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270.物語 Fairy Dolly Innocently

本日もこんばんは。

今日は招待状を送ってくれていたあのひとが登場します。ヒントはサブタイにありますよ。

例のごとくいつもより長いので、のんびりまったりお読みください。それでは、どうぞお楽しみくださいませ。

(注意:軽度の残酷描写があります。苦手な方はお気をつけください)


長さ目安:SS 29本分

 最近、妖精たちが視界の隅によく入るようになりました。私のてのひらと同じくらいの大きさの彼らは、ふと気がつくと淡い光を残して姿を消したり、きらりと輝いて存在を主張したりします。

 私を見ているようですが、人間の視線と比べると感じるものが薄いように思い、あまり気になりませんでした。どちらかというと、動物が気配に気づいて顔を上げるのに近いものだと思います。

 他の人間に危害を加える様子もなく、ただ私と魔王さんの旅を覗いている彼ら。

 そして時折、妖精女王からの手紙兼招待状を届けにくる。

 手が届くくらい近寄ってくるのは、決まって魔王さんが用事でそばを離れている時だけです。半透明の羽をぱたぱたしながら招待状を手渡すと、どこか楽しげに私の周囲をまわって飛び去って行きます。

 妖精たちは言葉を発することはありませんが、表情は豊かでした。私が勇者であることを知っているはずなのに、彼らは無邪気な笑顔を浮かべているのです。

 勇者に対する憎しみや恐怖はないのでしょうか?

 まあ、害がないならすぐさま倒す必要もないでしょう。

 めんどくさがり屋の私は何通目かもわからなくなった招待状を開きながら妖精たちを横目で見ます。

 招待状は、開くといつも少し甘い香りがしました。嗅ぐと気が緩んで眠たくなるような香りです。

 内容はいつも通り。毎度ほとんど同じことが書いてありますが、コピーではなく律儀に手書きです。

 主題は『妖精の楽園』へのお誘い。いつでも来ていいと綴られた手紙には、楽園の詳しいことは書かれていません。名前もない。お茶会の開催や遊びのことだけ。そうなると、少しずつ興味が湧いてくるものです。

 私は体を包む眠気を感じながら女王さんや楽園へ思いを馳せました。

 おいしいお菓子とやらも気になりますし、根気強く誘ってくれる妖精女王さんがどういうひとかも知りたくなってきました。それに、あの魔王さんとなにやらいざこざがあったみたいですし、暇つぶしにはなると思うのです。

 魔王さんに招待状を没収され、妖精たちから招待状をもらい、魔王さんに没収され……。

 この流れにも飽きてきた頃です。

 夕飯の買い出しに行った魔王さんには申し訳ないですが、私は招待状を妖精たちに見せて口を開きます。カーテンに隠れていた妖精たちが一斉に顔を出しました。

「あなた方の主さんに伝えてください。明日、お伺いいたします、と」

 妖精たちは小さな体を大きく動かして応えます。そして、青や赤、黄の光を放って消えていきました。

 危険な魔族だったら倒せばいいでしょう。人間に友好的で害のない魔族なら放っておけばいいでしょう。勇者ならば選択肢はひとつのはずですが、あいにく私は不真面目でして。

 おまけにやる気もないのでこうなりました。

「……魔王さん、怒るでしょうか」

 私が妖精女王さんの話をすると、彼女はいつも不満そうな顔で「やめた方がいいです」とくぎを刺します。

「あれはよくないです」

「そう思う理由があるんですよね。なんですか?」

「……うえ~っと、ううう~、とにかく行かない方がいいですよう。行くにしても、勇者として問答無用で倒すなら許可しますけど」

「せめてお菓子食べてから」

「あれの出すお菓子なんて食べちゃだめですってばぁ!」

 こんな風に、魔王さんは私を妖精女王さんから遠ざけようとします。

 こういうところが危険だから、こういう技を使うから、こんな過去があるから……。そういったことは一言も教えてくれません。

 というか、なんだか魔王さんが嫌がっています。会いたくなさそうです。

 これはきっと、おもしろい魔王さんが見られるに違いありません。

 本気で会わせたくないなら別の対処をするはずです。例えば、妖精女王を消してしまうとか。それをしていないのなら、判断は私に委ねられている状態と考えてよいのではないでしょうか。

 なにかまずいことになったらその時考えましょう。

 なんとかなります。うん。

 私は手紙の文字を目でなぞって明日のことを考えました。

 妖精の楽園。一体どんな場所なのでしょう。妖精女王とはどういうひとなのでしょう。

 〈おにんぎょうあそびがだいすきなの。あなたもすきかしら?〉

 少し拙さを感じる文字です。たとえるなら、幼いこどもが書いた手紙のよう。

 とても読みやすい文章で書かれた手紙は、いつも同じ一文で閉じられています。

 〈いっしょにあそぶのがたのしみ。らくえんでまっているわ〉

 待っている、と言われると待たせている気になってしまいます。

 一度、会ってみるのも悪くないでしょう。

 さて、魔王さんはどんな反応を見せてくれるのでしょうね。


 翌日。宿をあとにした私たちはいつものように会話をしながら歩いていました。

 ちなみにですが、買い出しから戻った魔王さんは招待状が新たに届いたことに気がついていないようでした。妖精たちも出て行ったきり姿を見せなかったので、気にしていないのでしょう。

 旅行鞄にしまった招待状も元気なままです。フライパンで炒められることありませんでした。いつ気づくかと様子を窺いましたが、結局バレることなく今に至ります。

 妖精の楽園がどこにあるのかわかりません。来ていい、待っていると言われても場所の記載はなかったのです。妖精たちに「行く」と言ったので迎えがあるのでしょうか。

 どこかに看板でもあるのか、妖精たちの大群がやってくるのか。

 私はそれとなく視線を動かしながら楽園を探しました。

「……あ」

 見つけたのは楽園ではありません。というより、見つけたのではなく聞こえたのです。

 こどもの泣き声が。

「どうしました?」

「いえ……」

 私は泣き声の方に進み、木の下にうずくまっているこどもを見つけました。

 フードを被っていることを確認し、魔王さんを盾にして近づきました。

「なんでぼくが前なんですか」

「人間には関わりたくないですし、私の色を見られたら話ができないでしょう」

「そう言うわりには泣き声に気づくのがお早い……ぐはっ。わ、わかりましたよう」

 魔王さんの脇腹にパンチをし、背中から半分顔を覗かせて「そこの人間」と話しかけます。

「勇者さん、言い方」

「……そこのこども、なんで泣いているのですか」

「迷子になっちゃったんですか? それともケガを? よければぼくたちに教えてくださいな」

 こどもは涙をいっぱいに溜めた目で魔王さんを見ると、「ゆうしゃさま?」と訊きました。

 残念。そっちは魔王です。

「ゆうしゃさまだ!」

「こんにちはです~。さてさて、きみはなぜ泣いていたのですか?」

「おなかすいたの」

「ほお、勇者さんみたいですね」

 小声で言う魔王さん。うるせえんですよ。私は空腹で泣いたりしません。

「ちょっと待ってくださいね。なにか食べ物を……あれれぇ、どこでしょう」

 ポシェットをひっくり返す魔王さんを横目に、私は鞄からチョコレートを取り出してこどもに差し出しました。

 たぶん、こども視点では背中から手がにゅっと出てきたように見えたでしょう。

 いけない。妖怪『チョコレートどうぞ』になってしまう。

「たべていいの?」

「……お腹がすいたのでしょう?」

「うん! ありがとう」

 こどもはなんの疑いもなくチョコレートを食べました。魔王さんを盾にした効果です。

「それを食べたら家に帰るのですよ」

「わかった!」

 よいお返事をもらい、私は魔王さんのポシェットの紐を引っ張りながらそそくさと退散しました。なるべく近くにいたくないのです。人間とは関わりたくない。

「ひ、引っ張らないでください~。あの子がちゃんと帰ったのを確認しなくていいんですか?」

「近くに魔の気配は感じませんし、問題はないでしょう」

 魔王さんをずるずる引きずって少し離れたところで立ち止まります。

「まったく、空腹で泣くなど幼いにもほどがあります」

「すぐチョコレート渡したじゃないですか」

「さっさと泣き止んでほしかっただけです」

「ところで、なぜここに?」

「休憩です」

 私は木の幹に寄りかかり、ふう……と天を仰ぎました。

 視線だけ動かすと、青い空や緑の葉が見えます。さらに木々に沿って動かすと、隅にこどもの姿を見つけました。

 まだいる……。あ、動いた。あの足取りなら真っ直ぐ家に帰るでしょうね。さきほど集落を視認しましたし、ここから距離はない。魔の気配も……うん、ないですね。

 これなら後についていかなくても問題はないでしょう。

「はあ……。……なんですか、さっきからじっと見て」

「いやぁ? ずいぶんと気にかけているようでしたので、お優しいなぁと」

「目の前で死なれるのは決まりが悪いだけです」

「そうですか」

「そうです」

 私は伸びをすると、こどもが歩いて行った方とは逆に歩き出しました。

 魔王さんはそれ以上なにも言わずに隣に立ちます。いつもと変わらない微笑みが少しだけ大きいのに気がつきましたが、見ないフリをしました。

 目的地もなく足を動かしていると、木々の隙間に淡い光が飛んでいるのに気がつきました。

「もうー! まーた妖精たちがいますよ。あっち行きなさーい!」

「…………」

「あっ、なんですかこっちに来て。またまた招待状を渡しに来たんですか? んもー! さっさと出しなさい燃やしますから」

 妖精たちにぷんぷんしている魔王さんをよそに、彼らは私に近寄って手招きしました。

 こっちにおいで、と言っているようでした。

「ちょっと待ってください。楽園へ誘っているんですか? あれは招待された者が許可しないと開かれない場所のはずですが……。まさか勇者さん」

「そのまさかです」

「倒しに行くんですよね?」

「いえ、気になったので遊びに行こうかと」

「だ、だめですよ! だめです! 絶対だめです!」

「魔王さんがそこまで嫌がる理由を教えてくれるなら考えますよ」

「うぐっ……。ゆ、勇者さんが知ってもおもしろくないことですから……」

「それは私が決めますよ」

「うぐぐぅ……」

 魔王さんが呻いている間に、妖精たちは旅行鞄に集まって指を指したりベルトを掴んだりしています。鞄を開けると、もらった招待状が妖精たちと同じように淡い光を放っていました。二つ折りになった招待状を開いた瞬間、辺りの空気がふっと変わったのを感じました。

 眩暈に似た感覚に包まれると、景色がぼやけて溶けていきます。

「あっ、ちょっ、ちょっと待ってください!」

 慌てた魔王さんが私の手を掴んだと思ったら、すでにそこはさきほどまでいた場所とは異なる世界でした。

 …………。…………。…………あれ。あ、なんでしょう。なんだか頭がぼわっとしていました。いけない。立ったまま寝ていた気分です。

 目の前を妖精たちが楽しそうに飛び回っています。

 薄緑色に染まった木々。太陽がないのに妙に明るい。そこかしこに色とりどりの花が咲き、ほのかにあたたかい。

 ああ、あたたかいからぼうっとしてしまったんですね。昼寝に最適な気温です。

 いいですね、ここ。もうすでにちょっと眠たくなってき――。

「今すぐ帰りましょう!」

「ええ……。なんでですか。せっかく来たんですから、少しだけ昼寝させてください」

「お昼寝ならここを出たところでいくらでもしていいですから! はやくぅぅ!」

「耳元で叫ばないでください」

「だ、だって、はやくしないと彼女がくるんですよ。あのめんどくさい――」

 その時、魔王さんの言葉を遮るように少女の声が響きました。

「誰がめんどくさいって?」

「うぎゃぁ⁉」

 飛び跳ねた魔王さんは、嫌そ~うな表情でゆっくりうしろを振り返りました。

「やっぱり来ましたか……」

「やっぱりってなにかしら。招待客のお迎えに来ただけよ」

「何度も何度も勇者さんを誘って、一体なにが目的です」

「失礼な言い方。一緒に遊ぼうと思っただけだけど?」

「魔族のくせに勇者と遊ぶなんて、怪しいとしか思えませんね」

「魔王のくせに勇者と一緒にいるひとに言われたくはないわ」

 ……おや。なんだかとても仲が悪そうですね。会った途端にこれですか。ばちばちしています。そして魔王さんはずっと嫌そうな顔をしています。ちょっとレアですね。

 お互い一歩も譲らない様子で睨み合っていましたが、妖精女王さんはぷいっと顔を背けると私に向き直りました。

 きらきらと光る銀髪。滑らかな素材で作られた服はドレスのようにかわいらしい。あれはシルクでしょうか。きれいな服を身にまとった体には、小さな妖精たちと同じ半透明の羽がついています。

 妖精女王さんは魔王さんそっちのけで私に近寄り、うれしそうな顔をしました。

「ようこそ、妖精の楽園へ! 待ってたわ! 待ってた! うふふ!」

 めちゃくちゃ歓迎されました。おっと、ペースが乱される。

「お招きいただきありがとうございます。私、勇者ですけどだいじょうぶですか?」

「もちろん。知っていて招いたんだもの。あ、自己紹介しなくちゃね。カフネちゃんって呼んで!」

 ……お、おおう。勢いがすごい。どこかの誰かを思い出す勢いです。

「かわいい~。お人形みたいね。とってもカフネの好み!」

 美しい黄金色の目で私を眺め、うれしそうに手を合わせます。

「勇者ちゃんのことは勇者ちゃんって呼んでもいい?」

 勇者ちゃん?

「ど、どうぞ……?」

「わぁい! おともだちできたわ! さあ、こっちにきて。カフネがおもてなししてあげる!」

 妖精女王さん……もといカフネちゃんは私の手を引いて楽園の奥へ行こうとします。それを止めたのは眉を限界までひそめて不満マックスな魔王さんでした。

「待ってください」

「なによ。邪魔しないで」

「時間を決めてください。きみのペースに引っ張られて楽園に長時間いることになったら困ります。ここは特殊な空間です。いくら勇者といえど人間。悪影響です」

「あら、ほんとに失礼ね。……いいわ、勇者ちゃんが満足したら帰してあげる。どう?」

 カフネちゃんは小首を傾げるようにして問いました。ええ、まあ、構いませんけど……。

 私が決めちゃっていいんでしょうかね。

 頷いた私を見て、カフネちゃんは「決まりね!」と進んでいきます。魔王さんは相変わらず不満げな表情で私たちを見つめました。ため息とともに後を追い、楽園の奥へと入っていきます。

 心地よい日差しを受けながら草原に寝っ転がっている時のような気持ちのよい感覚がします。どこからか漂う甘い香りが鼻をくすぐり、気が緩みそうです。女王であるカフネちゃんに呼応するように妖精たちも楽しげに飛び回り、辺りがきらきらと光っていました。

 現実とは思えない空間です。なんだかふわふわしているような、曖昧なような。

 発光する木々が道を作り、分かれ道がいくつも伸びています。柔らかい草で覆われた地面も木々と同じように明るい。照明があるわけでもなく、太陽が照らしているわけでもなく、なぜか明るい世界。妖精たちが顔を覗かせるように咲いている花々が世界に色をつけているようです。なんだか、かわいらしいという感想が似合う場所ですね。

 他に人間はいない。魔族も妖精たちだけ。いつもの世界から切り離された特別な空間。

 平和だと思いました。嫌な感じもしない。魔王さんは今すぐ帰りたい気持ちでいっぱいかもしれませんが、個人的にはのんびりしたいと思います。

 私の隣には繋がれた手をじいっと睨んで口を曲げている魔王さん。そんな顔しなくても。

「……油断はしちゃだめですからね」

「今のところ危険はなさそうですよ?」

「むむぅ……。んむぅぁ……」

 言葉にならないうめき声をあげながら、魔王さんは辺りでぱたぱた飛んでいる妖精たちに目を向けました。彼らはおちょくるように光を放ちます。その度に魔王さんは整った顔を崩すのでした。

「ここよ!」

 到着したのはひらけた広場。木々がアーチのように曲がり、枝から小さなランタンを垂らしています。よく見ると、本物ではなく作り物のランタンでした。光っているわけではなく、辺りの発光の力をガラスが反射しているだけのようです。

 草の上に細長い木のテーブルが置かれ、その上には絵に描いたようなお菓子の数々。

 よく知っているものから初めて見るものまで様々です。

 とってもおいしそうです。

 私、魔王さん、カフネちゃんがお腹いっぱい食べてもなくならないと思う量がありました。きゃっきゃっと飛び跳ねる妖精たちがお皿の上からクラッカーやチョコレートをつまみ取ってくるくる宙をまわります。

「さあ、座って。一緒にお茶会しましょ?」

 豪華な装飾が施された椅子をひき、私を誘います。こうされると座らないわけにはいかず。お言葉に甘えて席についた私の横にカフネちゃんが座り、空いているもうひとつの私の横に魔王さんが自ら座りました。

 ……広いんだからもっと他の席に座ればいいのに。

「みんなー、集まってきてー」

 カフネちゃんの声で広場には数えきれないほどの妖精たちが集まってきました。すでにお菓子をつまんでいた妖精は慌ててクラッカーを背中に隠します。

 カフネちゃんは淡い黄色の飲み物が入ったカップを私の前に置き、自分も同じものを手に持ちました。カップを顔の前に掲げ、高らかに宣言します。

「勇者ちゃんの楽園訪問を祝して、かんぱーい!」

 途端、妖精たちは無数の光を描きながら飛び、私たちに淡い粉を振りかけました。

 粉といってもわずかな時間ののちに消えていく儚いものでした。光の粒という方が合っているかもしれません。

 カフネちゃんがカップを近づけてきたので、私も倣います。たしか、こう?

