざり合っても個の存在が残る。

 とすると、この家では何らかの魔法が発動し続けている?

 シェリーさんの幻覚魔法以外の強い魔法が。一体誰の。実験体になった魔法使いや魔女? 魔族や魔物? いえ、この魔力は魔なるものとは違う。

「ミラ……さん?」

 思わず口から出た名は、ぼくの中に仮説を組み立てていきました。

 まさか、そんな、いや……え……?

 ぐるぐると考えていると、ぼうっと光る魔法陣が震えるのがわかりました。

「きたっ……!」

 考えている時間はない。向こうの世界で魔法を解く鍵が開かれた。

 あとはこちらからも……!

 ぼくは再び光剣を振り下ろしました。

 中心からひびが広がり、ばきんと壊れる。今度はちゃんと攻撃が通った。これで、あの子は魔法が解けてこちらの世界に帰ってこられるはずです。

 あとは……。

 魔法陣を盾に身を潜めていた魔物が姿を現す気配。やっとお出ましですね。

 シェリーさんを喰い、その魔力と魔法を手中に収めた知能ある魔物。元々強かったであろうそいつは、きっとさらに強くなっている。

 幻覚が解けたばかりのあの子に戦わせるわけにはいかない。

 ぼくは魔物の魔力を感知して階段を駆け上がりました。場所は一階。勇者さんがいる部屋。

 いた。うじゃうじゃと生やした腕でまだ勇者さんを殺そうとしている。

 往生際の悪いやつですね……!

 確実に殺すため、ぼくは非常に強力な魔法を発動させようとしました。けれど。

「…………?」

 魔物の魔力がほとんど感じられない。こいつ、弱い。どうして? ぼくの予想ではすでに超級レベルまで成長しているはずなのに。

 ……まあ、いいです。弱いならそれで。

 ぼくはさくっと魔物を殺すと、勇者さんに近寄り彼女の無事を確認しました。

 そこから先は、彼女も知っている通りです。


 〇


「話を聞いてもわからないことばかりです」

 私は答えを拒むように首を振りました。

 今さら何かわかったところでもう遅い。何もかも遅い。

 勇者として、私として、できることなどない。

 できなかったことを悶々と考えて痛みを感じるのなら、考えない方がいい。……考えたくない。

 私の愚かな感情も思考も土に被せて見えなくしよう。そう思い、ひたすらに手を動かし続けました。

 やがて埋め終わると、魔王さんが顎に手を当ててうなりました。

 墓標になるものがないと言った魔王さんは、ごそごそとポシェットを漁ると何やら小さな粒を手渡してきました。

「墓標の代わりといってはなんですが、ないよりはいいと思いまして。お花のタネです」

「蒔くだけで咲くんですか?」

「そこはまあ、がんばってもらうんですよ」

「テキトーですね」

「だいじょうぶです。このお花は生命力がバツグン過ぎると有名なものですから。きっといつか、ここにはきれいな花が咲きますよ」

「だといいですね」

「祈っておきましょう」

 私たちはタネを蒔き、彼女たちを想い、手を合わせました。

「……シェリーさんは魔物の強い魔力によって、もう助かりませんでした」

 ぽつりと魔王さんが話し始めます。

「人間にとって魔なるものの魔力が毒になることはご存知ですよね」

「はい」

「親子を喰った魔物は元々かなり強かったと推測できます。苗床にされたシェリーさんは魔物の意思で生かされていたようですが、限界はあります。……彼女は長くもった方かと。いくら魔物が生かそうとしても毒であることに変わりはありませんからね。あそこまで侵食されてしまえば、もう助かる手立てはありません。だから、ぼくたちが今日ここに来なくても、優しい幻覚は近いうちに解けたはずです」

「……そうですか」

「ただ」魔王さんは不思議そうに首を傾げて続けます。

「それにしても変なんですよねぇ。魔力が強すぎたのに一年以上生きていられたことが」

「シェリーさんが行っていた魔力の研究についても詳しいことはわかっていません。その研究によって魔力の毒を緩和させることができた可能性はあるんじゃないですか」

 それに、強い強いと言っていますが、最後に出てきた魔物をみるに、なんだかめちゃくちゃ弱かったですよ。まったく、どうなってんですかね。

「うーん……。聞いたことありませんけど……。それよりも可能性の高い仮説がありまして」

「仮説?」

「シェリーさんの娘、ミラさんの魔法です」

 はい? なんでここでミラさんが出てくるんですか。彼女の魔法ってどういうことでしょう。

「親が魔力を持って生まれると、子もそうである確率は高いんですよ。あ、もちろん関係ない場合もありますけど。シェリーさんはかなり強い魔女でした。となると、ミラさんも魔女だった可能性はじゅうぶんにあります」

「そんな様子はなかったと思いますけど……」

「ええ。本人が気づいていないケースも多いですから。とはいえ、ミラさんの固有魔法によっては、いくつかの疑問に答えが出るのもたしかです」

「だとしても、もうわかりません」

「はい。すべては幻覚の中に消えてしまいましたから」

 魔王さんは最後に、青い目で真っ直ぐ私を見て言います。「きみは彼女たちを救ったと思います」と。

「え……?」

「きみがシェリーさんに言った言葉は、たしかに彼女を救ったはずです。そして、シェリーさんが救われたことで、ミラさんも救われたと思うのです」

「そんなこと……わからないじゃないですか」

「そうですね。ですが、あのまま消えるよりはずっと幸せだったと思いませんか?」

「…………思い、ます。思いたい、です」

 救われずとも、少しでも痛みを軽減できたのなら、私は今日ここに来た意味があったと思える。地の下で眠りについた彼女たちの安らぎを心から祈ることができる。

 私の存在に意味が生まれる。

 私は立ち上がり、

「行きましょう、魔王さん」

「はい、勇者さん」

 二人の墓を背に歩き出しました。

 もう魔の気配も魔力も感じません。まるで、すべて夢だったかのように過ぎ去っていきました。愛するがゆえにすれ違い、愛するがゆえに過ちをおかした彼女たち。勇者として非難すべきかもしれませんが、私は……。

