45.お母さまと私の過去
暴力に関わるかなりシビアな内容です。ご注意ください。
あのゲス野郎は、暴力でお母さまを支配していた。
暴力をふるい、暴言を吐き、恐怖で身動きできなくなったお母さまを、自分の最高かつ最大のアクセサリーとして飾り立ててたんだ。
もちろん、自分のアクセサリーに傷なんか付けたくないから、お母さまに直接手を上げることはなかった。それでも、目の前で鞭を振り回され、暴言を浴びせかけられ続けた人がどんな精神状態に陥るか、想像に難くない。
しかも、当時のお母さまはまだ10代だ。男爵家の一人娘として大事に育てられ、そんな恐ろしい暴力がこの世にあることすら知らなかったに違いない。
それにおそらくあのゲス野郎は、暴力をふるう者の常套手段として、暴力をふるわれるのはお前に不備があるせいだ、暴力をふるってまで『しつけ』てやっているのはお前のためだと、言いくるめていただろう。
そんな状況で、お母さまには逆らうことなど、到底考えることもできなかったはずだ。
よく、お母さまの心が壊れてしまわなかったものだと思う。
いや、おそらくほとんど壊れかかっていたんだと思う。
そんなとき、私が生まれた。
お母さまは、私に救われたのだと言う。
どんなことをしても、何があっても、この小さな命を守らなければと、お母さまは自分でも驚くほど強くなれたと言っていた。
だから、その私が、お母さまの目の前で、あのゲス野郎に鞭で叩きのめされたとき、お母さまの精神状態は限界を超えてしまったんだ。
あのとき私は、7歳になったばかりだった。
たった7歳の子に、あのゲス野郎は鞭をふるい、私は瀕死の重傷を負った。
それまでは一応、このクルゼライヒ伯爵家直系の子は私1人だけだったから、あのゲス野郎もどれだけ気に入らなかろうが、爵位持ち娘としての私を無下にはできなかった。
でも、アデルリーナが生まれた。
お母さまにそっくりのその美貌は、赤ちゃんのときから際立っていた。
だからゲス野郎は、自分の苦手な母親、つまりベアトリスお祖母さまに似た、どうにも気に食わない長女の私は、もういらないと考えたらしい。
何が原因だったのか、私はよく覚えていない。
ただもう激昂したあのゲス野郎が、乗馬用の短鞭で幼い私をめちゃくちゃに打ち続けた。
その痛みや衝撃よりも、私はただただお母さまの姿が怖かった。
その顔にはまったく血の気がなく、そしていっさいの感情もなかったから。本当に、人の姿だと思えなかった。お母さまが人形にでもなってしまったのではと、私はそれだけが恐ろしかった。
あのときのお母さまの姿だけは、一生忘れられない。
当時7歳の私に筋力強化の固有魔力は顕現しておらず、文字通り瀕死の重傷を負ったために、あの前後の記憶があいまいなのだけれど、あのときのお母さまの姿だけは脳裏に焼き付いてしまっている。
12歳のとき、私は筋力強化できるようになったため、それ以降はあのゲス野郎がどれだけ暴力をふるってきても痛くもかゆくもなくなった。
それに、そのとき私が前世の記憶を思い出して、精神年齢が一気に上がったことも大きかったと思う。自分で手段を講じてゲス野郎に対抗できるようになったんだから。
おかげで、お母さまの症状も、もう何年も落ち着いていた。
だけど今日、いまさっき、あの頭のおかしいクズ野郎のおかげで、お母さまはあのときの恐怖を思い出してしまったんだ。
居間にお母さまを導き、私たちはソファに並んで腰を下ろした。
私はお母さまの手を取り、もう一方の手をお母さまの背中に回し、そっと何度もその細い背中をさすり続けた。
「大丈夫です、お母さま。わたくしたちを傷つける者は、もうここにはいません。誰もお母さまを、そして私を、傷つけることなどできません」
何度もささやいていると、こわばって細かく震えていたお母さまの体がゆっくりとほぐれていく。
やがて、ぽたり……と、小さなしずくがお母さまの膝に落ちた。
「お母さま?」
そっと呼びかけると、お母さまはぎこちなく自分の手を動かし、あふれ出した涙を拭った。
「わ、わたくしは、どうして……」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、お母さまはつぶやく。「本当に、不甲斐ない……」
「お母さまが居てくださらなければ、わたくしはいま、ここにおりません」
私はそっとささやく。「お母さまが、ずっと私を守ってくださってきたからです」
「いいえ……いいえ!」
お母さまの涙は止まらない。
精神科医や心療内科医、カウンセラーがいる世界じゃないんだよ。
いや、そういう専門家の助けがあってもなお、ドメスティックバイオレンスで心に深い傷を負わされてしまった人が立ちなおることがどれだけ難しいか。
それでも幸いなことに、本当に幸いなことに、元凶であるあのゲス野郎が死んでくれた。
お母さまは決して言葉にはしないけれど、どれほど安堵したことだろう。やっと解放される、それが正直な気持ちだったと思う。
それがあんな……頭の悪いクズ野郎が、我が家に乗り込んでくるとは。
私は思わず唇を噛んじゃう。
さすがあのゲス野郎の血縁者だけあるわ。でも、またいとこの子ってことは6親等超えちゃってんじゃないの? それって親戚っていわなくない? って、それは日本の話か。
今回はたまたま、公爵さまがタイミングよく登場して追い払ってくれたけど……今後もああいう輩がちょっかいをかけてくることがあるんじゃないだろうか。
いまの私なら、筋力にモノをいわせてクズ野郎の1人や2人、たたき出すくらいのことはできるけど……ああいう連中って、小娘にやられたとかって逆ギレ・逆恨みしてくる可能性大なんだよね。
それになにより……私も暴力をふるってしまえば、あいつらと同じレベルに堕ちてしまう。そういうのって、屈辱だと私は思っちゃうのよ。
何か、いい方法を考えなければ……。
お母さまの心の平穏のために、早急に対策を立てようと私は心に誓った。