表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
230/703

230.物語 ひとりぼっち、ふたりぼっち

本日もこんばんは。

この物語は、第20話『誰も知らないあの子の話』の続きとなります。読んでいなくても問題ありませんが、読んでいるとわかりやすいです。普段のSSと温度差があるかもしれません。

(注意:軽度の残酷描写があります。苦手な方はお気をつけください)


長さ目安:SS 22本分

 これは、私がひとりだった時の話。

 神様のいたずらで勇者になった、その後の話。


 魔王城を目指せ、と言われた私が何をしていたかというと。

「……めんどくさぁ」

 なにもしていませんでした。

 威勢よく歩き出したように見せかけた足は止まり、体の力は抜けていました。

 あまりにもめんどくさく、やる気もなく、興味もなく、ただぐーたら地面に寝っ転がって死体のフリをしていたのでした。

 勝手に決めておいて放り出し、使命を果たせと言うだけ言って去るなんて、自己中心的な神様ですね。はー、やってられない。

 森の中でひとり、私はぼうっと空を見上げます。

 物心ついた時から箱庭で暮らし、来る日も来る日も働いていた。いつかくるであろう終わりの日だけを心待ちにして。

 たしかに終わりの日は来ました。けれど、終わりは新たな始まりを連れていた。

「そんなの求めてない……」

 不満は止まることなく私の口からこぼれていきます。

 もらった金貨をまた食べ物に変換するのもよいですが、今はそれすらめんどうでした。

 無為に過ぎる時間を感じながら、太陽が動くのを見ていました。

 水も食べ物も摂らず、地面の冷たさを背に、あの日のことや神様のこと、勇者のことや終わることをぐるぐると考え続けていると。

『ねえ君、まじ? 三日目だよ?』

 脳裏に神様の声が聴こえました。例の真っ白な空間ではありません。辺りは森のままです。夢を見ているわけでもなく、現実世界に干渉してきているようでした。

「なにがまじなんですか」

『人間って三日四日水を飲まないと死んじゃうんだよ。知らなかった?』

「知っていますよ」

 今まで見てきたので。

『君を勇者にして一段落ついたからってドラマを観ていたらさ、天使たちが騒がしいから何事かと思ったんだよ。まさかあれ以来動いてないってことはないよね?』

「そのまさかですが」

 なにか文句でもあるのでしょうか。

『文句しかないよ。っていうか、もうちょっとがんばれない? がんばれーって言った方がいい?』

 何も言わないでほしいです。神様に言われると腹が立ちそうなので。

『はー、やれやれ。君は困った子だね。毎日よく働いていたから勤勉な子かと思ってたよ。勇者にする子、間違えたかなぁ』

 ……ん?

「間違えたら替えてくれるんですか?」

『そういうわけにもいかないけどね』

「…………」

 もうしゃべりたくないです。このまま死んでやる。金貨がもったいないですが、神様からもらった金貨です。裏金かもしれません。

『んなわけあるかい』

 心を読んだような反応に気持ち悪さをひしひしと感じていると、神様はあからさまなため息をついて言いました。

『しかたない、今回だけだよ』

 何がでしょうか。

『君の見た目が好みだからって理由で、君の旅に同行してあげる。あと、ドラマが始まるまで時間あるから、その暇つぶし。感謝してね』

「……はい?」

『推しは近くで眺めたいよね~。ってことで、しばらくの間、よろしくね、勇者』

「…………は?」

 待て、待ってください。本気で言っているのでしょうか。いやまさかそんなうそ。

『一緒に旅をするなら脳内メッセだけじゃつまらないよね。ちょいまち』

 私の動揺も焦りも気にすることなく、神様はよっこらせ、とかどっこいしょ、とか意味のわからない言葉をしゃべりながら何か準備しているようでした。

『はい、よいしょー』

 突然、強い光が目の前に出現し、私は思わず目を閉じました。次の瞬間、

『やあ、勇者。この姿では初めましてだね』

 ひとりの人間が立っていました。……いえ、人間ではないのでしょう。だってこのひとからは神様の声がする。口は動いていますが、やはり不思議な声のまま。耳からも聴こえ、脳にも直接聴こえているようです。

 肩までの髪は灰色に染まり、瞳も同じ色に見えました。見たこともない服に身を包み、少女なのか少年なのかわかりません。そして、不思議としか言いようがない雰囲気をまとっていました。人間ではない。本能で理解させられるオーラがそこにはありました。

 中性的な姿の神様は私に手を差し出すと、

『ほら、起き上がって。ご飯食べに行くよ』

 と、非常にありきたりなお誘いをしてきました。

 なに……? え、なんですか……? 置いてけぼりなのは私だけですか? 私以外に誰もいませんけど、どうすればいいんですか、これ。

 何も言えずにいると、神様はさっさと妙に強い力で私の手を掴んで引っ張りました。

 うわぁ、触られた。

『ひどくない?』

「心を読まないでください。気持ち悪いです」

『君、神様に対して一切ためらいがないよね。不敬だと思われちゃうよ?』

「思われたら存在ごと消滅させてくれそうなので、むしろオッケーというか」

『死にたがりだなぁ。ま、使命を果たすまでは生きてもらうけどね』

 強制的に立ち上がった私の隣で、神様は笑みを浮かべました。

 これまで人間が笑うところは幾度か見てきましたが、そのどれもが悪意を秘めたものでした。笑顔なのに歪んでいるようで、気味が悪い。

 私に笑顔を向ける人にろくなやつはいないでしょう。わかっていましたが、やはり誰もが私に傷をつけようと言葉や実物のナイフを振りかざしてきました。

 けれど、神様の笑みはどこか違う。悪意は感じませんが、他のものも感じません。

 本来の笑顔とはこういうものなのでしょうか? 私には判断できかねました。

 とはいえ。

「こっち見ないでください」

『まじでずけずけ言うよね』

 どうせなら、絶妙な何かの方がまだよかったです。もふもふしていて少しはかわいいと思ったのに。よりによって胡散臭そうな人型だなんて。言うだけ言ってみましょうか。

「あのよくわからない生き物にしてくださいよ」

『やだよ。この方が一緒に旅をしているって感じするじゃんか』

 無理そうでした。

 私は神様から離れるように歩き出しました。行く先なんてわかりません。ていうか、どこに行くんでしたっけ。

『魔王城だってば。しっかりしてよねー。まずはご飯だけど』

「はあ……。ちゃんと行くのでひとりにしてください」

『やだよ。せっかく休暇取って来たんだから』

 休暇ですと? おかしいですね、私の聞き間違いかな。

『神様もいそがしいからさ、たまにはのんびりしたいわけ。見た目が超好みな子と旅をして日々のストレスを発散させようと思ったんだ』

 なんでしょう。しゃべればしゃべるほど神様のことが嫌いになっていくような気がしてきます。殴っていいかなぁ。

『神様を殴ろうとする勇者なんて君が初めてだよ』

「光栄です」

『褒めてないから』

 私はただでさえ疲れている体がより重くなるのを感じながら、森を抜けた先の町にやってきました。ええと、何をするんでしたっけ。

『ごーはーん。君、わざとやってない?』

 それが、本気で記憶から逸脱するんですよね。脳が神様の言葉を拒否しているのかもしれません。

 私はフードを深くかぶり、見つけた店に入りました。何名様ですかと訊かれたので「ふたりです」と答えると、店員は小首をかしげて「二人……? あとから合流なさるということでよろしいでしょうか」と訊いてきました。意味がわからずにいると、隣で神様が『勇者以外には見えないよ』と言ってきました。はやく言えよ。

「失礼しました。ひとりで」

「かしこまりました。こちらへどうぞ」

 案内されたテーブル席に、神様は私と向かい合うように座りました。

 店員が過ぎ去るのを確認し、私は不満を露わにした視線を送ります。

『ごめんごめん。わかってるかと思って』

「…………神様も食べるんですか」

『食べることもできるけど、今日はいいや。君だけ食べなよ。見てるから』

「見ないでください」

 私はメニューの絵を見てテキトーに注文すると、出てきた料理をもくもくと食べました。神様の視線がうざったくて仕方ありませんが、ガマンするとしましょう。

 テーブルの上に広がる品々を見て、神様は少しだけ呆れたような、楽しそうな顔をしました。

『残金考えて使うんだよー』

「計算できないので。……うわ、これ辛い」

『唐辛子使用って書いてあるの、見なかったのかい?』

「文字は読めません」

『そっか』

 私は食べるだけ食べると、店をあとにしました。食事だけなので金貨にはまだ余裕があります。飲まず食わずの三日目に神様が来たことを考えると、餓死させるようなことはさせないでしょう。気にせず食べようと思います。

『お腹がふくれたところで、さっそく魔王城に向かおうね』

「どこですか?」

『そういうのはほら、第一村人を発見したりして訊くのがお約束じゃん?』

「……人間に訊け、と」

 腹立つ笑顔で応援する神様に背を押され、私はその辺に座っていたおばあさんに声をかけました。

「……あの、お尋ねしたいことがあるのですが」

 フードを被っているとはいえ、人間と会話するのは躊躇いがあります。店員は店を回すために特段気にしてきませんでしたが、こうした状況では話は別です。

 私は少し顔を背けながら続けます。

「魔王城の場所をご存じではないでしょうか」

「魔王城……? またなんでそんな危険なところに?」

「……少し用事がありまして」

「ふうん……?」

 訝しげな顔で私を見るおばあさんは、ふと目を見開くと「勇者様かい⁉」と声を上げました。

「えっ?」

「そうだろう。きみは勇者様だろう? この気配はきっとそうさ。そうかいそうかい。勇者様なら魔王城に行くのも頷ける。魔王城はここから遠く離れた地にあるよ。まずは町を出て北に向かうといい。道中でまた道を尋ねなさい」

「あ、ありがとう……ございます」

 あまり詳しい情報ではありませんが、ひとまず北だということがわかりました。今はこれでじゅうぶんです。私はお辞儀をし、そそくさと立ち去ろうとしました。しかし、興奮した様子のおばあさんがローブの裾を掴み、顔を近づけて言いました。

「どうか、お顔を見せてくれはせんか。勇者様に会えるなんて、こんな機会は二度とない。どうか、どうか……!」

 懇願されましたが、顔はまずい。絶対に見せられません。

「ごめんなさい、急いでいますので」

「ゆ、勇者様! どうかぁ!」

「……ごめんなさい」

 私はおばあさんの声を背に走りました。顔は……顔だけはだめです。

 それに私は、立派な勇者様なんかじゃないのですから。

 人間たちから逃げるように町を抜け、誰もいない道まで走ってきた私は、おばあさんが掴んだ裾を視界の隅に避けながら呼吸を整えました。

『おかえり。どうだった?』

 知らぬ間に、音もなく当然のように神様がいました。

「……ここから北、だそうです」

『アバウトだね。ま、いっか。ところで、なんで走ってきたんだい?』

「なぜかわかりませんが、魔王城の場所を訊いた人が突然私のことを『勇者様』だって言い出して、顔を見せてほしいと……」

『言われて逃げてきたんだ? 大変だったねぇ』

 少しも思っていなさそうな声で言いました。神様は『そろそろだと思ったよ』と付け加え、ひとりでうんうんと頷きます。

『世界が君を勇者だと認識したみたいだね』

「認識……?」

『その証拠がさっきのおばあさんの反応ってわけ。君は知らないかもしれないけど、人間には第六感ってものがあってね。知ってる? 五感を超える感知能力』

 わかりません。何の話でしょうか。

『いわゆる勘ってやつだよ。嫌な予感がするなーとか、ここは危険かも! とか』

 それと、さきほどのおばあさんがどう関連するのでしょう。

『勇者は魔なるものを倒し、人間の命と安寧を守る存在だろう? だから、いざという時に勇者に助けを求められるようにしないといけないと思ってね。人間たちの第六感に勇者探知能力を追加したのさ』

「勇者探知能力……」

『勇者を求める人間に特に強く働くようになっている勘なんだけど、通常時でも感じ取れるようにしてあるんだ。さっきのおばあさんは、魔王城の場所を知りたがる人なんて、物好きか死にたがり、魔族以外なら勇者しかいないって考えたんだろうね』