「…………」

 懐中時計にそっと触れ、私は彼女たちに別れを告げたのでした。


 その足で向かったのは、家に来る前に訪れた平和な村でした。

 魔王さんが村長に伝えたのは事の顛末。そして、平和の終焉でした。

 噓偽りなく語った魔王さんの話を聞き、返ってきたのは笑い声。

「まさか、そんなことありませんよ」

「ですが、ぼくたちは実際に体験してきたことです」

 魔王さんは事実のみを話しました。いくらか真実を隠して。

「勇者様の話といえど、今までなんともなかったのに突然魔物が出てくるだろうだなんて……。村の者たちは信じないでしょう」

「魔物の被害がなかった理由はお話した通りです。それを理解したのなら、魔物が出現することにも理解をしてください。平和な時間はもう終わったのです。命を守るために必要な準備と行動をお願いします」

「ですがねぇ……」

 村長はぽりぽりと頭を掻いて困惑を露わにしました。

「九年も平和だったわたしらにとって、魔物なんて空想の世界でしかないのですよ。すぐには無理でしょう」

「村を守っていたのは空想ではありません。幻覚です。幻覚はいつか解ける。それが今日だっただけです」

「うーん……」

 乗り気にならない村長に、魔王さんは少し悲しそうな顔をしました。

「……ご忠告はいたしました。ぼくたちは同じ場所に留まることはできません。ですから、どうか、よろしくお願いしますね」

「ええ、勇者様のお言葉、しかと胸に刻みますよ」

 言うだけ言ったようなセリフです。きっと、魔王さんの言葉は届いていない。

 面と向かって声を出して、真っ直ぐ伝えているのに届かない。

 ……かなしいことですね。

 村長のもとをあとにした私たちは、向かいから歩いてくる女性が手を振っているのに気がつきました。

 乱入してしゃべるだけしゃべり、奢って帰った女性です。

「あら、昨日ぶりね。平和すぎて旅に出たくなくなっちゃった?」

「いえ、村長さんにお伝えしたいことがありまして」

「村長さんに? ……って、あれ? あなた勇者じゃない? うそー! ぜーんぜん気づかなかったわ。ごめんねぇ、酔っぱらってたから」

 彼女は魔王さんを見て謝りました。うん、違うけど、まあいいや。

「勇者さんが村長さんに用事って、何かあったのかしら?」

「じきにお知らせがあると思いますが、実は――」

 魔王さんは先ほど話した内容と同じことを女性にも伝えました。けれど、反応は。

「あっはは、冗談よしてよ。何年も魔物が出なかったんだから平気だわ」

「この村を守っていた魔法……が消えてしまったのです。くれぐれも夜に出歩かないようにしてください」

「え~、でも、今日の夜は友達と野外パーティーの予定があるもの」

「お友達にも伝えてください。もう夜に遊ぶことは出来ないと」

「それは困るわぁ……」

 眉をひそめて言う彼女は、にこっと笑って「まあ、だいじょうぶよ。なんとかなるわ」と手を振りました。

「ちょっと!」

「二人とも良い旅を~。また遊びに来てちょうだい。奢ってあげるわ」

「…………」

 にこやかに去る女性を止めることはしませんでした。

 魔王さんも無言で手を振り、私を見ます。

「シェリーさんの魔法による副次的な平和。まるで、この村はいまも幻覚を見続けているようですよ」

「仕方ありません。平和は感覚を鈍らせる。誰だってこわいことや苦しいことから逃げたいはずです。きれいなものを見ていたい。幸せでいたい。……そう思うことは悪いことではない、と思います」

「終わりのない幸せですか。そんなものがあるなら、ぼくだって……」

 言いかけて口を閉ざした魔王さんは、私に向かっていつもの笑顔を浮かべました。

「ぼくの幸せはきみがいることです。ぼくの魔法も存在もなにもかも、きみのために使いたい」

「…………」

 なんて返せばいいのかわかりませんでした。

 魔王さんの言う『幸せ』は終わりが定められたものです。彼女も私も理解していることです。いつか必ずくる終わり。それでもあなたは真っ直ぐに私を見続ける。

「幸せは、終わりがあるから幸せだと認識できるのかもしれませんね」

「……そう、ですね」

「限られた幸せをきみ以外の誰かのために使いたくはありません。だってぼく、魔王ですから。とってもわがままなんですよ」

「……私もです。だから、行きましょう」

「はい、勇者さん」

 私は村を囲むように魔法をかけ、偽りの平和に彩られた村から旅を再開しました。

「お優しいですね」

「平和ボケしたまま死なれると気分が悪いので」

 それに、この魔法は一度きり。発動し、村を守ったら彼らはもう自分たちでやるしかないのです。彼らの物語は彼らのものです。

 その中に私はいない。

 私の魔法は彼らのためにあるのではないのだから。

お読みいただきありがとうございました。

とある母子の物語、いかがだったでしょうか。

解明されていないことは多々ありますが、ぜひいろいろ想像していただけたらと思います。


魔王「あのタイプの魔法、ほんっと嫌です」

勇者「それ、何回目ですか」

魔王「二度と会いたくないです! 二度と!」

勇者「そういうのをフラグと言ってだな」

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