 カップの縁がかちりと音を立てて水面を揺らします。乾杯、と。

 反対側を見ると、魔王さんはカップも持たず妖精たちを眺めていました。

 カフネちゃんと何があったか知りませんが、せっかくなら楽しんだ方がいいと思うのです。というわけで、私は魔王さんの肩を叩き、カップを見せました。

 うっ……と躊躇った魔王さんは、「……飲まない方がいいですよう」とつぶやきながら私と乾杯してくれました。申し訳ないですが、ちょっと愉快です。

「好きなものを食べてね。まだたくさんあるから遠慮しないで」

「ありがとうございます」

 食べるのがもったいないくらい綺麗に飾られたお菓子たち。私は食べますけど。

 遠慮しないで、と言われたので遠慮せずにいただくとしましょう。

 さっき妖精がつまんでいったクラッカーを一枚、ぱくりと口に放り込みました。

 おいしいです。しょっぱさと甘さが絶妙ですね。お皿の上にはアレンジしたクラッカーがたくさん並び、その横には香ばしい香りを放つスコーンが並び、その横にはきれいにデコレーションされたチョコレートが並び……。

 お皿が三枚縦に置かれた不思議な置物がいくつもあります。そこには一口サイズのケーキやシュークリーム、プリンにロールケーキ、果物が置かれ、食欲をそそりました。

 目移りしてしまってどれを食べようか迷いますね。楽しいです。

 どうしようかと考えていると、いつの間にかお皿がお菓子でいっぱいになっていました。

 あれ、無意識に取っていました? そんなに食い意地張っていますかね、私。

「これ、カフネのお気に入り! こっちも! これもおいしいわよ」

 違いました。カフネちゃんが次々とお菓子を取っては私のお皿に乗っけていきます。

「これも! あとこれも!」

 とても楽しそうですが、私のお皿が限界です。とりあえずケーキにフォークを刺して食べますが、口に入れた瞬間に別のケーキがこんにちはします。

 ちょっ、ちょっと待って……。

「カフネ、勇者さんが困っているじゃないですか」

「んえ? わっ、ごめんね、勇者ちゃん。おいしくなかった?」

「ふえ、ほういうはへれはなふへ」

 いえ、そういうわけではなくて、です。待ってください飲み込みます。

「おいしいですよ。とっても」

「そう? よかった! たくさん食べてちょうだいね」

 そして追加されるお菓子たち。ありがたいですが、ちょっと待ってほんと。

 しゃべる暇がないです。でもとてもおいしいです。しゃべる暇がないだけで。

 妖精たちもカフネちゃんに合わせるようにお菓子を持って飛び回り、膨らんだ私の頬をつついたり服の裾を引っ張たりしてきます。それに気を取られてお皿から目を離すとやられます。そう、追加されているのです。

 妖精たち……あなたたちもですか。待ちなさい落ちたらもったいないでしょう。

 口の中に甘みが広がるのを感じながら、あっちこっちで宙を舞うお菓子に目が回りそうです。魔王さんとカフネちゃんの話を聞こうと思っていましたが、言葉を発する時間が与えられません。

 ……もしや、そういう作戦ですか? そんなに話したくないんでしょうか。

「カフネね、これが好きなの~。食べて食べて。どう? おいしい? うふふ」

 うーん、そういうわけではなさそうですね。ほんとうに善意でおもてなしをしてくれているように感じます。

 延々と食べている私は話すことができませんが、カフネちゃんは気を悪くするでもなく楽しそうです。楽しそうならいいのですけど……。

 機械的に手を動かし口を動かしひたすら食べる私は、少しだけ思考に余裕がうまれたのでしょう。ふと疑問が頭に浮かびました。

 カフネちゃんも妖精たちもきらびやかなお菓子をもぐもぐしていますが、お菓子がまったく減っていないように思うのです。あれ、私食べていますよね?

 隣に視線を移すと、じとっとした目で妖精たちを眺める魔王さんがフォークをくわえています。お皿にはいくつかのケーキやプリンが置いてありました。ふわふわのケーキにフォークを刺して口に運び、への字に曲げたまま咀嚼しています。確実に食べていますよね。

 おかしいですね……。俊敏な妖精たちが目にも止まらぬ速さで追加していっているのでしょうか。

 それともうひとつ。

「…………」

「どうしたの? まさかお腹いっぱい? うふふ、そんなことないでしょう?」

 マカロンを片手に顔を寄せるカフネちゃん。そっと唇に押し当てられ、思わず口を開きました。桃色のマカロンの甘みがふわっと広がります。おいしい。

「たくさん食べてね」

 微笑むカフネちゃんに、私は無言で頷きました。また言葉が出せない。

 ……それよりも、やっぱり。いくら食べてもお腹がいっぱいになる気配がありません。

 たしかに食べているのに、味を感じているのに、お腹にたまっている感覚がないのです。

 とても不思議でした。どういうことでしょう。魔法かなにかでしょうか。

 ちょっと興味が湧いた私は、咀嚼を早めて飲み込み、隣の魔王さんに小声で話しかけようと顔を向けました。

「あの、魔王さん。訊きたいことが――って、なんですかその顔」

 物凄く不満そうに眉をひん曲げ、尖らせた口を仕方なさそうに動かしている魔王さんがいました。ジト目レベルマックスで私とその先にいるカフネちゃんに向け、恨めしそうなオーラを放っています。

「……なんですか、今の」

「はい?」

「なんですか、今の!」

 だからなにが。

「ぼくだってやりたい! 勇者さんにあーんってやりたい!」

 は?

「ずるいですよ、カフネ!」

「うるさいわよ。食べる食べないは勇者ちゃんの自由じゃない」

「なんで許したんですか勇者さん! いつもみたいに手をはたき落としてくださいよ!」

 え、いや、なんでと言われても。あの状態まで持ってこられたら食べるしかなくて。

 はたき落としたらもったいないですし、なんだか気が緩んでいるような私でして。

 あったかい場所だからでしょうか。昼寝をしようと寝転がってまどろんでいる時のような感覚に包まれている気がするのです。眠くはないんですけどね。

 あと、えっと、善意でぐいぐいこられるのに弱い……かもしれない……。

 相手が魔族というのも関係しているでしょうね。魔族ならいいやと思っている節があります。

 あ、一応言っておきますけど、手をはたき落とすなんてしていませんからね。まるで日常的にやっているような言い方ですけど、顔を背けて拒否するか手を押し返すくらいしかしていません。

 フォローするような名誉も持っていませんが、とりあえず言い訳を頭の中でこねくりまわしている私の両隣でふたりはわーわー言い争っていました。

 ……やかましい。

「そもそも、なんでここにいるのよ。帰って」

「勇者さんを置いて帰るわけないでしょう。なにされるかわかったもんじゃありません」

「招待されていないのに楽園に入って来るなんて無礼だわ」

「魔王に無礼も礼儀もありませんよ」

「うわっ、ひどいこと言うのね!」

「いくらでも言えばいいですよーだ!」

 などなど。私を挟むのをやめろ。手を引っ張るな。

 カフネちゃんは私の腕を抱きしめるように引き寄せてぐいっと顔を近づけました。

 おおっ……と、びっくりした……。近い……。

「まったく、失礼なひとだわ。ねえ、勇者ちゃん。魔王になにかひどいことされてない? 困ったことはない?」

「様をつけなさい、様を」

「いーやっ! 誰が様なんてつけて呼ぶもんですか!」

「ぼくはきみたちのトップですよ。敬いなさい」

「ふーんだ! ぜったいに呼んでやらないわ」

 魔王さんも対抗して私の腕を掴みます。ちょい、やめろ。

 がっちりホールドされた私は動かすことができずにどうしたものかと考えました。

 カフネちゃんによるノンタイムお菓子投入は停止しましたが、この状態では食べられません。魔王さんと言い争う女王を気にしてか、妖精たちがカップやテーブルから顔を覗かせてこちらを見ます。心配や不安というより、なにかおもしろいことを求めて様子を窺っているようでした。

 彼らの行動や様子を見るに、幼いこどものようだと思いました。人間のことは詳しく知りませんが、年齢でいえば十歳以下でしょうか。好奇心にあふれているのは良いことだと思いますが、誰か止めてください。

 そこの妖精さん、ちょっと助けて――おいこら、カップの中に入るな。溺れたらどうする……妖精って溺れるんでしょうか? って、そうじゃなくて。

「あんなひどいことしておいて敬えだなんてよく言えるわね」

「そ、それと今回のことは話が別です。勇者さんを巻き込まないでください」

「悪い事しているわけじゃないわ。一緒に遊びたいだけよ」

「だから、その遊びが怪しいと言っているんです。どうせなにか企んでいるんでしょう」

「ふんだ。もしそうだとしても、魔王には教えてやらないもん」

 カフネちゃんは私の顔を覗き込みました。

「魔王を倒すなら言ってね。カフネも力になるから」

 さすがにびっくりです。あなた、魔族ですよね? こんなことを言う魔族は初めてです。

 まじで何があったんですか、このふたり。

「あの、カフネさん」

「カフネちゃん!」

「カフネ……ちゃん」

「うん、よし!」

 うれしそうに笑うカフネちゃんは、「カフネは勇者ちゃんを応援してるよ」と言いました。

「こんなやつ、倒されちゃえばいいんだ」

「ぼくが死んだらきみも消えますが」

 びしっと指差された魔王さんはうるさそうに手を振り、呆れた様子でため息をつきました。

「別にいいもーん。カフネは魔王が倒される方がうれしいから」

 自分の命よりも魔王さんが倒されることを望むなんて。私が知らないだけで、こういうことは割とあるのでしょうか?

 もしくは、自分の犠牲も厭わないくらい思いが強いのか。

 何度も届く招待状のように、少しずつ気になる要素が増えていきます。ただ、軽率に「何があったの?」と訊くわけにもいきません。

 魔族相手に気を遣うのもおかしな話かもしれませんが、無遠慮にずけずけ訊くのもどうかと思いまして。魔王さんはのらりくらりとはぐらかしてばかりで教えてくれませんから、やっぱりカフネちゃんでしょうか。

 それに、食べてばかりではゆっくり話せません。遊ぶというのも気になりますし、私によくしてくれる彼女と話をしたいと思いました。

 私への態度がずっと好意的なのは応援してくれているから……だとわかりました。それならば、ふたりの関係が悪化した原因も教えてくれるかもしれませんね。

 このまま言い争う様子を見ていても埒が明きません。ふたりが揃っていると瞬時にケンカが勃発するので、落ち着いて話を聞くためには、まず……。

「魔王さん、ちょっとふたりきりになってもいいですか?」

「ぼくとですか?」

 一切の躊躇いなくそのように訊く魔王さんにはもはや安心感を抱きます。だが違う。

「いえ、カフネちゃんと」

「だめです! ぜっっっっっっっ――」

 溜めに入った魔王さんの声を遮り、カフネちゃんが「おっけー!」と手を挙げました。

「最後まで言わせなさい、カフネ」

「魔王に許可を取る理由がわからないわ。それに、勇者ちゃんが大事なら魔王は許可して当然じゃなくて?」

「なに言ってんですか。大事だから拒否しているんでしょう。頭を使って考えなさい」

「やな言い方~。まるでカフネのことをおばかって言っているみたい」

「きみの性質的には正しい――」

「ふんだ! 行こ、勇者ちゃん」

 カフネちゃんは私の手を取ると魔王さんにべーっと舌を出しました。「あ、ちょっと⁉」と追いかけようとした魔王さんは妖精たちに道をふさがれ、「こらー!」と声を張り上げました。

「話を聞いたらすぐに戻りますから」

「もー! 十分! 十分経って戻らなかったら強硬手段をとりますからね!」

「乱暴はしないでくださいね」

「ううう~……。勇者さんの安全が保障されているならぼくだって穏便にですねぇ!」

 捕まえた妖精をぺいっと放り出しつつ、魔王さんはまだ言いたげな表情で遠くなっていく私を見つめました。

「油断しちゃだめですからね、勇者さん!」

 繰り返しの警告に、私は小さく頷きました。わかっています。どんなに好意的でも相手は魔族。そして彼女の支配域。勇者になりたてならまだしも、多少の経験はあるつもりです。おもてなしされたからといって、まだ気を許したわけではありません。

 背負った大剣の重みに意識をやりながら、私はきゅっと握られた手のぬくもりを感じていました。

「カフネの行動には注意してくださいね。あとあと、ええっと、そうだ! み――」

 何か言いかけていましたが、曲がり角を曲がったので聞こえませんでした。

 カフネちゃんは迷路のような楽園をすいすい進み、右に曲がり左に曲がり、行き止まりかと思ったら木々が動いて道を作り、さらに奥へと進み……。

 曲がった回数がわからなくなってきた頃、彼女は手を離してこちらを振り返りました。

「ようこそ、カフネのお部屋へ」

 部屋といった場所は、見てきた場所よりもひときわ淡く光り、よりあたたかな空気を漂わせていました。広くはない場所です。こじんまりとした小さな自室。

 ただ、部屋と呼ぶには物がありません。

 ベッドとか机とか椅子とか、部屋にあるのが一般的と思われる物は一切なく、殺風景な場所だと思いました。優しい光と包みこんでくれるようなぬくもり以外はぽつぽつと花が咲いている程度。

 お菓子を頬張っていた時とは打って変わり、少しさみしい雰囲気のある部屋にカフネちゃんは立っていました。

 彼女は緩やかなカーブを描いた段差に腰かけ、「やっとふたりきりになったわね」と笑顔を浮かべました。

「魔王がいるとうるさくてお話できないんだもの。もう、やんなっちゃう」

 頬を膨らませながら足をぷらぷらさせるカフネちゃん。立ったままの私を見つめ、「どうしたの? 一緒に遊びましょ」と楽しそうです。

 遊ぶのはいいですが、その前に本題を。

「カフネちゃんに訊きたいことがあるのですが」

「カフネに? いいわよ、なあに?」

 口を開こうとした時、カフネちゃんは「あ、待って!」と勢いよく立ち上がりました。

「せっかくカフネのお部屋に来てくれたのにおもてなししてない! まずは飲み物よね。うふふ、とっておきのものを準備しておいたのよ」

 カフネちゃんが指を振ると、光沢のある枝がするりと伸びてきました。枝先にはカップが引っかかり、他の枝には小瓶が絡まっています。

 カップは私のてのひらの上に置かれ、小瓶はカフネちゃんが手に取りました。

「特別よ?」

 くすくす笑みをこぼしながら小瓶を傾けるカフネちゃん。瓶からははちみつに似た黄金色の液体が流れてきます。紅茶……でしょうか? 見たことのない色のものです。

「どうぞ」

 そう言われ、カップを口元に近づけた時。脳裏に魔王さんの警告が響きました。

 たぶん、あのひとがいたら絶対に「飲んじゃだめです!」と言っているでしょう。

「危険すぎます! あからさまです! 罠としか思えません!」とかなんとか、絶対言ってくると思います。脳内再生余裕すぎる。

 ……たしかに、魔王さんがいないこの状況で何かをしてくるとしたら、まさに今でしょうね。絶好のチャンスだと思います。

 カフネちゃんを疑っているわけではありませんが、魔王さんがあれだけ警戒していることも事実です。さて、私はどうしたものか。

「んー? もしかして、魔王に言われたことを気にしているの?」

 動きを止めたままの私を不思議に思ってか、カフネちゃんは顔を覗きこむようにして言いました。

「やだぁ、カフネ、なんにもしてないわよ? それは妖精の蜜っていってね、ここでしか採れないすぺしゃーる! なものなの。ほっぺが落ちちゃうくらいあまーい蜜ってだけで、変なものじゃないんだから」

 そう言うと、カフネちゃんは小瓶に残った蜜を舌に乗せ、目の前でぺろりと食べて見せました。

「ね?」

 無邪気な瞳から悪意は感じられません。彼女からはずっと楽しそうな雰囲気がしていました。純粋に来訪を喜び、おもてなしをしてくれている。だからこそ、魔王さんが言い続ける警告が際立ってしまう。どちらが正しいのかわからないのです。魔王さんは意味のないうそを言わないでしょうし、私の安全に関することならなおのことです。けれど、カフネちゃんの態度も繕っているものには感じられない。

 誰かとかかわる経験の少ない私には判断をつけられませんでした。

 私を傷つけようとする悪いものならすぐわかるのですが……。

 彼女が向けてくるものは、これまでの私には縁のなかったものです。胸の奥がそわそわする。

 もらっていいのかな。私でいいのかな。そんな感情が渦巻いて躊躇いが出る。

 魔王さんとカフネちゃん。どちらも正しいのかもしれません。その正誤は、きっとこの蜜を飲めばわかるでしょう。

「妖精の蜜、いただきますね」

「うん! とっても甘くておいしいわよ」

 そっとカップを傾け、黄金色の蜜を一口飲みました。魔王さんと旅をするなかで様々な甘味を食べてきましたが、そのどれとも違う甘み。

 口の中だけでなく体中に広がっていくようです。とろとろ、ふわふわ……。

 一瞬、体が浮いた気がしてびっくりしました。甘みに気を取られて意識がどこかに行っていた感覚がします。

「……わぁっ、甘い、ですね……!」

「そうでしょ? うふふ、喜んでもらえてカフネうれしい」

 たった一口でこの幸福感。スペシャルというだけありますね。

 ううう……、どうにも警戒心やらなんやらが溶かされて気が緩みます。おいしい、これ。

 頭が蜜の甘みでいっぱいになってしまい、思考が停止しているのを感じます。なにをしに来たんだっけ……。そうです、魔王さんと過去に何があったのか訊こうと思っていたんです。カフネちゃんのおもてなしはありがたいですが、はやく本題に入らないと魔王さんが強行突破してきてしまいます。そしたらまたケンカが起きるでしょう。私を挟んでわーぎゃーされるのは困ります。よそでやるか、仲良くしていただきたいのですが……。

「ねえ、勇者ちゃん。カフネも勇者ちゃんに訊きたいことがあるの」

「なんですか?」

「うーんと、その前にねぇ……」

 カフネちゃんはふっと近寄り、私の周りをくるりと回ってじっと目を見てきました。きれいな黄金色の瞳です。どこかで見たような気がして、つい見つめ返しました。

 カフネちゃんは手を伸ばすと、私の黒髪を愛おしそうに撫でました。髪に指を絡ませ、自分の方へ寄せたかと思えば離し、そのしぐさを繰り返すように見せかけて体を引き寄せる。彼女の手が幼い子をあやすように私の頭を撫でているのを感じます。突然のことに動けないでいると、カフネちゃんは抱きしめたまま耳元で囁きます。

「――『あまぁい蜜はお好き?』」

 ぐらっ……と視界が揺れた気がしました。体に力が入らない。

「あ…………」

 とろとろ、ふわふわ、くらくら。

 抗えない睡魔に似た強い力が全身を駆け巡り、私の手からカップが落ちました。

 なに……。どういうこと、ですか……。やっぱり蜜になにか……?

