240.物語 誰もが知ってるあのひとの話
本日もこんばんは。
サブタイで気づいた方もいるかもしれませんが、魔王さんの過去編になります。
いつもの魔王さんとは違う魔王さんが出てくると思いますので、お楽しみください。
例のごとく、普段のSSとは温度差があるかもしれません。
第230話「ひとりぼっち、ふたりぼっち」とリンクしている場所があるので、お時間ある人は比べながら読んでみてくださいませ。
(注意:軽度の残酷描写があります。苦手な方はお気をつけください)
長さ目安:SS 16本分
“魔王”とは、必要悪です。
世界がうまれた時に創られ、今まで存在し続ける不可欠なもの。
魔王という存在が鮮明になった時、最初に刻まれたのは世界にとって『悪である』ことでした。
世界に生きるすべてのものにとって敵であることが存在意義。
そして、絶対的な魔の支配者であることが求められる。
それが、“魔王”でした。
ぼくは魔王で、魔王がぼくなのです。それ以上でも以下でもありません。
そうであることを決められ、抗う意味もなかったのでその通りに生きてきました。
しかしまあ、これがつまらないのです。
ぼくの持つ力は、どうやら世界を簡単に滅ぼせるようでした。
やってみたことはありません。けれど、解るのです。
自分の中にある力は、まったくもってこの世界に適したものではないということが。
まるで、幼子が思うがままに創り上げた最強の生物のようでした。
思いつく限りの強さや驚きを詰め込んで創られたお人形。
最初のぼくは形のない何かでした。
いい機会です。ぼくの始まりの話でもしましょう。
――おっと、先に断っておきますね。ぼくが自分のことを『ぼく』と呼ぶようになったのは、ここからずいぶん先の話です。けれど、一人称がないとわかりにくいですよね。自分のことを『魔王』と呼ぶのはアレと同じなのでいやですから、ここでは一貫して『ぼく』と呼びます。
さて、ぼくの始まりの話でしたね。最初、ぼくはただの魔力の塊でした。それはそれは大きすぎる魔力。世界にとって悪でしかなく、当然のように災害をもたらす存在です。
形がないといっても、魔力としての存在はありますから、そうですねぇ、強いていうならば靄でしょうか。決まった形を持たず、絶えず魔力が動き続ける曖昧な靄。
自我というものがあったかどうかも定かではありません。
そうあるべき、そうするべき。なぜか理解できる果たさねばならぬことを勝手に行う魔力でした。
ぼくがうまれた時、世界にはまだ何もなかったと思います。
少しずつ、少しずつ、神様は世界を創っていった。ぼくはその様子を見ていたようにも思います。見ていなかったようにも思います。存在自体が曖昧だったぼくには明確な記憶は残っていません。
ゆえに、神様が『やあ』とやってくるまで、どれほどの時間を過ごしたかどうかもわかりません。
それは、ぼくに語りかけてきました。
『はじめまして』
言葉の意味はわかりました。どうするべきかはわかりませんでした。
『しゃべれるはずだよ。そう決めた』
そう言われても、よくわからない。黙ったままのぼくに、神様はため息をついたようでした。
『仕方ないなぁ、よく見てて』
すると、ぼくの視界に不思議な形の何かが現れたのです。
『どう? 人間の姿だよ』
人間、とは。
『この世界に生きる動物の一種でね、簡単に言うと君の敵』
神様は、ここが目でここが口、腕、足……と説明しました。
『この形で落ち着く前は別の形だったんだけど、これが一番いいと思わない? 神様のセンス、光ってる~』
そう言って、神様は腕を動かし目を閉じ、舌を出しました。
『君もそろそろ、形を得たらどう? 神様のおすすめは人型かな。口があるからしゃべってるって感じするし』
何も言わないぼくに、神様は手を叩きました。
『さて、世界も出来上がってきたことだし、君にも働いてもらうよ。“外”に出ようか』
次の瞬間、ぼくは見知らぬ場所にいました。そもそも、今までどこにいたのかもわかりません。この世界であり、この世界ではない場所のように思います。
空があり、大地があり、川があり、木々があり……。
知らないはずなのに知っている。見たことがないはずなのに理解できる。
『初期設定ってやつだよ。君はどちらかというと、“こちら側”の存在だから』
こちら側。その意味も、わからないはずなのに理解していました。
『さてと、始めようか。よろしくね、魔王』
「……ま、おう……」
――魔王。神様はぼくのことをそう呼びました。これより以前から、ここより果てなき時まで、あらゆるものから呼ばれることになる名前でした。
神様はまず、『形は大事だよね』と魔王城なるものを創りました。
『それっぽく創っておくから、あとは好きにカスタマイズしていいよ』
神様が指し示したのは一階の玉座。『ぽいだろう?』
ぽい、とは何がでしょうか。神様が笑っていますが、笑みの理由はわかりません。
『君はここで、魔王としての使命を果たすのさ。幾千、幾万、幾億の時を魔王として』
「……魔王としての、使命」
どこから出ているのか不明ですが、声らしきものが出ているのを感じていました。神様を真似てやってみたのです。声にしなくても伝わりますが、神様がしゃべってみろと催促するのでやっているのです。
『簡単なことさ。魔王は世界を恐怖に陥れる絶対的な支配者。厄災としてこの世界にあり、すべての悪意の根源であればいい。そして、最も重要な役目が……』
神様は玉座に勢いよく座ると、広い空間に漂うぼくを見つめました。
『勇者を殺すことさ』
「……勇者」
まだ知らない存在でした。うんうんと頷く神様は、『とりあえずやってみればいいよ。何事も経験だからね』と言い残して消えました。
言うだけ言って消えるなど、勝手なひとです。
「…………」
ぽつんと取り残されたぼくは、やるべきことがわかっていました。
己の中に説明書でもあるみたいです。
ぼくは、そこからしばらく、ただ意味もなく本能のままに世界を荒らしました。
生きとし生けるものの命を奪い、どこまでも続く地を荒らし、自然災害を引き起こしました。
はたからみたら破壊神でしょう。けれど、そうしろと言われるのです。そうあれと聴こえるのです。つまりこれが、存在意義ということでしょう。
この時代のぼくは、同じことをひたすら繰り返していたのでおもしろい存在ではありません。誰かの、何かの物語を終わらせ続けるだけの時間。その間、ぼくの物語は停滞しているといってもよいでしょう。
ですから、時計の針を大きく動かすとしましょう。
数多の文明が築かれ、ぼくが壊し、築かれ、壊し……。新たな生物が生まれ、ぼくが殺し、生まれ、殺し……。
機械のように殺戮と破壊を繰り返して、どれだけの時が過ぎたのかも知らぬある日。
『やあ、魔王っぽくていいね』
神様がぼくの前にいました。時間が経っていることはわかりますが、気にしていないので何年振りなのかわかりません。
『いい感じに自我も意思もあるようだし……順調順調』
これ見よがしに大きく頷きます。
『君は気づいているかい? 魔王としてあるべきことを果たしているおかげで、世界は魔王の存在を正しく確立した。人間の魂には魔王への恐怖が刻まれ、彼らは世界が望んだ形で続いている。創られた世界は正常に動作し、着実に悪意は広がっている。だから、感じるだろう? この世界に膨張し、浸透していく魔の気配を』
言いたいことはわかりました。神様の言う魔の気配。世界に蔓延るすべての悪の根源であり、還るべき場所。そこから広がるは魔なるもの。人間たちが魔族や魔物と呼んでいるものたちでした。それらはすべて、魔王であるぼくへの恐怖や憎悪から生まれ、形成されたものです。
人間が息をし、食事をし、眠り、死んでいくのと同じように、ぼくが壊してきた結果でした。
『予想通りというか、さすがというか、悪意は留まることを知らないようでね。このままだと世界が潰れちゃうからもうひとつ世界を創ったよ。そっちは君にあげる。なんてったって、君のがんばりがあってこそだからね』
そう言って神様が教えてきたのは魔界の存在。人間界と結びついている魔なるものたちの世界。
『人間は行けないから安心して。多くなった魔を置いておく収納スペースだと思ってくれればいいよ。とはいえ、かなり大きくて強い世界だからさ、一発でドーンってわけにもいかないだろう? 失敗したら怒られちゃうし。だから神様、人間界で小さめの実験をやったんだよ。疑似魔界ってやつ? うまくいったから自分で壊すのもったいなくてさ、気が向いたら壊しといてよ』
魔界も魔なるものも、ぼくには動かずとも感知できていました。
ですが、それらはぼくの意思とは関係なく生き、動き、死んでいるようでした。
どうやら、人間はとても弱い生き物のようです。少しの魔力で構成された魔物にすら殺され、あっけなく死んでしまう。ぼくに敵わないのはわかりますが、あまりに弱い。
弱いですが、生命力は強いようでした。
ぼくにも魔族にも魔物にも殺されては、またどこからか現れて文明をつくる。
消しても消しても出てくるので、一時期同じ人かと思ったほどです。
加えて、あっという間に死んでしまう。ぼくが何もしなくても、気がつくと死んでいます。
どうやら、寿命というものが関係しているようでした。
ぼくには時間の概念がありません。生死の概念もありません。
神様が『百年過ぎたよ』とか『千五百年くらいそこから動いていないけど』とか言ってこなければ、そうだと気づきませんでした。
人間はぼくとは異なる概念を持ち、生きていました。
ふと気がつけば文明が変わり、人間の生活も変わっていく。その間に何人の人間が死に、生まれ、死にを繰り返していたか数えていられませんでした。
ぼくが何もしなくても人間は死んでいく。魔王として存在が確立されたいま、まだ世界を壊す意味があるのかと思いました。
『あるよ。君が魔王である限りはね』
神様はいつもそう言い、ぼくもそうなのだろうと思いました。
魔王は存在し続ける必要がある。なにがあろうとも。
『君が魔王であることで世界は回る。おめでとう、新たな物語が始まるよ』
神様は笑みを浮かべて消えました。
ふと、世界に何かがうまれたのを感じます。これまでとは異なるもの。明確に感じます。
これは、“こちら側”のもの。
ぼくはそれを求めました。何かもわからぬそれを求め、ただじっと待っていました。
やがて、その時は来たのです。
玉座の前にやってきたひとりの人間。小さな体に布をまとい、真っ直ぐこちらに歩いてくる。
布……いえ、服でしたね。人間がまとうものです。
ずいぶんひらひらとしていますが、どういう機能があるのでしょう。首から下げているあれはネックレスと呼ばれる物だったはず。一緒についている形には見覚えがあるような、ないような。
一瞬で捻りつぶせるくらい小柄な少女は、形なきぼくの前で凛と立っています。
すっと顔を上げ、躊躇いなくぼくを見てきた目。それを見た瞬間、ぼくの世界に情報が流れ込んできました。
それは、目の前にいる人間が生まれてからここに来るまでの記録。
どう生きてきたか、何をしてきたか、そのすべての情報が瞬時に受け渡されました。
……ああ、『すべて』というと語弊がありますね。
記録はダイジェスト。まるでこれまでの人生を一本の映画にしたようなものです。
だから、とてもとても細かいところはわかりません。彼らが心の中で抱いたこともわかりません。あくまで外側からの情報だけ。
それでも、彼女の人生を追体験したような気分になりました。
これは一体なんでしょうか。
情報の真意が掴めずいると、その人間はぼくを見て口を開きました。
「はじめまして、魔王。わたくしは勇者。あなたを倒す者です」
……勇者。神様が言っていた存在。ああ、それがついに。
「わたくしは聖女として人々の安寧を祈り続けてきました。その祈りが通じたのでしょう。わたくしは神より天啓を得たのです。勇者となり魔王を討伐せよ、と」
少女、聖女、いえ、勇者は一度言葉を切りました。
「教えてください、魔王よ。なぜあなたは人々を傷つけ、世界を壊そうとするのですか」
なぜ? それはぼくが魔王だから。他に理由があるのでしょうか。
「大切な人はいないのですか。守りたいものはないのですか。あなたを動かすものは何なのですか」
彼女は何を言っているのでしょう。ぼくに何を求めているのでしょう。
「魔王、あなたの世界に色はありますか?」
……色?
