閑話@客室ナリッサ1
侍女であるナリッサ視点です。長いので2回に分けました。
暴力に関わる話が出てきますのでご注意ください。
ムカついて眠れやしない。
ゲルトルードお嬢さまからは、すぐ休むように言っていただいたけど、とてもじゃないけど眠れるような状態じゃないわ。
あたしは深呼吸をしてから、ヨーゼフさんが眠っている客室に向かった。
お医者さまからは夜中に熱が出るだろうと言われたし、どうせ眠れないなら枕元についていてあげよう。
ヨーゼフさんはよく眠っていた。
でも、額にだいぶ汗が浮いてる。あたしは持ってきた水入れから洗面器に水を張り、タオルを絞ってヨーゼフさんの顔を拭く。確かに額は熱くなってるけど、呼吸は落ち着いてるようだから大丈夫だと思う。
まったく、本当に、うかつだったわ。来客に気づいた時点で、あたしも出迎えに行くべきだった。ゲルトルードお嬢さまが玄関ホールにいらっしゃることはわかっていたんだし、あたしならあのクズ野郎に鞭をふるわれても百倍にして返してやったのに。
ダメだわ、思い出してしまってまた腹が煮えくり返ってくる。全身の血が逆流する感じってこういうのを言うんだわ。
なんだかもう、じっと座っていることすらできない。
あたしは立ち上がって、客室の中をぐるぐる歩き回ってしまった。
どれくらい歩き回っていたのか、あたしはベッドの中でヨーゼフさんが身じろぎする気配にハッとした。
枕元へ寄ると、ヨーゼフさんがぼんやりと目を開けていた。
「ヨーゼフさん、目が覚めましたか?」
「……ナリッサ?」
ヨーゼフさんはぼんやりと頭を動かし、あたしの顔を見上げている。
あたしはタオルを洗面器に浸して絞った。
「熱が出てるんですよ。痛みはあります? グリークロウ先生が置いていってくださったお薬がありますから、飲みますか?」
「ああ……」
あたしが顔を拭いてあげると、ヨーゼフさんは何度か瞬きして軽く頭を振った。
「そうか、私は……ああ、ゲルトルードお嬢さまは?」
「もちろんご無事ですよ」
ハッとしたように体を起こしかけるヨーゼフさんを、あたしはすぐに抑える。
そして、言うかどうか一瞬ためらったけど、やはり執事であるヨーゼフさんには言っておくべきだと思い、それを口にした。
「奥さまも、いまは落ち着いておられます」
またもやハッと目を見開いたヨーゼフさんが、すぐに片手を自分の額に当てる。
そしてうめくように言った。
「私は……なんということを」
「何を言ってるんですか」
あたしはタオルを絞りながら言った。「あたしだったら、あんなイヤミ程度で終わらせやしませんでしたよ。あのクズの顔が変わるまで殴り飛ばしてやるところだった。ええ、クズがどれだけ鞭をふるってこようとも、ね」
あたしは絞ったタオルをヨーゼフさんに手渡す。
「ヨーゼフさんはよく我慢しましたよ」
「いや、それでも……奥さまのことを思えば、もう少し自重するべきでした」
ヨーゼフさんがタオルを握りしめてる。「ああいうクズは、人に向けるための道具を常に持っていることくらい、簡単に予想できたのに」
「貸馬車だったんでしょ? それで乗馬用の鞭を持ってるって……まぎれもない掛け値なしのクズですよね」
思えば、このクルゼライヒ伯爵家のようやく死んでくれた前ゲス当主も、常に短鞭を持ってた。家の中でも常に。
もちろん、その鞭で誰かを打つためだ。馬ではなく、人を。
貴族家の当主や子息の中には、使用人を鞭で打つヤツは結構いる。
でもまさか、自分の娘を鞭で打つとは……しかも、そのお嬢さまは、たかが下働きの使用人であるあたしを守るために、自分から鞭に打たれるよう仕向けてくださったんだ。
下働きに入ったばかりのあたしを、あのゲス当主はいきなり寝室に引きずり込もうとした。そこに、ゲルトルードお嬢さまが駆けつけてくださったんだ。文字通り、息を切らして。
そしていきなり言われた。
「ナリッサ、こんなところに居たのね! ダメじゃない、ちゃんとわたくしの部屋に控えていないと!」
あたしはわけがわからなかった。
いまあたしの名前を呼んだのが、この家のお嬢さまだということぐらいはわかる。けど、こんな大きなお屋敷のご令嬢が、なんで入ったばかりの下働きの名前を知ってるのか。お目にかかるのは初めてのはずだ。その上、わたくしの部屋に控えて、だって?