 それで、あんなに突然「勇者様⁉」と言い出したんですね。

『とはいえ、人間の第六感なんてなんとなくでしかないからね。確証を得られるくらい感じ取れるのは聖職者くらいかな』

 性能はいまいちってことですか。

『この第六感はね、姿を見せて認識されることでより強固なものになるんだけど……』

 神様は私を見て、眉を下げて笑いました。

『参ったね、君。どうしよっか』

「どうでもいいです。人間と関わるつもりはありませんから」

『君がそう言うならいいけどさ』

 神様はちらりと道の先を見て言いました。

『君が勇者である限り、誰かと関わることは避けられないよ』

 その時、誰かの悲鳴が響きました。すぐ近くです。

『さあ、初仕事といこうじゃないか』

 神様は私を導くように進んでいきます。初仕事という言葉に抵抗を覚えましたが、仕方なくあとを追いました。

 少し進んだところで、二人の人間を襲おうとしている魔物の姿を捉えました。

 ずんぐりむっくりな体に大きな角、どこが顔なのかよくわかりませんが、二つの赤い光が見えました。目、でしょう。

『がんばってね』

 一言告げ、神様はそれ以上何もしませんと言わんばかりに石に腰かけました。

 がんばってねと言われても、なにをすれば……。

 あ、大剣がありましたね。こんなに大きな剣は使ったことがありませんが、ええい、どうにでもなれ。

 私は大剣を抜くと、人間に当たらないよう勢いよく魔物に振り下ろしました。一瞬、きれいに真っ二つになった断面が見え、やがて塵になり消えました。

 ……ずいぶんあっさりですね。これで終わりでいいのでしょうか。

 あまりのあっけなさに、逆に不審な気持ちを抱いていると、必死の形相で逃げていた人間二人が近づいてきました。

「あ、あの、ありがとうございました!」

「……いえ、お気になさらず」

 お礼よりもはやく立ち去ってほしい気持ちがあります。見た限り、ケガもなさそうなので安全そうなところに行ってほしいです。

「もしかして、勇者様ですか?」

「えっ……」また言われました。第六感、そんなに働くのでしょうか。

「魔物をあんなに簡単に倒すなんて、勇者様に違いありません。そう感じるんです!」

「……そうですか」

 どう答えてよいかわからず、とりあえず剣を仕舞おうとした時、装飾がフードに引っかかって脱げてしまいました。

 あっと思った時にはもう遅い。

「……えっ、ま、魔族⁉」

「きゃああああ‼」

 二人は私の目を見て叫びました。一瞬で恐怖の色が浮かんだ顔で、彼らは私から遠ざかります。ひとりは怯えたまま震え、ひとりはナイフをこちらに向けて。

「来るなよ……。来たら刺すぞ……!」

「殺さないで……お願い……!」

「…………」

 私はすぐさまフードを被り直し、ナイフの動きに注意して走り出しました。

 なるべく距離を取って、誰もいない場所へ。

 ……殺さないで、と言われても。そんなつもりはないのですけど。

 今日はよく走っている気がします。なるべく人に会わないように、魔なるものにも遭わないように、静かでなにもない場所に行きたくて、私は何も考えないようにして足を動かし続けました。

 やがて疲れ、体を止めた木の下で小さく丸まりました。喉の渇きを覚えましたが、水なんてありません。水源を探すのもめんどうで、そのまま無駄に息だけしていました。

『やあ、お疲れさま』

 同じように隣に座る神様から離れる気力もなく、私は膝に顔をうずめて黙っていました。

『初めてにしては上出来だよ。さっきの低級だけどね』

 低級……。魔物にはレベルがあるのでしょうか。どうでもいいですけど。

『勇者探知能力は働いているみたいだけど、やっぱり根付いた恐怖の方が上回るみたいだね。力のない人間にとって、魔なるものは恐怖そのもの。生存するためには逃げるが勝ち。魂に刻まれた生存本能と必ずしも必要ではない勇者探知能力じゃ、優先されるのがどっちかなんて明白だよね』

 人間が生き残るために必要なこと。それは、私のような赤い目をした魔なるものに恐怖し、抵抗すること。抵抗は、逃げることも殺すことも含まれる。どんな方法であれ、生き残った方が自然界では勝者なのですから。

 彼らの取った行動は正しい。生存本能を備える人間にとって、実に素直で妥当な選択でしょう。私に彼らを責める理由はなく、彼らを責められる人もいない。

 当然です。なにも間違ったことはしていないのだから。

 私だって、神様に言われて魔物を倒しただけです。それ以上でも以下でもありません。

 勇者が魔物を倒し、人間を救う。正しい行いとはまさにこのことでしょう。

 ただ、ちょっとだけ、いらないことを思い出しただけで。

 ……それも別に、いつもと変わらないことのはずなのですけどね。

 神様が隣にいるせいで、自分のペースが崩れたのかもしれません。こんなに誰かが一緒にいて行動をともにするのは初めてです。相手は人間ではありませんが、会話のために口を動かすこと自体がほとんどなかった私にとって、今の状況は初めてだらけなのです。

 そりゃあ、疲れますよね。仕方ありませんね。

 そんな風に自分に言いきかせ、じんわりと広がる嫌なものから目を背けました。

『疲れちゃった? 水は?』

「ないです」

『ていうか、荷物は?』

「私の短剣は神様が没収したじゃないですか。返してください」

『いやいや、荷物が短剣だけはないでしょ。鞄とかさぁ、リュックとかさぁ、一応旅人なんだから、それなりの装備をしないとじゃない?』

「鞄……」

 ああ、そんな物もありますね。でもまあ、私はまともに旅をする気もありませんし、なくても問題は――。

『ねえ、鞄買いに行こうよ。どういうタイプがいい? 肩掛け? 背負うやつ?』

 ……いや、特にいらな――。

『神様としては、剣を背負ってるから肩掛けをおすすめするよ。いざという時にすぐ使えないと困るもんね。あ、剣も鞄も両方って意味ね』

 ……うるさぁ。めんどくさぁ。

「鞄にお金を使うなら食べ物を買います」

『ええー。食欲の勇者って呼ぶぞ?』

 かっこわる……。

『じゃあさ、いいこと教えてあげる。勇者って人間を助けると高確率でお礼をされるんだけど、言葉以外にもお金とか物とかくれる人もいるんだよ。謝礼ってやつ』

 シャレイ。いいものですね。

『その辺の魔物を倒してお礼に鞄をもらえばいいんだよ。どう?』

 どう、と言われましても、そんな都合よく鞄を持って魔物に襲われている人なんているのでしょうか。

『あ、見て見て勇者。あそこ、おじさんがいるよ』

 顔を上げると、木々の隙間から走る人間の姿が見えました。大きな鞄を抱えながら、背後の魔物から逃げているようでした。神様の言うとおり、おじさんのようです。

 彼は座る私を見つけると大声で叫びました。

「おーい! 助けてくれ! 魔物に襲われているんだ!」

 見ればわかります。

「剣を持っているなら戦えるんだろう⁉ 助けてくれ! 礼ならする!」

『だってさ。お仕事の時間だよ、勇者』

「……はあ」

『めんどくさそうな割にはちゃんとやるんだね』

「私に見える範囲で死なれるのは気分が悪いのです」

 私は重い腰を上げ、剣を両手で持つとおじさんの方へ駆け寄りました。

「悪いね。あとは頼んだよ!」

 すれ違いざま、おじさんは弾んだ声で私にそう告げると足を緩めることなく走って行きました。当然、私とは逆方向に。

 唸り声をあげて詰め寄ってくる魔物は、なんとなくですが強そうには思えませんでした。たぶん、低級とか、その辺だと思います。大きな鋭い爪で引き裂こうとしてくる巨体をかわし、遠心力で剣を振りました。横向きに回転させた剣身が、これまた魔物を真っ二つに分けて勝利。上半身と下半身と言ってよいのかわからない部分がふたつ転がり、消えていきました。

 なんだか、テキトーに剣を振り回しているだけで勝ってしまっていますね。

 魔物が弱いのか、勇者としての力なのか、私にはわかりませんでした。

『勇者~。おじさん行っちゃうよ~』

 もはや木のそばから動こうともせずに神様は言いました。指さす先にはせっせと逃げるおじさん。まあ、わかっていましたけど。

 私は追いかけることをせずに神様の元に戻りました。わざわざ走って捕まえ、「礼をしろ」と言う元気はありません。どうでもいいです。

『ねえ、あのおじさん、礼をするって言っておきながら逃げてるんだけど』

「いい囮を見つけたって顔していましたから」

『えー、せっかくちょうどいい鞄を見つけたと思ったのに』

「そんなに必要なら買いに行き――」

 思わず言葉を飲み込んだのは、神様の目を見たからでした。

 おもしろくなさそうな顔で眉をひそめているのは気になりません。神様がたまにする表情ですから。でも、いつもと何か違う。目が違う。

 じいっとおじさんの後ろ姿を見る神様は、冷たい灰色の目をしたまま『はぁーあ、人間ってこれだから……』とこぼしました。

 得も言われぬ不気味さと緊張感を覚え、私は何も言えずに立っていました。

『今の神様は勇者贔屓だから、ああいうことされるとイラっとするよねぇ。君はしないの、勇者?』

 柔らかな微笑みを浮かべ、そう問われました。笑っていますが、目は冷たい色のままでした。

 なんて答えるのが正解なのでしょう。何か言わないと神様の機嫌を損ねるでしょうか。

 というか、何を言えばいいのでしょう。……なぜでしょうか、いつものように神様を邪険にするような言葉が出てきません。

 放っておけばいいですよ。その一言が口から出てこない。

『ああ、ごめん。怖がらないで。君に怒っているわけじゃないよ。ていうか、神様が人間ひとりの態度や言葉にいちいち反応してらんないから』

「…………そう、ですか」

『とはいえ、お気に入りの勇者を囮にされたり、自分の言葉に責任を持たなかったり、鞄をゲットできなかったり、あのおじさんはきらいだなぁ』

 神様は手で輪っかを作ると、輪っか越しにおじさんを見ました。

『勇者は死んだかなって思ってるよ。失礼な人間だよね。今回の勇者は強いよー。良さそうな大剣を持っていたから、後で回収して売り飛ばそう、だってさ。あっはは、醜いね』

「人間ってそういうものでしょう」

『まあね。でも、神様をイラっとさせた罪は重いよ。はい、天罰ね』

 神様がパンっと手を叩いた瞬間、遠くで何かが倒れる音がしました。ほぼ同時に鋭い悲鳴が響きます。

「なにを……?」

『なにって、天罰だよ。見に行く?』

 返答を待たずに神様は私の手を引き、天罰が下った場所まで歩いて行きました。

 人だかりができていたそこは、大きな木が折れて倒れ、その下からは赤いものが広がっています。原形がなくなった塊は赤く染まり、そこから出た液体がじわじわと地面にしみこんでいっています。散らばった何かがどくんと動いたように見え、体の底が冷たくなったような気がしました。

 青ざめた様子で見る人、興味深そうに首を伸ばす人、目を覆って顔を背ける人、木を起こそうとしている人……。

 野次馬の中に連れていかれた私は、顔をしかめて声をひそめる人間の会話を聞きました。

「根元が腐っていたんですって。ばきっと折れた時に、運悪くそばにいた男の人が下敷きになったみたいよ」

「うわぁ……。運が悪すぎるわよ、それ」

「なにか悪いことでもしたんじゃない? ほら、天罰ってやつよ」

「あ~、ありうるわね」

 ……天罰。神様が言ったものと同じ。息をするように叩かれた手で下された天からの罰。

 人々の体で見え隠れするそれは、いつか見た赤と同じものでした。

 弾けた塊。広がる赤。漂う鉄の匂い。

 どれも、いやなもの。

『ナイスタイミングだねー。あっ、しまった。鞄が汚れちゃった』

 神様は残念そうに、血にまみれた鞄を見てため息をつきました。

『でも使えるよ。もらってく? 謝礼』

 私は恨めしそうに伸びてくる赤い色から後ずさり、野次馬から離れました。その足で魔王城の場所を教えてもらった町まで戻り、鞄屋を探します。見つけるやいなや、神様がすすめてきた物と似た鞄を金額も見ずに手に取り、カウンターに置きました。ポケットからテキトーに金貨を二枚出し、驚いた様子の店員に突き出します。