「目を見張るような美しい色はありますか。得難い輝きをもった色はありますか」
勇者は問い続けます。色。存在は知っています。けれど、それだと認識した記憶はありません。世界はすべて同じでした。空や海、川、森、花、人間たち、魔なるものたち、すべて同じです。違いなどない。
「……あなたは、とても悲しいひとですね」
勇者は両目から水を流していました。ああ、違います。あれは涙というものですね。
涙はたしか、ええと、どういう時に出てくるものだったでしょうか。
なぜ、彼女は泣いているのでしょうか。
「叶うならば、魔王よ。大切なものを見つけるのです。得難きものを知るのです。さすれば、あなたの世界に色がうまれるでしょう。己の命を懸けて守りたいと思うものと出逢えるでしょう。今はわからなくとも、わたくしの使命をもって知らしめましょう」
勇者は腰から剣を抜きました。細く鋭い尖った剣。人間がレイピアと呼ぶ細剣です。
優雅に舞う服には到底似合わぬそれを、真っ直ぐぼくに向けました。
「剣が役目を終え、杖として使って人々から笑われてしまうような世界を平和と呼ぶのでしょう。争いのない世界。穏やかであたたかい世界。それを勝ち取るため、わたくしは剣を取る。勇者として、この争いが世界で最後になることを祈り、わたくしは戦うのです!」
勇者は深く強い声で告げ、レイピアを手に走ってきました。
ぼくには、彼女の言っている言葉の意味がわかりません。涙の理由もわかりません。
ただひとつわかること。ぼくは勇者を殺さねばならないということ。
そう思った時、ぼくは魔法を発動していました。
ほんのわずかな出来事だったでしょう。床を蹴る足音が止み、刹那の静寂が訪れたのは。
ぼくを殺すべく剣を取った勇者は、四方から伸びる光柱に貫かれ、一階中央で静止していました。かすかに、息がもれる音と血を吐く音が聴こえます。
震える手からレイピアが落ち、高い音を奏でました。一切の汚れがなかった剣身は、彼女の体から流れ出るもので染まっていきます。
衝撃で浮いたままの体は貫かれた状態でかたまり、彼女の呼吸も止まろうとしていました。
ぼくは動かず、何も感じず、何も思わず、それを見ていました。
指を伝い、靴を伝い、服を染め、体を染め、流れていくもの。
それとは別に、彼女の瞳から流れるもの。
勇者といえど人間。あとほんの数秒で死ぬでしょう。
神様が言っていた存在だからなにかと思いましたが、たいしたものではありませんでした。
ぼくの物語にかけらも影響のない存在でした。
興味もありません。
今際の際の勇者を見ることもやめようとした時、彼女の口がわずかに動こうとしていることに気づきました。
「……かわい、そう……に……」
かわいそう? 一体なにが。誰が。
その時、途切れ途切れの声が耳に届きました。またなにか言っている? 違う。これは歌というものでしょうか。人間が声を使って作るもの。もはや歌とはいえないかすれた音が彼女の口から命とともに流れていく。
ぼくはこれを知っている。いえ、見た。彼女の記録の中で歌っているのを見たのです。
誰もいない場所で、暗闇で、人間たちの前で、明るい教会で、彼女が幾度も口ずさんできた歌。穏やかな旋律に優しい言葉を乗せている歌。
なぜ、いま歌っているのでしょう。この死の間際になぜ。
問おうとして目をやると、すでに瞼も唇もかたく閉じられ、二度と開くことはありませんでした。
力なく垂れる腕から滴るものは止まらず、応えるものがいなくなった空間に小さな音を響かせ続けます。
「ぼくが、かわいそう?」
こぼした問いかけに答えはなく、返答を求めて近寄った勇者の瞳は沈黙を貫いたまま。
わからない。彼女の問いの意味も、言葉の意味も、歌の意味も。
ぼくはただ、魔王としての使命を果たしただけ。では彼女は、何を成したというのでしょう。
ぼくは答えがわからないまま、冷たくなっていく勇者を見つめました。
同じようになればわかるのでしょうか。ぼくがそちらに行けばわかるのでしょうか。
どうすれば、渦巻く何かが消えるのでしょうか。
答えを教えてくれそうな勇者は死に、ぼくに言葉を投げかけるものはいませんでした。
あるかもわからぬ答えを求めるように、ぼくは血だまりに転がるレイピアを拾いました。
〇
それから、ぼくの元へは『勇者』が訪れるようになりました。
何人も、何人も、何人も、訪れてはぼくに刃を向け、死んでいきました。
生まれも性別も年齢も仕事も様々で、実に多種多様な勇者たち。
けれど、共通することがありました。
まず、魔王城にやってきた勇者を見た瞬間、彼らの記録をすべて見ること。
気まぐれでやってきた神様から聞いた話では、そういうシステムにしたのだとか。
理由はわかりませんが、神様のやることです。どうせ大した理由もないのでしょう。
『これから殺す相手のことは知っておいた方がいいと思って』
理屈は不明です。殺すなら何も知らなくてもいいと思いますが、ぼくにはどうでもいいことでした。
次に、彼らはみな『勇者として』生きていること。
愛する人のため、家族を守るため、村を守るため、英雄になるため、名を遺すため、忘れないでいてほしいから、理由は人によって違いました。けれど、その後に続くのは決まって『自分は勇者だから』という言葉。
勇者だから魔王を倒す。勇者だから人間を守る。勇者だから――。
ぼくも同じなのでしょうか。魔王だから、勇者を殺し、恐怖をもたらし、厄災となる。
今までしてきたことと同じなのに、なぜかとても不思議でした。だって彼らは別の人間です。時代も場所も違うところで生まれて生きてきた他人同士です。
どうしてそこまで同じ理由を叫ぶのでしょうか。
ぼくの中に小さな疑問がうまれていました。答えを求めて勇者に問います。
なぜ勇者として生きるのか、と。
不思議そうな顔をする者、困惑して黙る者、唖然とした表情を浮かべる者、思わず笑った者。けれど、答えを出した者はみな同じことを言いました。
神様にそうあれと言われたから、と。そして、自分もそうあるべきだと思ったから、と。
不思議でした。わかりませんでした。
謎は深まるばかりで、ぼくはやはり勇者の命を奪うだけでした。
定期的にやってくる勇者がいない時、ぼくはずっと考え続けました。彼らの言葉の意味やまなざしを。
大切なもの。愛するもの。彼らが命を懸けた理由。
知りたい、と思いました。それが何なのか見て、聞いて、触れて、目の当たりにしたいと思いました。だからぼくは――。
魔王城を飛び出し、人間界を見る旅に出ました。
勇者が来る時だけ魔王城に戻り、あとの時間はすべて人間界を観察することに費やしました。何年も、何年も、何年も、ただずっと見守ったのです。
人間の寿命はぼくが思っているよりずっと短く、儚いものでした。
瞬きする間に終わっているのです。驚いて視線に力を込めた回数は数えきれません。
誰かの命が始まり、終わるまで。人生と呼ばれる流れを見て、見て、見て。
生きるために使う道具でも命を落とし、風邪をこじらせるだけも死に、自分の命を犠牲にしてまで誰かを守って消えていく。
とても不思議な生き物だと思いました。とてもとても長い時間、人間を見ているうちに、不思議という感情が別のものに変わっていっているのを感じました。
すぐに死んでしまうのに必死に生きて。
生き返ることもないのに命を使って。
なんて愚かなのでしょう。ですが、ずっと見ていたい。彼らの生きていく様子を見守りたい。誰にも何にも邪魔してほしくない。できることならぼくが守ってしまいたい、と。
……いつしか、世界に色があることに気がつきました。
青色が青色であること、赤色が赤色であること。青色でも一色ではないこと。世界はあまりに多くの色に染まっていること。
今まで見てきたもののはずなのに、色があることでまったく別の世界に見えました。
うつくしい、と思いました。これが色なのですね。
ぼくの世界に色がうまれたある日のことです。誕生してから見ていた少女が大人になり、出産する場面を見ました。命が繋がる瞬間です。あれだけ何も思わずに奪ってきた命なのに、この時のぼくにはとてもすばらしいものに思えました。
うれしそうな女性、うれしそうな男性、泣き声をあげる赤子。
ああ、よかったですね。すてきですね。
ぼくにとっては、ほんの一瞬の出来事でも、彼らにとっては違う。これから三人で生きていく、そのスタート地点。
ぼくは、ぼくの中にあたたかいものを感じました。それを表現する言葉が何かはわかりませんが、悪い気分はしませんでした。
きみたちの物語の続きを見せてください。そう思った時でした。
何やら騒がしい人の声とけたたましい悲鳴。柔らかな笑みを浮かべていた彼らの顔から喜びが消え、みるみるうちに恐怖に染まっていきます。その顔は、ぼくが作り続けた顔でした。
部屋を壊しながら侵入してきた魔物は、ベッドの上の母子に襲い掛かります。とっさに前に出た父はあっという間に切り裂かれ、肉片が母に引っかかりました。涙を流す間もなく惨劇に晒された母は、生まれたばかりの我が子に覆いかぶさります。魔物は、小さく丸まった親子ごと血の海に変えました。鮮血が飛び散った室内に無数の肉塊が転がります。いくつかに分かれてしまった母だった肉から、さらに小さくなったものが見えました。
ぼくにとっても、彼らにとっても、瞬く間の出来事でした。
命が消えた。当然のように。
いま見た光景も事実も、ぼくがこれまで幾度となくしてきたことです。何も変わらない出来事です。それなのに、どうしてこんなに……。こんなに、どこかが痛いのでしょう。
……痛い? ぼくが?