 カフネちゃんに抱きしめられたまま、私は立っていられずに草にへたり込みました。勢いよく倒れないように、でしょうか。彼女は私の体を支えながら同じように座りました。

 視界が歪み、動かそうにもできない。しゃべろうにも声が出せない。まずい、まずい。

 魔王さんの警告が正しかった? 私は間違えた?

 彼女は私になにをしたのでしょう。だめだ。頭が働かない。脳の中にも蜜が注がれている気分です。必死に思考しようとしても蜜がそれを阻む。

 焦りが生まれるのを感じていますが、カフネちゃんがそれすら溶かすように優しく頭を撫で続けます。彼女が私の髪に触れるたびに意識が深い場所へ落ちていきそうになる。抱きしめる強さも撫でる手の感触も、なにもかもが優しい。

 すべての感覚が曖昧になっている私は、遠いところで声がするのを聴きました。

 カフネちゃんが歌っている。ゆったりとしたメロディーで、穏やかな声で。

 ああ……いけない。意識が沈む。誰かがゆっくりと手招きをしている。

 懸命に瞼に力を込めようとしても、私の意思とは裏腹にゆっくりと閉じていきます。

 視界が狭くなっていく中、私はぼやける目でこぼれた蜜を見ました。

 きれいな黄金色。とろみのある濃厚な深い金色。色だけで甘みを思い出す。

 ああ……この色は……、彼女の瞳と同じ…………。

 自分のものではなくなったかのような体がカフネちゃんに抱き寄せられたまま動かなくなっていく。呼吸すら静かに緩やかに、私の時間が止まっていく。

「うふふ、ふふふ、カフネはうれしいわ。かわいいお人形。いい子ね、いい子」

 彼女の声が遠くなっていく。その中で、頭を撫でられる感覚だけが妙に鮮明でした。

「さあ、カフネと一緒に遊びましょう、勇者ちゃん」

 完全に意識が消える寸前、私は歌うように話しかける声を聴きました。

「――夢の世界で、永遠に」


 〇


 遅い。遅いです。あれからもう二十分は経ちました。十分経った時に動こうとしたら妖精たちに阻まれ、仕方なく蹴散らして遊んであげましたが、二十分はだめです。倍の時間を待ってあげただけ感謝してほしいですね。

 というか、魔王であるぼくが遠慮する必要はないんです。……まあ、待った理由はいろいろありますが、もう行きますよ。ふたりが消えた方を見ても帰ってくる気配はありませんし、ぼくを邪魔してくる妖精たちも静かになりました。これで自由に動けます。

「……あれ?」

 静かになった? 妖精たちが?

「……まさか」

 辺りを見回すと、あれほど愉快に飛び回り、魔王であるぼくにちょっかいをかけていた妖精たちの姿がありませんでした。永遠に遊びを求める妖精たちがいない。そんなことありえない。けれど、いない。

 つまり、いま楽園は“夢をみている”。どこまでも広がる世界を止め、侵入を拒むように閉ざす。楽園を閉じることができるひとなんて彼女しかいない。そして閉じているということは、あの力を使っている証拠でもある。

「……カフネ」

 勇者さんが危ない。いえ、待ってください。閉じているということはすでに……。

「……やってくれましたね、あのこども」

 ぼくは道を阻もうとする木々を断ち切り、ふたりが進んだ楽園の奥へと走りました。その途中にも妖精たちはいない。騒がしくて明るい楽園は、静かで薄暗い場所へと変わっていきました。迷路のように入り組んだ道。行かせまいと邪魔をする木々。光を弱めた草花たち。それらはまるで眠っているよう。

 ぼくを覆い隠そうとする楽園を力でねじ伏せ、最奥への最短を突き進みます。

 ぼくの侵入を拒んでいた枝を光の剣で切り刻み、その場所へと足を踏み入れました。

 アーチ状に曲がった木々から吊るされたまがい物のランプ。一面に咲き誇る花々。眠りを妨げないようほのかに照る草。

 ここは自然によって形作られた寝台。でもそれは、現実にはない木や花や草で彩られた幻想の空間。

 楽園の主が鎮座する場所。そこにいたのは主ではなく。

「……勇者さん」

 祈るように両手を胸の前で組み、黒く長い髪を広げたままの彼女は、その身を見慣れぬ服でまとっていました。思わず息をのむような美しい真紅のドレス。細かなレースで飾られた幾重にも重なるフリルがかわいらしい。と思えば、彼女の白い肌が露わになるように切り込みが入った構造は艶めかしい。普段は彼女が隠してしまう肌を見てしまったことに罪悪感を抱きつつもどこか背徳感も抱いてしまう。

 なんて、そんなことを言えば敬語で怒ってくるはずの彼女の唇はかたく閉じられ、ぼくを呼ぶことはありません。きれいな赤い目も見えず、唇と同様に閉じたまま。

 周囲に咲く花々を摘んだのでしょう。いくつかの花が彼女の体の上に散らばっています。

 かわいらしくもあり、美しくもある光景です。けれど、美しいと同時に、ぼくは思ってしまったのです。

 まるで、眠るように死んでいるようだ、と。

 誰にも知られることなく、その呼吸を止めて永遠の眠りについてしまったようだと。

 これでは密葬です。縁起でもない。

 あの子の命のさいごはぼくに手によるものでなくてはならない。約束したのです。決して誰にも奪わせない。だから――。

 ぼくは鋭い目で勇者さんの隣にいるひとを睨みました。

 ぼくが来てからも、まったく気にすることなく彼女の髪を撫でる妖精女王。慈しみを湛えながら指で髪に触れ、頬に触れ、息をしているのを確かめるように唇に触れるカフネ。

 触れられるのが苦手な彼女が嫌がることもせず黙っている。カフネの力に囚われているから。……やはり、ですか。けれど、渡しません。勇者さんはぼくのものです。

「勇者さんを返しなさい、カフネ=フルーム」

「いーやっ!」

 べっと舌を出して拒否の意を表すカフネ。勇者さんを抱きしめるかのように手を広げ、ぼくの視界から隠そうとします。

「勇者ちゃんはカフネのお人形にしたの」

「勇者さんが『いい』と言ったんですか?」

「んーん。でも、カフネがほしいと思ったから。それに」

 カフネは黄金色の目を細めてぼくを冷たく見つめました。

「カフネはずっと待ってた。魔王に復讐する日を。それが今日。勇者ちゃんをカフネのお人形にすることで復讐は果たされるのよ」

「復讐……」

 かつて、ぼくがカフネにしたこと。その跳ね返りが今日やってきた。それは構わない。だけど……。

「勇者さんを巻き込まないでください」

「ふんだ。巻き込む巻き込まないの話じゃないわよ。おまえがカフネにやったこと、忘れたとは言わせない」

 忘れていません。はるか遠い昔の話ですが、ちゃんと覚えています。

「絶対許さない。カフネは魔王を許さない。だから奪う。おまえが大事にしているというお人形をカフネのお人形にしてやる」

「勇者さんは人形じゃありません。返しなさい」

「いやよ。もうカフネのお人形にしたもん!」

 彼女の声に呼応して木々がざわめきました。幹が震え、揺らめく枝が耳障りな音を奏でます。枝に吊るされたランプががたがた動き、ぶつかり合った時に不協和音を響かせました。

「ふふ、うふふ、ざまあみろ。おまえのお人形はカフネのもの。これから一緒に遊ぶんだから、邪魔しないで」

「……っ。ぼくのことは好きにしてくれて構いません。気が済むまで痛めつければいい。だから、その子を返しなさい」

「許さないって言ったの、聞こえなかった? いやよ。返さない」

「返してください!」

「いやっ‼」

 ひときわ強い風が吹きました。花びらが散り、木々が倒れ、淡い光が飛び散ります。

 いけない、このままでは勇者さんがケガをしてしまう……。

 舞い散る花弁や枝に視界を遮られ、やっと見えたと思ったそこには、深い眠りについたままの勇者さんを抱きしめたカフネがいました。

 ぼくに見せつけるように頭を抱え、顔を寄せます。

「……カフネっ――」

 一瞬、口づけをするのかと思って手を伸ばしました。カフネはおもしろくなさそうな顔でぼくを見て、「お人形が大事?」と問いました。

「……大事です。だから返してください」

 勇者さんはお人形ではありませんが、今はそれどころではありません。

 ぼくの答えにカフネは嘲笑しました。

「ばか言わないで。カフネのなにもかもを奪ったくせに」

 そして、ぽろぽろと涙を流しながら叫びました。

「カフネの大切なお人形を壊したくせに!」


 それは、遠い遠い昔、ぼくが勇者という存在を大切に思い始めた頃の話です。

 妖精女王の被害が深刻だと報告を受けたぼくは、魔なるものの役割を念頭に置きつつも様子を見に行くことにしたのでした。そこで見たのは、人間にとっては地獄と呼ぶにふさわしい光景でした。

 人間を集めては蜜で微睡ませ、気に入ったひとの頭を撫でて夢に囚えるカフネ。それだけならまだよかった。問題はその先の行動にあったのです。

「カフネ、これ好き! こっちはだめね、いらないわ」

 カフネは、おもちゃを選別するように人間の頭や腕、足を千切っては投げ、千切っては投げを繰り返していました。彼女が指さした人間の四肢を妖精たちがうんしょ、うんしょと引っ張り、おおきなかぶを引き抜くかのように千切っている。妖精の蜜の力で血は出ないようでした。それもおそらく、彼女が『そうあるよう』にしているから。人形が千切れても綿がはみ出るだけ、布が破れるだけ。出血なんてしないでしょう? カフネにとって、人間もそれと同じなのでしょう。人間たちは虚ろな目のまま失った四肢に悲鳴すらあげません。痛みも感じていないでしょう。それもまた、彼女の思うままの作用なのだと思います。

「あ、これかわいいわね! 妖精たち、あれを持ってきてちょうだい!」

 ひとりの人間から頭をもぎ取ったカフネは、それを抱えたまま妖精たちに合図しました。楽しそうに光を放ちながら、彼らはなにか大きなものを運んできます。

 それは、人間のからだでした。頭部が欠けた状態の、ぼくと同じくらいの大きさのからだ。

 かわいらしいドレスを身にまとい、装飾品で飾られ靴も履いている。まるで絵本の中のお姫様です。だらりと下がる腕や足を妖精たちが持ち上げ、懸命にカフネの元に運びます。

 姿勢よく座らせられたそれは、ぱたぱた飛ぶ妖精たちによって支えられ、女王の遊びを待っていました。

「これをこうして……できた! カフネのお人形!」

 頭部を装着し、それはひとりの人間の姿を得ました。けれど、光の消えた目からは生気が感じられません。薄く開いた唇も言葉を発することなく、妖精たちの支えがなければ自分で座っていることもできません。

「うふふ、うふふ、かわいいね、カフネのお人形。かわいいわ、うふふ」

 欠損したまま転がされた人間たちには目もくれず、カフネは歪な人形の頭を優しく撫で続けていました。

「やっと完成した……。満足のいくお人形が作れるまで千五百年かかっちゃった。でも、うふふ。カフネのお人形。カフネだけのお人形……。とってもかわいい」

 それはそれはうれしそうに、カフネはお人形を抱きしめました。お人形は何も言わず、くたりと揺れる体をされるがままです。

 一部始終を目撃したぼくは、散らばる人間たちの残骸を見つめて目を細めました。

 ああ、なんてこと。蜜に侵されただけでは死ぬことはない。夢に囚われたひとも、カフネが解放すればこちらに戻ってこられるでしょう。けれど、蜜の力が消えた時、彼らを襲うのは耐えがたい苦痛と恐怖。そして、持っていかれたのが頭部だったひとは……。

「……これはちょっと、見過ごせませんね」

 魔なるものは人間に恐怖を与える存在。圧倒的な力でねじ伏せ、命を奪い、文明を壊す存在。それはわかっています。けれど、彼女の場合は少し事情が違います。

 カフネの性質が問題なのです。

 ぼくはすっと地に降り立つと、カフネの元に近寄りました。人形を愛おしそうに撫でていた彼女はぱっと笑顔を咲かせ、「魔王様! 見て、カフネのお人形!」と言いました。

「かわいいでしょ? うふふ、あげないからね!」

「えぇ、いりませんよ。それはきみのものですから」

「うふふ! カフネだけのお人形。カフネ、お人形遊びが大好きなの」

「そうみたいですね」

「これで楽園の中でも楽しく暮らせるわ」

 彼女はずっと楽しそうにしています。自分の周りにあるのが人間の四肢だろうと、満足のいくものじゃなくてばらばらにした肉片だろうと、妖精たちが遊びで抉り出した目玉だろうと、彼女のとってはおもちゃのひとつ。これかわいい、あれもほしい。彼女が気に入ったものはすべてもらう。くれないなら怒って壊す。

 それはまるで、人間の幼子がすることと同じ。

 カフネの性質は無邪気。ゆえに、彼女の中に善悪は存在しない。

 強いて言えば、カフネにとって良いことは善、カフネにとって悪いことは悪。

 人間の四肢を見て、自分が求めているものじゃなければ不満そうに捨ててしまう。だってカフネを満足させられない相手が悪いのだから。彼女の思考はそうやって回っている。

 だから、叱っても意味がないのです。

 なぜやってはいけないのか。どうして怒られているのか。

 彼女にはそれが理解できないから。当然ですよね。ただ好きなように遊び、好奇心だけで行動を起こしてしまう幼子に「それは悪いことです」と言ったところで「悪いってなに?」となってしまうのだから。

 人間は善悪のない状態から学習し、成長していく。自分の行動が良いか悪いか理解し、判断しながら行動を選んでいく。だから教える者は放棄せずに伝えていけるのでしょう。

 けれど、カフネは違う。彼女は永遠にこどものまま。それが役割。

 何度言っても伝わることはなく、成長することもない。

 一概に彼女を悪だとは思っていませんし、言うつもりもありません。ですが、人間にとって底なしの無邪気は最も質の悪いものになり得るのです。

 痛いと叫び泣いたとしても、カフネは楽しそうに笑うでしょう。

 ほしいと思ったものが手に入らなかったならば、カフネは「ひどい!」と言って相手を殺すでしょう。

 やめてと言ったところで、「なんで?」と不思議がるでしょう。

 もし、カフネがぼくと同じように大切なものを得たとして、自分が良いと思って起こした行動によってそれを壊してしまったら。

 とても悲しむでしょう。わんわん泣くのでしょう。

 癇癪をおこしたこどもが何をするか。なまじ力の強い魔族ゆえ、その被害は計り知れません。

 ぼくは、『これがカフネの為になる』と言い訳を脳裏に浮かべ、お人形を抱きしめる彼女に手をかざしました。

「なぁに?」

「きみを楽園に閉じ込めます」

「なんで? カフネなんにも悪いことしてないじゃない」

「ええ、そうですね。でも、それは関係ありません。魔王の判断は絶対です。従いなさい」

「いやよ。これからもっとたくさんのお人形をつくって、おともだちと一緒に遊ぶんだから」

「大切なひとがひとりいればじゅうぶんです。それを持って行きなさい」

「いーやっ! もっとほしい!」

 カフネの声に妖精たちが反応し、ぼくへ攻撃を仕掛けてきました。

 申し訳ないですが、あまり構っていては被害が大きくなるだけです。少々強引になりますが、許してくださいね。

 ぼくは力を込め、カフネを含む妖精たちに向け放ちました。

 楽園はカフネの支配域。自由自在に操作できる幻想の世界です。カフネに招かれた者や迷い込んだ者しか入れない夢の中。けれど、普通の人間のように慣れていない者が入ると惑って帰れなくなる場所。妖精たちの光で視界が遮られ、柔らかな明かりと体を包むぬくもりに気を許すとさあ大変。カフネに気に入られて蜜を口にしたらあっという間に彼女の力に取り込まれる。わがままな幼子の夢に世界に連れていかれ、彼女が満足するまで目を覚ますことができない。