「足りませんか?」

「えっ、いえ、あの……」

 私の行動に唖然としている店員に、仕方なく金貨をカウンターに置きます。めんどうなのでもう一枚追加しました。

「買いますね」

「は、はい。……あ、おつりを!」

「結構です」

 お金が足りていることを確認し、私は店員の呼び止める声を背に店を飛び出しました。増え続ける野次馬を横目に人気のない場所まで進み、休憩していた木までやってきました。

『あれ、鞄買ったの? いいね、それ。神様の好み』

 楽しそうに鞄を眺める神様は、『でも、謝礼ほしかったなぁ』とこぼしました。

『謝礼だからこその良さもあるじゃない? 君にそれを伝えたかったよ』

「この鞄は魔物から助けた人間から謝礼として受け取った物です」

『えー?』

「この鞄は謝礼です。魔物を倒した私へのご褒美です」

『君がそう言うならいいけどさ』

 それでいいのです。そういうことにしておけばいいのです。

 もとより、謝礼なんか求めていなかった。魔族のような見た目をした私にお礼をする人間なんていません。あれよあれよと流されているうちに、私がかかわったことで誰かが死んだ。嫌でした。放っておいてほしかった。囮でもなんでもいい。私は気にしていない。さっさと逃げて、どこかでのうのうと生きていればよかった。

 視線を落とした地面が赤く染まっているように見え、一瞬息が止まる気がします。

「…………」

 私は金貨が無造作に放り込まれた軽い鞄を肩にかけ、町から離れるように歩き出しました。


 〇


 神様はおしゃべり好きなのか、ただ私の反応を楽しんでいるだけなのか、真意は定かではありませんが、何かとよくしゃべりかけてきました。

 特に内容のないことから、勇者に関する情報まで、その話題は多種多様です。

 神様が勇者に与えるギフトについても教えてくれました。

『――ってことで、基本はひとり一つなんだけど、君は複数でもいいよ。なにか欲しい力はある?』

「結構です」

『えっ、なんにもいらないの? まじ?』

「ギフトは勇者を強くするものでしょう。それなら、私には不要です」

『ええー、変な子』

 口ではそう言いながら、神様はどこか楽しげです。

『神様のおすすめはね、不死とか』

「絶対いやです」

『他の子にはあげない特別なギフトだよ?』

「私にとって一番いらないギフトです」

『あっはは、君ってやっぱりおもしろいや』

 珍しいものを見る目で私を眺め、『でもまあ、決まりだから一つはもらってよ』と手を叩きました。

 私の体に光の玉が近寄り、きれいだと思った私はつい手のひらを出しました。光はすうっと内に入り、何もなかったかのように消えました。

『間違えていくつかつけちゃった。もらっといて』

「……何をくれたんですか」

『なんだっけ。ひとつは覚えてるんだけど。たしか、一目見ただけで食べ物の賞味期限がわかる目』

 うわ、いらない。

『いらないって顔してるね。わかんないよー? いつか使う日がくるかもしれない』

「切れてても食べます」

『わぁ、たくましいね』

 こんな風に、私たちは益なのかどうかわからない会話をして魔王城を目指していきました。道中、魔なるものを見かければ倒し、人間を救い、魔なるものを倒し、倒し、倒し……。たとえ人間が襲われていなくても、神様が『勇者だろ、君』と言うので倒さざるを得ないのでした。

『いいね、強い強い』

「…………」

『どしたの?』

「なんだか、胸がざわざわするような気がして……」

 私は気がついていました。勇者になってから、今までは感じなかった妙な感覚がすることに。そして、それは魔なるものたちを倒すにつれ、明確になっていることに。

『ああ、それ? 勇者の魔感知能力だよ。どこにどれだけの魔族がいるか、わかった方が便利だろう?』

「……気味悪いです」

『魔なるものの気配がすてきだった方が気味悪くない?』

 神様はおかしそうに笑いました。私はまだ消えぬ不快感を拭うため、隠れていた魔物に剣を振り下ろします。ノイズのような悲鳴をあげ、魔物は塵と消えていきました。

 ふっと軽くなったような感覚がしましたが、私は剣を仕舞えずにいました。

 胸の奥底、心臓の中、体の中心、脳の感知できぬ場所、魂に触れるような何か、私という存在をじっと見つめる誰かの視線……。どこからなのか、何なのか、うまく表現できませんが、勇者になってから消えない感覚が残り続けていました。

 魔物を倒してもなくならない。不快というより、しこりに似た感覚です。

 浮かない顔をする私を、神様はいつもと同じ顔で見ていました。その目はずっと灰色のまま。

 旅をする中で、金貨しかなかった鞄に荷物が増えていきました。どれも神様に言われて買った物ですが、おかげで旅人らしさは出てきているようです。

 食べ物にしかお金を使いたがらない私に、神様はあーだこーだと荷物の重要性を説きましたが、殺してもらうために魔王城を目指す私には治療用の道具はどうしても不要に思えたのです。

『ケガしたらどうするのさ』

「ほっときます」

『ええー……』

 口のへの字に曲げる神様をよそに、金貨は着実に食べ物へと姿を変えていきます。

『そろそろ夕暮れだよ。近くの町に宿があるよ、勇者。……聞いてる?』

「聞いています。だから準備しているのです」

『いや、枯れ葉を集めているだけじゃん』

「あったかいですよ、葉っぱ」

 私は枝や葉を集め、木の陰におさまりました。

『お風呂は?』

「水源を見つけた時に」

『ご飯は? 食べてからもう結構時間経ってるけど』

「毎日食事をする方がおかしいです」

『ええー』

 まじで? ほんとに? 宿に行こうよー。などと不満げな神様を華麗にスルーし、私はローブで体をくるみ、深くフードを被りました。集めた葉を体に被せ、暖を取ります。すぐ横に置いた剣は鞘越しでも冷たく感じました。

 町まではまだ距離がある場所です。とはいえ、水源も見当たらないこの場所で野宿をする人は少ないでしょう。人間と鉢合わせる可能性の低いところで身を休めたいと思ったのでした。

『人間はいないだろうけどさ、こういう場所は別のものがたむろするよ。特に夜はね』

 神様の声と同時に、ざわっと不快感が広がりました。魔の気配。とても近い。

『日も沈んだ夜は向こうの時間だよ。気をつけてね、勇者』

 そこから先は、戦い疲れたので簡単にご説明します。

 無数に現れた魔物を倒し、一息ついたと思えば彼らを率いていた魔族が登場。

 おもちゃを壊されたと怒り、私を殺すべく見たこともない技を放って寝床をめちゃくちゃにしてきました。死ぬために生きている私なので、ここで殺してもらえばいいのでは、と思うでしょう。けれど、それは神様に反対されてしまいました。

『勇者が魔王城に行かずに死んでどうするのさ』

 とか。

『はやく倒して寝ようよ~。神様も葉っぱのお布団使ってみたーい』

 とか。二つ目は知ったこっちゃありません。勝手にすればいいです。

 月明かりだけが降り注ぐ夜の闇の中、私は特に慌てることもなく剣を手に対処していきます。夜目が効くとはいえ、その辺は魔族の方が上のようでした。捉えきれない相手に心身の疲れを覚え始めた私は、動きを止める何かがないか考えました。

 木々、枯れ葉、土、どれもいい方法が浮かぶものではありません。

 魔族からの攻撃を避け、木を盾にした時でした。幹に沿うように蔓が伸びているのを見たのです。それはまるで、幹の動きを止めているようにも見えたのでした。

 いいですね、これ。でも、蔓を取っている時間はなさそうでした。

 落ちている部分があれば足くらいは引っかけられそうなんですけど。

 と、そんなことを考えていると、魔族が大きな技を放とうと力を溜めていることに気がつきました。詳しくはわかりませんが、まずそうです。この辺が破壊するどころじゃ済まないでしょう。はやく殺さなければ。

 私は剣を手に飛び出し、魔族を斬ろうとしましたが、易々と躱されました。

 嘲笑する魔族の顔が腹立ちますね。

 しかし、その笑みは勝利の意味を持っていました。体の芯まで揺さぶられるような強大な力を感じます。ものを知らない私でも感覚でわかることです。

 ああ、これは死ぬかも。でもまあ、それでもいいんですけどね。

 むしろ、魔なるものたちを倒している意味の方がわかりません。やらないと神様がうるさいってだけです。だから、何もせずにここで終わってもいいのですが。

「…………」

 魔族の嘲笑よりも、神様がたたえる笑みの方が嫌でした。一体何を考えているでしょう。

 特段アドバイスをするわけでもなく、ただ私が戦う様を眺めている神様。

 たまに『がんばれー』とか『いいぞー』とか言いますが、それなら黙っていてほしいです。

 どうでもいい不満がたまり、私にはそれをぶつける相手が必要でした。

 ちょうどいいのがいますね。目の前に。

「八つ当たりさせてください」

 私は断りを入れ、剣を構えて走りました。躱そうとした魔族を睨み、心の中で『動かないでくださいよ』と言った時。

 私の周囲から無数の茨が伸び、笑みを浮かべていた魔族に絡みつきました。途端、表情が一変し、苦痛に歪んだと思えばつんざくような悲鳴が響きました。

 地面に倒れ、よくわからない暴言を吐き続ける魔族。

 動こうとするたびに絞めつける茨が体に食い込み、魔族はご丁寧に悲鳴を増やします。

「……なんですか、これ」

『チャンスじゃん。やっちゃえ、勇者』

 神様はとても楽しそうでした。

 チャンス。たしかにそうですね。私は動きの止まった魔族に近寄り、大剣を振りかざしました。首と胴体が分かれる直前、魔族は何か言おうとしましたが、わかりませんでした。

『すごーい。よくできました』

「このひと、いつもみたいに消えません」

『魔力が強いとすぐ消えないんだよ。ほっといてもいいけど、気になるなら神様が掃除してあげる』

 そう言って、神様は私の返答を待たずに手を叩きました。限界まで開かれた眼球が塵と変わるのを見て、私は剣を仕舞いました。魔族の体を絞めつけていた茨は、魔なるものとは違う粒子になって消えていきます。

 なんだったんでしょう、あれ。

『君の魔法だよ』

「魔法?」

『勇者になるとね、魔法が使えるようになるんだよ。後天的に魔力を得た人間は魔法使いとは呼ばないけどね。あ、君の場合は魔女、かな』

「じゃあ、さっきの茨は……」

『そ、魔法さ。見た感じ、君は闇属性みたいだね。勇者なのに闇って、おっかしー』

 けらけら笑う神様。私は手のひらを閉じたり開いたりして魔法とやらを感じようとしました。先ほどの茨、私が魔族を固定しようとしたら出てきましたね。蔓でやろうとしていたことが、茨によってなされた。

 魔法とか属性とか、どうでもいいですが、便利なものであることはわかりました。

 茨に絡まった魔族、なにやらとても苦しそうでしたが、私にも同じ効果があるのでしょうか。もしあるなら、魔なるものを倒す以外にも使い道はあるかもしれません。

『君に絡まる希死念慮も厄介なもんだよね。棘みたいに刺さって抜けないんだろう、それ』

「……放っておいてください」

 私は明るくなってきた空を見て、まだ薄暗い道に歩を進めました。

『あれ、もう行くの? 寝てないじゃない』

「このくらいは平気ですから」

 神様は緩まった口角をそのままに私の隣を位置取りました。

『茨魔法、君にぴったりだよ』

 その言葉に、私は何も言いませんでした。


 〇


 旅というものは、多少時間にゆとりがあるものなのでしょうか。

 なるべく人間と関わらないよう陰を選んで進む途中、休憩などで何もしない時間がたびたび訪れます。神様が他愛もない話をしてきますが、それでも静寂がやってくることがありました。私を気にしているつもりはないのでしょうが、神様は話のネタを探して手紙を差し出してきました。

 〈なぞなぞ! パンはパンでも食べられないパンはなーんだ〉

 ……なんですか、これは。

 〈答えをどーぞ〉

 一言ずつ、わざわざ手紙を渡してくる神様がめんどうで私は答えます。

「銃声ですか」

『斜め上の回答だね。そこは普通にフライパンとかさ』

「フライパン……。ああ、あれ嫌いです。痛いので」

『フライパンが痛いってなに?』

 それには答えませんでした。おもしろい話ではないので言いたくないのです。

『まあいいや。はい、次のなぞなぞ』

 まだあるんですか。私は仕方なく手紙を受け取り、そこに書かれた文字を読みましたが、ふと、

「あれ、なんで読めるのでしょう」

 私は、文字は読めもしなければ書けもしません。そういった能力は必要ではない人生でした。そういえば、神様からの手紙はなぜか読めていましたね。これも勇者の力でしょうか。