人間のように老いることもなく死ぬこともないぼくが痛い?
ぐるぐると渦巻く知らない何かが全身に広がり、ぼくは力を制御できずに放出していました。何も見たくなかった。ああ、どうして。なぜ。なにが。ああ、なにもわからない。
気がつけば、見守っていた村はありませんでした。彼らを襲った魔物ごと消し去っていたようです。ただの肉塊になった彼らも、繋いできた歴史も命もなにもかも、ぼくはなかったことにしていました。
虚無が広がるその場所は冷たく、ぼくはぼうっとする頭で魔王城に帰ってきました
魔物の行動に意味はないでしょう。本能のままに動いた結果があれなのでしょう。ぼくだってそうでした。不思議に思ったことすらない。けれど、もう――。
ぼくはまた、答えのわからぬ問いを抱いたまま時を過ごしました。人間を見て、見て、見て。彼らが生きて、死んでいく様子を見続けて。
勇者と出逢い、戦い、殺し……。同じことを繰り返してぼくは思いました。
どうしてぼくは、人間を殺して勇者を殺して世界を苦しめているのでしょう。
もう魔族や魔物が跋扈する世界になりました。ぼくがやらずとも悪意や悲嘆は絶えません。それならもう、ぼくでなくたって。何もしなくたっていいのではないでしょうか。
傷つけ続けた時代はもうたくさん見ました。ぼくがたくさん作ってきました。
それなら、これからは、別の道を……。手を差し伸べる道を……。
「…………」
ぼくは、形のない姿をやめようと思いました。手を取り合うためには手が必要です。彼らと会話するためには口が必要です。歩み寄るには足が必要です。
人間の姿が必要です。
形を創ろうとした時、ぼくの脳裏にひとりの人間の姿が思い浮かびました。
彼女を真似て姿を変えていきます。すらっとした指。細い体。ひらひらと舞う服。長い髪。
あとは……色。彼女の瞳は何色だったでしょうか。
思い出そうとしても出てくるのは固く閉じられた瞳だけ。願っても開かない冷たい体。
ああ、どうしましょう。どうしたらよいのですか。きみの色がわからない。教えてください、目を開けてください。
けれど、記憶の中の彼女は決して動くことはありません。
答えを求めて見上げた空はどこまでも広く、青い。
きれいな色だと思いました。
この色がうつくしいと思えるようになれたことがうれしい。きれいだと感じられる心を持てたことが幸せだと、伝えようにも彼女は死んだ。ぼくが殺した。
赤い目をした魔なるものたちは今日も世界を悪意で満たしている。彼らの頂点に立つぼくは、別の道を歩もうとしている。違う色を望もうとしているのです。
かつての世界から目を閉じ、次に開いた時、ぼくの瞳はどこまでも澄んだ青をしていました。
これがぼくの望みです。願いの色です。魔王でありながらなんと滑稽なことでしょう。
けれど、魔王ですから好きなようにします。呆れるくらい愚かな願いを抱いて生きていくとしましょう。
玉座の間以外はほとんど使った記憶のない魔王城。数え切れないほどの部屋の中に、誰かが置いて行った物が散乱する場所がありました。散らかしたのはぼくかもしれませんね。あいにく記憶がないもので。
見覚えのない物たちをかき分けて進み、一番奥に立てかけられた古びた剣。
遠い遠い昔にやってきた彼女のレイピア。
ぼくは力を使い、剣をかつての状態に戻すと腰に挿しました。これを使うことのない世界。それは争いのない平和な世界と同義。理不尽な悪意に晒されて命を奪われることのない世界のはず。
今までぼくがつくり、今まさにぼくが否定しようとしている世界でした。
「きみの出番がない世界。一緒に見に行きましょう」
ぼくは沈黙を貫くレイピアに向かってつぶやきました。
その日より、ぼくは様々な人間の姿になって人間社会に入るようになりました。
もっと近くで彼らのことを知りたいと思ったのです。これまでのように上から見守ったり、コミュニティに溶け込んだり。
歳を取らないぼくは怪しまれないよう、定期的に世界を移動しました。
変化して老化することもできましたが、どうにも時間感覚が掴めず年齢不詳の人物になってしまいがちなのです。
人間の生活を真似、経験し、学習する。便利だったのはアルバイトですね。
彼らの仕事を体験できるよい機会でした。やっているうちに楽しくなり、ぼくはいろいろな職に手を付けたと思います。使い道がないのでお金は貯まる一方でしたが。
その間、やってくる勇者とは手を取り合おうと努力しました。人間社会で学んだ方法で親睦を深めようとしたり、考えつく限りでもてなそうとしたり。
けれど、どれも不発でした。
「勇者と魔王が手を取り合う? バカなこと言うな」
「……悪いけど、罠としか思えない」
「魔族に家族を殺されているんだ。仲良くできるわけないだろう」
そんな風に言われました。当然のことだと思います。ぼくがこれまでしてきたことを考えれば、怪しいと思って当たり前です。何か裏があると勘ぐるでしょう。
……でも、違うのです。ほんとうに仲良くしたいだけ。殺し合いたくないだけ。争いたくないだけです。
また、長い時が過ぎていきました。ぼくの言葉を信じる者も手を取ろうとする者も現れず。けれど、諦めることはできません。
一度抱いてしまった願いは簡単に捨てることはできないのです。魔王らしくないとしても。
世界に抵抗し続け、ぼくの往生際の悪さに辟易したのでしょうか。やがてその時はやってきました。
ある日、魔王城にやってきた若い男の勇者は言いました。
「愛する人のために魔王を倒す」と。ぼくは言いました。
「愛する人がいるのなら、ぼくと手を取り合って平和的に解決しませんか」と。
「平和的解決……?」
「ぼくは争いを望みません。勇者を倒すつもりもありません。世界に蔓延る魔なるものは、今やぼくの支配を超えて活動しています。勇者さんは魔物から人々や村を守り、ぼくはここからできる限り世界を守る。いかがですか? 悪い提案ではないと思いますよ」
何度も話してきた内容ですが、頷いた人はひとりもいませんでした。けれど、今回の勇者はあからさまに揺らいだ表情で剣を下げます。
「……死にたくないんだ。家族のところに帰りたい。でも、勇者だから……」
「大切な人がいるのはすばらしいことです。死にたくないなら帰りなさい。勇者さんが平和に生き、平和に死んでいくことをぼくも望んでいます」
「ほんとうにいいのか……?」
「はい。きみがよければ」
「ああ……」
勇者さんは安堵した様子で剣を仕舞いました。すまない、感謝する、と。
ぼくは玉座に座ったまま、一度も争うことなく勇者さんの姿を見送りました。
魔王城から気配が消えるのを感じると、思わず息を吐きました。
やった。やっとできた。争いのない勇者と魔王が生まれた。殺さないで済んだ。
ぼくが死ねば魔なるものもすべて消えますが、あいにく死ねないのでこうするしかありませんでした。魔王ですが魔族魔物も人間も殺してきたぼくです。今さらちょっとくらい魔物を倒したところでなんだというのでしょう。邪魔だから消したら人間に益が出てしまった。うん、それでいきましょう。
ぼくは平和的に解決した勇者さんの一生を見守りました。
時にはバレないように魔物を消したり、こどものおつかいを後ろから観察したり。
勇者さんの家族が不条理な死に直面することのないよう、ぼくは眺め続けました。
そして、あっという間に勇者さんは死にました。寿命でした。
成長したこどもに手を握られ、笑顔を浮かべて永遠の眠りについたのです。
ぼくが求めていた物語がそこにはありました。そう、これでいい。世界はこうあるべきです。穏やかで平和で優しい物語が――。
けれど、世界はいつでもぼくに優しくないようです。……ぼくが優しくなかったことを見せつけるように。
勇者さんが死んだ直後、ぼくは“この世にあってはならないもの”がうまれたのを感じました。魔力の塊であるぼくには魂がありません。それなのに、魂を揺さぶられるような衝撃を感じたのです。
世界が変わった。確実に。しかも、悪い方に。ぼくの願いとは逆方向に。
今日も変わらず青い色を広げる空を見上げますが、その正体が何かはわかりませんでした。ざわつく胸をどうすることもできないまま、ぼくはその場をあとにしました。
ぼくの過ちは存外すぐに突きつけられることになりました。