 楽園は現実に存在する虚構の世界。楽しい遊びもおいしいお菓子もすべてまやかし。

 華やかで賑やかな楽園はどこかさみしくてかなしい場所です。

 だからおともだちがほしかったんでしょう。遊び相手がほしかったんでしょう。

 けれど、ごめんなさい、カフネ。きみの存在は人間にとって悪でしかない。

 必要悪はぼくでじゅうぶんです。つくったお人形とともに永遠に近しい長い時間をまやかしの中で生きなさい。

 強制的に楽園に押し込まれ、世界を閉じられようとしているカフネは全力で嫌がりました。地団駄を踏むように地面を割り、片づけを拒むこどもがおもちゃを投げるように四肢を投げ、巻き起こした風で蜜により意識を失っている人間たちをばらばらにしていきました。彼らに命があることを理解していない。仕方のないことですが、悲しいことでした。

 強い力で拒絶するカフネとぶつかり合い、小さな体や羽を散らして粉々になる妖精たちを気にする暇もなくぐっと押し込みます。

 いくらカフネが強くても相手は魔王。勝つことはできません。

「やだっ! やだぁっ! カフネ帰りたくない‼」

 泣きじゃくるカフネに心の中で謝りながら、ぼくは楽園の扉を閉めるイメージを脳内に浮かべます。決して開くことのないように見えない鍵をぐるぐるに巻き、魔王の力でかちりと閉めようとします。

「やだぁぁぁぁぁ‼」

 渾身の力で最後の拒絶を示そうとしたカフネは、ありったけの思いでぼくを殺そうと手を伸ばしました。その時、彼女から離れた人形が楽園へと誘う強風に巻き込まれ、あっという間に飛んでいきました。

「あっ、カフネのお人形!」

 彼女が叫んだ時にはもう遅い。人間の四肢を組み合わせて作られた人形はぼくの力に成すすべなく壊れ、つぎはぎだった腕や足が飛んでいきました。長い時間をかけてやっと見つけたカフネお気に入りの頭部がすぽりと抜け、勢いよく木々に叩きつけられるとぐちゃぐちゃに潰れました。きれいな形をしていた頭が歪な肉塊になってしまったのを見て、カフネは赤子のように泣きじゃくりました。

「カフネのお人形っ……! カフネのお人形がぁぁぁぁぁぁ!」

 悲しみのあまり羽を畳んで小さくなった彼女。思考が人形に埋め尽くされたのでしょう。押し込めようとするぼくへの拒絶を感じなくなりました。

 ……今のうちに。

 ぼくは指を彼女に真っ直ぐ向けて扉を閉じていきます。

 うずくまって泣いていたカフネは「許さないんだから! 絶対許さないんだからぁ!」と怒りに震えているようでした。

「ごめんなさい、カフネ」

「うるさいっ! いつか絶対、カフネのお人形を――」

 そして、扉が閉じました。泣きながらぼくを睨む彼女の目がまだ見えている気がしました。

 これでいい。いいのです。カフネは二度と自分の支配域である楽園から出ることはできません。外側から魔王の力で閉じたことで、主であるカフネは内側から開くことができなくなった。夢のような存在である妖精たちは出られますが、カフネがいなければ大それた遊び……彼らにとってはいたずらみたいなものですが、それもできなくなる。せいぜい物を動かしたり服を引っ張たり、人間のこどもがやるようないたずらになるはずです。これで人間たちへの被害は格段に減るでしょう。

 魔なるものは悪であってこそ。とはいえ、見過ごせないこともあります。

 今回の件はぼくのわがままでもあります。……魔王、ですからね。

 今度、人間で作った人形ではなく、人間が作った人形を持って謝りに行きましょう。

 幼子の思考はわかりません。ぼくが行った時にはすっかり忘れているかもしれませんし、ずっと恨み続けているかもしれません。

 それでも構わない。彼女が楽園から出られないことが重要なのですから。


 その後のことも話しておきましょう。早い方がいいか時間を置いてからの方がいいか迷っていたぼくは、カフネ好みの人形を求めて人間界を見て回りました。

 カフネ好みといっても、詳しくは知りません。とりあえずかわいらしい物を持って行き、他にほしいものがあればそれを買ってくる……方がいいでしょう。

 そう思い、あの時カフネが選んだ頭部と似たような人形を買い、楽園にやってきました。

 結果はバツ。怒りが収まっていないカフネから攻撃が次々と飛び、人形を見せても「いらない」の一点張り。

「カフネがほしいのと違う!」

「じゃあ、ほしいのとやらを教えてください。買ってきますから」

「うるさーいっ!」

 楽園が崩壊するかと思うくらいカフネが暴れるので、慌てて逃げてきました。

 カフネがほしい人形ってなんですか……?

 特徴とか色とか形とか、そういうのを教えてくれたら簡単なんですけど。

 ぼくはまた人形を探して世界を飛び回り、別のものを買って楽園に来ました。

「ちがう!」

 また別の人形を買ってきました。

「かわいくない!」

 また別の人形を買ってきました。

「いらない!」

 また別の人形を――。

「カフネのお人形とちがう! こんなのいらないわ!」

 …………。

 …………。

 ……つかれたぁ。全然わかりません。何回人形を買って投げ返されたか数えるのもやめたぼくは、つい「じゃあどうしろと言うのですか!」と声を荒げてしまいました。

 カフネは一瞬驚いたように目を見開き、すぐに睨んで叫びます。

「魔王のお人形をちょうだい!」

「ぼくの? それはちょっと趣味を疑うといいますか」

「ちがうわよ。魔王が大事にしているお人形をカフネにちょうだいって言ってるの!」

「ぼくが大事に……? あいにく、ぼくは人形を集めたりはしていませんよ」

「カフネはそれ以外もらってあげないんだから」

「ええっ、ちょっと~……」

 そう言われ、ぼくはとぼとぼ帰ってきた魔王城で宝物庫と呼んだり倉庫と呼んだりしている場所をあさりました。

 人形なんて持ってましたっけ……。カフネに買って押し返された人形はまとめてありますけど、これはぼくのというわけではありませんし。

 うーん、困りました。

 首をひねっていると、ふと視界の隅に黒髪の人形を見つけました。

 あ、こんなのもありましたね。

 誰かから送られてきたプレゼントです。めちゃくちゃ対魔族用の術がかけられていますが、ぼくには効かないのでただの人形です。

 黒髪がきれいだったので捨てることもせず宝物庫に置いておいたんでした。

 大事にしているかと言われたら言葉に詰まりますが、ぼくが持っている人形ならばこれでしょう。よし、持っていきますか。

 彼女もかなり力の強い魔族ですし、楽園の中はほぼカフネの思い通りの世界です。人形の効果は出ないと思われます。

 黒髪の人形を抱えて楽園にやってきたぼくは、カフネの前にどーんと置いてみせました。

 どうですか。かわいいと思いますよ、これ。

「これが魔王の大事なお人形?」

「ええ、まあ」

 ちょっと嘘つきました。

「ふうん……。きれいな髪ね。カフネも好き」

 おっ! これまでで一番いい反応です。

 ついに人形探しともおさらばできるかと思ったその時、カフネは「でもいらない」と人形を倒しました。

「えっ、なんでですか⁉」

「これは魔王がほんとうに大事にしているお人形じゃないもの」

「だ、大事ですよ。宝物庫に飾っているんですから!」

 これは事実です。

「ちがう。カフネが求めているのはこれじゃない。もっと大事。魔王が自分よりも大事にしているもの」

「自分よりも大事な人形なんて無茶な……」

「いいもん。自分でわからないならカフネが見てあげるわ。大事なものはすぐにわかる。今は持っていなくても、いつか絶対手にするはず。カフネが千五百年かけたみたいにね」

「いつかってそんな。ええ……。困りますよ」

「困ればいいのよ。カフネは魔王が困っているとうれしいわ。お人形を探してあっちこっち走り回る姿なんておっかしいの。あははっ」

 ……こいつめ。

 ぼくが人形を探して世界を巡っている時も妖精たちが視界の隅にいると思いましたが、そういうことでしたか。

 ……まあ、楽園から出られないカフネは妖精を遣うしか外の世界を知ることができません。それくらいは許してあげましょう。

 それから、ぼくはまた定期的に人形を探しては楽園に持っていき、断られることを繰り返しました。その一連の行動をしなくなったのは、勇者さんと出会って旅に出たあたりのことです。あの子と旅をする間はいいだろうと思い、ぼくはカフネのことを頭の隅に置きました。彼女も寿命の概念が限りなく薄い魔族です。人間の一生と同じくらいの時間、楽園に行かないことも多々あります。だから、なにも問題ないと思っていました。勇者さんに招待状が届くまでは。

 何事かと思って手紙を読みましたが、そこにはただ「いっしょにあそぼう」という旨が書いてあるだけ。おもてなしをするから楽園においでと招待しているだけでした。

 妖精を遣って世界を見ている彼女のことです。魔族のような見た目をし、勇者でありながら勇者っぽくないあの子のことも見たでしょう。だから興味を持った。それだけならいいのです。そして、手紙にはそういうことしか書いていません。

 無邪気は素直です。純粋に遊びたいと思って誘っているなら構いません。

 だけど……。

 ぼくはずっと迷っていました。ともだちを求めたカフネが勇者さんと遊びたがっている。

 ぼくが様子を見ながらであれば問題ないと思いました。

 カフネを楽園に閉じ込めたことに罪悪感を覚えていないわけではありません。幽閉以外に方法があればそちらを選んだくらいには申し訳なく思っています。

 勇者さんも楽園や女王が気になっているようでした。本心から嫌がっているのでないなら、ぼくはふたりの間を持つべきだとも思いました。

 勇者さんは優しい子です。カフネのわがままにも困った顔をしながら対応してくれるでしょう。あの子も人間の遊びには縁のなかった人生です。お互いに楽しく遊び、よい時間を得られるのならばそれもまたすばらしいことです。

 あわよくば、カフネがそれで満足し、ぼくの渡す人形でオーケーをくれさえすればこの件を終わりにできると思いました。

 だから、だから……。

 ぼくは楽園の招待を受けたと言った勇者さんを本気で咎めることはできませんでした。

 相手が魔族であっても、気を許して仲良くなれたらいいと思ったのです。

 カフネは無邪気ゆえ悪意はない。人間の悪意にさらされ続けた勇者さんにとっては適した相手だと思ったのです。

 ぼくが見張っていればいい。危険があればすぐ帰る。

 そう思い、一緒にやってきた楽園では、ふたりはとても楽しそうでした。……勇者さんはちょっと困惑していましたけどね。カフネのお菓子攻撃や妖精たちのいたずらに小さく微笑んでいることに気づいていました。

 カフネはいつものようにぼくと言い争っていましたが、勇者さんと話す時は無邪気そのもの。

 妖精たちも楽しそうで不安はありませんでした。

 本当にもてなして、遊びたかっただけなのでしょう。そんな風に思ってしまった。

 ぼくがいるとケンカばかりで空気も悪い。ろくに話もできなくなるのはわかっていました。ゆえに、ふたりきりになりたいと言う勇者さんを拒絶できなかった。

 だからこれはぼくの責任。

 カフネを楽園に閉じ込めたぼくの、彼女の大切な人形を壊したぼくの、あわよくば……と気を緩めたぼくの責任。

 楽園が閉じたことに気づかなかったなんて不覚にもほどがある。

 繰り返しますが、彼女の支配域である楽園を閉じるということは、カフネが夢の力を使ったことを表します。

 広く果てしなく続く幻想の世界を閉じ、深い深い夢の世界に招待客を沈ませる。

 自ら出ることのできない妖精の夢。

 カフネは勇者さんをそこに閉じ込めた。

 自分だけのお人形として、かわいく着飾って、おめかしして、花を添えて。

 かわいい、かわいいと髪を撫で、頭を撫で、頬に触れる。

 カフネが求め続けた完璧なお人形。

 ……でもあの子は――!

 ぼくはもう一度、目の前で勇者さんを抱きしめるカフネに言いました。

「勇者さんを返してください」

「何度も言わせないで。いやなものはいーや」

「夢の世界に連れて行かずとも、勇者さんはきみと遊んでくれますよ。優しい子だったでしょう? 一緒にお茶会をしたきみならわかっているはずです」

「うん。とってもいい子だったわ。だからカフネ、もっと好きになっちゃった。ずっと一緒にいるんだ。カフネの夢に落とせば時間は止まるから、人間でもカフネと同じ時間を過ごせるでしょう? うふふ、これからずぅっと遊ぼうっと」

 それはだめ。勇者さんがカフネの夢に居続けると世界が狂う。終わらなければいけない勇者の魂が予想していない時間を存在するとシステムに影響が出る。あの悲劇がまた起きてしまう。

「……勇者さんを解放しなさい、カフネ」

「そんなに解放してほしいなら、あの時みたいに無理やりやればいいじゃない。カフネは所詮魔族のひとり。魔王なら命令のひとつでもしたらどう?」

「…………」

 できることならやっています。ええ、そうですよ。できないんです。

 魔王のくせに魔族に命令もさせられないのか? その通りです。

 ぼくはありとあらゆることが可能な絶対的な存在。

 けれど、万能ゆえ神様から制限をかけられている。勇者に対して力がうまく作用しないのと同じように、ある一定の魔なるものたちへは強制介入ができないようにされた。

 必要悪である魔王とは別に、魔族も魔物もその恐怖や存在を世界に固定しなくてならない。それっぽい理由を並べ、神様はぼくの力を制限することの正当性を説きました。

『この世界を正常に回すために必要なことなのさ』

 これ見よがしに大きく頷いた神様は、『あと』と言葉を付け足します。

『言うこときかない相手に魔王が困るの超おもしろくない?』

 ……はあ。思い出したら腹立ってきました。思わず攻撃しまくりましたが、当然のごとく当たらなかったのもイラつきます。

「命令するのもいやなら、カフネのこと殺しちゃえばいいじゃない。魔王でしょ?」

「……簡単に言ってくれますね」

 こちらはできます。できますが、できません。

 カフネを殺せば夢は閉じたまま。勇者さんが目覚めることはなくなります。

 夢に囚われたまま術者が死ねば、勇者さんもその状態で道連れです。さいごがぼくの手によるものではなくなり、約束を守れず勇者と魔王の仕組みを回すこともできません。

 これもまた、災厄の到来になるのです。

 ……どうすることもできない。なんてもどかしい。

「なあに? やらないの? じゃあカフネ、お人形で遊ぶわよ?」

「遊ぶってどのように」

「どうしよっかなぁ。いま勇者ちゃんは夢の世界の迷路に閉じ込めているけれど、全然カフネのことを呼んでくれないの。ちょっとさみしいわ。だからカフネ、颯爽と勇者ちゃんを助けてもっと仲良くなろうと思うの!」

「なにをするつもりです」

「人間が助けてって言うのはどういう時か、カフネ知ってる。だからそれを見せるのよ。うふふ、カフネは悪夢を見せるのは得意なの。カフネお利口さんだから、人によって悪夢がちがうのも知っているのよ? 勇者ちゃんの悪夢はなにかなぁ」

 カフネは再び勇者さんの頭を撫でました。力を使う時のしぐさです。

 勇者さんが恐れるもの。彼女にとっての悪夢。

「やめなさい、カフネ!」

「うふふ、いーやっ!」

 勇者さんを奪取しようと飛びかかったぼくをするりとかわし、カフネは勇者さんを抱きしめたまま宙に浮かんでいました。半透明の羽がぱたぱたと動いています。妖精の力を使っているのでしょう。勇者さんの体はカフネががんばって抱えているわけではなく、無重力状態のように浮かんでいます。ドレスがふわりと膨らみ、レースが揺れました。

「返してほしければ奪ってみなさいよーだ!」

 広い空間をあっちこっち飛び回るカフネ。ぼくは視線を動かしながら行動をとれずにいました。へたに攻撃しては勇者さんに当たる可能性があります。カフネの羽を撃ち落とすにも絶え間なく動いているから難しい。彼女の支配域で強力な力を発動させたら楽園にどのような影響が出るかは未知数……。ああもう、困りましたね!

 せめて、勇者さんが目を覚ましてご自分の身を守れるくらいになればやりようはあるのですが……。カフネの夢はとても強い。勇者といえど破ることはできません。

 連れていかれるのは精神のみです。そこに勇者もただの人間も関係ありません。

 ぼくが手を貸して……いや、夢を破られそうになったカフネが強硬手段をとらないとは言い切れません。

 ぐるぐると考えるぼくは、ふたりから目を離さないように見つめていました。

 ところで…………。いま言うべきことではないのはわかっているんですけど。あの、えっと、勇者さん……。

「かわいすぎる……」

 だってなんですかあの赤いドレスは⁉ どこのお姫様かと思いましたよ!