『そんなとこ。神様からの言葉は読めるようになっているのさ。便利だろう? でも、次のなぞなぞは絵だよ』

 見ると、意味不明なくらい散らかった部屋と時計の絵。その上に〈今何時?〉の文字。

 〈答えをどーぞ〉

 催促されましたが、私は答えられません。

「時計の見方がわかりません」

『お金の使い方はわかるのに? それもちょっとダイナミックではあるけどさ』

「お金は昔、教えてもらったことがあるので」

 主人が私に課した仕事のひとつに、お金を使うものがあったことを思い出します。どうでもいい記憶。どうでもいい思い出。

 気味の悪い笑みで「長く使えそうなやつを買ってこい」と金貨を渡された。

「…………」

『時計の読み方、教えてあげよっか』

「別にいいです」

『いつか役に立つかもしんないじゃん。はい、よく見て。針が二本あるだろう?』

 神様は私の言葉なんて聞いてもいないように話を続けます。これから死にに行くのに、時計が読めるようになってどうするのでしょう。なんの意味があるのでしょう。

 どうせ無意味に終わるものなのに、神様は気にしていないようでした。

 きっと、人ならざるものにとってはただの気まぐれに近い、遊びのようなものなのでしょう。ものを知らぬ赤子のような私に、あれやこれや教えて楽しんでいるのだと思います。

 好きにすればいい。どうでもいいので。

 私は何かが欠けたような気持ちで神様が描いた時計の絵を眺めました。

 それから、神様は教えることにハマったのか、より一層様々なことをしゃべるようになりました。というより、勇者に関することそっちのけで日常生活に関することを教えてきます。それはそれで、いいのか悪いのか。

 おかげでと言いますか、せいでと言いますか、私は遅めの常識を得ていきました。

 たしかに、知らないことの方が圧倒的に多いのです。勝手に教えられる知識は「これくらい知っておきなさい」とでも言いたげに脳に吸収されていきました。

 そうして、私は遠くまで来ていました。ただひたすらに北を目指して歩き、人間と極力関わらないように、関わってもすぐ立ち去るように進んでいた私には、魔王城の場所などわかりません。けれど、いつか辿り着くだろうという確証がありました。

 私の中にある感覚が魔王の元に案内してくれているだろう、と。

 勇者は魔王を倒すためにあるのなら、やみくもに進んでもいずれは魔王に行き当たる。

 そう思った私は、人間に訊くこともなく進み続けました。

 魔物を見つければ、人間に気づかれないように倒しました。

 なんだか暗殺者の気分です。向いているかもしれません。

 そんなことを思いながら、いつものように旅をしていた日のことです。

 魔の気配を感知し、居場所を突き止めて倒そうとした時のことでした。

 村の隅に置かれた小屋を荒らし、飼われていたであろうヤギを八つ裂きにしていた魔物を見つけました。ヤギの鳴く声や物が壊れる音が無造作に混ざり合う中、私は人間が来ないうちにと剣を振り、魔物を消し去りました。大剣ゆえ、すでに壊れかけていた小屋に新たな損傷を作ってしまいましたが、生き残ったヤギは無事です。魔物の餌食になったヤギはかわいそうですが、こればかりはどうしようもありません。魔物はもういないようですし、はやく行きましょう。

 壁も天井も血しぶきで赤く染まり、床には引き裂かれたヤギの足や内臓が散らばっています。濃い鉄の匂いが漂う小屋から出てきた私は、騒ぎを聞きつけて集まってきた村人とぶつかりました。そのはずみで、すでに戦闘で少しズレていたフードが脱げてしまったのです。私はぶつかった衝撃で倒れ、相手の男はあっとした顔で私を見ました。

 一瞬、ぶつかってしまったことによる心配の色が見て取れましたが、次の瞬間にはいつもの表情に変わっていました。

「……魔族⁉」

 恐怖の色でした。けれど、それだけではありません。

「お前、よくも俺のヤギたちを!」

 私の背後を見たのでしょう。普通に生きていれば見ることのない血の惨状を目の当たりにし、男は怒りで震えていました。言葉からすると、彼が飼い主なのでしょう。それなら、怒るのも当然だと思いました。飼い主の男を先頭に、集まってきた村人たちも私の色を見て口々に叫びます。それらは、私のよく知る言葉たちでした。

 倒れた時に足を捻ったのでしょう。私は鈍い痛みが走る足首のせいで立ち上がれないでいました。そんな時、降り注ぐ言葉の刃の中にこんなものを聞きました。

「小さくて弱そうだ。こいつなら殺せる」

 その声を皮切りに、村人たちは「そうだ、これくらいならおれ達でもできる」、「日頃の怨みを晴らす時だ」、「魔族に殺された親の仇を……」とつぶやき始めました。

 空気が変わった。まずい空気に変わった。

 彼らの中にある魔なるものたちへの恐怖が憤怒に変わっていく。悲しみが殺意を呼び起こしている。抑え込んでいた感情が刃になり、まさに振り下ろされようとしているのは、私。

 はやく逃げなければ。けれど、村人たちが囲いになり、逃げ道がなくなろうとしていました。どうする。剣で道を作るしか――。

『勇者が人間を傷つけるのはだめだよ』

 頭上から神様の声がしました。壊れかけた小屋の屋根に寝転がり、私を見下ろす神様は、『困ったね』といつもと同じ声で言いました。

 私は剣に伸ばそうとしていた手で地面を押し、痛みを頭の隅に放り出して立ち上がりました。同時に、飼い主の男の手が私の首を捉えました。

「……うぁっ! ……ぅあぁ……」

「魔族め。死ね! 死んでしまえ!」

 一切の躊躇いなく強い殺意が首に込められ、ぎりぎりと締め上げます。周囲の村人たちは、被害を受けた飼い主に怨みを晴らす権利を認めたのでしょう。ただ思うがままに罵詈雑言を私に浴びせ続けます。けれど、呼吸の苦しさでほとんど聴こえません。

 手を解こうにも、大人の男と私では力の差は歴然でした。

 両手で固定された首から嫌な音が聴こえるような気がします。幻聴かもしれませんけれど。殺意以外の色が消えた男の目の向こうで、神様がいつもの灰色で私を見てきます。

『死んじゃうよ?』

 そんなこと、わかっています。でも、この手は知っている。離せないと知っている。

 相手が満足するまで離れてくれない悪意の手です。

 痕を残して消えてくれない強い手です。

『でもそれ、昔の話だろう? 今の君は勇者だよ』

 そんなこと、言われたって。

 霞んできた目で見る視界が滲み、私は名前のわからない感情でいっぱいになりました。

 ものを知らないから、私を揺らがせるこれが何なのかわかりません。

 それでも、今まで抱いたことのないものだということはわかりました。

「……っはなして、ください……!」

 消えそうな声で叫んだ時、男は茨に絡めとられて地面に転がりました。それを見た村人たちの中で怒号が飛び交いましたが、同じく茨に遮られて私の元へは来られません。

 ふらつく足と霞む目でその場を飛び出し、息も絶え絶えに走りました。

 茨から逃れた村人がナイフや斧を投げ、私の息の根を止めようと必死です。ぐらつく視界では避けることもできませんが、幸か不幸か、殺意に支配された手では操作は不正確なようで、私には当たりませんでした。ただ、震える声で「出て行け、ばけもの!」と叫んだ少女が投げた石が頭に当たり、血が流れました。私が負ったケガはそれだけです。

 なんとも不名誉な謝礼ですよね。

 怒りや殺意は村全体を覆い、私を逃がしまいと探していました。変な音のする呼吸をしたまま、私はどこから逃げればいいのかわからずいました。走り回って私を探す村人に見つからないよう、近くの家の陰に隠れます。音が出ないように後ずさった時、背後から肩を触られて声が出そうになりました。

 咄嗟に距離を取ると、そこには怯えた様子の女性が立っています。

「……あ、あの、逃げ道、こ、こっちから……村の外に出られます……」

 震える声でそう言った女性は、潤んだ目で私を見ました。

「ごめ、んなさい……。わたし、あなたが魔物を倒すところ……見たんですけど、他の人たち、こわくて……。彼らに合わせないと、村から追い出されて……」

 泣きながら謝る彼女のもとに、「おかあさん!」と抱きついてくる幼いこどもがいました。母の背中に隠れ、私をじっと見つめます。女性は慌ててこどもを抱きかかえると、私にハンカチを差し出しました。

「ごめんなさい……ごめんなさい……! これくらいしか、わたし……。村の人たちにほんとうのこと言えなくて……あなたが倒してくれたって……ちゃ、ちゃんと言わなきゃいけないのに……」

 私は少し躊躇って、ハンカチを受け取りませんでした。ただ、「決して……私のことを、言わないでください」と告げました。

 驚いた様子の女性は、どうして、とこぼします。

「あなたがこれからも……この村で生きて、いくために。そして、お子さんの、ために。だから、私のことはどうか、忘れてください」

 行くあてを失ったハンカチもそのままに、私の言葉の意味を理解したのでしょう、女性は涙を流したまま頷きました。

 私はお辞儀をし、家の裏にある細い道から町の外に出ました。

 どれくらい走ったでしょうか。さすがに息が詰まり、苦しさから地面にへたり込んだ私は、ぼうっと滴る血を眺めました。

 頭の左上部あたりが熱く、じんじんと痛みを持っています。投げ出した足の捻挫は走ったことで悪化し、鋭く刺すような感覚がしました。

『だいじょうぶ?』

 いつものように神様が訊きました。

 息が苦しく、答えられません。心の中で「平気です」とつぶやきます。

『ケガの処置をしなきゃ。血が出てるよ』

「…………」

 今は、何をする気も起きませんでした。走って疲れたようです。疲れただけです。

『そんなに疲れたなら、今日は宿に泊まるべきだよ』

 宿はいやです。顔を見られる。また追い出される。

『そんな君に、いいこと教えてあげる。大きな町にはだいたい教会があるんだけど、そこにいる聖女に頼めば助けてくれるよ。なんてったって、聖女は聖職者。神様側の人間だからね。結界を張って町を守るのが日々の仕事だけど、勇者のサポートも大事な仕事。ケガの治療や食べ物の配給、寝床の提供までしてくれる便利な存在さ』

 勇者のサポートをする聖女。でも、聖女も人間なのでしょう。

 人間ならば、私は関わりたくない。魔族も魔物も出てこないでほしい。

 けれど、やっぱり神様は私のことなどそっちのけで手を引きました。

『君、ずいぶん走ったから町はすぐそこだよ。さあ、行こうか』

 じわりと伝う血が、目に入って流れ落ちました。


 〇


『あー、あれだよ。あのマーク。神様のマークだから、覚えておいてね』

 ずんずん進んでいく神様に引きずられるように足を動かす私は、捻った足を庇うことしか考えていませんでした。

 マークと言われ、うつむいていた顔を上げます。

 よくわからない形でした。ずきんずきんと痛む頭に入るかどうかわかりません。

『ここだよー。はい、ノックしてみて。三回ね』

 言われるがまま、私は三回ノックしました。すぐに扉が開き、現れたのはひとりの少女。

 きれいなレースがあしらわれた服はひらひらと舞うようで、一目見ただけでも清くうつくしいとわかります。

『かわいい服だろう? いにしえの大聖女の服をもとにしているんだけどさ、勇者も着てみない? 神様、見たいなー』

 応える気力もなく、私はフードを被ることもせずに立っています。

 全体的に白で統一されたその人は、私を見るなり優しげな表情を強張らせました。

「あなたは……勇者様ですよね」

「……そう、みたいです」

 肯定した途端、彼女の顔はさらに険しいものに変わりました。

「神に仕えるわたしにはわかります。あなたが勇者様であることが。けれど、お引き取りください」

『えー、なんで⁉』

 神様があからさまに不満そうな声をあげました。

「勇者様とは、存在するだけで人々に安心と平和をもたらすお方。あなたのように魔族と間違われるような色を持っていては、愛する彼らに混乱を招きます。わたしは聖女として、この町と民を守らねばならぬ責務があります。あなたも、勇者として、神に仕える者として、人々を思うのであればどうかお引き取りくださいませ」

 少女は頑として態度を変えません。隣で神様が『ちょっとでいいんだけどー』、『ケガの治療くらいよくない?』、『まさか聖女にまでこんなふうに言われるなんてびっくり』と言っていますが、私は何も言わずに教会をあとにしました。

 冷たい風を体に感じながら、重い足を引きずるように、あてもなく歩き続けます。

 隣で神様が何か言っているようでしたが、耳に入って来ませんでした。

 頭がぼうっとするのは、疲れているからでしょう。体が重いのも、疲れているからでしょう。うまく息ができないのも……疲れているから……。

『はい、ストッープ。休憩するよ、勇者』

「休憩……。いりません、魔王城、もうすぐだと思う、ので」

『近づいてはいるけど、まだ距離あるよ。このまま歩いたって着かないから、休む休む』

 また返事をする前に引っ張られ、私は廃墟になった小さな小屋に連れていかれました。

『神様直々に手当するんだから、感謝してよねー』

 しなくていいのに、神様はさっさと私のケガに消毒液をかけたり包帯を巻いたり、あれよあれよと処置していきます。その手を振り払うのもめんどうで、私は口を閉じたまま身を預けました。