これは、優しい死を迎えた勇者の次にやってきた勇者の話です。
まだ幼さの残る顔をした少女の勇者は、五人の魔法使いや魔女を従えてぼくの前にきました。
勇者パーティーとやらでしょう。最近増えたんですよね、こういう人たち。
神様から聞いた話では、推奨している方法なのだそうです。
『世界で仲間を集めて絆を深め、協力して巨悪を倒す。すてきだろう? 誰もが尊敬し、感謝し、その姿を後世に語り継ぐ。おかげで勇者のイメージはさらに確立する。そうして、勇者は正義と平和のシンボルになっていくのさ』
「勇者が強くなればいいのではないでしょうか。彼らは少し弱すぎます」
『世界最強の君が言う?』
「いつもギリギリで魔王城まで来ていますよ。魔なるものから人間を守るならもう少し強くあるべきです」
『勇者が強すぎると困るんだよ。彼らは普通の人間よりすこーし強くあるだけでいい。彼らに求めていることはそれで足りるからね』
そう言いながら、神様は勇者パーティーとやらをすすめるのですね。
『勇者じゃない人間なんて何人いても変わらないけど、信仰を集めるにはうってつけだから』
とはいえ、結局は人間。魔王と対となる勇者の力は効きますが、ただの人間など意味がない。ぼくは殺す数が増えるのでいやでした。手を取り合おうとしてからは、断固拒否の人が必ずいます。いろいろと大変なので、勇者さんひとりでいいのですが……。
計六人の勇者パーティーにどう語り掛けようかと考えていると、勇者の少女が仲間たちに叫びました。
「力を合わせて!」
まるで、かわいらしい一場面のよう。けれど、魔法使いたちが魔力を放出しようとした時に震えたもの。直感でわかりました。
――これはだめ。いけない。絶対にいけない。世界が揺らぐ。
正体不明の焦燥に対応が一瞬遅れたその時。
「あああああああああああああっ‼」
耳をつんざく断末魔が五つ、空間に響き渡りました。驚いた勇者が口々に仲間の名前を叫びますが、彼らに届いている様子はありません。
魔法使いたちの体に眠る魔力が爆発し、何もかもを壊そうと形を変えていきます。
人ならざるものに変貌した彼らは、ぐちゃぐちゃに混ざり合って強く濃い魔力になり、虚ろな目でぼくを見つめました。
この世の悪意を詰め込んだような空気をまとい、それは魔王城から飛び立ちます。
あとに残されたのは、ぼくとへたり込んだ勇者。
破壊された魔王城を見て呆然とし、なんで、どうして、と繰り返しています。
あれを放っておくのはまずい。そう理解していたぼくは彼女に問いかけます。
「一緒に行きますか」
「どこに……?」
「あれはもう、きみの仲間ではありません」
“こちら側”に近い存在です。
「この世界のために壊さなければなりません。さもなくば、あれによって世界は崩壊するでしょう」
「魔王のくせに、何言ってるのよ……」
「あいにく、ぼくは世界を守りたいと思っているので。きみが行かないというのなら、ぼくがひとりであれを倒しますよ」
勇者さんは首を横に振り、涙がこぼれる頬をそのままに真っ直ぐぼくを見ました。
「行くわ。だって彼らは私の仲間なんだもの。私が何かを間違えたってことはわかる。それが何かはまだ……。でも、やるべきことはわかってる。けじめはつけるわ」
ぼくは微笑み、姿を変えました。巨大な白いドラゴンです。
あれのスピードはかなり速い。普通に飛んでは追い付かないでしょう。ならば、飛ぶのに長けたものの力を借りるのです。ドラゴンならば、勇者さんを乗せられますしね。
「乗ってください」
「魔王に頼むのは勇者として間違っているけど、今はそんなこと言っていられないわ。お願い」
ぼくがぽっかりと口を開けた魔王城から飛び立ち、あれを追いました。
じっとりとした強い魔力が航跡のように続き、ぼくたちの行く先を示しています。
翼に掴まる勇者は、ひとりごとのように声をこぼしました。
「……私、弱くて。勇者になるまで生まれた国を出たことすらなくて。使命だからって旅に出たけど、魔物も全然倒せないくらいに弱かった。毎日毎日ケガばかり。怖くて逃げたいと思ったけど、必死に戦う私を見てついて来てくれる人に出会ったの。弱くても誰かを助けられる力があるんだぁって思ったらうれしかったわ。だから、怖くても魔物を倒したり、魔女だからって理由で迫害されて居場所のなかった人に手を差し伸べたりできた。そうすることで、弱い自分にも生きている意味があるって実感できたの。私は、仲間たちがいたからここまで来られた……。なのに、あんなの……どうしてよ……!」
静かに語っていた勇者さんの声は、次第に泣き声に変わりました。
ぼくの背で泣きじゃくる少女にかける言葉がわからず、ただ魔力を追って飛び続けます。
どれほど飛んだでしょうか。勇者さんの泣き声が小さなすすり泣きに変わった頃。
ぼくの眼下にはひとつの国がありました。
身を乗り出して地上を見た勇者さんが驚きで赤くなった目を見開きます。
「わ、私が生まれた国……? どうして……?」
彼女の説明では、かの国の名はエトワテール。ある一定の空間が結界で閉じられ、永遠の夜を保有するなぞの土地に作られた国。常夜の結界と呼ばれるそれがいつ張られたのか、誰に張られたのかは不明。夜が続く土地のため魔なるものの出現も多く、生きていくために結界の技術が発達したという。エトワテールに生まれたものは結界について学習することが義務付けられ、知識を継承することが求められる。
そして、エトワテール最大の特徴が夜空を覆い尽くす満天の星。
結界によって安全性が確保された国には世界から観光客が訪れ、世界で最も美しい星空と称されるほどだという。
その国の星は、いま。
「う、そ……。噓でしょう……?」
上空からでもわかる未曾有の大厄災がエトワテールを覆い尽くしていました。
「はやく……! はやく行かなきゃ!」
飛び降りようとする勇者さんを制止し、ぼくは一直線に国に降り立ちました。
鮮明になった惨状は目を疑うものでした。
空から降り注ぐ星々は冷たい輝きをまとったまま地をえぐり人を潰し国を破壊していきます。どこに逃げても意味はない。落下する星が逃げ場を奪い、命も奪っていく。
跡形もなく消されることを免れた人も、次の瞬間には体に大きな穴をぽっかりとあけて倒れていきます。その様子に驚いた人は頭部を弾かれて表情を失いました。至るところに血が飛び散り、肉片が落ち、欠損した体が散乱しています。なんだろうと思ったものもよく見るとかつて人間だった塵。死体を乗り越えて逃げ惑う人間たちが次々と彼らの仲間入りをしていきます。
轟く音と阿鼻叫喚の光景がそこにはありました。
勇者さんを翼の屋根で守っていると、ドラゴンの姿のぼくを見た人々がさらに悲鳴をあげ、逃げた先で星に塵にされました。
誰かが「魔王だ!」と叫び、その恐怖は伝染していきます。
それはいいですが、今はそんなことより。
「彼らはもっと奥にいるようです。行きましょう」
「で、でも、国の人たちが……!」
「国の人たちを守るために、これ以上命が消えないように、ぼくたちは行かねばならぬのです」
勇者さんは苦しそうに悲鳴が絶えない惨状を見ると、小さく頷きました。
「……わかったわ」
飛び立ったぼくは魔力の最も濃い場所を目指して翼を動かします。途中、上空から見たエトワテールは墜ちる星によって国土の半分以上が破壊されたようでした。思わず目を背ける勇者さん。こらえきれずに流れる涙が風に流されて消えていきます。
「ここです」
彼女の涙が渇く前に到着した場所も、同様に星の被害が濃く出ていました。彼女の仲間だったなにかが靄となり辺りに広がっています。靄が悲鳴のような声を出したと思ったその時、ひときわ強い輝きを持った星が靄に向かって墜ちてきました。
地響きと爆破のような衝撃が辺りに伝わり、地面をえぐります。
「きゃあっ!」
吹き飛んでくる石や砂から勇者さんを守ったぼくは、地に墜ちた星が砕け、飛び散る瞬間を目撃しました。
まばゆい光をまとった欠片は目にも止まらぬ速さで消えていきます。
どこに……と思う暇もなく、怪物と化したそれは暴走状態で魔力を放ちます。それから滲み出る魔力は、ただ命を奪うことだけを目的としているようでした。