 髪もさらさらと広がっていますがアレンジされていてかわいいですし、装飾も似合いすぎています。ドレスに負けない真紅の靴もお似合いすぎでは⁉

 あとぼくは見逃しませんでしたよ。いつの間にお化粧されたんですか! もっと近くで見たい! 写真も動画も撮りたいですしいろんな場所でいろんなポーズでいろんなシチュエーションであれもこれも撮って永久保存したいです!

 あの真紅のドレスはまさかカフネの手作りですか? ぐぬぬぬ羨ましい器用さ! それにしても勇者さんに赤いドレスはセンスが光り過ぎていますすばらし過ぎますぅぅぅ!

 かわいらしさと大人っぽさを同時に感じられるナイスなドレスですね。あああ、黒や白も見てみたいです。きっと似合うに決まっていますからね。ふんわり系もいいですし、体のラインが出るタイプもすてきでしょう。ヘアアレンジもしてイヤリングや指輪、ブレスレットなんかもつけてほしいです。ぬいぐるみを抱きしめていただくのもかわいいでしょう! ああいけません、思考が止まりません!

 ドレス勇者さんはぼくには刺激が強すぎます直視できません目に焼きつけますけど!

「なにしてるのかしら? なーんにも攻撃してこないで見てるだけなんて」

 ごめんなさい、勇者さんのドレス姿を堪能していました。

「そんなに勇者ちゃんが大事?」

「もちろんです」

「即答するんだ。カフネの大事なお人形を簡単に壊したくせに」

「それは……」

 言い訳はできません。事実ですから。

「……いいわ。別のお人形遊びをしましょ。こんなのはどう?」

 カフネは勇者さんの耳に何かを囁きました。途端、固く閉じられていた目がゆっくりと開いたのです。

「勇者さん! …………勇者さん?」

 赤い目はぼくを見ていませんでした。ぼうっと開いているだけで意識がある雰囲気ではありません。いつも死んだ目をしている勇者さんですが、それとも違う虚ろな瞳。

 暗い色に染まったあの子の目はどこかさみしいものでした。

 ……あまり見たくはないものです。

 カフネはぱたぱたと地に下りてくると、ふらりと立つ勇者さんのドレスを直してあげました。

「うん、かわいいわ! それじゃあ勇者ちゃん、魔王を倒しちゃってちょうだいな」

 笑顔のままカフネがそう言った瞬間、突っ立っていた勇者さんが俊敏な動きで走り出しました。

「ゆ、勇者さん⁉」

 よくドレスのまま走れますね⁉ シンデレラもびっくりですよ!

 背負っていた大剣はなく、彼女はいつの間にか手にしていたナイフをかざしてきます。

 一切の躊躇いなく急所を狙った攻撃。一度避けてもすぐに次の刃が迫ります。

「ちょっと、待ってくだ、待ってください勇者さん! 危ないので――あぶなぁ⁉」

 四方八方からナイフの攻撃が飛んでくるかと思えば、ぼくの足をすくって転ばせようとしてきます。

「あわわっ、ちょっと待って、こわい! 強い! タンマ! 勇者さんタンマ!」

 ナイフが刺さっても死にませんが、無言無表情でナイフを動かしまくる勇者さんが本気で怖いです。あとちょっとかっこいいです。きゅんとしちゃう。

 ぼくの隙ができたところにグーパンや足蹴りを加えてくるので休憩できません。鮮やかにナイフを操り右から振りかざしたと思えば左下に移動しています。

「……っ強いですねぇ。うわぁっ!」

 首を動かして避けたぼくは、勇者さんに髪を掴まれてむりやり引き寄せられました。

 あまり近いところでナイフを動かしては勇者さん自身がケガをするおそれがあります。いっそ、ぼくの体で受け止めて武器を失くしてしまうのが最善かもしれません。

 勇者さんが思考しながら戦っているのかどうか、ぼくには判断できかねました。けれど、髪を引っ張られたのをいいことに、勇者さんごと倒れ込んだぼくに嫌がる気配は微塵もありません。やはり、意識はないようですね。

 片手でぼくの髪を掴み、もう片方でナイフを握る勇者さんは両手が塞がっています。

 彼女の安全を第一に考え、ぼくは押し倒した状態で動きを止めました。

 仰向けのまま虚ろな目でナイフを動かそうとする手を確認し、彼女に血が付かないように袖のひらひらした布を被せました。

 首に突き刺さる感触。血が流れる感覚。勇者さんの手がナイフを抜こうとするのを抑え、地面に押し当てました。これで武器はない。

 髪を掴んでいた方の手でナイフを取ろうとした勇者さんを抱きしめて抑えつけ、動きを制限します。

「こら、危ないでしょう?」

 人間を壊さない力加減は知っていますからね。

 脱出しようとしますが、ぼくによってわずかも動くことはできません。そうしていると、やがて勇者さんの体から一気に力が抜けたのを感じました。

 虚ろな目も閉じ、規則正しい寝息が聞こえます。……眠った?

 ぼくはゆっくりと立ち上がり、じっと顔を見つめました。

 寝ていますね。動く気配はありません。

 健やかな寝顔です。悪夢を見てうなされている様子もなく、心配はないと思われました。

「ふう……」

 首に刺さったナイフを抜き、誰もいない場所へ放り投げました。

 赤い血がぼたぼたと草を濡らしますが、じきに出血は止まります。ほっときましょう。

「なんにも攻撃しないのね」

 上空から見ていたカフネが不満そうに口を歪めつつ、どこか驚いたような声色で言いました。

「大事な人ですから」

「カフネのお人形も大事だった」

「ええ、わかっています。ごめんなさい、カフネ」

「いくら謝られてもあのお人形はもうないわ。魔王も持ってきてくれないし」

「同じものはどこにもないのです。同じ人間が存在しないように」

「おんなじ妖精はいるわ」

「妖精と人間は違うのですよ、カフネ」

「よくわからないわ」

 理解されなくても構いません。カフネの性質は変えられないものですから。そしてそれは、彼女のせいではないのです。

「カフネのお人形と同じように、ぼくにとって勇者さんはとても大事な人なのです。でも、あの子をあげることはできません。それ以外の方法でなんとかしていただけないでしょうか」

 たったひとつの方法しかないとし、それを選んだぼくがカフネに『それ以外の方法で』と頼むなど、なんて卑劣なのでしょうね。

 魔王のプライドなどどうでもいい。あの子さえ無事ならなんだっていいのです。

 力でねじ伏せてきたぼくが蒔いた種です。誰かの大事なものを軽んじた罪です。

 なんでもいい。向けられるものすべてを受け入れるから、どうか勇者さんだけは……。

「お願いします、カフネ」

 ぼくは頭を下げました。魔王と配下の関係などどうだっていいのです。

 ぼくがカフネの自由を奪い、人形を壊したのは事実。ならば、ぼくが頭を下げるのは当然のことです。

 じっと黙ったままのカフネ。彼女が話すまで、ぼくは決してしゃべらずに待ちました。

 妖精たちも消えた楽園の中。ただ勇者さんの寝息だけが聞こえました。

 この息が止まってはいけない。止まるとしても、ここではいけないのです。

 すうすうと眠る音にカフネのため息が重なりました。

「わかったわ」

「カフネ……!」

「でも、カフネは魔王を許したわけじゃない。そこで眠ってる勇者ちゃんに感謝してよね」

「勇者さんに? どういうことですか」

「ふんだ。自分で訊けばいいじゃない」

「訊くって、彼女はきみの力で夢を見ている――」

 ふと、小さなうめき声が聞こえてびっくりしました。見ると、寝苦しそうに体をよじる勇者さんが眠そうな目をこすっているではありませんか。

 ふわぁとあくびをし、上半身を起こします。

「おはよう、勇者ちゃん」

「……ふあ?」

 ぽかんと口を開けるぼくと少し残念そうな表情のカフネを交互に眺め、自分が着ている服に気がついて「は?」と声をもらしました。

「なんですか、これ……。ドレス? なんで?」

「ゆ、勇者さん、起きたんですか……!」

 思わず近寄って手を握りました。ミュージカルのワンシーンのようになってしまいました。勇者さんがドレス姿なので実質ミュージカルです。

「あ、はい。おはようございます? って、私いつの間に寝ていたんですか」

「よがっだですぅぅぅ~……。ぼくはどうしようかとどうしようかとどうしようかと思いましたよぉぉぉぉぉ~……!」

「おおお……、なんですか急に。一応、ごめんなさい?」

「勇者さんは悪くないですぅぅぅぅぅぅ!」

「ええ、めんどくさいな……」

 勇者さんはギャン泣きするぼくをめんどくさそうにあやしながら、首を見て「ケガ……」とつぶやきました。

「これですか? お気になさらず」

「カフネちゃんとケンカしたんですか?」

「うーん、まあ似たようなもんです」

 あんまり話したくないのではぐらかしていたのに、近寄ってきたカフネがいらん一言を発しました。

「勇者ちゃんのかっこいいナイフアタック、カフネ好きよ」

「私のナイフアタック……? え? え、それ私がやったんですか?」

「あ、えっと勇者さんというかなんというか――」

「カフネのお人形になった勇者ちゃんがやったのよ。うふふ、連携技ね」

 楽しそうなカフネとは裏腹に、何も言えなくなった勇者さんが視線を落としました。

 あの、とか、えっと……、とか、言おうとして言葉に詰まっています。

 あちゃあ、気にしていらっしゃる。

 まったくこの子は、いつもぼくを殺そうとしてくるのに、こんなふうに気にしちゃって。

 かわいいですねぇ。とってもかわいいです。

 きっと自分の意思ではない状態でやったことが嫌だったんでしょうね。

 操られたことにもショックを受けているかもしれません。

 血が止まったものの赤く汚れている首を遠慮がちに見ては視線を逸らしています。

 勇者さん、ぼくが不老不死なのを知っているのに心配するんですよね。

 あまりにかわいくないですか?

 例のごとく人間に合わせて痛がっているフリをしているだけなので、これも痛みがあるわけではないのです。痛いのは勇者さんの力の方ですから。

 だから、そんな顔をしなくてもいいのですよ、勇者さん。

 真紅のドレスに包まれて愁いの色を浮かべる彼女はとてもいじらしい。

 ぼくが「痛かったのでぎゅってしてください」と言ったらどうするでしょうか?

 なんて、いけませんね。悪いことを考えてしまいます。

「あの……ごめんなさい、魔王さん」

「いえいえ! 痛くも痒くもないので!」

 これはホントです。

「カフネ、もっとぐさぐさされるところ見たかったわ」

 そこ、やかましい。

 というか、なに当たり前のように近寄ってきてんですか。あっち行ってください。

 ぼくが警戒の目でカフネを見ていると、カフネもむっとした表情でぼくを見つめ返しました。

「カフネが用があるのは勇者ちゃんだもの。魔王じゃないわ。どいて」

「なにするつもりですか。もう夢には連れて行かせませんよ。きみの発動条件は知っているんです。近寄らないでください」

「なによー! カフネは大事なものを撫でているだけじゃない! よしよししてなにが悪いって言うのよ!」

 頬を膨らませたカフネから守るように、ぼくは勇者さんを抱きしめました。

 ずっと思っていたんですけどね、カフネは勇者さんにくっつき過ぎなんですよ。お茶会の時も距離が近いですし、眠らせた時は抵抗できないのをいいことに抱きしめ過ぎですし、そういうの全部……全部……。

「羨ましいんですよこのやろー‼」

「意味わかんないことで怒らないでちょうだい!」

「ぼくだって勇者さんとくっつきたいんですよ! それなのに、カフネばっかり!」

「ほんとに意味わかんない。くっつけばいいじゃない」

「勇者さんはスキンシップが苦手なんです! むやみやたらにくっついちゃだめです!」

「じゃあその状態はなによ! ぎゅってしてるじゃない。離れなさいよ!」

「カフネから守っているんです!」

「守るってなに⁉ カフネは勇者ちゃんと約束したから解放してあげたのよ。勇者ちゃん貸して!」

「貸しませ――約束? なんですか、約束って」

 思わず勇者さんをじっと見ました。まさか、夢の世界で危ない約束を結んで脱出したんじゃないでしょうね⁉

 ぼくの表情で察したのか、勇者さんは「一緒に遊ぶ約束をしただけですよ」といつもの声で言いました。だから、カフネのいう『遊ぶ』は人間にとっては危険なものもあるんですから、軽率に約束を結ぶのはですねぇ!

「おにごっことかかくれんぼとか、だるまさんがころんだとか? 私もやってみたかったんです。……わ、笑わないでくださいね」

「笑いませんよ。言ってくれればぼくが一緒にやったのに」

「……ちょっと恥ずかしかったんですよ。こどもっぽいじゃないですか」

「そんなことありません。おや、顔を隠さないでくださいな」

「……んむぅ」

 レースがほどこされた袖で朱色に染まる顔を隠す勇者さん。かわいい。

 ええ、何も恥ずかしがることはありません。彼女が言った遊びはどれもひとりではできないものです。誰かがいないと成立しない遊び。

 加えて、遊べるだけの自由を持っていなくてはできない。奴隷として生き、不吉な色を持っているからと爪弾きにされていた勇者さんとは縁遠かったものでしょう。

 甘えたい、遊びたい、愛されたい。そうした欲を抑え込み、彼らにのみ許されたわずかな時間で不幸を癒し合うこどもたちを遠くから眺めてきた勇者さん。

 もう我慢は必要ありません。遊ぶことに年齢なんて関係ありませんからね。

 やりたいことをやればいいのです。ぼくは勇者さんの願いならなんでも叶えてあげたいのですから。

「カフネちゃんも遊びたかっただけなのでしょう。それなら、私たちは利害の一致ってことですよ」

 利害の一致って。

「思えば、カフネちゃんはずっと同じことを言っていたんです。招待状もそうです。遊びたいから楽園に来てほしいって、ずっと」

「それはそうですけど……」

 カフネの『遊ぶ』は意味がなぁ……。

「カフネちゃん、夢の中で私が言ったことを守ってくれますか?」

「うん! カフネ、約束は守るわ」

 んん? なんのことでしょう。

「保護者枠で魔王さんを置くこと。私が『やめて』と言ったらやめること。それ以外は、目一杯楽しむこと」

「ひとつ目は不満だけど、いいわよ。カフネは勇者ちゃんと遊ぶ方が大事だから」

「それじゃあ、一緒に遊びましょう。ふたりだけの夢の中じゃなくて、ここで」

 勇者さんはカフネに向けて手を伸ばしました。彼女から差し出された手に笑顔を咲かせ、カフネは嬉々としてその手を取ります。

 立ち上がった勇者さんの体がふらつき、ぼくも慌てて手を出しました。慣れない靴に足を取られただけではないでしょう。まだ蜜の力が残っているのだと思います。

 勇者さんもわかっているようでしたが、ぼくの顔を見て「ドレスを踏んでしまいました」と小さく笑いました。

「遊んでいる時に汚してしまっては困ります。カフネちゃん、私の服はどこにありますか?」

「服? えっとね、妖精たちに持って行かせたから奥の部屋かしら。お着替えしたいの? 任せて! カフネ、他にもすてきなお洋服を持っているわ」

 というわけで、始まったのは勇者さんのお着替えタイム。

 カフネの案内でやってきたのはいわゆるクローゼットルーム。ずらっと並んでいるのは色とりどりのドレスたち。

 ハッ‼ 黒色のドレスもありますね! 白も! 青も緑も黄も桃も!

「カフネのお人形に着せてあげようと思って作ったのよ。すてきでしょ?」

「手作りなんですか。すごいですね」

「すごい? カフネすごい?」

「ええ、とっても」

「わぁい! うふふ! カフネすごい!」

 勇者さんが解放されたことでカフネの夢は終わり、妖精たちも楽園に戻っていました。

 おめかしタイムと聞きつけてやってきた彼らは、思い思いに耳飾りや髪飾りを取っては勇者さんに持ってきます。

 言葉を持たない妖精たちですが、きっと「これ似合うよ」とか「これ着けて」とか言っているのだと思いました。

「どれがいい? 勇者ちゃんには好きなもの着させてあげる」

「全部ドレス……。ええと、なるべく動きやすいものを」

 フリルの少ない落ち着いたものを手に取ろうとした勇者さんを止めるひとがいました。

 ぼくです。

「なんですか?」

「一生のお願いです。この漆黒のドレスを着てください」

「一生って、魔王さんは死なないじゃないですか」

「お願いしますっ‼ ほんとに! 見たい! お願い!」

「カフネに頼んだ時よりお願いしてない?」

「カフネも見たくないですか? 黒色のドレスの勇者さん」

「…………」

 カフネはすっと黙り、真剣な目のぼくを見ました。無言のまま数秒。

「カフネも見たい」

「よしきた!」

 ぼくは漆黒のドレスを手に勇者さんに向き直りました。なんだか非常に絶妙な顔をしていらっしゃいました。どういう表情ですか?

「カフネ、この髪飾りつけたい」

 そう言って持って来たのは黒い羽の髪飾りでした。あああ似合いますね絶対!