『ちょっとひどいよねぇ、さっきの聖女』

 その声が少し低かったのを感じ、とっさに「彼女は正しいことをしただけです」と声を出していました。

「聖女は勇者のように人間を守る存在なのでしょう。彼女は何も間違ったことはしていない。罰を受ける必要は絶対にありません」

『……そう? ま、聖女にまでやったりしないよ』

 神様はけろっとした様子で声色を戻し、

『あ、タオルないや。なんでさっきハンカチもらわなかったのさぁ』

 口を尖らせて、仕方なさそうにガーゼを水で湿らせて血を拭いました。

 ハンカチ……。私に差し出されたハンカチ。

 受け取れなかった。いえ、受け取りたくなかった。

『どうして?』

「……あの人の物語に関わりたくなかったんです」

『物語?』

「人間は、置かれたコミュニティで生きていくものです。自分から望んで出て行くならまだしも、追い出されたら一気に死に近づく……と思っています。あの人は、村で生きていく。共同体の中で、同じように行動して、同じように生きるんです。だから、ほんとうは私を助けるべきじゃなかった。あれは、最も正しい行動ではないはずです」

 神様は灰色の目で続きを待ちました。

「人間が魔なるものを恐れるのは、生存本能によるものなのでしょう? 彼らの行動は正しい。何も間違ってはいません。異物は私の方なのですから」

『だからって、抵抗しないのはどうかと思うよ』

「誰かの物語に影響を与えるくらいなら、なにもせずに消えたい。私のせいで、誰かが死んだり不幸になったりするのは見たくない。私の知らないところで、勝手に生きて、幸せになって、物語を紡いでいればいい。誰かの物語に責任なんて持ちたくないんです」

『それは無理だよ。だって君は勇者だから』

 求めていない役です。私には演じきれない。そんな責任は負いたくない。

「……ただ、傍観者のまま終わりたかったのに」

 勇者になんてならなければ、とっくに私の物語は終わっていたのに。

 魔なるものたちの命も奪わず、人間を助けることもなく、新たな傷を得ることもなく、死んでいたはずなのに。

 ……もしかして、これが天罰なのでしょうか。

 すべて諦めて、何もかもを放り出して、どうでもいいからと傍観者でいようとした私への罰なのでしょうか。

 傷つきたくなくて、苦しみたくなくて、何にも気づかないフリをした愚かな私への報いなのでしょうか。

 誰が死のうが、泣こうが、救いを求めようが、ぜんぶ見ないフリをした。あの人の謝罪も受け入れなかった。……ああ、たしかに、あの行動は善ではない。

 どうせ誰とも結ばないからと、汚れることを躊躇いもしなかったこの手。

 魔なるものの命を奪った分、人間の命が救われました。私の意思の外側で。

 ぜんぶ神様に言われてやったことです。何も言われなかったら、私はまた、何もしなかったでしょう。

 知れば、見れば、聞けば、感情が揺らぐ。ろくに力もないくせに、物語に入ろうとしてしまう。愚かしくもこんな私が『助けたい』などと思ってしまうから。

 誰も傷つけないように、自分が傷つかないように、はやく消えてしまいたかった。

『そんなに生きるのは嫌かい?』

 嫌です。どうしたって苦しいから。どんなに逃げても誰かの物語を壊してしまうから。

 心が死ねば楽になると思いましたが、私の心は壊れてくれませんでした。

 だから、気づかないフリをするしかなかった。

『いつか報われる日が来るかもしれなくても?』

 報われるのは、がんばっている人であるべきです。どうでもいい、どうでもいいと諦めて死を望む私は報われるべきではありません。がんばって生きている人に失礼です。私が報われたら、不公平です。

『どうしてそこまで否定するんだい?』

 がんばっている人が報われて、そうでない人はそれまでで。そういう仕組みになっていると思わなければ。

「……苦しいじゃないですか」

『君もがんばっていると思うよ?』

 いいえ、いいえ……。そんなことない。私ががんばっているのなら、生きるために必死な誰かはどうなるのでしょう。誰かを傷つけてまで生きようともがく人たちが死に、死にたいと願う私が生きるのはおかしい。みんな正しく生きている。正しくないのは私の方。

 ルーレットはちゃんと回されるべきです。

『やれやれ、人間って愚かだね、ほんと』

 うつむく私の顔を持ちあげ、神様は笑いました。

『そんな君に朗報だよ。魔王城はここから歩いて三日。魔観測基地を抜けた先が目的地。君の望みはすぐそこだよ』

 だから、と妙に優しげな声色で神様は私の頭を撫でました。

『もうちょっとだけ、がんばろうね、勇者』


 気がつくと、私は眠っていたようでした。ハッとして体を起こすと、神様が私のそばで『まだ夜明け前だよ?』とおかしそうにしています。

 夜明け前……。私はいつから眠っていたのでしょう。記憶を手繰りますが、眠る前の意識が曖昧で思い出せませんでした。抑え込んでいた感情がぐるぐると駆け巡ったような気がします。まだ靄のかかったような脳で、改めて望むものを見たようでした。

『もう出発するかい?』

「……行きます」

 そうして、私はまた歩き出しました。眠っている間に、神様が治療してくれたのでしょうか。足の痛みはありませんでした。

 ちなみに、食事は神様が用意したものを食べてあります。いつ用意したんでしょう。神様だけあり、不思議なことの方が多いのです。

『水、大事』と鞄に何本もの水を詰め込まれ、傾きそうな重心を戻しながら進んでいきます。大量の水に潰されるように消毒液や包帯が散乱する中に、最後の金貨を見つけました。残り一枚。じゅうぶんすぎる金額です。私は金貨をポケットに移動させると、隣で聞こえる神様の声に意識を向けました。

 神様はまた何気ない話をしていました。私からの返答を求めているわけでもなく、ただ無音を壊すためだけにしゃべり続けます。

 足音ひとつ、姿はふたつ。不思議な旅はもうすぐ終わる。

 私はもう、はやく魔王に会いたかった。旅を終わらせたかった。

 何年もなく、この数日間だけあった隣の声も、聞けるのはあと少し。最後ならいいかなと、私は神様の声を聴きながら足を踏み出しました。

 太陽が高く昇るころ、私は大きな町の前にいました。神様曰く、ここが魔王城までにある最後の町なのだそうです。食糧の補充をするように言われ、私は店を探します。ポケットの中の金貨を転がし、使い切るくらい買ってしまおうと思い、辺りを見回していた時。

「…………こども」

 建物と建物の隙間、薄暗い路地裏にうずくまるこどもたちの姿が見えました。

 誰もかれも幼いようです。年齢は二桁に乗っていないでしょう。

 みすぼらしい服を着て、路地裏から出てくることを禁じられているように一定の場所で固まっています。その向こうで、影が動いたような気がしました。見えないところや、路地裏の奥にはまだいるのでしょう。

 視線を移した先は店が立ち並ぶストリート。魔王城が近いからか、武器を取り扱う店が目立ちます。いたるところに厳重な装備をした人間がいて、物々しい雰囲気がありました。

 彼らは金銭を惜しまずに道具や食べ物を買い込んでいるようです。

 少し見ているだけでも、多くの金貨が動いているのがわかりました。この町、儲かっていそうですね。

 その割には……。

『魔王城に近いから、魔なるものもたくさん出るんだろうね。町を守る代わりに、道具や食べ物を提供する。提供する代わりに、得た金で新たな装備を作ったり食糧を輸入したりする。そうやって循環しているんだよ、この町は』

「潤っている、ということですか」

『そ。とはいえ、力にならない者にただ飯を分けるほど裕福じゃないと思うよ。この町、魔物の被害が多いからね』

 私は光沢のうつくしい鎧を身にまとった人間たちの横を抜け、食糧品を扱う店に入りました。ポケットの中の金貨を握り、光と闇で分けられたこどもたちを思い浮かべながら。

 やがて、魔王城までの食べ物を買って出てきた私は、おつりでもらった大量の銀貨や銅貨を手に路地裏に向かいました。近づいてきた私を見て、弾かれた様に奥へと逃げるこどもたち。私はフードを被って顔を隠し、大人たちから見えないところまで進むと言いました。

「魔王城までの道を教えてくれたら、このお金を差し上げますよ」

 誰もいない路地裏に向かって銀貨を数枚見せました。

 気配はあります。私に見えないように窺っているはずです。

「いらないのですか?」

 銀貨を仕舞おうとした時、どこからか「ここからほくせーの道だよ」と声がしました。

 そこから、「ドラゴンみたいな顔の岩を右!」とか「でこぼこした道を進めば魔かんとく……かんそく! 基地があるって聞いた」とか「あ、歩いて三日くらいだって!」とか、まだ拙い声と言葉で教えてくれました。私は頷くと、

「ありがとうございます。約束通り、これはあなた方のものです」

 大量のお金を路地裏にバラまきました。途端、わっと飛び出してきたこどもたちはざっと見ても十人以上。そのどれもが幼い子でした。

 私は黄色い歓声が飛び交う路地裏を抜け、町を出ると北西の道に進みます。

『いいの?』

「北西ってこっちで合っていますか」

『合ってるけどさ。お金はいいの? 三日はかかるのに、食べ物ほとんど買ってきていないじゃないか』

「水があれば生きられます」

『魔王と戦いに行くって言ってるのにー』

 私が買ったのは、いつぞやに食べたものと似たサンドウィッチでした。それひとつだけ。

 あとは水でどうにかなるでしょう。人間、水さえ飲めばだいじょうぶです。

『勇者っぽいことしたつもり?』

「いいえ。ただの自己満足です」

 他の言い方をすれば、偽善。あの町の彼らのようなこどもたちは、きっと数え切れないほどいるでしょう。ほんとうの勇者ならば、そのすべてにお金を渡すべきです。見えない者まで探し出し、手を差し伸べるべきです。でも私は違う。そんな立派な人間じゃない。勇者と呼ばれるだけの力なき人間です。ただの気まぐれで数人のこどもの一時の飢えを救っただけの偽善者です。

 これから死にゆく私には必要のない銀貨たち。テキトーに決めた使い道が、あのこどもたちだっただけ。それ以上の理由はありません。

 情報という価値に対し、対価として支払うのであれば、物語への介入にはならないでしょう。店でサンドウィッチを買ったのと同じ。物語の外側にある流れのひとつ。

『君って結構めんどくさいかも』

 やかましいです。

 私はこどもたちから教えてもらった情報の通りに進み、ドラゴンの顔をした岩までやってきました。いつの間にか月が昇っています。

『休憩って言葉、知ってる?』

「もちろんです」

 私はドラゴン岩に腰かけ、買ったサンドウィッチをぺろりと食べました。

 はっぴー。

『明日のご飯はどうするのさ』

「水があるじゃないですか」

 水は立派なご飯です。しかも、きれいな水です。お腹を壊すこともありません。はっぴー。

 月を眺めながら眠るような、ロマンチックな趣味は残念ながら私にはありません。ローブにくるまって眠ろうとしましたが、やはり魔物に阻まれました。魔王城が近いからでしょうか。なんとなく出てくる敵が強いように思います。倒しますけど。

 小刻みに眠り、朝日が顔を出す前に出発します。

『なんで夜明け前に出発するかなぁ。もっとのんびりしよーよー』

 文句を垂れ流す神様ですが、私が進めばついてきます。

 二日目も同じように進み、同じように休息を取り、三日目の夜明け前。

 背もたれにしていた岩に別れを告げ、私は待ちに待ったその日を迎えたのでした。

 心なしか軽い体ででこぼこした道を歩き、水を飲むことも忘れて足を動かしていると、

「なんですかね、あれ」

 変な建物が見えました。いくつかの旗がなびき、簡素な建物が並んでいます。何人かの人間も確認できました。みな、例の町で見た武具をつけているようです。

『魔観測基地だよ。魔王城と人間を分ける最終区域。簡単に言えば、魔王城の様子を監視したり、湧いた魔なるものを倒したり、迷って入ってきちゃった人間を保護したりしている場所さ』