なのに、ゲルトルードお嬢さまは一方的にまくしたてた。
「ナリッサは、わたくしの侍女にするために面接をするところだったのです。いますぐ連れて行きますから」
お嬢さまはゲス当主からあたしを奪い取るように、あたしの腕をつかんでひっぱった。そしてあたしを自分の背後にさっと回すと、また大きな声で言った。
「ナリッサ、いますぐわたくしの部屋へ行きなさい。部屋へ入ったら一歩も出てはダメよ!」
そう言って振り向いた琥珀色の目が、いまのうちに逃げなさいとあたしに告げている。
茫然としているあたしの体をお嬢さまが押して、あたしは廊下の角へと追いやられた。
角を曲がったところで、ものすごい罵声が聞こえた。そして、言い返すお嬢さまの声も。
さらに、その声に交じってビシビシと何かをたたくような音が聞こえてきて……あたしはさすがに、まさかと思ったのだけれど……角からこっそり顔をのぞかせて言葉を失った。
あのゲス当主は、自分の娘に鞭をふるっていた。
それも、我を忘れたかのように、めちゃくちゃにふるいまくっていた。
まさか……まさか、だって、自分の娘でしょ? しかも跡継ぎだよね? この家には息子はいないもの、あのお嬢さまは長女だよね?
それにあのお嬢さま、本当に小さくて細くて……なのにゲス当主は威嚇のために壁や床を打つのではなく、本当にあの小さな体に容赦なくビシビシと鞭を打ち込んでいて……。
血の気が退いた。
あたしは、情けないことに全身がガタガタと震えて、声を上げることもできなかった。
お部屋に戻られたゲルトルードお嬢さまは、自分は筋力強化できるので鞭で打たれたところで痛くもかゆくもないのよと言って、笑ってくださった。
確かに、お嬢さまの体には傷も痕もなかったけれど……お衣裳は何か所も裂けてボロボロになってしまっていて、あのゲスがどれだけ見境なく鞭をふるったのか、あたしはまたもや血の気が退いた。
そんなあたしにゲルトルードお嬢さまは、こんなひどい家に勤めているのが嫌なら辞めてもらっても構わない、でも本当に申し訳ないことに紹介状が出せないのよ、と言われた。
まだ子どものお嬢さまには紹介状が書けず、奥さまにお願いして書いてもらってもあのゲス当主が手を回して紹介状を握りつぶしてしまうらしい。
いや、そもそも下働きに紹介状を書く貴族家なんてないと思うんだけど……あたしはただ呆気に取られていた。
ゲルトルードお嬢さまはさらに、もしあたしにその気があるなら、本当に自分の専属侍女になってくれないか、と言われた。専属侍女になれば、お嬢さまのお部屋の控室で寝泊まりできるから、さすがにあのゲス野郎も娘の寝室にまでは入って来ないから、と。
「わたくし、この通り当主から思いっきり目の敵にされちゃってるでしょ。だから、そのわたくしの専属侍女になれば、ナリッサにはこのタウンハウスの中でとっても肩身の狭い思いをさせてしまうことになると思うわ。本当に、それでもよければ、なんだけど……」
「お、お待ちくださいませ」
あたしは焦って問いかけた。「そもそも、お嬢さまは何故私の名前をご存じなのでしょうか? それに私は下働きです、それをいきなり専属侍女だなどと……」
「あら、自分の家で働いてくれている人の名前くらい、全員覚えているわよ?」
お嬢さまはきょとんと答えた。「それに、ナリッサは我が家には下働きで入ったけれど、以前ほかの貴族家で侍女をしていたって聞いたわ。それが事実であることも、いまの貴女の言葉遣いでちゃんとわかったし」
あたしの代わりに鞭で打たれてボロボロになったお衣裳をまとい、そんなことをごく当たり前に言ってくださる小さなお嬢さまの姿に、あたしは泣きそうになった。
いままで何軒もの貴族家で働いてきたけど……あたしにこんなことを言って、こんなふうに接してくださった貴族さまなんか1人もいなかった。
ゲルトルードのドレスの数が極端に少ないのは、こういう事情もあったのです。
こうやって、何着もドレスをダメにしてしまっていたので。