「イヤリングは赤色がいいと思うんです」

「いいわね。カフネも賛成」

「靴は黒で統一しましょうか」

「それならおすすめの靴があるわ。足はタイツを履くより白い肌を見せる方がすてきよね」

「わかっているではないですかぁ……」

 ぼくたちは先ほどまで争っていたのがうそのように協力して勇者さんを着飾っていきました。カフネのヘアアレンジもぼくの好みドンピシャです。黒のドレスに似合う髪型をチョイスするんですから!

 あれやこれやとされるがままの勇者さんは静かに身を任せていました。若干いやそうな顔をすることもありましたが、楽しそうにするカフネとぼくを見て「昨日の敵は今日の友……」とつぶやいてわずかに頬を緩めました。悟っているんですか?

「完成! 勇者ちゃんかわいい!」

「かわいいです勇者さんめちゃくちゃかわいいですぼくの目に狂いはありませんでした一生に悔いなしです写真撮ってもいいですか動画もアッカメラどこだっけさっき派手に動いた時に落としたかもしれません待ってください絶対にそのお姿を記録しないとぼくの一生が悲しいことになるので動かずに待っていてくださいお願いほんとにお願い!」

「魔王さんうるさい」

 文句を言われましたが、カフネも写真を欲しがったので一枚だけ撮らせてくれました。

 やりました……。黒ドレス勇者さんです……! ふっふっふ……!

「遊ぶんでしょう? はやく着替えて――」

「カフネ、お人形遊びも好き」

 ぽつりとこぼしたカフネの言葉に、勇者さんは少し考えて「他に着てほしいものはありますか?」と訊きました。

 勇者さんが自ら着せ替え人形になろうとしている……⁉

 な、なんて力でしょうか妖精女王!

「いいの?」

「招待状にも書いてありましたよね。お人形遊びが大好きだって」

「うん。あのドレスも妖精たちから勇者ちゃんの見た目を聞いて、きっと赤色が似合うと思って作ったのよ」

「私にはもったいないくらいすてきでしたよ」

「ほんと? うれしい! カフネね、他にも着てほしいドレスがあるの。いま黒色を着たから、次は白色なんてどうかしら?」

 いいですね! いいですね! ナイスカフネ! ぼくが勧めても絶対着てくれません!

「……白色」

「いや? いやならやめるわ。勇者ちゃんとの約束だもの」

 しゅんとしてクローゼットに戻そうとするカフネを、勇者さんは「い、いいですよ。着ます」と呼び止めました。

「いいの? やったぁ! カフネうれしい!」

 ぼくもうれしいです。カフネぱぅわぁーえげつないですね。万歳。

 というわけで、ぼくもにこにこで勇者さんに白ドレスを着せていきます。髪飾り、耳飾り、靴、その他諸々。

 ぼくとしては、白いドレスといったらベールをつけて……と思っていたら、カフネが「このベールもつけていいかしら?」と持ってきました。

 カ、カフネーーーーー‼ きみってひとは‼

「いいですよ。きれいなベールですね」

「妖精たちから聞いたの。人間が儀式の時に白いドレスを着て頭にベールをつけるんですって。とってもきれいだそうよ」

「へえ……。そんな儀式があるんですね」

「よく知らないけれど、勇者ちゃんに似合うからおっけーね!」

 儀式について詳細を知らない様子のふたり。勇者さんも知らないからこそ、すんなり受け入れたのでしょう。

 一方、知っているぼくは胸を抑えて多幸感で呼吸困難に陥っていました。

「なぁにあれ」

「ほっといていいですよ、カフネちゃん」

「わかったわ。勇者ちゃん、ヘアアレンジするから動かないでちょうだいね」

「ええ。お好きなようにしてください」

 穏やかにおめかししているふたりの横で、ぼくは限界を迎えていました。はっぴー……。

 来てよかった妖精の楽園……。ここがぼくの楽園……。

 しばらくして、ウエディングド――こほん、純白のドレスに身を包んだ勇者さんが爆誕しました。まぶしい……麗しい……うつくしい……はっぴー……。

 ぼく、今なら死んでもいいです。死にませんけど。

「苦しくない? 勇者ちゃん細いからつい締め過ぎちゃうの。カフネも力加減がよくわからなくって」

「だいじょうぶですよ。ちゃんと確認しながらやってくれていますから。ところで、私ばかり着させてもらっていますが、いいんですか?」

「もちろん。カフネはお人形をおめかしするのが好きなの」

「そうですか。それならいいのです。……また写真撮りますよね。魔王さん、さくっと撮って――魔王さん?」

 じい…………。

「魔王さんってば」

 じい…………。

「おいこら起きろ」

 ハッ! いけない。あまりのすばらしさに思考が停止していました。純白ドレス勇者さんの一挙手一投足を焼きつけようと睨みつけてしまっていたようです。

 いやぁ、それにしても勇者さんふふふなんてきれいなのでしょうふふふありとあらゆる人々から求婚されるに違いないお姿ですふふふなんならぼくも求婚したい。

「声に出してはいないけど、絶対やばいこと考えていますよね」

「ぼくは素直な気持ちを抱いているだけです」

「素直と狂気は紙一重だと思います」

「やだぁ……本質……」

 ぼくは悲しげな声を出しつつカメラを構えました。もちろん撮りました。

 その後、カフネが満足するまで着せ替え人形をした勇者さんは、やがて一着に落ち着きました。

「勇者ちゃんが最初に着ていた服とちょっと似ているドレスよ。これなら慣れていて動きやすいと思うわ」

 そう言ってカフネが選んだのはケージ・ドレスと呼ばれるものでした。体のラインが出る艶美な服と透過した生地の服を重ねて着るドレスです。

 シースルーの部分が白い肌をちらりと見せて実に妖艶です。ついめくりたくなりますよね。あ、これは勇者さんにはナイショでお願いしますね。めちゃくちゃこわい目でぼくを見ていらっしゃいますが、あれ? 聞こえています? そんなまさかねぇ。やだおめめがこわいですよう。あ、でもきれいな赤い目でじっと見つめられるのはとてもはっぴーですねぇもっと見てくれてもいいんですよアッ目ぇ逸らした。

 そんなこんなで。お着替えした勇者さん、ぼく、カフネ、妖精たちと一緒に楽園で遊ぶことになりました。

 とはいえ、ぼくは保護者枠で見守るだけです。カフネが力加減を間違えて勇者さんを壊さないように注意して見る役目ですね。

 カフネも勇者さんにケガをさせたいわけではないのでしょう。

 手を繋ぐ力もがんばって加減しているのがわかります。

「なにして遊ぶ?」

「カフネちゃんはなにがしたいですか?」

「カフネ? えっとねぇ、かくれんぼしたい!」

「いいですね。隠れるのはどちらにしますか?」

「カフネが鬼! 勇者ちゃんを探すわ」

「ええ、わかりました。私、隠れるのは得意ですよ?」

「ふふん、任せてちょうだい。カフネは見つけるのが得意!」

 そうしてカフネが数を六十数える間に勇者さんは楽園に隠れました。おっと、どうしましょう。ぼくが勇者さんのそばにいると答えを教えているようなものですよね。

 少し考え、近くにいた妖精を捕まえて「勇者さんを見守ってください」と頼みました。

 彼らは女王の味方です。カフネのともだちと認識した勇者さんに危害を加えることはないでしょう。これはぼくがカフネを信頼しての行動です。そろそろ一歩踏み出さなくてはいけないと思った次第でして。

 カフネがぼくを許さずとも一歩踏み出したからには、ぼくも留まっているわけにはいかないでしょう。

「五十八……五十九……六十! よーし、行くわよ!」

 羽をぱたつかせて木々を覗き、草をかき分け、花の裏を見て、カフネは勇者さんを探します。妖精たちを引き連れてあっちに行きこっちに行き、「勇者ちゃーん」とか「どこー?」とか声をかけながら進んでいきます。ぼくはカフネのあとについていき、自分でもきょろきょろと探しました。

 全然わかりません。どこに隠れたのでしょうか?

 妖精たちもぱたぱたと探し回りますが、発見できていないようです。

 カフネはだんだんと表情を曇らせ、「勇者ちゃんいない……」と羽をしぼませました。

「も、もうちょっと探してみてはどうですか?」

 彼女が泣くと大変です。ぼくでは手に負えません。

「カフネ、見つけるの得意だと思ったのに……、思ったのに……勇者ちゃんいない……」

 じわりと涙を浮かべたカフネにぎょっとしたぼくは、背後でがさりと音がしたのに気づきました。見ると、木の幹からドレスの裾が覗いています。

 カフネはぱっと笑顔を浮かべると駆け寄り、隠れていた勇者さんに抱きつきました。

「勇者ちゃんみっけ! カフネの勝ちー!」

「見つかってしまいました。見つけるのがお上手ですね、カフネちゃん」

「そうでしょ? うふふ!」

 うれしそうに頬をすり寄せるカフネを引き離すことをせず、勇者さんは彼女の好きなようにさせています。

 なんか……羨ましいと思う前に、なんだか……あれですね。

 小動物ですかね? 小動物と戯れる人間を見ているんですかね?

 もしくは年の離れた妹のわがままを聞いてあげるお姉さんでしょうか。とにかく勇者さんが優しいですね。

 今のかくれんぼだってたぶん……。

 ぼくの視線に気づいたのでしょう。勇者さんはカフネのすりすり攻撃を受けたまま人差し指を唇に当てて微笑みました。

「……まったくもう、きみって人は」

 そんな顔、いつの間に覚えたんですか? また知らない一面を知ってしまってぼくはどきどきしてしまいますよ。

「次はおにごっこしよう? カフネ、今度は勇者ちゃんに追いかけてほしいわ」

「いいですよ。私、足は速いですけどだいじょうぶですか?」

「カフネは飛べるもの!」

「と、飛んだら捕まえられませんよ」

「うふふ! だいじょうぶよ」

 カフネが手をかざし、光る粉を勇者さんに振りかけました。すると、彼女の体がふわりと浮き上がりました。勇者さんは驚いたように足をばたつかせて宙を掴むように手を伸ばします。

「わっ……ちょっと待って……」

「こわい?」

 カフネが手をとり、空中で踊るように体を引き寄せました。繋いだ手を高く上げ、片方で勇者さんの腰に手を当てるカフネは優雅な笑みを浮かべます。

 ……そういう表情は女王と呼ぶにふさわしいんですけどねぇ。

 艶やかな雰囲気をまとっていたカフネはふと無邪気な笑みに変えると勇者さんから離れました。

「……あっ」

 まだ慣れないのでしょう。支えを求めて手を伸ばした勇者さんは、不安そうな色をした目でカフネを追います。カフネはすいすいと勇者さんに近づいては離れ、近づいて離れを繰り返しました。

 その様子から遊んでいるとわかった勇者さんは、手持ち無沙汰になった腕を下ろします。

 能力を解いて勇者さんを落とす可能性がないとも言い切れず、ぼくは地上からふたりを見ていましたがだいじょうぶそうです。

 それにしても、さすが妖精の楽園。支配域だけあって簡単に勇者さんを浮かせることもできるのですね。現実と隔たる幻想の世界としての本領を発揮しているといえます。

「だいじょうぶ? まだこわい?」

「……へいき、です。たぶん」

「そう? それじゃあ、おにごっこ空中戦スタート~」

 羽をぱたぱたさせて飛び回るカフネに勇者さんはどうしてよいかわからずにいるようです。見かねた妖精たちが指や服を引っ張り加勢します。

 空中では足の速さは関係ないようですね。というか、飛び慣れているカフネの方が動きは機敏です。

 ふわ~っと飛んでは木々にぶつかる勇者さんは額を押さえながらくるくる回り、くすくす笑っているカフネを捕まえる算段を立てているようでした。

「おーにさーんこーちら、手ーの鳴ーるほーうへ」

 見えているのがわかっていながら、カフネはぱちぱちと手を叩きました。

 くすくす、くすくす。口に手を当てて笑っています。

 勇者さんはくるりと一回転すると幹を蹴って勢いよく飛び出しました。

 蹴り上げた力で速度が上がり、空中で浮遊していたカフネめがけて一直線に進んでいきます。

「あらっ!」

 驚いたカフネはわずかに動き出しが遅れ、次の瞬間には勇者さんに腕を掴まれて捕らえられたのでした。

「捕まえました」

「うふふ! 捕まっちゃった。勇者ちゃんの勝ちね」

 捕まってもうれしそうなカフネは勇者さんの手を取って誘い、飛んだままダンスを始めました。踊り方を知らない勇者さんは戸惑いつつもカフネに身を任せ、躊躇いがちに伸ばした足で宙を踏みます。くるり、くるり。回るたびにドレスがふわりと広がってとてもきれいです。ぼくは『特等席』と言わんばかりに枝を動かした木に座り、ふたりを眺めました。

 勇者さんと遊んでいる時のカフネはずっと楽しそうです。あんなに無邪気に笑っているのを見るのは例のお人形が完成した時以来でしょうか。

 勇者さんも少しぎこちないものの、真っ直ぐ感情を向けてくれるカフネに自分も向き合おうとしているようです。相手が人間ではないから、むしろありのままの自分で手を取れるのでしょう。勇者としては倒すべき存在ですが、遊びたいとお願いされたら叶えてあげたくなってしまう。そのお誘いは彼女にとってもうれしいものだったのかもしれません。

 一切の悪意なく純粋に自分を見て無邪気に接するカフネ。無邪気ゆえに悪とされたカフネですが、勇者さんにとってはまぶしいものに見えたのでしょうね。

 人間にも魔族にも少なからず悪意は存在します。意思あるものなら当然のことです。魔なるものの根底にあるのは悪ですからね。けれど、その性質ゆえ悪を排除した稀有な存在がカフネです。悪意を持たない無邪気ゆえ、善悪の判断に基づかない行動を取る。

 それはいわゆる、自分勝手だとかわがままという言葉で表現されるものです。

 誰かにとって悪であるとしても、カフネにその考えはありません。

 善悪を超越した概念で生きるカフネは永遠の幼子。行動や発言に悪意は存在しない。

 だから、勇者さんは真っ直ぐカフネを見ることができるのでしょう。

 無邪気なカフネの視線は優しいもののはずです。きっと痛くない。

 自分の好きなお菓子を好きなひとにも食べてほしい。おいしいから。

 自分の好きな遊びを一緒にやりたい。楽しいから。

 頭を撫でて抱きしめて手を繋ぎたい。大事だから。

 カフネのすべては果てしなく純粋なものです。

 自由奔放な妖精ゆえ、人間には強い力になってしまうこともあります。けれど、カフネが悪いわけではないとわかっているから勇者さんは微笑むのでしょう。

 幼子がおもちゃを壊してしまうなんてよくあることです。食べてはいけないものを口に入れてしまうことも日常茶飯事です。カフネも同じ。

 違ったのは、カフネが妖精の女王だったこと。ただそれだけです。

 ほんのわずかな違いでカフネは楽園に幽閉されました。そして、ほんの一歩の前進で勇者さんに出会いました。もしかしたらこれは……。

「成長、というやつでしょうか」

 ありえないことですが、そう思ってしまいたくなったのでした。

 それから、ふたりは様々な遊びをしました。だるまさんがころんだ、かごめかごめ、おままごと、キャッチボール……。

 名前は知っているけどルールを知らないものが多いようでしたので、僭越ながらぼくが解説役を務めました。人数が足りない時は勇者さんが手招きし、ぼくを誘いました。当然のことながらカフネはいやそうな顔をしましたが、「そろそろ混ざりたそうな顔がうるさくなってきた頃だったし、カフネの気分もいいから許可してあげてもいいわよ」とツン強めのお許しをもらいました。

「い、いいんですか?」

 カフネがぼくを遊びに入れるなど、考えられなかったことです。

「カフネがいいって言った。遊びたくないならあっち行って」

「あっ、入ります入ります。では、ここからはぼくも含めて遊びましょう~」

「こてんぱんにしてやるわ」

「やってみろです」

 ばちばち睨み合いますが、カフネはどことなく楽しそうです。

「仲良くしてくださ――いえ、これはあれですね。ケンカするほど仲がいい、ですね」

 相手を挑発しまくるぼくたちに勇者さんは呆れつつも口角を小さく上げています。

 妖精たちも加わり、楽園は華やかに賑やかに、そして明るい雰囲気を漂わせました。

 時間も忘れて遊んでいると、やがてその時はやってきます。

 帰る時間ですね。

 いつもの服に着替えた勇者さんは隠されていた大剣を妖精から受け取り、しっかり背負いました。

「また来てね。絶対よ。カフネ待ってるから」

 耳にタコやイカやくじらやイソギンチャクができそうなくらい聞いたセリフを勇者さんに言うカフネは、羽をしぼめてさみしそうに見送りに来ました。

「ええ、来ますよ。また一緒に遊びましょう、カフネちゃん」

「うん。うん。招待状書くから。いつでも来ていいからね。魔王に愛想を尽かしたらカフネのところにずっといればいいわ。カフネは勇者ちゃんのことずぅっとかわいがってあげる。ドレスも髪飾りもあげるわ」

