9.抜け道
なんだかいろいろ考えちゃって遠い目になりながら、私はお母さまの帰宅を待っていた。
気が付くとかなり遅い時間になってしまっていて、お母さまに何かあったんじゃないだろうかと気を揉み始めたころ、玄関から帰宅を告げるヨーゼフの声が聞こえた。
「お帰りなさいませ、お母さま」
ナリッサと一緒に急いで玄関へ降りると、なぜかクラウスも一緒にいる。クラウスは銀行からそのまま商業ギルドの職員寮へ帰ることになっていたのに。
「どうしたの、クラウス?」
「それが……」
ナリッサの問いかけに困惑顔のクラウスは答えに詰まる。
そこでお母さまが頬に片手を当て、やはり困惑顔で言ってくれた。
「それがね、お金が入っていたのよ」
「は、い?」
思わず間の抜けた声をもらした私に、お母さまも困惑顔のままさらに言った。
「わたくしの口座に、お金が振り込まれていたの」
ますますわけがわからない私は、お母さまとクラウス、それにヨーゼフの顔を順番に見比べてしまう。
そこでヨーゼフがおもむろに1枚の紙を取り出し、私に示してくれた。
それはお母さまの口座の内容控えで……本当に、昨日の日付でお母さまの口座にお金が振り込まれていた。それも、私たちが1年は余裕で暮らせるような大金だ。
「お、お母さま、この振込人の、ゲンダッツさんっていったい……?」
「わからないのよ」
あっけにとられて問いかける私に、お母さまはやっぱり困惑顔だ。
「どこかで聞いた名前だった気もするのだけれど……誰だったかしら?」
いや、いやいや、こんな大金をぽんと振り込んでくれるような人に覚えがないだとか……もしかしてお母さまのファン?
お母さまは滅多に社交の場には出ていなかったんだけど、その清楚な美しさは有名なんだし、ひそかにファンになってる人がいてもおかしくはない……いやいや、そんなのなんの下心もなしに、こんな大金をプレゼントしてくれちゃったりなんかしないよね?
どうしよう、後日なんかすっごい無茶な要求されたりして……もしお母さまに愛人契約を迫ってくるような人だったら……ダメ! そんなの絶対ダメ!
「銀行にも問い合わせたのですが、守秘義務があるとのことで詳しくは教えてもらえなかったんです」
クラウスが説明してくれる。「この書類ではゲンダッツというお名前しかわかりませんが、称号が併記されていないところをみると平民のかただと思われます。これだけの金額を一度に動かせる平民となると限られますので、商業ギルドで何かわからないか調べてみます」
「そうしてもらえると、すごく助かるわ」
私は詰めていた息を吐いてクラウスに言った。「面倒をかけて申し訳ないけど、よろしくお願いしますね、クラウス」
「はい。でもどうか、過度な期待はなさらないでください。ギルドで調べられることには限りがありますので」
「もちろんよ」
「ええ、無理をしない範囲で十分です。お願いしますね、クラウス」
お母さまもそう言って、クラウスもうなずいてくれた。
なんだかもう、次から次へと問題が起きてる気がする。
もし本当に無体な要求を突き付けてくるような人だったらどうしよう。すでに振り込まれちゃったお金を受取拒否なんてできるんだろうか。
悶々としてよく眠れないまま私は朝を迎えたっていうのに、この問題は実にあっさり解決した。
翌日、当のゲンダッツさん本人が、我が家を訪ねてきたからだ。
ヨーゼフに案内されて我が家の客間に入ってきたゲンダッツさんは、小太りで頭もきれいに禿げちゃってる、見るからに人の好さそうなおじいちゃんだった。
お母さまはゲンダッツさんの顔を見たとたんハッとした表情を浮かべ、すぐに嬉しそうに両手を広げた。
「まあ、貴方でしたのね、弁護士の小父さま」
「私を覚えておいてくださいましたか、コーデリアさま」
ゲンダッツさんも嬉しそうに、にこにこしながら挨拶してくれた。
「ゲンダッツさんはわたくしのお父さま、先代のマールロウ男爵の顧問弁護士だったかたなのよ。わたくし、いつも弁護士の小父さまとしか呼んでいなくて」
お母さまの言葉に、私はなんかもうどっちゃりと脱力してしまった。
「男爵家が代替わりしたさいに、弁護士は引退されたと聞いていたのですけれど」
「はい、その通りです。ただ、先代男爵さまより、最後の仕事を申し付かっておりまして」
ナリッサが淹れてくれたお茶を飲みながら、ゲンダッツさんは説明してくれる。
「先代男爵さまのご遺産から、ご令嬢であるコーデリアさまを受益者に指定された信託金を、私に委託してくださったのです」
ゲンダッツさんの説明はこうだ。
お母さまの実の父親である先代マールロウ男爵は、なんとかして娘に自分の財産を遺せないか考えた。
その結果、顧問弁護士であるゲンダッツさんに自分の財産の一部を委託し、そのお金を自分が指定した相手、つまり娘であるコーデリアお母さまに年金として一定年数支払うよう、信託契約を結んだんだ。
「このお金は先代男爵さまが私に委託された信託財産ですから、コーデリアさまにお支払いする以外には使うことができません」
ゲンダッツさんはさらに説明してくれる。「それでも、そのままコーデリアさまにお支払いしてしまうと、夫である前伯爵に使い込まれてしまう可能性がありましたので……今回のような緊急事態になるまでは、信託金の存在を伏せておくことも、先代男爵さまから依頼されていたのです」
なんとまあ。
お母さまのお父さま、つまり私たちのお祖父さまって、ものすごくちゃんと考えてくれてたんだ。
私は一度も会わないうちに亡くなってしまわれたし、それにいくら相手が名門伯爵だったからってあんなゲス野郎に言われるまま、一人娘のコーデリアお母さまを差し出しちゃうなんてどうなのよ、としか思ってなかったんだけど。
ごめんなさい、お祖父さま。私は悪い孫でした。いまはお祖父さまにめちゃめちゃ感謝しております。
だってゲンダッツさんの話では、これから15年間、毎年同じ金額をお母さまの口座に振り込んでもらえるっていうんだもの。
しかも、もし私が結婚しても、この信託金はあくまでお母さまに渡されるお金なので、私の配偶者の財産に組み入れられてしまうこともないらしい。
なんて素晴らしいの!
そしてゲンダッツさんはさらに泣かせることを言ってくれた。
「もし、今回のような緊急事態にならなければ、このお金はゲルトルードお嬢さまの持参金として使うよう、コーデリアさまにご相談差し上げることになっておりました。ですから、今回このような形でお渡しすることになったのは、いささか残念な気もしておるのですが」
お祖父さまはもしかして、長女の私があのゲス野郎から疎まれてたこともご存じだったんだろうか。
お祖父さま、本当にごめんなさい。私は本当に悪い孫でした。
しかし、信託金か。
要するにこのお金は、すでに亡くなっているとはいえあくまで先代マールロウ男爵の財産であって、その財産から娘に生活費を渡しているに過ぎない、って建前なんだと思う。
貴族家では、娘は遺産を相続しても結婚すればすべて配偶者の財産になってしまうし、かといって結婚しないと爵位を放棄したことになっちゃうって、そんな理不尽しかないと思ってたのに。
こんな『抜け道』があったんだ……。