「迷って入ってくることなんてあるのでしょうか」

 ほとんど一本道だった気がしますけど。それで迷うなら、かなりのお間抜けさんかもしれませんね。

『魔王城に行くまでには、基地を抜けないといけないんだけど、だいじょうぶかい?』

「えー、めんどくさいです。神様の力でなんとかならないんですか」

『いつもは勇者だって言えば通してくれるんだけど』

「私ができない技じゃないですか、それ」

『困ったねぇ』

 困ったと言っても仕方がありません。なぜなら、この先に魔王城があるのですから。

 私を殺してくれる魔王が待っているのですから。

『ちょっとうれしそうだね?』

「気のせいだと思いますよ」

 私は少し考え、辺りを見回します。ごろごろとした岩肌が突出し、岩壁がそびえるところを進むのは現実的ではありません。がんばればいけそうですが、ちょっといやです。がんばりたくない私は強行突破の作戦を頭に浮かべました。

『まじ?』

「まじです。行ってきます」

『いってらっしゃーい。って、ついていくんだけどさ』

 私はフードの先端を指でつかみ、基地の入り口と思わしき門まで進みます。二人の門番らしき人間が武器をこちらに向け、「何者だ!」と叫びました。

「道に迷ってしまって」うそです。

「道に……?」

 訝しげな門番さん。当然の反応ですね。

「ずっと歩いて疲れてしまったので、休憩させていただけませんか」

 私はふらふらとおぼつかない足取りで近づきます。

 慌てた門番さんが武器を置き、私に駆け寄り、もう一人が門を開けるようどこかに指示しました。

「だいじょうぶかい? 立てる?」

 そう言って肩を貸してくれた門番さん。開かれた門の先にゆっくりと歩いて行き、フードの隙間から周囲を確認します。定期的に配置された兵士たち。簡素な施設の向こうにも固く閉じられた大きな門。その先がどうなっているかはわかりません。あの門、どうやって開けましょうか。さすがに道に迷ったでは通らないでしょう。家が魔王城になってしまいますからね。

 剣で斬る……斬れるでしょうか? いえ、あの門は基地を守るものでもあります。へたに壊して魔なるものたちの侵入を許すのは避けましょう。

「もう少しだぞ」

 優しく声をかけてくれる門番さんに何も言えないまま、私は考えます。

 タイミングを間違えてはいけない。行動を間違えてはいけない。

 さて、どうしましょう。

 神様は例のごとく何も言わず、おもしろそうに基地を眺めたり兵士をおちょくったりしています。

 神様の声は私以外には聴こえない。触れることもできない。

 それならやはり、もうこれしかない。

 私がフードを取ろうとした時でした。

 遠くで「魔物だ!」と声があがりました。

『あれ、観測基地なのに結界張ってないの?』

「あとで聖女でもつかわせて結界を張るよう伝えてください」

 でも、今はチャンスです。

「魔物⁉ 君、こっちに――」

 私を安全なところに避難させようとした兵士の腕をすり抜け、混乱の真ん中向かって走り出しました。

「ちょっと君⁉ どこに行くんだ! そっちは危ない!」

 ありがとう、優しい兵士さん。私を助けようとしてくれて。そして、ごめんなさい。嘘をついて。

 出現した魔物は、基地で働く兵士でも手こずる強いやつのようでした。ケガをした兵士を守る者、武器を手に戦う者、指揮を取る者。

 彼らの合間を縫って魔王城に続く門のもとへ。

 途中、「どうして基地内に魔物が⁉」、「結界はどうなってる!」といった声が聴こえましたが、気にしていられませんでした。魔物に気を取られ、私の存在に気がつく人はいません。門までの道で暴れる魔物は、雄叫びをあげて兵士たちの戦力を削ごうとしています。大きな体が四本足で支えられ、その下はがら空きです。兵士たちが四方から攻撃しているため、魔物はその場から動けずにいるようです。

 うん、だいじょうぶそうですね。

 追いかけてきた兵士が私を呼び止める声を背に、思い切り地面を滑って魔物の下を潜り抜けました。魔物の真下に来た時、手のひらを一瞬、地面に強く当てました。

 勢いそのままに、私は門の前までやってきます。土埃に姿を消されているうちに、私は門を守る兵士に詰め寄りました。多くの兵士が魔物退治に駆り出されている中、門番は自分の仕事を果たしているようです。

 立派ですが、今回ばかりはやめてほしかったですね。

「君は……?」

 私はフードを被ったまま答えます。「勇者です」と。

「ゆ、勇者だって⁉ あ……、たしかにそんな気配がするような……」

 その時、ひとりの門番が言いました。

「君がほんとうに勇者ならば、あの魔物を倒してくれないだろうか」

 その言葉、待っていましたよ。

「はい、お任せください」

 私は大剣を引き抜き、遠くで暴れる魔物に向けました。

「では、勇者の力をご覧に入れましょう」

 剣先が示す魔物を見る門番たち。私は自分の中にある力が魔物の下に残っていることを確認し、発動しました。

 地面から飛び出た無数の茨が魔物を串刺しにし、次々に突き刺さります。魔物は地面から持ち上げられ、空中で断末魔をあげると動きを止めました。

 唖然と魔物を見上げる兵士たちは、爆発するように消えたのを目撃すると一瞬の静寂のちに歓声をあげました。

 口々に喜びの言葉を叫び、武器を高々と上げて勝どきをあげています。

 興奮しているのは戦っていた兵士たちだけではありません。私のそばで見守っていた門番たちも頬を紅潮させて手を叩きました。

「ゆ、勇者様だ! 紛れもなく勇者様だ!」

 もっと言ってください。それが私を勇者たらしめることになりますからね。

 門番から広がったそれは、次第に兵士たちに広がっていきます。

 そんな中、喜びよりも驚きが勝っている兵士が近づいてきました。私を助けようとしてくれた兵士さんでした。

「ま、まさか勇者様だったなんて……。どうして教えてくださらなかったのですか」

 その質問も待っていました。

「私はこのような少女ですし、勇者と言っても信じてもらえないかと思ったのです」

「で、ですが……」

「それに、恥ずかしがり屋なので顔を見せることもできず、ただ怪しまれるだけかと思って……」私はフードを深くし、それっぽさをアピールします。私には噓つきの才能があるのかもしれません。

「そんな、お顔を見せるくらい……」と微笑む門番ですが、すかさず「顔を見られると恥ずかしさのあまり勇者としての力を出せないのです」と付け加えます。

 近くで、どうにか勇者の顔を一目見ようと窺っていた兵士が咄嗟に背筋を伸ばしました。

「そうでしたか……。ですが、あなたの力は紛れもなく勇者様のものです。あなたのおかげで死者が出ることなく、被害も少なく抑えられました。ここで疑ったりしませんよ」

 ……よしきた。

「ありがとうございます。そこで、ひとつお願いがあるのですが」

「何なりとお申し付けください」

 私は剣を仕舞い、魔王城へと続く門を指差しました。

「この門を開けてほしいのです」

「これは……恐ろしい魔王城へと続く門ですよ」

「だからこそ、です。私は勇者として、魔王を倒しに行く使命があります」

 兵士たちの間に不安そうなざわめきが生じます。

「どうか、私に勇者の役割を果たさせてください」

 躊躇いなく言う私に、やがて兵士さんが頷きました。

「わかりました。どうか、お気をつけて」

 彼の指示で門は開かれました。武器や食料の提供を提案されましたが、丁寧に断りました。勇者には必要でも、私には必要のないものです。

 これまでになく多くの人間の視線を感じながら、私は勇者として振る舞います。

「皆さま、ありがとうございました」

 お辞儀をすれば、たくさんの無事を祈る声や激励の言葉が聞こえます。

 きっと、これが本来の勇者の姿なのでしょう。

 私という人間にかけられるべきではない言葉たち、感情。もったいないことです。

「我々はここで待っておりますから。どうか、生きて帰ってきてください」

 最後に、兵士さんが言いました。私は嘘の言葉を言うとして口を開き、

「…………」

 何も言わずに手を振って応えました。

 彼らの視線からはやく消えたくて、私の足は次第に速くなっていきました。

 一切整備されていない道を往き、門が見えなくなったところで、ふと。

「……神様?」

 いつものやかましい声が聴こえないことに気がつきました。

 辺りを見回しても、落ち着かないくぐもった雰囲気が漂うだけで誰の姿もありません。命の気配がない。ここから先には死しかないとでもいうように、草木もなければ鳥の声もしない。私は、単身敵地に赴く特攻隊員のように見えるのでしょうか。実際、そうなんですけれど。

 きょろきょろと見て、やはり神様の姿がないことを確認すると、私はまた歩き出しました。いないのならそれで、特に問題はありません。

 人間が来ることのない場所です。私はフードを取って顔を晒しながら進みます。

 どこからが魔王城の敷地なのかわかりませんが、陰鬱な空気にまとわれた辺りを見るに、もう入っているのでしょう。けれど、魔族も魔物も出てきません。

 明らかに不気味な世界を、私は自分の足音と呼吸音だけを聞きながら進みました。

 もうすぐ終わる。やっと終わる。

 ずっと待っていた日が訪れる。そのために、今日まで生きてきたのです。

 箱庭を飛び出したあの日から、そんなに日数は経っていないのに、なぜだか何年も過ぎたような気がします。何も考えないようにし、何も感じないように生きてきた奴隷の時とは、比べ物にならない濃い経験をしたからかもしれません。

 人は、これを充実と呼ぶのでしょうか。

 新たな傷と罪が増え続けた日々が充実ならば、私はいらない。

 ええ、そうですね。やっぱり終わらせて、何もかもなくなるのがよいでしょう。

 私にとって、それが幸せなのでしょう。

 足が止まりました。眼前に高台が続いています。その先端には大きな建物。

 黒々とした外壁に、鬱々としたオーラをまとった全体。

「……っぽいなぁ」

 ふと気がつくと、でこぼこしていただけだった道には骨らしき物や識別できない何かがごろごろ転がっています。それらは、魔王城への道を彩っているようでした。

「趣味が悪い……」

 魔王ですから、趣味が良いというべきでしょうか?

 そんな魔王ロードですが、ここも魔なるものの気配はなく、ただの散歩になりました。

 やがて、大きな扉の前に辿り着きました。

 こちらも黒々と重厚感のある見た目と雰囲気。……入っていいのでしょうか。

 マナーとしてはノックをするべきですよね。ええと、どこを叩けばいいんだ、これ。

 大きすぎる扉にパンチを繰り出そうとした時。

『やあ、ゴールおめでとう、勇者』

 音もなく、いつものように神様が隣にいました。

「帰ったのかと思いました」

『ちょっと野暮用があってね。君のゴールに間に合ってよかったよー。いえーい』

 神様は楽しそうに手を挙げました。……なんでしょう?

『ハイタッチ知らない? うそーん。まあいいや。ここが見ての通り魔王城さ。即死トラップとかあるかもしれないから気をつけてね。はいこれ、餞別』

 神様は短剣を差し出しました。この短剣は……。

「神様に泥棒されたやつ」

『先に泥棒したのは君だろう』

 私が終わるために手に取り、終わらせないために奪われた短剣。

 おかえりなさい。一緒にいきましょう。

 私は受け取り、腰に挿しました。

『じゃあ、勇者としての使命、よろしくね』

 私の気持ちを知っている神様は、灰色の目で笑いました。

 ノックを三回。重そうな扉はほんとうに重く、全身で押してやっと開いた隙間に体を滑り込ませました。扉はゆっくりと自然に閉まっていきます。完全に閉まる直前、こちらを見る神様の口が開いたのを見ました。

 ――君の願いが叶うよう、祈っているよ。

 応える前に、扉は固く閉ざされました。

 光のない室内。真っ暗闇で何も見えません。光源……持っていませんね。

 そう思った時、ひとつ、ふたつ、みっつとロウソクに火が灯っていきます。露わになったのは、長く長く伸びる廊下。ロウソクが奥へと明かりをつけていき、まるで「こっちだよ」と誘っているようでした。

 いくつか部屋に続くと思われる扉がありますが、気にせずロウソクの示す方へ歩いて行きます。

 ここは魔王城の中。……ですよね?

 不安になるくらい何も出てきません。さすがにそれっぽい見た目のただの城ってことは……。

「…………」

 ありうると思えてしまうので、いっそのこと魔族とか出てきてくれませんかね。

 そういえば、即死トラップがどうのって言っていましたけど。

 コツ、コツ、コツ、コツ……。自分の足音が規則的に響くだけで、他に気になる音もありません。トラップが発動する気配もありません。

 魔王城……。魔王城……?