「変な誘いをしないでください、カフネ」

「ありがとうございます。うれしいです」

「勇者さんも感謝しなくていいので! それともなんですか。ぼくに愛想を尽かすご予定でもあるんですか⁉」

「愛想もなにも、勇者と魔王ですし」

「ぼくは愛情いっぱいですよ」

「はいどうもね」

「素っ気ない……」

 そんなことを繰り返し、いよいよ楽園を出る時が来ました。

「またね、勇者ちゃん。魔王はもう来なくていいわよ」

「絶対来ますから。ぜっっっったい!」

「ふんだ。あ、勇者ちゃん、ちょっと待って」

 ぱたぱたと近づいてきたカフネは、パッと手に持ったマカロンを勇者さんの唇に当てました。

「最後にもうひとつ、食べていって?」

「…………」

 またも押し負け口を開けた勇者さんは、桃色のマカロンを咀嚼しながらカフネを見ました。

「この味……」

「好き?」

「はい。とても甘いです。……でも、さっきよりも甘いような」

「あ、気づいた? うふふ。よかった」

 意味深に微笑むカフネに嫌な予感がし、ぼくはじとっと「ただのマカロンですよね?」と尋ねました。

「ふつうのよ。マカロンはね」

「なにか入れたんじゃないでしょうね」

「入れたわよ? 妖精の蜜」

「んなっ……⁉」

「やだ、こわい顔しないで。カフネなんにもしてない。勇者ちゃんを見てよ」

 なんてことない顔でもしゃもしゃしている勇者さん。なにか言ってくださいよ。

「あの時、カップを落として全部飲めなかったのが悔しかったので、また味わえてうれしいです」

 たくましいんですよ……。

「カフネが力を使わなきゃただの蜜だもの。甘い夢と同じ味。カフネの想いの分だけ蜜は甘くなるの。うふふ!」

 はあ……、また厄介なのに好かれましたね、勇者さん。

 大きくため息をつくぼくの隣で、当の本人は眠そうにふわぁとあくびをしています。

 妖精女王に好かれるやばさに気づいておられないようですね……。困った子です。

「それでは、また」

「うん。カフネ待ってる。カフネはずっとここにいるから!」

「ええ。その時まで、さようなら、カフネちゃん」

「ばいばい、勇者ちゃん」

 ぱちぱち、きらきらと光る妖精たちも手を振り、ぼくたちを見送りました。

 彼らに背を向けると、辺りの景色がすうっと曖昧になり、気がつくと元いた場所に帰ってきていました。

 はあ、大変だった……。また行くとしても、なるべく行かないようにしたいです。カフネの相手は疲れるんですよう……。

「楽しかったですね、妖精の楽園」

 けろりと言った勇者さんに、ぼくは驚愕の表情を向けました。

「カフネになにをされたかお忘れですか」

「一緒に遊びましたね」

「その前! 何気にピンチだったんですからね!」

「そうみたいですね」

「そうみたいですねって、他人事みたいに……」

 事の重大さを理解していないような言い草にぼくは口をぽかんと開けました。

「魔王さんの方こそ大変だったみたいですね」

「ぼくはいいんですよ。というか、今回のことはぼくの行動が招いた事態ですし、勇者さんに謝らなければいけません……」

「謝る?」

「勇者さんには話しておかなければいけませんね。ぼくとカフネの間に何があったか」

 説明する義務があるでしょう。全面的にぼくが悪いものの、少々乱暴なことをしたので勇者さんにどんな反応をされるかぁぁぁ……。

 ぐぎぎぎぎ……とこらえるぼくに、勇者さんはさらりと「知っていますよ」と言いました。

「はえ⁉ 知ってる⁉ なんで!」

「夢の世界で聞いた……見たんです。おそらくすべてを見せてくれたわけではありませんが、だいたいの事情はわかりましたよ」

 そして、勇者さんは教えてくれました。妖精の蜜で微睡ませられ、カフネの夢に落とされた後に何があったのか。眠ってから目を覚ますまでの夢の世界の話です。


 〇


 気がつくと、そこは見たこともない景色が広がる場所でした。光る木々はなく、花もない。ただ気持ちのいい草原がどこまでも続き、遠くに見える山々もきれい――いえ、遠くない。そう見えるだけで、よく目を凝らすとすぐそこにも見える。

 なぜここにいるのかわからず、記憶を辿りました。

 ……ああ、そうでした。私はカフネちゃんに……。

 魔王さんの再三の警告にも意味はなく、私は彼女の策略に嵌ったようでした。

 いえ、それもなんだか違う気がします。策略なんてこわいものじゃない。

 彼女からは悪意を感じなかったように思うのです。

 例えるなら、幼いこどもがいたずらを考えて実行するような……。

 あどけなさと好奇心で形作られたとびっきりの作戦。でも、危うさもある作戦。

 ナイフの危険性を知らないこどもが「おもしろそう」という理由だけで手に取って振り回すような、純粋ゆえの悪。

 ここまできても、私は彼女を倒すべき存在として確立できないでいました。

 ――カフネと遊びましょう。夢の世界で永遠に。

 あの言葉の意味もまだ掴めないでいる。

「……カフネちゃん」

 悪い子……なのでしょうか。わかりません。私にはまだ判断ができない。

 私が意識を失っていく中でも彼女の手は優しかった。あの手に悪意はなかった。

 永遠に遊ぼうと言った声も、これから来る楽しい時間を待ち望んでいる明るい声色でした。

 でも、魔王さんはずっと危険だと言っていて……カフネちゃんは実際に私をここに連れてきて……ここはどこでしょうか。夢の中……ああ、だめです。

 頭がふわふわしてうまく考えられない。今も口の中に蜜の味が残っています。

 とりあえず……とりあえず何をすれば?

「……魔王さん」

 呼び慣れた言葉を口にしてみても返事はありません。どうしよう。どうすれば。

 剣を持つ? カフネちゃんは敵? そもそも彼女はどこに?

「勇者ちゃん」

 そう、私のことを『勇者ちゃん』と呼んで慕ってくれる彼女は――。

「……え。いつの、間に……」

「あなたが起きるのを待っていたのよ。うふふ、遊びましょ?」

「カ、カフネちゃん、あの」

「なあに?」

 彼女は先ほどとなにも変わらない態度で私の手を引きます。羽をぱたぱたさせて楽しそうです。

「ここはどこですか」

「カフネの夢の中よ。ああ、カフネが夢を見ているんじゃなくて、そういう名前の世界なの。カフネは夢みたいなものだし、夢はカフネなの」

 ……どういうことでしょう。とはいえ、ここが彼女の力によって作られていることはわかりました。やはり、先ほどまでとは違う世界。魔王さんはいないはず。

 夢というのが未知数ですが、私の力は使えるのでしょうか。そもそも、背負っている剣も本物なのでしょうか。

「遊ぶってなにをするんですか」

「それはほら、お人形遊びとか! カフネ、お手紙にも書いたでしょ?」

「お人形遊び……。あの、それならここじゃない場所でも――」

 言葉を飲み込んだのは、カフネちゃんがまた私を抱きしめたからです。

 意識が吸い込まれたあの時も、彼女はこうしてぎゅっとしていた。思わず身構えましたが、今の私は蜜を飲んでいません。いや、蜜によって眠ったとは決まっていませんね。

 それなら、彼女はいつ私に力を使ったのでしょう。

 楽園に入った時にかけられた? お茶会で食べたお菓子? 妖精たちの光? どれも魔王さんが一緒にいました。いや、魔王さんは魔王だから無効だった可能性もありますからね。けれど、魔王さんはずっと目を光らせていました。

 それなら、ふたりきりになった時? あの時にあったことは、蜜を飲んだこととカフネちゃんが抱きついてきて頭を撫でたこと……。

 頭を撫でる。髪に触れる。彼女が取った行動です。

 いや、まさかそんな……。どう考えても蜜の方が怪しいのに……。

「勇者ちゃん、カフネとお人形遊びしよう?」

 すぐに「いいですよ」と言えませんでした。カフネちゃんの指が私の頭に触れているのを感じたから。

「お人形遊びって、どんなことをするんですか……」

「んー? お洋服着せたり、おめかししたり、髪を結ったり……。かわいくしたら一緒にダンスをしたり、お菓子を食べたりするのよ。……あら? どうしたの? 緊張してるの?」

 動かない私にカフネちゃんはくすくす笑って「じゃあカフネがほぐしてあげるわ」と頭を撫でました。途端、体から力が抜けていく。

「…………っ。待っ、て……」

「せっかくカフネの夢に来たんだもの。楽しく遊びましょう?」

 また動けない。動かない。カフネちゃんが頭を撫でるたびに緊張も警戒も溶かされる。

 ここからどうしようかと考えていた脳内がぼやけて思考が散乱する。

「うっ…………」

 くらくら、ぐらぐら。揺れる視界に思わず目を閉じ、自分のものではなくなったような体を支えられない。カフネちゃんの肩に顔をうずめたまま、どうにか彼女を止めようと手を伸ばしました。

「カ……フネ……ちゃん……」

「なあに? リラックスできた?」

 うまく動かせない首を懸命に縦に振りました。

「よかったぁ。……あ、ちょっと待ってね」

 カフネちゃんは私を離すと、どこか遠くの方を見つめて「もう来た……」と眉間にしわを寄せました。

 へたり込み、勝手に緩やかになっていた呼吸を無理やり戻そうとしていた私は、彼女のその様子から『怒り』の感情を感じ取りました。

 魔王さんとケンカしていた時とは少し違う。明確な怒り。私に対するものではありません。ということは……。

「魔王さん……」

「また魔王って言ってる。勇者ちゃん、さっきも魔王のこと呼んでたわ」

 カフネちゃんは頬を膨らませて不満を露わにしました。

「いまここにいるのはカフネ! 呼ぶならカフネの名前を呼んでよ」

「……え?」

 彼女の空気が変わったのがわかりました。なんでしょう。胸の奥がざわざわします。

「カフネのこときらいなの?」

「そんなことありませんよ」

「じゃあなんで呼んでくれないの?」

「さっきのは魔王さんを呼んだのではなくて……」

「ほら! また言ったわ」

 まずい。話が通じない。カフネちゃんが激しく羽をばたつかせるたびに世界が震えています。どうすればいい。私はなにを言えばいいのでしょうか。正解はなに?

「せっかくカフネの夢にいるんだからカフネのことだけ考えてよ!」

「わかりました。わかりましたから、ええと、どうすればいいですか?」

「カフネと遊ぼう?」

「ええ、遊びましょう。なにしてあそ――えっ?」

 気がつくと、私の周囲には高い壁がそびえたっていました。見上げても天井が見えません。前方に伸びる道は途中で曲がり、後ろも曲がり角。幅二メートル程度の道に突っ立っている私は突然のことに唖然としました。

 瞬間移動? いや違う。瞬きする間に壁が作られただけ。大きな迷路の中に放り込まれたのでしょう。カフネちゃんはぱたぱた飛び、私を見下ろすと「迷路は好き?」と笑いました。

「出口がわからなかったらカフネを呼んでね。勇者ちゃんが言うならカフネは助けてあげるわ」

 そう言うと光の粒になって消えました。

 迷路……。どうすればいいでしょうか。ひとまず出口を目指す? これは彼女のいう遊びなのでしょうか。

 迷路の必勝法は壁を壊す、でしたっけ。大剣で壊せるでしょうか。

「……あれ」

 剣がありません。うそ。いつの間に? 仕方ありません。爆薬でも使って爆破――。

「……まじですか」

 鞄がありません。本気? なんで気づかなかったんですか私。

 ……短剣はありますね。でもこれでは壁は壊せない。

「…………」

 少し考えた後、私は壁に沿って走り始めました。どのくらいの広さがあるかわからない今、立ち止まっていてもどうしようもありません。最初から途中スタートなので入口がどこかもわからない。

 行き止まりに行ったら戻り、別の道を進めばいい。

 いつかは出口に着くでしょう。

 私は無言で走り、高くそびえる壁の横を行ったり来たりしました。

 正直難しいです。分岐が異常に多くてどんどん迷っていく。目印になるものがないので、短剣で傷をつけようと思いましたがだめでした。

 力強く突き刺してみましたが、傷ひとつつかないのです。

 魔法の力か、彼女の力か。はたまた両方か。

 声を荒げたカフネちゃんを思い出し、名前を呼ぶのには少し躊躇いがありました。とはいえ、彼女の言い分では呼ばないと問題が起こりそうです。

 呼ぶか呼ばないか。こっちも迷って道にも迷っていた私は、結局無言のまま彷徨い続けました。

 どれくらい時間が経ったでしょうか。自分がどこにいるかもわからなくなった私は、ふと足を止めて空を仰ぎました。ここに空なんてありましたっけ、と思いながら視線を上に移すと、

「カフネちゃん……」

 彼女が少し冷たい目で私を見ていました。

「どうしてカフネのこと呼んでくれないの? カフネのこときらいなの?」

「そんなことはありません」

「カフネのこと見てよ。カフネのことだけ見ていてよ!」

「落ち着いてください……」

 私の言葉が届いていない。彼女は拒絶するように首を振り、体を震わせます。

「カフネのこと呼んで? 助けてって言えば力になるわ。カフネ強いから安心して」

「カフネちゃん……」

「カフネ、甘いお菓子も好きだけど、苦いチョコレートも食べられるのよ? うふふ、勇者ちゃんの苦い夢はどんな夢かしら」

 辺りが一気に姿を変えていきます。迷路は消え、真っ暗な靄が漂い始めました。

「……。……。そんなに大事なの。ふうん……。ずるいわ、おまえばっかり」

 私に言っているようではありませんでした。

「悪夢のなにがいけないの? みんなカフネのこと呼んでくれるすてきな時間なのに。……うふふ、おまえもそういう顔をするの? うふふ、ふふ……」

 少し満足げに笑うカフネちゃん。けれど、またすぐに冷たい色を浮かべました。

「カフネもお人形が大事だったのに、カフネことは大事にしてくれないの」

「なんの話ですか……?」

「ひどいことしたやつが楽しそうにしていて、カフネはずっと楽園の中。それならお人形をもらったっていいと思わない?」

「…………」

 彼女はとても怒っているようでした。

「大事なのね。カフネも大事よ。でもカフネの方が大事にしてあげる。だから一緒にいよう?」

「……あの」

「勇者ちゃん、カフネのこと好き?」

 彼女は私の前に下りてきてじっと見つめました。きれいな黄金色の瞳は私を捕らえて離しません。もし、この問いを否定したら……。

 いえ、否定する理由はない。だってどうして。わかりません。でも、この状況でも彼女から悪意は感じられない。大事にしてくれない、と言った時はとてもさみしそうでした。悲しそうでした。

「好きですよ」

「ほんと?」

「はい」

「うふふ、うれしい。カフネも勇者ちゃんのこと好きよ。魔王よりずっと好き。だから見せつけてやるわ。カフネのお人形を大事にしなかった魔王を、新しいカフネのお人形で壊してやる」

 くすくす、くすくす。彼女の笑みが辺りに広がっていきます。

 ……よくない気配がしました。幼子の中に潜む危うさが目を覚ました気配。

「勇者ちゃんは特別。もっと深い夢に連れて行ってあげる。そこでお人形遊びをしましょ?」

 カフネちゃんが私の手に自分の手を合わせてぎゅっと握りました。ふわりと体を傾けてこちらに倒れてきます。

「カフネちゃん危ない――」

 支えようとしましたが、彼女はそのまま飛び込んできます。

 倒れる……と思った時、私の体は水中に落ちたような感覚に包まれました。

 水……⁉

 思わず呼吸を止めて目を薄めました。

 わずかに開いた視界に映ったのは、私の記憶の引き出しを簡単に壊すくらい幻想的な世界でした。見たこともない、なんてありきたりすぎる表現です。

 なにもかもが知らない。映る世界も包む感覚もすべて新鮮に飛び込んでくる。

 脳が驚いて呼吸を止めてしまう。もっとよく見て、よく知って、もっと先へ行ってと何かが急かす。

 ほのかに黄に色づく優しい白色の世界に、ふわりふわりと淡い色が浮かんでいる。

 赤、青、黄、緑、紫、橙……他にも名前の知らない色たちがじわりと光っては眠るように消える。

 水を一滴ぽたり、どこからか落としたように色をつけては白に混じっていく。

 視界の隅がぱちりと光ったのがわかりました。何かが弾けて消える。

 一瞬の輝きがあちこちできらめいてはすっと溶けていく。

 どこまでも広がっているように見えて、そこは小さな入れ物の中のようにも感じました。

 ぼうっとする頭に浮かんだのは、テラリウムの中のささやかな世界。

 作り物の置物や自然をきれいに飾り、その姿が壊れないように封をする。

 とてもとても美しいけれど、ここは少し悲しくてさみしい。

 物悲しい気持ちになっている私を包む水のような世界は、感情とは裏腹にどこかあたたかいものでした。光源の存在がわかりませんが、ここも朧げに明るい。

 両手で包み込むようなぬくもりは私の頬や髪を伝い、全身に広がって閉じていきます。

 まとわりつく不快感ではなく、抱きしめて離さないといった愚直な感情。

 ただ、強すぎて苦しい。私の吸う空気すら持っていくような強固な想いが漂っています。

 ああ……意識が溶ける。私が溶ける。だめです。しっかりしないと。

 息……。息は……できる? わからない。

「――ちゃん、勇者ちゃん、きこえる?」

 きこえます。彼女の声。けれど、答えようにも声が出ません。

 口が動かないとか声が出せないとかの問題ではなく、声の出し方がわからない。

 声の出し方? あれ? おかしいな……。息の仕方も……どうやりましたっけ……。

 あやふやになる脳で『カフネちゃん』とつぶやきました。

「うふふ。いらっしゃい、勇者ちゃん。カフネの夢の一番奥へ。カフネの中へ」

 ――い、ちばん、おく……?