曇りなき悪意の塊。どろどろ、ぐちゃぐちゃ、じとじと。混ざり合ってわけがわからなくなった感情と意思は覆い尽くされ、そうあれと指定されたものへと変貌していきます。
それはまるで、いつかのぼくを見ているようでした。
体を震わせて泣き続ける勇者さんは、謝罪の言葉を繰り返し続けています。誰に向けての謝罪かはわかりませんでした。やがて、すっと立ち上がるとぼくを見ます。
ぼくは人の姿に変え、その視線を受けとめました。
「やるべきことを果たします。……勇者として、この国の民として、仲間として、彼らを倒します。……でも、なんとなくわかるわ。あれは倒せない。私にはできない。とても弱いから……」
そこで、勇者さんは力なく笑いました。
「……ふふっ。でもね、私、結界魔法は得意なのよ。教えられた知識が勇者になったことで自分の力になったの。だから、やるわ。彼らを封印する。この悲劇を終わらせるわ」
勇者さんは荒れた地に膝をつき、祈るように両手を握りしめました。
「ねえ、魔王。こんなこと、ほんとは間違っているんだけど……」
「なんでしょうか」
「この国……エトワテールはね、ほんとうにほんとうにきれいな星空があったのよ。こんな悲しい光景じゃなくて、誰もが笑顔になるような、そんな星空が……。だから、どうか、覚えておいてほしいの。世界で最も美しい星空があったことを。悲劇ではなく、輝きを……」
ぼくはしっかり頷きました。
「はい。必ず」
「……ありがとう。もうひとつ、いいかしら」
「ええ」
「私の最期は魔王の手によるものであってほしいの。誰にもわからないかもしれないけれど、エトワテールの悲劇が私の仲間たちのせいになるのは嫌。だって、みんな、この星空のことを……」
ええ、知っています。きれいだと言ってくれたのでしょう。愛してくれたのでしょう。知っていますよ。ぼくはきみの人生も見たのですから。
とてもよい旅、とてもよい仲間たちでしたね。
「彼らのために、私を使ってほしいの。好きにしてくれて構わないから、どうか……」
「わかりました。お引き受けいたします」
「……優しいのね、魔王なのに。ありがとう。感謝するわ」
勇者さんは安心したように微笑み、自身の魔力を一点に集中させました。
命の限りの魔力を使った、強い魔力を土地ごと封じ込める結界。
強力な力に気づいたのか、それは国を揺るがす声をあげると勇者さんめがけて攻撃を飛ばしました。ぼくが弾き返そうとした時、祈りの手から放たれた光に飲み込まれ、それは断末魔をあげて消えていきました。光は上に横に伸び、悪意がしみ込んだ地を封じ込めました。大きな結界です。これほどの結界を人ひとりで張ってしまったら、もう。
「……っうぅ……」
倒れそうになった勇者さんの体を支え、「がんばりましたね」と声をかけます。
「…………」
もう声は出せないようでしたが、彼女は衰弱した顔で笑みを浮かべました。そして、自分の役目は終わったとでも言うように目を閉じます。
「……はい、わかっていますよ」
ぼくは抱きかかえた体をそっと地面に置き、
「……おやすみなさい、勇者さん」
彼女の首をはねました。
〇
「…………」
いつかのエトワテールを思い出しながら、ぼくは魔王城の玉座に座っていました。
あの後、はねた首を民衆の前で晒し、今回の悲劇が魔王によるものだったと告げました。
人々の恐怖を煽るため、降り立った時と同じドラゴンの姿で。
晒された首を見た国民は、青ざめ悲しみ、怒りで震えました。
彼女が勇者であることを知っていたのです。当然ですよね。彼女の生まれ故郷なのですから。口々に叫ばれる言葉を聞いたところによると、彼女は国に祝福されて送り出されたようでした。
我が国から勇者が誕生した。魔王討伐のためにすばらしい仲間たちを得た。
星のように輝かしい功績を喜んでいた彼らは、小さくなった勇者を見て魔王への憎悪を膨らませました。星の悲劇による悲しみが強い怒りに移っていくのを感じたぼくは、首を置いて飛び立ったのです。
これでだいじょうぶでしょう。仲間たちに矛先が向くことはなく、真実は残らない。
ぼくは彼女との約束通り、悲劇を記憶の向こうに押し込んで「世界で最も美しい星空」という情報を記録しました。エトワテールには星空がある。そう思っておけばいい。
……記録の改竄では済まされないことが残っている。
人々が魔王を恐怖し、憎悪するのは当然の理。いつもと同じ結末、そのひとつ。
けれど、ぼくは知っている。勇者さんが連れてきて謎の最後を迎えた魔法使いたちがいたことを。あれらはおかしい。何かが狂っていた。
滑らかに回っていた歯車の向きが突然逆になったように。
「…………あれは一体」
『君のせいだよ?』
気がつくと、窓際に神様が座っていました。不満そうな声で、意地悪そうな顔をして。
「ぼくのせい?」
『あれが世界にうまれたのは君の行動によるものだって言ってるんだよ』
「そもそもあれは何なんですか。今まで感じたものとは違う、別次元のような存在です」
『あれはね、君だよ、魔王』
「…………ぼ、く?」
神様はこれ見よがしに手を広げ、やれやれと首を振りました。
『ちゃんと言ったよね? 魔王にとって最も重要な役目は勇者を殺すことだって。君はそれをしなかった。人間と仲良しごっこして、勇者を殺さずに手を取り合おうとした』
……それの何がいけないのです。
『この世界はね、停滞する魔王と流動する勇者によって回っているんだよ。君たちはいわば、世界を動かす歯車のひとつってことだね』
「歯車……」
『世界が存在する限り、悪意は消えないだろう? だから魔王は死なない。だけど、それだけだと世界はうまく機能しなくてね。神様は勇者を生み出した。“魔王が勇者を殺す”ことで世界のシステムが正常に働くんだよ』
神様の話は世界の外側のものでした。けれど、そんなことはどうでもいい。ぼくは気づいてはいけなかったことに気づこうとしていました。
いやだ。それは絶対に。だってぼくは、もう――。
『君が使命を果たさなかったことでシステムエラーが起きた。魔王が果たすべきことが果たされなかったから、世界は魔王に匹敵する厄災を生み出して補おうとしたんだよ。だからさ、わかるよね? これからの君がすべきこと』
ああ……。ゆるされていないのですね。ぼくはどこまでいっても魔王でなくてはならない。人間を守りたいなら、愛おしいと思うのなら、勇者さんを殺したくないと思うのなら、ぼくは勇者を殺さなくてはならない。そうしなくては、ぼくが守りたいとおもったものがすべて壊される。……世界によって。
魔王であるぼくは何でもできる存在です。けれど、何もできません。あらゆる力が神様によって制限されているから。世界を壊せる力がありながら、世界を守ることは許可されていない。だから守れない。
そんなぼくが唯一できる『守れる方法』。やっと見つけたそれは、“勇者を殺すこと”。
『システムエラーによって生み出された疑似魔王だけどね、一度世界に出現したからには決して消えないよ。呪いは残り続ける。その証拠が例の五人の魔法使いたちさ』
やはり、彼らが……。
『世界に固定されたシステムエラーは巡る命に宿る。つまり人間。呪いは彼らに魔力となって宿る。でもひとつの個体だけだと力が大きすぎて爆発しちゃうから、いくつかに分けられることになった』
「……五人の、魔法使い」
『そういうこと。彼らは内なる呪いに引き寄せられて、世界のどこにいようがいつかは一つに集まる。その時が、厄災の目覚めってわけ』
神様の説明を聞くたびに胸が痛い。彼女の仲間は呪いによって引き寄せられたというのでしょうか。……いいえ、そうだとしても、彼らにはたしかに絆があった。きっと……。
『システムエラーにより生み出された厄災の名は“五芒星”。魔王の愚かな過ちで呪いを受けることになった哀れな五人の人間の名前さ』
「五芒星……」
『神様のネーミングセンスどう? 褒めていいよ』
何も言う気になれませんでした。この世界に新たな悪意が生まれてしまった。ぼくの願いのせいで……。
『五芒星が集まる前に殺せば問題ないから、勇者殺害と並行してよろしくね』
「…………」
うなだれるぼくに、神様は大きくため息をつきました。
『まったく、魔王のどうしようもなさに天使も言葉を失ってるよ?』
……天使?