 不審だけが積もる中、しばらく歩き続けると、ひらけた場所に辿り着きました。

 広い広い空間。家具も何もない場所。ただひとつあるもの。ただひとりいるもの。

 数段高い場所に設置された玉座と呼ぶにふさわしい荘厳な椅子。

 そこに鎮座するは――。

「あなたが魔王ですか」

 そのひとは、閉じていた瞳をゆっくりと開きました。見たこともない、青い青い目。

 私にはない、うつくしい色。

「はい、魔王です」

 そう言って、魔王は笑いました。ぬくもりと優しさを閉じ込めた慈愛のまなざし。私はもらったことがありませんが、それがあるなら今この時に見ているものがそれだろうと思うくらい穏やかな微笑み。

 きれいなレース、ひらひらと滑らかな服、光るような白の服。まるで、町で見た聖女のような姿です。魔王だと言われたのに、あまりに神々しくてその言葉を疑ってしまいそうになります。そう思わせる最大の理由は、頭の上で光るふたつの光輪。

 神様に仕える存在と言われた方が納得します。

 白く透き通った長い髪が玉座に沿って流れ、小柄な体を包んでいるようです。

 魔王。それに似合わぬ少女の姿。

 性別はわかりませんが、見た目から彼女と呼ぶのがふさわしいでしょう。

 乱れぬ姿勢で鎮座する彼女は、青い目で真っ直ぐ私を見るとこう問いました。

「きみは、勇者ですね」

 心の底から肯定はできない。したくない。

 曇りなき青から目を逸らすように視線を避け、「そのようです」と答えました。

「……あなたはずいぶんと、魔王らしくない見た目をしているのですね」

 魔王と呼ぶには神聖すぎる彼女は、柔らかな笑みで、

「そういうきみも、ずいぶんと勇者らしくない見た目をしていらっしゃいます」

 楽しそうに言いました。

 丁寧な言葉、似合わぬ姿、落ち着いた態度。そのどれもが『ぽく』なく、私はどうすればいいのかわかりませんでした。

 でも、魔王なんですよね。それなら、私は……。

「魔王さん」

「はい」

「あなたにお願いがあるのです」

「なんでしょう?」

 私は彼女の目をそっと見つめました。すべてを包み込むように笑む魔王さんは、なにもかも見透かしたように黙っています。

「私を殺してください」

 発する言葉を知っていたように、なにも揺らがず彼女は答えます。「はい、いいですよ」と。

 瞬間、彼女は玉座から姿を消しました。どこに、と思った時には、私の目の前に立っていました。

 近くで見ると、よりうつくしい。その身から放つ空気は魔なるものとは思えません。けれど、勇者の力が言っている。このひとは魔王だ、と。

 目の前に来た理由なんてひとつでしょう。私の願いを承諾したのですから、きっと、それを果たす為に……。

 その時が来るのを待ち、目を閉じます。どんな方法で殺されるのか、魔王だから残虐なことをしてくるのか、どうでもよかった。やっと終わる。それだけでうれしかったのです。

 人間と同じ指で首にそっと触れてくるのを感じます。

 首絞めは……ちょっといやですけど。文句は言いません。殺してくれるのならばなんでもいい。お好きにしてください。

 ところが、いつまで経っても息が苦しくなることはありません。

 指は、私の顔を包んで止まっていました。

「勇者さん」優しく呼ぶ声。

 私はそっと目を開けます。青い目がすぐそこにありました。

「きみの願いは必ず聞き届けます。お約束します。ですが、その前に、ぼくと勝負をしましょう」

「ぼく……?」

 脳が混乱して勝負よりも『ぼく』という一人称が気になりました。脳、そっちじゃない。

「勇者さんが勝ったら、今すぐにきみの願いを叶えます。けれど、ぼくが勝ったら、その時は……」

「その時は?」

「ぼくのお願いを聞いてください」

「お願い、とは」

「それは、ぼくが勝ったらお教えします。きみが勝てば、知ることのないものですから」

 そう言って、魔王さんは私から離れました。

「勝負とは、具体的に何をすればいいのですか」

「簡単ですよ。魔王と勇者。両者が魔王城に集まったならば、することはいつの世もひとつだけ」

 魔王さんは両手を広げ、神のごとく微笑んで言いました。「戦いましょう」と。

 途端、空中にいくつもの文様が浮かび上がります。

 たしかあれは、魔法陣でしたっけ。魔法の練習をした時に教えてもらった気がします。

 光る魔法陣から無数の光球が出現し、私に向かって飛んできます。

 とっさに避けましたが、もしかして、避けなければ死ぬのでは?

 魔王さんの攻撃で死ぬのであれば、それは私の願いと同じこと。わざわざ戦って私が勝たなくても、魔王さんのお願いとやらを聞くこともなく目的が達成されます。

 流れで剣も抜きましたが、この勝負、どう転んでも私の勝ちです。

 とはいえ、一応勇者っぽく振舞っておきましょう。

 負ける気満々の私はテキトーに剣を振り回して光球をさばき、踊るように移動する魔王さんに近づきます。だいたい、敵が近づいてきたら余裕はなくなるものです。

 遠ざけるため、倒すため、強めの攻撃をするはず。

 床を蹴ってスピードをあげ、一気に間合いに詰めます。

 ふらふらしていた私の動きが突然変化したのに驚いた様子の魔王さんは、真正面に向かって手をかざしました。浮かび上がる魔法陣。

 ……もらった。

 私は敵意がある体で持っていた大剣を棄て、身ひとつで飛び込みました。

 これで終わり。勇者は戦い、魔王に負けた。名もなき少女は人知れず消えた。

 物語はここでおしまい。

 今度こそ、ほんとうにおしまい。

 魔法陣から放たれる攻撃が私を貫こうとした時、ドンっと衝撃が加わり、仰向けに転がっていました。魔法は明後日の方向に飛び、なにも壊さずに消えていきます。

「え…………」

 床に強打されることもなく、一切の痛みのない体を困惑で埋めていました。

 頭を守るように伸ばされた手。顔に垂れる白い髪。重くないように少し浮かせつつも抱きしめる体。

「なんで、あなたが私を守るんですか……」

「きみが死んだら、ぼくのお願いを聞いてもらえないからです」

 魔王さんはふふっと微笑み、いつの間にか持っていた私の短剣を首に突きつけました。

 私を終わりに導く鋭い刃。それが今、魔王さんの手にありました。

 けれど、なんとなくですが、当てる気はないのだろうと思いました。

「ぼくの勝ちです」

「……まだ生きているのに?」

「相手を殺したら勝ちだとは一言も言っていませんよ?」

「……あなたは魔王なのに」

「魔王だから、殺すも生かすも好きなようにしているんです」

 穏やかな表情に似合わないセリフだこと。

「降参と言ってください」

 言ったら私の負けになってしまう。今すぐ死ねなくなってしまう。

 ……でも、少しだけ、この魔王っぽくない魔王さんのお願いとやらを聞いてみたいとも思ってしまった。もしかしたら、魔王を倒そうとする勇者をめちゃくちゃ拷問する趣味があるのかもしれません。じっくりみっちり殺したいので、戦いで死なれると困る可能性もあります。そうですよ、だって魔王なんですから。

 それに、私の願いを聞き届けると言ってくれた。必ず、と。

 ……それなら。

「……わかり、ました。降参です」

「わぁい!」

 無邪気な声で喜ぶ魔王さんは、「危ないので仕舞いましょうね!」と短剣を返すと、こっちに来てくださいと誘導しました。

「勇者さん、はやくはやく!」

 ほんとうに楽しそうで、嬉しそうです。なんだか、さっきまでの様子と少し違いますね。

 ちょっとこどもっぽいというか、あ、もしかして、猫かぶっていた説が浮上――。

「勇者さーん、こっちですよー」

「……いま行きます」

 魔王さんのテンションの差に若干の疲れを感じつつ、私は広い空間の奥にあった階段をのぼっていきます。この先に拷問部屋があるのでしょうか。地下の方が雰囲気出そうなんですけど。あれかな、換気の問題ですかね。

 血みどろの部屋を想像しながらやってきた二階にあたる空間はこれまた広く、そこには大きくて長いテーブルがずらっと並んでいました。上には言葉を失うくらい豪華な食べ物の数々。

 名前の知らない料理が無数に置かれ、いくつかのものからは白い湯気が立っています。

 驚いて動けない私に、魔王さんは何やらくるんだ布を持ってきてバッと広げました。

「ようこそ、魔王城へ~」

「…………」

「……勇者さーん?」

「ハッ! な、なんですか」

「なにって、お腹すいていませんか? ここまで遠かったでしょう?」

 ありきたりな心配をされました。

「拷問は……?」

「拷問? そんなこわい言葉、どこで知ったんですか」

「その白い布は」

 拘束用じゃないんでしょうか。何やら文字が書いてありますし。きっと、『ここがお前の墓場だ』とか書いてあるんですよ。

「これですか? 『大歓迎! 勇者さんいらっしゃい!』ですよ」

「この料理は」

「一緒にご飯を食べようと思って準備していたんです。ぼくの手作りですよ。えっへん」

 魔王の手作り料理……。人間が食べると死んだり、爆発したり? それか、気絶するくらい不味いのかもしれませんね。

「さあ、一緒に食べましょう?」

 椅子を引かれ、座るよう促されます。広いテーブルですが、魔王さんは私の向かいに座り、なんだかバランスのおかしな構図になりました。

 目の前で輝く品々からは、食欲を誘ういい匂いがします。箱庭を出てから食べたどの料理とも違う、とってもおいしそうな感じがします。たとえ毒が入っていたとしても、こんなにおいしそうならいいと思えました。

 ふと、魔王さんが両手を合わせているのに気がつきました。いつか見た、死んだこどもの前で誰かがしていた動作と同じです。

 あれの意味はなんでしたっけ……。

 私の視線に気づいたのか、魔王さんは説明します。

「食事は命をいただく行為です。そして、自分の命に変えていく行為でもあります。ですから、これからぼくたちの命となるものたちに感謝しているのですよ」

 そう言われると、私には食事をする意味も権利もないように思います。

 動かない私に、魔王さんは「一緒に食べましょう」と再度言いました。

「ぼくがきみに食べてほしいと思うのです。だめですか?」

 なんだか、教えを説かれている気分でした。実際は、魔王に食事に誘われているだけなのですが。

 ……いいでしょう。捨てる方がもったいないですからね。

 同じように手を合わせ、魔王さんの「いただきます」という言葉を真似て、私は一口食べました。

「……おいしい」

 思わず声が出るくらいおいしいものでした。びっくりしました。

 ずっと水しか飲んでいなかったからと言われればそれまでですが、それにしても食べる手を止めることができません。

 初めて見る料理。初めて感じる味。

 魔王に殺してもらうためにここまで来て、内容もわからない願いを聞くために連れてこられ、なぜか食事をすることになっている私。

 いずれにせよ死にたい気持ちは変わらないのに、正反対の行動を止められない。

 神様がいたら、きっと『愚かだなぁ』と言ったでしょう。私もそう思います。

 けれど、死にたくても生きたくても、おいしいものはおいしいのだと思いました。

 夢中で食べ、お皿が空になっていくのを感じていると、食べているのは私だけだと気づきました。魔王さんはにこにこしたままずっとこちらを眺めていたようです。

 ……なんか、恥ずかしいですね。

 テーブルマナーなんて知りませんし、常識的な食事の仕方すらわかりません。

 たぶん、みっともなく思われているのでしょう。

 相手が魔王だったとしても、気にするものは気にします。スプーンを持つ手を止め、スープの入ったお皿に置きました。

「あれ、お腹いっぱいですか?」

「そういうわけではないですが……。魔王さんは食べないのですか」

「あっ、そういえば。いやぁ、きみがとってもおいしそうに食べてくれるので、うれしくて見入ってしまったのですよ」

 彼女の笑顔から悪いものは感じられません。気を遣って言ったわけではなさそうでした。

「人間と仲良くしたくても、ぼくは魔王なので信じてもらえなくて。誰かと一緒にご飯を食べるだけでも……と思ってもうまくいかず、ずっとさみしかったのです」

 魔王さんはスープの中でスプーンをぐるぐると回しました。

「魔王の作った料理といっても、使っている材料も味付けも人間と同じものです。毒なんて入れません。ただ、一緒に、おいしいご飯を食べたいだけ。どうにか信じてもらいたくて色々工夫をしましたが、結局、料理の腕が上達しただけでした」

 小さく笑う魔王さんは、ですが、と声を弾ませます。

「勇者さんが来てくれた。ぼくのご飯を躊躇いなく食べてくれましたし、一緒に席についてくれています。それだけじゃありません。おいしいって言ってくれました。ここにはきみとぼくしかいません。どんな風に食べようが関係ないのです。おいしく食べていただければ、それで幸せなのですから」

 魔王さんはスープを一口飲み、「いつも通りの味だけど今までで一番おいしい!」とよくわからない感想を述べました。

 手でパンを掴み、千切ってスープに浸して食べ、きれいに盛り付けられたパスタをあっさり崩して楽しそうにフォークでくるくるしています。

 マナーなんかわかりませんが、とても楽しそうでおいしそうでした。

 そっとスプーンを持ち、私はまたお皿を空にするべく食べ始めました。

 しばらくして、あれだけあった料理がさっぱりなくなったのを見て魔王さんは頬をゆるゆるにして喜びました。

「はっぴーです!」

 我ながらよく食べたと思います。脳が最後の晩餐だと思って満腹だと教えるのをやめたと思ったほどです。

 魔王さんを真似て「ごちそうさまでした」と言った私は、食べ終わったお皿をそのままに、魔王さんが一階に行くと言うのでついていきました。

 玉座以外なにもない空間。なるほど、ここなら暴れても平気ですもんね。

 さて、お腹もふくれたところで、本題に入りましょう。

「魔王さん」

「はい~」

「約束通り、私を殺してください」

 そのために一階に来たのでしょう?