「ここはカフネ=フルーム。夢の果て。特別なひとだけが入れるところ」

 ――もとのせかい、にかえりませんか?

「どうして? カフネのお人形なら一緒にいてよ。ずっと遊ぼう?」

 ――でも、ここは……。わたしが……。

「いじわるな魔王なんか倒しちゃってカフネと一緒にいた方がいいよ。勇者ちゃんのことを大事って言ったって、いつかは壊すに決まってる」

 ――まおうさんはいじわるではありませんよ……。だから……。

「勇者ちゃんは知らないからそんなこと言えるんだ。わかった。カフネが見せてあげる。魔王がどんなにひどいやつか。カフネになにをしたか」

 強い光が見えました。私は朧朧たる意識のまま、ふたりに何があったのかを知ったのです。何年もかけて作ったお人形。人間を組み合わせて作った……。

 魔王さんが突然やってきて楽園に閉じ込めた。彼女の大切なお人形も壊して押し込んだ。

 泣いているカフネちゃんを慰めるひとはいません。

 こぼれた涙がぱちぱちと光って消えていく。

「カフネのお人形……。おともだちになりたかったのに……」

 小さなこどものように泣きじゃくります。

「一緒に遊びたかったのに……!」

 涙は止まることを知りません。

「カフネ……ここにひとりぼっちのまま……やだぁぁ…………」

 ハッと気がつくと、私は淡い世界に浮いていました。戻ってきたようです。

「どう? わかった? 魔王はひどいやつよ。カフネの方がいい!」

 ――…………。

「……どうして? まだ魔王のこと信じているの?」

 ――あのひとは……、たしかにあなたのおにんぎょうをこわしました。

「そうでしょう? ひどいでしょ?」

 ――でも、わたしも、ひどいやつですよ。

「勇者ちゃんは優しいわ。ひどくない」

 ――そうおもいますか? それなら、あなたはわたしのいいところだけみたのでしょう。

「よくわからない。どういうこと?」

 ――わたしは、まおうさんの、やさしいところをしっています。でも、ひどいことをした、のもしっているんです。りょうほう、しっていて、いっしょにいること、をえらんだんです。

 ……少し息苦しい。カフネちゃんが訝しんでいるのかもしれません。私の言葉を受け入れたくないと拒否しているのを感じます。

 ――カ、フネちゃん。

「……なあに?」

 ――わたしの、こと、すきだといって、くれましたね。

「うん。好きよ。とっても大事」

 ――とても、うれしかった。わたしは、ずっとひとりでした、から。

「じゃあずっと一緒にいよ? カフネはひとりにしないわ!」

 ――でも、ここでは、ふたりだけ、です。

「だめなの? カフネはいいよ」

 私は次の言葉を言うべきか迷いました。カフネちゃんを傷つけてしまうかもしれないと思ったから。おともだちだと慕ってくれる彼女を傷つけたくはないけれど、私は目を覚まさなくてはいけない。……約束があるのです。あのひとに叶えてもらうために、私は優しくてあたたかい感情に決断を下さなければいけないのです。

 ――わたしは、まおうさんにあいたい、です。

「……なんで」

 ――だいじなひと、だから。そして、あなたも。

「カフネも……?」

 ――わたしを、たいせつにおもって、くれる、やさしいひと。……ありがとう、うれしい。

「勇者ちゃんは魔王が大事。でも、カフネも大事?」

 ――ええ。わたしの、おともだち。

「……魔王も勇者ちゃんのことが大事。そっか……。カフネのお人形と同じなのね」

 ――ここも、とてもすてき、なばしょ。だけど、わたしは……。

「……うん。わかった。もういいよ。カフネ、ちょっとさみしいけどいい子だから」

 霞む視界に黄金色のしずくが散らばるのが見えました。

 ――カフネ、ちゃん。ないて、いる、のですか。

「さみしい。でもうれしいの。なんだろう、これ。勇者ちゃんならわかるかしら? カフネは初めてでわからないの。止まらないの」

 ――……カフネちゃ、ん。おいで。

 自分の体の感覚はありませんが、腕を伸ばす想像をしました。

 光が揺らめいて私の形を抱きしめるなにかがありました。

 震えるそれを受け止めて、私は彼女が何度もしてくれたように頭を撫でました。

 なかないで。わたしはあなたのえがおがすき。

 そんなことを思いながら、きめ細かな髪に触れました。

「一緒に遊んでくれる?」

 ――もちろん、です。私も一緒に遊びたいと思っていたのですから。

 少しずつ思考が明瞭になっていきます。詰まるような息もなくなっていました。

「勇者ちゃんは魔王が大事かもしれないけれど、カフネはまだいや」

 ――無理に受け入れなくていいんです。今回は魔王さんには見学してもらいましょう。

「うふふ。……う? 今回?」

 ――はい。私はまたカフネちゃんに会いたいです。

「うれしい……! カフネも!」

 ――ここを出たら一緒に遊びましょう。楽しく遊ぶために約束してほしいことがありますが、いいですか?

「うん! もちろんよ」

 そうして私はいくつかの約束を結びました。小さな約束ですが、大事なことです。

 彼女が傷つかないために。

「……ねえ、勇者ちゃん」

 遠慮がちに声をこぼすカフネちゃん。なんですかと訊くと、言葉を詰まらせつつ「……ひどいことしてごめんなさい。……怒ってる?」と謝ったのです。

 ここに連れてきたことを言っているのでしょうか? それなら、なにもひどいことではありません。

 ――怒っていませんよ。それに、謝れるのはよいことです。

「よかったぁ……。カフネ、ふたりがそんなに大事に想い合ってるなんて知らなかったから……」

 カフネちゃんは私の目を見つめると、「夢をひらくわ」と微笑みました。

「ありがとう、勇者ちゃん。カフネ、あなたに会えてよかった」

 ――私もです。

「うふふ」

 私を包むぬくもりが強まり、眩い光が辺りに広がりました。

 優しい手に撫でられて、今度は抗うことなく沈む意識に身を任せました。

 甘い蜜の香りがする。カフネちゃんの歌声が聴こえます。

「おやすみなさい、勇者ちゃん。そして――」


 〇


「…………へぇん」

 ぼくは変な声を出しておもしろくなさそうな顔をしました。

 やめろその顔。文句あるんですか、とでも言いたげな勇者さん。

「……ずいぶん楽しそうじゃないですかぁ」

「迷路の壁を破壊できなかったことが心残りです」

「最短ルート攻略は忘れてくださいね」

 勇者さんは伸びをし、何か言いたげなぼくの視線に気づかないフリをしているようです。

 ふと、視界の隅でぱちぱちと光るものを見つけます。

「…………」

 ひさしく外の世界を知らない彼女。妖精伝いでしか知ることのできないぼくたちの様子。

 まあ、あれくらいならいいでしょう。

 久方ぶりの楽しい時間だったはず。勇者さんもまた会いたいと言っているのなら、ぼくはそれを拒むことはできない。

「そういえば、怒ってますか?」

「何にです?」

「魔王さんが散々忠告していたにもかかわらず、私が勝手に招待を受けたことです」

「ああ、それは……」

 ぼくは少し躊躇い、「心配という意味で怒っていますよ」と言いました。

「カフネは……善悪がつかないだけで悪気があるわけじゃないんです。この性質は変えられませんし、魔なるものとしての役割もあります。彼女がともだちを欲していたことも、遊びたいと願っているだけだということも、わかっていました。ですが、だからこそ、意図しない悲劇が生まれるかもしれないとも思ったのです。そうなれば、どちらにとっても悲しいだけ。彼女もきみも傷つくだけです」

「……そうですね」

 変えられないものはある。それはぼくにも。結果論でしかありませんが、今回は『よかった』終わりを得ることができました。でも、次もそうだとは限らない。

 ぼくたちはそういう流れの中で生きているのです。

 ……だとしても、なるべく涙は見たくありませんね。

 無邪気に笑う笑顔の方がいい。勇者さんも、カフネも。

「また行ってもいいですか?」

「勇者さんも物好きですよねぇ……」

「あの蜜、気に入りました」

「うっそぉ……。あれだけのことをされておいてですか……?」

「あんなに甘い蜜、初めてでしたよ。カフネちゃんの瞳と同じきれいな色でしたし……」

 ふと、勇者さんは言葉を止めました。

 あれ、赤目じゃないですね。あれれ? 魔族ってみんな赤い目ですよね。魔王さんは例外ですけど。このひとは詐欺みたいなもんですから。そうなると、どゆこと?

 などなど、小声でつぶやいています。

 なるほど、やっと疑問を抱いたようですね。

 ぼくの姿は借りているものですが、とにかくカフネの姿についてですね。

「こほん、カフネの目の色が気になっているようですね。ご説明しましょうか?」

「ぜひ」

「素直……。じぇら……」

 ぼくの時はこんなに素直に言わないのに……。じぇらり魔王です。

「結論から言えば、カフネもぼくと同じです。あの姿は仮の姿。本来のカフネは形のない存在なんですよ」

「形のない?」

「思い当たることはありませんか? カフネの力や楽園を思い返してみてください」

「力や楽園……」

 勇者さんは先ほどまでいた世界を思い出しているようでした。幻想的、非現実的、空想、夢と口に出し、「……夢?」と答えを言いました。

「はい。カフネの姿は蜜と夢を詰めて作ったお人形です。本当の彼女は『カフネの夢』の最深部に漂う夢ですよ。まあ、あの場所はぼくでも行けない特別なところなんですけどね。ゆえにぼくも本当のカフネを見たことはないんです」

 最深部に漂う夢。彼女が最も気に入り、終わりなき時間を共にしたいと願ったものしか招待されない場所。カフネそのもの。

 楽園は夢の入り口みたいなものです。彼女の力でつくられたまやかしの世界。基本は招待がないと入れませんが、誤って迷い込む可能性もあります。けれど、夢が深くなればなるほど、本当のカフネに近づいていく。『カフネの夢』にはぼくですら介入できません。

 その最深部にある本体など、なおさらです。

「最深部の夢……。ああ、きれいでしたね」

 ……はい?

「ちょっとびっくりしましたけど、すてきな場所だったと思います」

 ……あの?

「あの感覚を思い出そうとすると体の奥底が震える気がしますよ」

 ……行ったんですか、最深部。まじですか。

 うそでしょ。いつの間に? というかカフネ、そこまで勇者さんのことを……。

 最初はぼくへの復讐だったかもしれませんが、招待し、一緒にいるうちに勇者さんというお人形を愛してしまったのでしょうね。

 まあそりゃ? この子はとても優しい子ですし? ほんの短い時間でも良さがわかると思いますしわかってほしいと思います。おともだちが欲しいカフネにとってはこれ以上ない存在かもしれませんけど! けど! この子はぼくのなんで!

 勇者さんがカフネの夢を選ばなかったのがなによりの証拠! ぼくの勝ち!

「変顔選手権ですか?」

「思いの丈選手権です」

「なにそれ……」

 めんどくさそうな顔をした勇者さんは、やれやれと首を振って前を向こうとし、

「…………」

 ぴたりと足を止めました。

「どうしました?」

「……こども。空腹で泣いていた子がまたいます」

「うえ? どこに?」

「あそこです。木のそば」

 勇者さんが指を差した方を見ると、たしかに木に寄りかかったこどもの姿が見えました。

 ちっさ。よく見えましたね。というか木に同化して全然わかりませんでした。

 こどももこちらに気がついたのか、たっと駆け寄ってきました。

 物凄い速さで勇者さんがぼくのうしろに隠れます。かわいい。

「ゆうしゃさま!」

 幼子は笑顔で近寄ると、握りしめていた何かをこちらに差し出しました。

 ふたつのキャンディーでした。

「おれいしたくてまってたの。すぐにもどってきたのに、ゆうしゃさまいなくてびっくりしちゃった」

 ああ、楽園の中は現実世界と時間の流れが違いますからね。ほぼ経過しないといっていいでしょう。

 こどもはぼくに「はいこれ!」と渡し、うしろの勇者さんにも「チョコレートありがとう

 !」と渡しました。

「……あ……りがとう、ございます」

 彼女は遠慮がちに手を伸ばし、小さなてのひらに乗ったキャンディーを受け取りました。

 勇者さんに渡したことを確認すると、こどもはうれしそうに笑います。

「これからはポケットにおかしいれるようにするよ」

「……そうですか。いいと思います」

「でも、またおなかすいたらゆうしゃさまがチョコレートくれるかなぁ?」

 無邪気な問いに勇者さんが小さく頷いた気配がしました。

「きっとくれますよ」

「そっかぁ。ふふ、ありがとう、おねえさん。ゆうしゃさまもばいばい!」

 こどもは手を振って去っていきました。ぼくは魔王スマイル(名前はあれですが優しい笑みだと思ってください)でそれに応え、背後で勇者さんもそっと振り返しています。

 走って行く姿が見えなくなるまで手を動かしていた勇者さんは、やがて息をついてぼくから離れました。

「人間はいやです。お礼などいいので近寄らないでほしいです」

 そんなことを言いながら、もらったキャンディーを見て穏やかな色を湛えているのに、彼女は気づいていないのでしょう。

「…………」

 ぼくは勇者さんをじっと見て、ふと思いました。

「……なんですか?」

 ぼくの視線に何事かと問う勇者さん。

「……勇者さんって、こども好きですよね?」

「そっ……んなことありません。きらいです。人間は滅べばいいんです」

「ですが、きみの様子を見ているとそう思ってしま――」

「目がおかしいんじゃないですか。カフネちゃんの力にやられたんじゃないですか。私が一発殴って目を覚まさせてあげましょうか」

 殴ると言いながら大剣に手を伸ばす勇者さん。言動が一致していない。

「カフネの力にやられたのは勇者さんの方じゃないですか」

「うっ……。気がついたらふわふわしていたんですしょうがないじゃないですか」

「カフネに気を許したからですよう。忠告したのに」

「うぐっ……。それは……うううう~……」

 図星ゆえ殴れなくなった勇者さん。

 そう、ぼくはずっと不思議だったのです。

 ぼくが説明しなかったといえ、最初から彼女はカフネに無関心ではありませんでした。

 どこか気にしている様子で、魔族である妖精たちのいたずらも許していた。

 楽園に入ってからはもっと顕著だったと思います。

 たとえ悪意を感じなくても、カフネの性格は勇者さんにとって苦手な部類のはず。

 善意は時に煩わしさになります。

 正直に言って、性質だとわかっていながらもカフネの幼稚でわがままなところにぼくは困っていたのです。幼子を育てる親の気持ちってこうなのかな……と何度思ったかわかりません。

 でも勇者さんは、困っている様子はあったものの一度も嫌な顔はしませんでした。

 カフネのすることを受け入れて、受け止めていた。

 それはまるで、小さな妹の面倒を見る姉のようでした。

 きっと、カフネもそれがわかっていたからあの短時間で夢の最深部まで連れて行ったのでしょう。このひとには甘えてもいい。わがままを受け止めてくれる。カフネは信頼を寄せる相手を得たのです。

 妖精を統べる女王。けれど、従える妖精たちは己の魔力によって生み出された夢のひとつ。結局、楽園の中ではひとりぼっちでしかないのです。さみしさ、かなしみ、ぼくへの恨み、怒りを抱え、まやかしの世界で遊び相手を待ち続けた彼女。

 そんな彼女が得たお人形、おともだち、甘えられるお姉さん……。

 どんなにうれしかったでしょうか。

 楽園に閉じ込めたことを後悔はしていません。然るべき対応だったと思います。

 けれど、彼女を哀れに思う心を持ったのも事実。そして、その感情を抱くことができたのは、ぼくが大事なものに気づいたからでした。

「……頻繁に行かれると困りますが、たまにならいいですよ」

「魔王さん……」

「ただし! 必ずぼくも一緒についていきますからね。それと、なるべく夢の最深部には行かないように。今回は夢をひらいてくれたようですが、あの場所は本来、自己が薄まりカフネの夢と溶けて混ざり合い、存在自体が曖昧に――」

「わぁい。またお茶会に行けるんですね。お菓子がおいしかったのでまた食べたいんですよ」

「ぼくの話、聞いてます⁉ それに、あのお菓子は食べても意味ないですよ。お腹にたまりませんから」

「つまり、いくらでも『おいしさ』だけを味わえるってことですね。はっぴーじゃないですか」

「もー! 食いしん坊なんですからぁ!」

 ぼくの心配をよそに、勇者さんは楽しげにこどもからもらったキャンディーを口に放り込みました。

「甘いです」

「苦いよりは甘い方がいいですよ」

「私もそう思います。たとえ幻想だったとしても、ね」

 勇者さんは甘みを感じるように自分の唇に触れ、ふふっと微笑みました。

お読みいただきありがとうございました。

少し不思議な夢の世界、いかがだったでしょうか。気に入った方は、またカフネに会いに来てあげてくださいませ。


勇者「いくらでもお菓子を食べられる世界、なんてすばらしいのでしょう」

魔王「ぼくが買ってあげますから~……」

勇者「あ、昼寝してない!」

魔王「散々寝ていたでしょうに……」

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