『ねえ? 君も何か言ってやってよ』
するりと窓から降りた神様の後ろに、真っ白な人物が立っていました。
いえ、違う。浮いている。幾多にも重なる白い羽。透き通るような白い髪。ぼくを見つめる悲しげな瞳――。
「……な、んで、きみが……」
『なに驚いてんのさ。ただの天使じゃんか』
「……うそ。うそですよ。だって人間は死んだら魂になるのでしょう。生まれ変わる循環の流れに還るのでしょう。なのになぜ、きみがここにいるのですか……! はるか遠い昔にぼくが殺したきみが、どうして⁉」
『怒ってるの? なんで?』
怒っている? ぼくが? なにに? わかりません。ただ、抑えきれない心が波打ち明確な拒絶を示しているのです。これはなに。どういうことです。どうして。
『再利用だよ』
「再、利用……」
『世界のシステムに介入する勇者の魂ってね、他の人間の魂と同じように巡らせることができなくなるんだよ。だからって消滅させるのもアレだから、こうして再利用してるのさ。勇者として生きた魂はこちら寄りだから、使い勝手がよくってね』
巡らせることができない? では、彼らは、勇者になった人間は二度と……。
『生まれ変わることはないよ。彼らはこことは違う次元の存在になって生き続ける。あ、生きるって表現もおかしいか。生死の概念はないから』
「なんで……こんな……」
『どうして君が嘆くのさ。君には関係のない場所の話だろう? ただ魔王としての役目を全うすればいい。その役目は天使たちに何ら影響はないんだから』
そう、関係のない話です。彼らが死んだ先のことなど、ぼくにはどうしようもないことです。それなのに、どうしてこんなに胸が苦しい。いつか、勇者が言っていたことを思い出しました。
「私が死ぬことは悲劇じゃない。生まれ変わってまた逢えるから」
愛する人を故郷に残してやってきた勇者はそう言って消えていった。最後まで来世の再会を信じていた。
死ぬことのないぼくは、来世とか生まれ変わりとか気にしたことはありません。けれど、希望を抱いて死んでいく彼らのことは羨ましいと思いました。どんな瞬間にも輝きがある。瞬く間の命が巡ることを知っているから、彼らは絶望しなくて済む。
なんでもできるぼくにはできないことでした。
勇者として強制的に運命を変えられた者たち、ぼくに殺される者たち。けれど、また巡り会えるのだから……と信じていた者たち。
彼らは二度と巡らない。祈りは届かない。
ぼくが魔王で、彼らが勇者だったからという理由だけで。
ああ、ぼくはどこまでも悪であるのですね。
「きみは……、きみたちは、知っていたんですか。勇者として生きることは、ぼくに殺される運命にあるということを。決してぼくには勝てないということを」
じっとぼくを見つめる彼女に問います。
答えはわかっていました。彼らは知らない。知っていれば言ったでしょう。絶望したでしょう。きっと意地悪な神様は教えなかったはずです。なぜなら、魔王に殺されなくてはならない勇者が絶望し、使命を果たせないと困るから。人間はいつか死ぬ。それは仕方のないことです。けれど、勇者の結末は捻じ曲げられたものです。抗えぬ力で決められた、たったひとつのおしまい。
決して勝てない相手に剣を向け、大切なものを遺して命を散らす。彼らの物語は彼らの数だけありますが、その終わりはすべて同じ。ぼくの手により下される結末です。
なんて悲しい生き物なのでしょう。
だけど、彼らもぼくも敷かれたレールから出られないことはわかっていました。
――それならば。
殺しましょう、ぼくの手で。愛する人間たちを、勇者さんを。
誰かに奪われるくらいならぼくが殺しましょう。その最後を見届けましょう。
もう迷わない。ぼくは魔王であることを受け入れる。神様に決められた運命からも逃げません。
……いいえ、決められた運命ではありません。ぼくが決めたぼくの物語です。
すべて神様の思い通りになるとしても、これはぼくの意思で決めたのです。
あの時と同じように何も言わない彼女に向け、ぼくは青い目に力を込めました。
「ぼくは魔王。勇者を殺し、世界の悪意を引き受ける者。けれど、かわいそうではありませんよ。ぼくだけの大切なものを見つけましたから。だから、心配しないでください。ぼくはこの世界に負けません」
彼女は初めて笑顔を見せました。慈愛に満ちた柔らかな顔です。ぼくを見る優しい目は、うつくしい赤色に染まっていました。
……そうですか。きみの瞳はそんな色をしていたのですね。
知ることができてよかった。色のない世界に生きるぼくには見えなかった色。
魔なるものたちと同じ赤。けれど、そのどれとも異なるうつくしい色です。
「さようなら、勇者さん。そして、ありがとう」
彼女は頷くように瞳を閉じると淡い光とともに消えていきました。
いつの間にか神様もいなくなっています。ひとり取り残された魔王城で、ぼくは腰に挿したレイピアにそっと触れました。
〇
それからのぼくは、今までと同じように魔王として存在しました。
勇者の最後がぼくの手によるものならばシステムエラーは起きません。だから仲良くしようとすることも変えませんでしたが、やはり難しいようでした。
どうしても争うことになりました。そうなったら仕方ない。ぼくは悲しい心を押し込めて、なるべく苦しまないように命を奪いました。
彼らに勇者の末路を教えることはしませんでした。絶望に打ちひしがれる姿は見たくなかったのです。最後まで気高くあってほしい。信じる勇者のまま生きてほしい。
だからぼくは、だめだと思った時からはイメージ通りの魔王を演じました。それが彼らのためになると信じて。
勇者を殺す以外の時間は人間たちに紛れて過ごすことが多かったです。以前と同じように働いたり、遠くから見守ったり。
けれど、勇者さんを殺してからは少しだけ何も手がつかなくなるので、魔王城や誰もいない場所でぼうっとしました。
少しだけ休憩。少しだけ意識を閉じよう。
運命を受け入れたといっても、喪失感はふつふつと湧いてきます。とても苦しいものでしたが、これが心というのでしょう。ぼくがぼくであることの証明だと思いました。
だから平気です。体を丸めて胸に手を当て、ずきずきと痛む心を感じました。
死なないぼくが生きていると感じられる痛み。
この疼痛が癒されたことはありません。ぼくが知らない世界にはあるのでしょうか。
あるのならば、それはどんな……。
『やあ、魔王。元気? 相変わらず人間の真似事をしているようだけど、飽きない?』
ぼくは神様がきらいのようでした。神様とて、自分の使命を果たしているだけなのでしょうが、あいにく歯車のひとつであるぼくは反抗期のようでした。
目線だけやって答えずにいると、神様はこれまでになく楽しそうに顔を揺らしました。
『この世界に超神様好みの子が生まれたんだ』
神様の好みなどどうでもいいです。
『君も気に入ってくれると思うよ。まだわからないけど、許可が下りたら勇者にしようと思ってるんだ』
勝手にすればいいでしょう。どうせ、ぼくはその子を殺すだけ。結末を与えるだけです。
『教えてあげるから見に行けば? とてもおもしろい物語だから』
結構です。いずれここに来た時にすべてを見ることになるのですから。
『ま、いいよ。近いうちに来るだろうから楽しみにしてて』
そう言って神様は消えました。
最初は何も思いませんでしたが、神様がわざわざそんなことを言いに来たのは初めてです。少しだけ興味が湧きました。
……いえ、待ちましょう。ぼくは魔王。人間とは異なる時間の中で生きています。
少し目を閉じればあっという間にその時はやってくる。
『おーい、寝てるの? 聞いて、今日さ、例の子を勇者にしたんだけど、これが変な子でさぁ。死にたくて仕方ないのに死なずにここまで来ちゃったんだって。そんでもって生きる気力もなければ勇者の使命を果たす気もない。もーだめだめ。おっかしーの』
……なんの用です。帰ってください。
『君は勇者に生きてほしいんだろう? でもこの子は違うよ。君に殺してもらうためにここまでやってくる。それだけが生きる希望だ。死ぬために生きている子。ねえ、魔王。君はどうする?』
……ぼくに殺してもらうことが生きる意味。そんなことがあるのでしょうか。
いえ、神様が言うのならそうなのでしょう。
「その子はいくつなんです」
『興味出た? 歳は十六。本人は知らない情報だけどね』
十六。ぼくからすれば瞬く間ですが、人間にとっては長い時間でしょう。
死にたいと願うその子は一体どのような人生を歩んできたのでしょう。
……今までにない勇者ですね。たしかに、変な子です。
魔王としてのぼくを求める勇者。図らずも知りえないほんとうの使命を果たそうとしている勇者。
ええ、任せてください。必ず叶えてあげましょう。
その後、神様は頻繁にやってきては近況を報告していきました。神様の悪趣味だと思っていた例のシステムを楽しみにしていたぼくは、なるべく聞かないように努めます。
『あの子、ちょっと特別でね。魔王城までの道に観測基地ができたのは知ってる? あそこを抜けるのがすこーし大変になるかもね。へたしたら来られないかも!』
気味の悪い動きで悲しみを表現し、神様は『それじゃあー』と去っていきます。
ほんとうに言うだけ言って帰るんですよね、このひと。
ええと、観測基地でしたっけ。そんなのができたと聞いたことがありますね。
勇者ならば簡単に通れるはずの場所ですが……。
へたしたら来られない、という言葉が気になりました。神様がいれば何らかの方法で解決すると思います。あれの目的は知っての通りですから。
ですが、そうですね。少しだけ手を貸すとしましょう。
なぜなら、こんなにも勇者さんの到着を心待ちにしているぼくは初めてですから。
はやく会いたい。はやくおいで。
ぼくは自分の魔力で魔物をつくり、観測基地で暴れるように指示しました。ぼくの魔力でつくったので勇者さんを傷つけることはありません。そうあるようにつくりましたから。
さあ、これでいいでしょう。待っていますよ、勇者さん。
その後、神様から観測基地を越えられると聞いたぼくは、いつものように歓迎の準備を始めました。魔王城のトラップはある時から撤去してしまいましたし、勝手に入ってくる城内の魔族や魔物はその辺に捨てておきました。
あとはご飯ですね。神様から聞いた情報を利用するのは癪ですが、どうやらここ数日水しか飲んでいないようです。
人間は食事をしないと死んでしまう生き物ですよね。きっとお腹をすかせているでしょう。
ぼくはかつてなく腕によりをかけて料理を作りました。実はぼく、ちょっと不器用なのですが、勇者さんと仲良くなるにはおいしいご飯! と思ってがんばりました。その結果、料理系の腕はかなり上達したと思います。おいしいはずです。
はず、なのは……。お恥ずかしながら、まだ誰にも食べてもらったことがないのです。
次々と出来上がっていく料理をテーブルに並べ、この後やってくる勇者さんのことを考えました。
「今回の勇者さんは食べてくれるでしょうか……」
冷めてしまった料理をひとりで食べるのには慣れました。けれど、一度でいいから一緒に食べてみたい。贅沢を言うならば、おいしい、と……。
理想の未来を想像していると、魔王城の扉が開いたことを感じました。
おっと、いけません。明かりをつけ忘れていました。
足元が暗いと転んでしまいますね。えいっ。こっちですよ~。
さて、勇者さんが玉座の間に来る前に戻らなければ。
ぼくは急いで一階に下り、玉座に座る前に鏡の前で姿を確認します。
後ろ髪よし、前髪よし、服よし、靴よし、レイピアよし、ええと、他には……。
「…………」
ぼくは鏡の中のぼくを見つめ、指を一振りしました。
現れたのは頭上で輝くふたつの光る輪。
魔法で浮かせた輪っかの存在をたしかめ、ぼくは小さく頷きました。
これは戒めです。
今までと違う勇者だからと心が揺らがないための。決して、再び過ちを犯さないための戒め。
死なないぼくには意味のないことかもしれませんが、心が揺らいだらぼくの首を絞めてください。魔王の使命を思い出させる苦しみをください。
その苦しみが勇者にとっての安らぎとなるのだから。
ひとつではなく、ふたつ。
魔王であるぼくと、勇者であるあの子の存在を表すふたつの光輪。
それぞれの使命が果たすべきものを見失うなと誡めるように、ぼくの上から見ていてください。
さあ、その時は来ました。あの子が来る。ぼくに殺してもらうために。
玉座に座ったぼくは背筋を伸ばして目を閉じました。
コツン、と足音が止まるのを感じます。
問いかけられるは何度も聞いた言葉。
「あなたが魔王ですか」
ええ、そうですよ。ぼくがきみを殺す魔王です。
壊さぬようにゆっくり目を開け、その人を見ました。
黒い髪に赤い目。包帯の巻かれた頭。華奢な少女が背負うには大きすぎる剣。
流れ込む彼女の記録。ぼくは見ました。これまでのすべて、この子が死にたいと思うワケを。
ああ、なんて愚かでしょう。死にたいのに生きている。
すべてに諦めたフリをして、己の中にある生存欲から目を逸らす。
幸せになりたい、報われたい。けれど自分はそうあるべきではない。だから否定する。なにもかもを。
自分の不幸と終わりを望みながら、誰かの生を願ってる。
傷つきたくないから傍観者でいようと決めたのに、がんばっている誰かが報われないことには耐えられない。
矛盾が渦巻く感情を抱えて生きるのは辛いでしょう。
だから自分の物語すら拒んだのでしょう。
ぼくは微笑んでいました。
――なんて愚かで、愛おしい。
やっと死ぬ。今日で終わる。なにもかも消えて結末が訪れる。そう思っているきみの望みは叶うでしょう。けれど、少しだけ待ってください。
がんばっている人は相応に報われるべきなのでしょう?