「へ⁉ 殺す⁉」

「魔王さんの願いを叶えましたよ」

「願い……? あっ、一緒にご飯を食べる?」

「そうです」

 けれど、魔王さんはぽかんとした表情で「ぼく、お願いが何か言ってませんでしたっけ?」とつぶやきました。

 ……え、まさか違うんですか。それっぽい雰囲気でそれっぽいことを言っていたのに?

「魔王さんのお願いって一体何なんですか」

「知りたいですか~?」

「知って叶えないと私を殺してくれないじゃないですか」

「ええ、そうですね」

 魔王さんは嬉しそうに、楽しそうに、そしてどこか切なさを閉じ込めた笑みで手を差し出しました。

「勇者さん、ぼくと一緒に旅をしましょう」

「……た、び?」

 いえ、旅くらい知っています。魔王城に来るまでもやってきたことです。言葉がうまく言えなかったのは、無知だからじゃなくて。

「そ……それじゃあ、私はいつ死ねるんですか。旅をするだなんて、曖昧なこと……」

「旅の終わりはきみが決めて構いません」

「え……?」

「旅といっても、大層な理由はありません。目的地もありません。ただ、ぼくと一緒に歩いて、ご飯を食べて、眠って、おはようとかおやすみとか、何気ない日々を過ごしてほしいのです」

「なんですか、それ……」

 それで何がどうなって、なんの理由で……あ、理由はないんでしたっけ。もう意味がわかりません。魔王が勇者と旅をする? 敵じゃないんですか?

「あまりに長い時を生きてきたぼくは、戦うよりも手を取り合うことを望んだのです。ですが、敵対し殺し合うことを定められた魔王と勇者は、どうしたって争ってしまう……。そんな時、きみがやってきた」

 澄んだ青が私を捉えて離しません。

「勇者なのに魔王であるぼくを倒す気もなく、逆に殺してほしいと言ってくる。今まで誰ひとりとして食べてくれなかった料理をおいしいと言ってくれた。神様も魔族も人間も、自分自身もいやで諦めているきみなら、ぼくの手を取ってくれるかもしれないと思ったのですよ」

「めちゃくちゃですね……」

「もちろん、きみにとってもいいことがありますよ。きみが『もう旅はおしまい』と言ったら、ぼくは受け入れて約束を果たします。それ以外にも、そうですねぇ、毎日おいしいご飯をお約束します。ふかふかなお布団のお宿にも泊まりましょう。襲ってくる魔物には魔王パンチをしますよ。ぼく、魔族きらいなので容赦しません。そして最後に、きみを傷つけるものから守ります」

「そんな……こと……一体あなたに何の得があるというのです……」

 意味がわからない。まったくわからない。私を物語に登場させてどうしようというのでしょう。あなたの物語に責任なんて持てない。そんな力はないと何度も……。

 ざわめく心を感じて落ち着かない私。

 しかし、返ってきた魔王さんの答えは困惑が止まらない私をさらに戸惑わせるものでした。

「決まっているじゃないですか。ぼくがきみのことを大好きだからです!」

「…………は?」

 だいすき? すきって、えっと、あれ。知らない。どこか遠いところの感情ですよね。

「大切な人と一緒にいて、いろんな場所に行って、思い出を作りたいと思うのは当然のことだと思いませんか? つまり、そういうわけです!」

 どういうわけですか。

「あとですね、勇者さんとたくさんおしゃべりしたいな~と思うのです。さあ、時間は有限です。お腹もいっぱいになったところで、さっそくぼくたちの旅を始めようではありませんか!」

 聖女のような姿。魔族なのに青い目。人間と仲良くしたくてがんばっている。魔なるものの頂点に立つのに魔族嫌い。倒すべき存在のはずの勇者が好き。

 ……好き。初めて言われた言葉です。ほんとうにあるんですね。

 ああ、神様のあれは違いますよ。あれはきっと冗談でしょうから。

 どれもこれも魔王っぽくない要素と私には似合わない言葉。

 知らず笑い声をあげていました。

「……っふふ、あはは」

「ゆ、勇者さん? ……初めて笑っているところを見ました」

「はー、おかしい。おかしいですね、あなたって」

「きみもじゅうぶんおかしな人ですよ?」

「ええ、ほんとうに。私たち、おかしいです」

 あまりのおかしさに、なんだかどうでもよくなってしまいました。

 冷たくて暗い自棄ではありません。

 まだ透明で少しあたたかい気がする諦念でした。

 いつでも終わらせてくれるなら安心して手を取れる。差し出したひとが魔王だから汚れていても掴んでくれると思いました。

 誰の物語にも関わりたくなかった。けれど、魔王ならば仕方ないですよね。だって私は勇者とやらになってしまったのですから。

「いいですよ、いきましょう」

「ほんとですか⁉ やったぁ!」

 恨めしいほどに広く、空しいほどに澄んだ空のような青い目を、魔王さんはこれでもかときらきら輝かせました。

 結ばれるのを待っている手に、私の手を重ねます。躊躇いなく握ると、魔王さんは白く細い指をしっかり絡ませて微笑みました。

 このひとの笑顔は、いつでも優しい色をしています。

 死にたがりで諦めて、がんばることもいやだと耳を塞いで閉じこもる私には向けられるべきではない笑顔。けれど、手を繋いでしまったから離れられない。

 めんどくさがり屋でわがままな私は、顔を背けることも億劫だと心につぶやきました。

「さあ、しゅっぱーつ!」

 優しくも強い力で引っ張られ、入口とは反対の扉から飛び出しました。

 瞬間、一面に広がる青い空。

 あれ、こんなにきれいでしたっけ。もっと陰鬱な空気だったはずなのに。

「れっつご~~!」

 ていうか、ここ、たしか崖の上に建っていたはずですよね。入口の向こうってつまり、断崖絶――。

「……うそでしょ」

「旅の始まりは元気よく行きたいですからね!」

「げ、元気すぎ、では……」

 手を繋いでいるのでどうしようもありません。全然離してくれる気配がないのです。離してください離せ力が強いなもう。

 私たちはそのまま崖から飛び出し、というか落ち、「さっそく旅が終わったかも」と考えていたところで魔法陣によって助かりました。

 虚無虚無しい気持ちのまま身を任せていたので、どのような魔法だったのかさっぱりわかりません。いまそれどうでもいいです。

 とんでもないスタートにこの先が思いやられる……と半ば頭を抱えていた時でした。

『ちょいちょいちょーい、なんで仲良くなってんのさぁ』

 神様でした。まだいたんだ。

『話と違うじゃないか。どーゆーこと、魔王』

 てっきり私に言っているのかと思いましたが、神様は魔王さんに指を指して不満そうにしています。

「どうもこうも、勇者さんと旅をすることになりまして。いえーい」

 私に向かって両手を挙げる魔王さん。あ、これ知っています。さっき知りました。

 同じように両手を挙げると、魔王さんがぴったり合わせるように動かしました。

『困るよ。ちゃんと使命を果たしてくれないと』

「だいじょうぶですよ。同じことは繰り返しませんし、誰にも渡すつもりもありませんから」

『……そ。ならいいよ。あ、勇者』

 不満げな神様はいつもの声色に戻して私を呼びます。

『一応、くぎを刺しておくけど、勇者としての使命を果たしてね。旅をするなって言ってるんじゃないよ。使命さえ果たしてくれれば、神様は君の生き方にケチつけたりしないから』

 勇者としての使命。何度も言われた言葉ですが、魔王を倒せってことでしょうか。

 毎日殺意を忘れずに首を落とす機会を狙えばいいのでしょうね。任せてください。それっぽくテキトーにそれなりになんとなくやりますよ。

『推してる君の姿がもう少し長く見られるなら神様としてもうれしいかも~って感じ?』

「…………」

『うわぁ、冷たい目。そんじゃ、よろしくね、ふたりとも。そろそろドラマが始まるから、神様は帰るよ』

 二度と来ないでほしいです。なんかいやです。いろいろと胡散臭くていやです。

『ねえ勇者、あの言葉だけど、神様は本気で思ってるから』

「あの言葉?」

『君の願い、叶うといいね』

「…………それは」

 言葉を言いかけた時、すでに神様の姿はありませんでした。

 ……最初から最後まで、勝手なひとです。でもそれは、私も同じ。

「さて、お邪魔な神様がいなくなったところで、今度こそ行きましょうか、勇者さん」

「そうですね、魔王さん」

 そうして、私はまた歩き出しました。何度も止めたいと願った足を自分の意思で動かして、違う声が聴こえるようになった隣を感じて、まだ知らぬ場所へ。

「ぼく、ふたり旅って初めてです」

「私もです」

「魔王城に来るまでは神様と一緒に旅をしてきたのでないですか?」

「あれはノーカンですから」

 勇者と魔王にしか見えない神様。たしかに一緒にいましたが、そばにいてもずっとひとりぼっちの気がしていました。

 なぜでしょうか。うーん、嫌いなんでしょうね、きっと。

 それに、神様の灰色の目は私を見ているようで見ていなかった。どこか遠くを見ていた気がしてなりませんでした。

 これからの旅がひとりぼっちかどうかは、まだわかりません。それと同じように、旅の終わりがいつか、どこかもわかりません。

 案外すぐかもしれませんし、私が笑ってしまうくらい遠い先かもしれません。

 けれど、今はまだ、短剣を手に取る必要はないと思えました。

「……勇者さん」

 気持ちの良い風を感じていると、神妙な面持ちの魔王さんに呼び止められました。

「なんですか?」

「さっきのハイタッチで思わず手を離してしまったのですが……、もう一度手を繋いで歩こう歩こうしませんか!」

 なるほど。

「いやです」

「いやです⁉」

「私、誰かに触れられるの苦手なんです」

「だ、だってあの時はぼくの手を取ってくれたじゃないですか」

「あれはほら、演出みたいなものですよ」

「演出⁉ え、えっと、それでは、ぎゅーっとするだけでも……」

「いやです」

「ああぁうぁう~……」

「行きますよ」

 嘆く魔王さんを促して、私はどこへ続いているかもわからない道に足を踏み出します。

 悲しそうに手を見る魔王さんの視線に気づかぬふりをし、顔を背けました。

 つい緩んでしまった顔を見られないように。

 この顔を見せられるようになるのは、まだまだ先になるでしょう。

 さて、思いがけないことの連続だったお話はひとまずここまで。


 これは、これから何度も思い出すことになる、まだ私がひとりだった時の話。

 神様のいたずらで勇者になったその後の、魔王さんとふたりで旅に出るまでの話です。

お読みいただきありがとうございました。

こうしてふたりは旅に出ることになりました。今後も勇者さんと魔王さんの旅を見守ってくださいね。


魔王「わっくわっくです~うれしいです~」

勇者「さっきとキャラが違いませんか」

魔王「ぼくはいつでもぼくですよ」

勇者「苦手なタイプかもしれない」

魔王「そんな」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] いつも投稿いただきありがとうございます。 しばらく忙しい日が続いていましたが、最新話に追いつけました。 今回のお話も読むと、本当にこの物語が始まって良かったなと思います。 神様、結果を見れ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