いえ、違いますね。ぼくが彼女を甘やかしたい。
人間なんてあっという間に死んでしまいます。それなら、死ぬ前に楽しくあってもいいのではないでしょうか。
ぼくは魔王。悪いことをするのが性です。
そうですねぇ。死にたくなくなるほど甘やかして、まだ生きていたいと言った勇者さんを殺す方が魔王っぽいと思いませんか?
なんて、誰に言い訳しているのでしょう。ぼくも愚かです。自分の気持ちに素直になればいいのに。
……生きていてほしい。ぼくの隣で。
ここでおしまいはいやです。もっと一緒にいたいと思ってしまったのです。
こんなにもぼくを求めるきみを大切にしたいと思ってしまったのです。
なにより、なんてかわいい子なのでしょう。一目惚れというものがあればこのことを言うのでしょう。抱きしめたい。大切にしたい。渡したいと願っても受け取られることのなかったぼくの愛をすべて贈りたい。
大好きだと思ってしまったのです。
それならもう、道はひとつですよね?
「きみは、勇者ですね」
ぼくに気に入られてしまったかわいそうな勇者さん。
「そのようです。……あなたはずいぶんと、魔王らしくない見た目をしているのですね」
おや、おもしろいことをおっしゃるのですね。
「そういうきみも、ずいぶんと勇者らしくない見た目をしていらっしゃいます」
けれど、とてもかわいらしい。
勇者さんは言いました。「あなたにお願いがあるのです」と。
ええ、知っています。きみはそのためだけに生きてきたのでしょう。
誰も望まない存在である魔王のぼくを求める理由。
聞かせてください、きみの言葉で。
「私を殺してください」
……やっぱりきみはとてもかわいいですね。
「はい、いいですよ」
気持ちが早って体が動いてしましました。いけないいけない。怖がらせないようにしなくては。
ぼくと勇者さんの距離はほんのわずか。近くで見ると小さいですねぇ。こんな小さな命で今まで生きてきたのですか。がんばりましたね、勇者さん。
あんまり儚くて切ないので何もできずに見つめていると、勇者さんはすっと目を閉じました。
おやおやおや……? なんですかなんですか、かわいいですね。
このままぎゅっとしたいところですが、彼女が求めていることは違いますからね。
では、それっぽくしてあげましょう。
ぼくはそっと手を伸ばし、細い首に触れました。一瞬、体が強張るように震えました。
ぼくでなくとも簡単に折ってしまえる首ですね。
どくんどくんと血が流れているのを感じます。死にたいのに怖いのですか?
ご安心を、ぼくなら苦しむ間もなく殺してあげられますから。
けれど――、それは今ではありません。
今か今かと待っている勇者さんの頬に手を添え、彼女がいつ気づくか楽しみに待ちました。
死の時を切望する少女に「勇者さん」と声をかけます。赤い目がすぐそこにありました。
「きみの願いは必ず聞き届けます。お約束します。ですが、その前に、ぼくと勝負をしましょう」
「ぼく……?」
「勇者さんが勝ったら、今すぐにきみの願いを叶えます。けれど、ぼくが勝ったら、その時は……」
「その時は?」
「ぼくのお願いを聞いてください」
「お願い、とは」
「それは、ぼくが勝ったらお教えします。きみが勝てば、知ることのないものですから」
だけどごめんなさい、勇者さん。ぼくは負けてあげるわけにはいかないのです。
ぼくは勇者さんから距離を取りました。
「勝負とは、具体的に何をすればいいのですか」
「簡単ですよ。魔王と勇者。両者が魔王城に集まったならば、することはいつの世もひとつだけ」
ぼくは両手を広げ、これまでと同じように言いました。戦いましょう、と。
まずは魔王と勇者の歴史を繰り広げなくてはいけません。世界に対する演出です。
当てる気もない魔法を派手に創り、彼女に当たらないよう操作します。ぼくは願いを叶えると宣言しました。つまり、勇者さんにとってこの勝負は勝っても負けてもどのみち願いは叶う。それならば、まともに戦う必要はない。だからでしょう。まったくやる気のなさそうな動きで一応避けたり攻撃したりしているだけ。魔王を前にしてこの始末。ほんとうに勇者っぽくありませんねぇ。
内心くすくすと笑っていると、突然勇者さんの動きが変わりました。鋭い動きです。真っ直ぐにぼくに向かって剣を構えています。
ええと、どうしましょうか。ぼくはどうでもいいですが、勇者さんがケガをしたら困ります。
あの剣が邪魔ですね。大きすぎて彼女ごと傷つける。吹っ飛ばしましょう。
そう思い、剣に当てるための攻撃魔法を準備しました。
ところが、ぼくの想像とは違う動きで勇者さんは魔法に飛び込んできたのです。剣を棄てて。
ああ、なんて危険なことをするのですか。捨て身の攻撃なんてケガをするどころでは済みませんよ。
まったくもう、死に急ぐことしかできないんですから。
でも残念。相手が悪かったですね。ぼくは魔王ですよ? こんな終わりは許しません。
ぼくは勇者さんを守るためだと誰かに言い訳をしながら彼女のもとに飛び込みました。
床に打ち付けてケガをさせないように頭を保護し、それとなく衝撃も緩和させます。
わぁい! ぎゅってしちゃいました!
いいですよね、人命救助ですからね!
抱きしめた体は想像以上に細く、加減を間違えたら一瞬で砕け散ってしまいそうなくらい脆いものでした。
それでも、心臓の鼓動は聴こえる。きみは生きているのですね。
ぼくのわがままですが、どうかこの音をもう少しだけ長く鳴らしていてほしいのです。
彼女の頭を丁寧に置き、体を起こしながらぼくはある物を手にします。
困惑している勇者さんに、ぼくは彼女の命を終わらせる役目を賜ったすばらしき短剣を突きつけました。こんな小さな刃がきみの精神安定剤。ここまで来るきみを支えた物。
息をすれば当たってしまうような距離で止めた剣先はぼくにしか見えていません。
けれど、彼女は怖がる様子もなくぼくを見つめました。
「ぼくの勝ちです」
「……まだ生きているのに?」
ここで死なれては困ります。
「相手を殺したら勝ちだとは一言も言っていませんよ?」
「……あなたは魔王なのに」
「魔王だから、殺すも生かすも好きなようにしているんです」
きみは生かす。ぼくのわがままです。
「降参と言ってください」
ぼくの言葉に彼女は迷っているようでした。当然です。ぼくのお願いとやらが何か、彼女は知り得ないのだから。
殺してくれないのではないかと思っているのでしょうか? 繰り返しますが、それはご心配なく。ぼくは必ずきみの願いを叶えます。必ず、です。
やがて、彼女はぽつりと言いました。
「……わかり、ました。降参です」
「わぁい!」
おっと、本気で喜んでしまいました。落ち着いたひとを演じなくては。
……とは言いつつも、ぼくはうれしくてたまりません。
ハッ! そうでした。ご飯の準備ができているのでした。はやくしないと冷めてしまいます。
ぼくのお願いを話す前に、まずは食事といきましょう。
……食べてくれるでしょうか? ええい、物は試しです。
そんな風に意気込んでいたぼくですが、気がつくと勇者さんと一緒にテーブルについていました。若干強引に誘った記憶がありますが、結果オーライです!
食材たちに手を合わせていると、勇者さんがじっと見ていることに気がつきました。
行動の意味をぼくなりに説明したところ、彼女は何とも言えない顔で手を合わせました。
スプーンを持った勇者さんの姿をどきどきしながら眺めます。人様の食事シーンをまじましと見るのはよくないかもしれませんが、今ばかりは許してください。
ぼ、ぼく、こんなに緊張しているのは初めてかもしれません……!
凝視するぼくの視線に気づかないまま、勇者さんは一口スープを飲みました。
やかましい心臓の音が邪魔で聞き逃してはなりません。というか、ぼくに心臓ってあるんですか? これ何の音ですか⁉ えーい、静かにしてください!
自分で自分にケンカしていた時でした。
それは小さな声でした。けれど、はっきり聞こえました。おいしい、と。
……き、聞き間違いではないでしょうか? ぼくの聴覚の異常ではないでしょうか? いま、言いましたよね? おいしいって言ってくれましたよね? ほ、ほんとうに……。
「…………っ‼」
感激のあまり出そうになった声を抑え、ぼくは今日イチ緩んだ頬を感じていました。
……えへへ、えへへ。おいしいですって。ぼくの料理、おいしいそうですよ。
うれしいですねぇ。がんばって作ったかいがありました。今までのことは無駄ではなかったのです。そうです、きっと今日のためにあったのです。
ああ、困りました。とろとろした顔が戻せません。うへへへへ~……。
かなり間抜けな顔をしていたことは認めます。ですから、勇者さんが食べる手を止めた時は驚きました。さ、さすがに顔がやばすぎたのでしょうか⁉
あ、違いますね。こういう時は満腹でしょうか?
食べないのかと訊かれ、ずっと勇者さんを見続けていたことに気がつきます。
……あ、そういえば。
気に障ってしまったかもしれませんが、ぼくはほんとうの気持ちを伝えました。
だって心の底からうれしかったのです。この気持ちは嘘ではありません。
その流れで、つい今までのことも語りました。
さみしい時代は長かったですが、きみのおかげで幸せだ、と。
一緒にご飯を食べること。ただそれだけですが、ぼくにとってはとても難しいことでした。
ぼくの前に勇者さんがいるだけで、今までで一番おいしいと感じられました。味付けも使った食材もいつもと同じなのに不思議なことです。
人間を真似て食事をしてきたぼくですが、この日ほど食べる手が止まらなかったことはないでしょう。今でも思い出す、大切な記録です。
食事を終えたぼくたちは一階に下りました。何度放り出しても戻ってくるめんどうな魔族が片づけをしたいと言うので、勇者さんと鉢合わせないようにしたためです。
長年の夢が叶ったことではっぴーに包まれていたぼくは、一番重要なことが頭からすっぽ抜けていました。
「魔王さん」
はっぴーすぎて緊張感を失い、それっぽく振舞うことも忘れて応えます。
「はい~」
「約束通り、私を殺してください」
…………なんて?
「へ⁉ 殺す⁉」
「魔王さんの願いを叶えましたよ」
「願い……? あっ、一緒にご飯を食べる?」
「そうです」
……な、なんと。勇者さんはぼくのお願いをご飯だと思っていたのですか。たしかに、もったいぶったぼくも悪いですが、ああ、いえ、あんな言い方をすればそう思いますね。全面的にぼくが悪いです、はい。
「ぼく、お願いが何か言ってませんでしたっけ?」
勇者さんはあまり動かない表情をわずかに揺らしました。
「魔王さんのお願いって一体何なんですか」
「知りたいですか~?」
「知って叶えないと私を殺してくれないじゃないですか」
「ええ、そうですね」
魔王であるぼくの勝負云々やお願いなど、勇者であるきみは本来聞く必要はないのです。けれど、当然のように叶えようとしてくれている。ぼくを感情あるひとりとして自然と接している。きみはそういうところですね。悪い子になろうとして演じているだけの、ただのよい子です。まったくもう、かわいらしい。
ずっと大切にしたい。永久を生きるぼくと一緒にきみも生きていてほしい。
できないとわかっています。だってぼくは魔王できみは勇者。終わりのある運命です。
……ならば、その日までともに。
ぼくは手を差し出しました。
「勇者さん、ぼくと一緒に旅をしましょう」
限りある時間を楽しく過ごしましょう。いつか来るその日まで隣にいてくれるだけでいいのです。灰色の世界で生きてきたきみが少しでも『悪くなかった』と思えるような旅を、思い出を、ともに。
勇者さんはぼくの提案に焦りを感じているようでした。
そうですよね。きみは死にたくてここに来たのに、ぼくは突然旅をしようなどと言ってきたのですから。
「旅の終わりはきみが決めて構いません」
ぼくのわがままできみの物語を変えるのですから、当然のことです。
手を取り合うことを望みながら、定められた運命から逃げられずに勇者を殺し続けた。はるか昔、まるで自我のない存在のようだった時からこんにちまで重ねてきた罪により、この手はあまりに血に濡れている。存在自体が血だまりの中にあるようです。
あの日の罪により、きみは自分の手を汚したと思っているのでしょうけれど。
それは違う。きみの手はまだまっさらです。
ぼくの手を握ってしまえば、勇者さんの手も汚れてしまうでしょうか? 答えは否。
無垢な魂は汚れません。悪意に晒され続けてもなお、うつくしいままのきみはうつくしいまま死ぬでしょう。
……ぼくはやはり魔王なのですね。とてもとても悪いことを考えてしまった。
愚かなまでにやさしいきみは、きっとぼくの手を取ってくれる。
どれだけ血にまみれていようと手を伸ばしてくれるでしょう。
「一体あなたに何の得があるというのです……」
呆然としてつぶやく勇者さんに、ぼくはこれでもかと笑顔を浮かべて答えます。
「決まっているじゃないですか。ぼくがきみのことを大好きだからです!」
出逢う前から好きでした。出逢った時から一目惚れでした。
ぼくはきみと出逢うために生まれてきたと思うほどに好きなのです。
他の誰でもないぼくが魔王でよかったと思えたほどに好きなのです。
だから一緒に行きましょう、生きましょう。
想いを力説するぼくに、勇者さんは初めて笑顔を見せてくれました。
うれしかったです。もっと見たい。何度でも笑ってほしいと思いました。
「いいですよ、いきましょう」
「ほんとですか⁉ やったぁ!」
本日何度目かの本気の喜びです。やりました、ぼく!
勇者さんは差し出された手に自分の手を重ねました。握る力に躊躇いは感じられません。
勇者さんの手のぬくもりを感じるように握り返すと、ぼくは勢いよく魔王城を出発しました。
ついに叶ったぼくの夢です。あまりのうれしさに飛び出した先が崖だということを忘れていました。おっとぉ……。
勇者さんと手を繋いだまま落下しましたが、その辺は魔王ですので問題ありません。ちょっと焦りましたけど。
これから始まる旅に胸を躍らせていた時でした。
『ちょいちょいちょーい、なんで仲良くなってんのさぁ』
神様でした。また来たんですか。邪魔ですね。
『話と違うじゃないか。どーゆーこと、魔王』
話と違う? ばかを言わないでください。ぼくは使命を棄てたわけではありません。
「どうもこうも、勇者さんと旅をすることになりまして。いえーい」
ハイタッチです。一度やってみたかったんですよ。
勇者さんはハッとした顔でばっちり手を挙げてくれました。かわいいです。
『困るよ。ちゃんと使命を果たしてくれないと』
「だいじょうぶですよ。同じことは繰り返しませんし、誰にも渡すつもりもありませんから」
いつか神様に奪われる勇者さん。けれど、生きている限りはぼくのものです。決して誰にも渡さない。この子の結末はぼくの手で。
神様は勇者さんに“勇者としての使命”を念押ししました。
きっと、彼女は「勇者として魔王を倒す気持ちを忘れず行動しろ」と考えるのでしょう。間違いではありませんが、神様が求めているものは違う。
勇者が知らない勇者の使命。神様とぼくしか知らない世界の真実。
彼女が死を望んでいようと、ぼくは真実を伝えることはしないでしょう。知ったところで変えられない運命です。……いえ、むしろ彼女は喜ぶかもしれませんね。
まあ、今はいいでしょう。せっかくの旅の始まりです。楽しく明るくいこうではありませんか。
「ぼく、ふたり旅って初めてです」
ずっとひとりぼっちで生きてきましたから。
「私もです」
「魔王城に来るまでは神様と一緒に旅をしてきたのでないですか?」
「あれはノーカンですから」
ぼくが見た記録では割と一緒にいたような気がしますが、勇者さんがそう言うのならそうなのでしょう。意地悪ですからね、神様。一緒にいるとストレスが溜まるでしょう。
……きみも、ずっとひとりぼっちだったのですね。
世界でひとりの魔王。世界でひとりの勇者。
ぼくたちはお互いにひとりぼっちでした。けれど、これからは――。
「さっきのハイタッチで思わず手を離してしまったのですが……、もう一度手を繋いで歩こう歩こうしませんか!」
「いやです」
「いやです⁉」
「私、誰かに触れられるの苦手なんです」
「だ、だってあの時はぼくの手を取ってくれたじゃないですか」
「あれはほら、演出みたいなものですよ」
「演出⁉ え、えっと、それでは、ぎゅーっとするだけでも……」
「いやです」
「ああぁうぁう~……」
「行きますよ」
顔を背けてしまった勇者さん。ぼくは手を繋ぎたいとかぎゅっとしたいとか、自分の気持ちを素直にさらけ出すことを躊躇いません。
だって時間は有限です。躊躇している暇はないのです。
行きたい場所ややりたいはたくさんあります。勇者さんが呆れるくらい楽しんでしまえるような旅にしたいのです。
いつか、ぼくはきみを殺します。大好きで大切なきみの命を奪って使命を果たす。
その日が来るまでは旅を続けましょう。
ぼくときみだけのふたりぼっちの旅を。
お読みいただきありがとうございました。
魔王さんの過去、いかがだったでしょうか。
物語の都合上、端折った部分が多いのでそれらはまたいずれ。何かの話の時に出てくるかもしれません。
魔王「まずはどこに行きましょうか。何をしましょうか。わくわくしますね!」
勇者「そんなに楽しみなんですか」
魔王「それはもう、ずっと待っていたのですから!」
勇者「じゃあ、ちょっとくらいは旅を続けましょうかね」