329.浮上
本日1話更新です。
「ゲルトルードお嬢さま?」
ナリッサの声が聞こえた。
頭が重い。ぐらぐらする。身体がだるくて……いや、それよりも気持ちがしんどい。
それでも一応私も、ナリッサ、と呼びかけようとしたんだけど……声が出ない。
ナリッサはマルレーネさんを呼び、お湯で絞ったやわらかい布で私の顔をていねいに拭ってくれた。
「さあ、ゲルトルードお嬢さま、お口をゆすぎましょうね」
マルレーネさんが私の口に吸い口を当ててくれて、ゆっくり少しずつ水を流し込んでくれる。
「飲み込めなくても大丈夫ですからね、お口をゆすいで……お顔を横に向けますよ、洗面器がありますから吐き出してくださいね」
言われた通り私は、口をゆすいで水を吐き出した。
そのまま、言われるままに、私は3回口をゆすいだ。それだけでも、ずいぶん口の中がさっぱりした。
「ゲルトルードお嬢さま、少しだけでも何か召し上がってくださいませ」
そう言われて顔を向けると、ナリッサがワゴンを押している。
そのナリッサがマルレーネさんと小声で何か相談し、それからマルレーネさんがやさしく私の身体を起こしてくれた。
起こされた私の背中の後ろに、ナリッサがすごい勢いでクッションを積み上げてる。
積み上げられたクッションに背中を預け、私は上半身を起こした恰好になったんだけど、それだけでぐったりしちゃう。
思わず大きな息を吐いた私の前に、ナリッサがスプーンを差し出した。
「ゲルトルードお嬢さま、どうか一口だけでも」
白っぽいとろりとしたスープらしきものが、スプーンの中に入っている。
食欲は、全然ない。
気持ちの悪さとむかつきはだいぶ治まってるけど、喉はまだ痛いし、頭もぐらぐらしてる。
それでも、スプーンを差し出すナリッサが、すがりつくような必死の顔をしていて……私は、差し出されたスプーンを口に入れた。
ほんのり温かいスープの感触が、舌の上に広がった。
えっ、あの……どうしよう、美味しい。
本当に、食欲なんかまったくなくて、何かを食べられるような感じなんてまったくなかったのに……口にしたスープが、とっても美味しい。
これ、蕪のスープ?
以前マルゴが作ってくれた……あれよりも、もっとなめらかでとろりとしてて薄味で、やさしい蕪の甘みとほんのりとした塩気を感じる。
私は、思い切って口の中のスープを飲み込んでみた。
とろりとしたスープが、水も通らなかった痛む喉を滑り落ち、さらに食道を落ちていく。
どうしよう、本当に美味しい。
体中が……カラカラに乾いていた私の身体のぜんぶが、美味しいって言ってる。
「……美味しい」
思わず、かすれた声が、私の口からもれた。
目の前のナリッサが、泣き出しそうなほど喜んでる。
「ゲルトルードお嬢さま、さ、もう一口、召し上がってくださいませ」
私は、差し出されたスプーンをまた口にした。
「マルゴさんのスープです。少しでもゲルトルードお嬢さまが食べ慣れていらっしゃるお料理がいいのではと、スヴェイさんがマルゴさんにお願いしてくれて」
マルレーネさんも、本当に嬉しそうに言ってくれる。
「ほかにもいろいろなお料理が届いておりますよ。プリンもございます。それに、ゲルトルードお嬢さまがお召し上がりになりたいものが何かお有りでしたら、マルゴさんがなんでもすぐに作ってくださるそうです」
マルゴ、ありがとうぅ。
とろりとしたスープを飲み込みながら、私も泣きそうになっちゃう。
私は、カップに半分ほどのスープを食べることができた。
途中で、グリークロウ先生が出してくださったという粉薬を、スプーンにすくったスープに混ぜて食べさせてもらった。お薬がちょっと苦そうなので最後の一口じゃないほうがいいですよね、ってマルレーネさんが言って、途中で服薬にしてくれたの。
「お水が飲み込めなくても、とろみがついたものであれば飲み込めるだろうとグリークロウ先生がおっしゃっていたのですけれど、スープが召し上がれて本当にようございました」
マルレーネさんがそう言ってくれて、ナリッサは何か水筒を取り出してる。
「こちらは、マルゴさんが用意してくれた木苺のジュースです。とろみがつけてあるので、飲み込まれやすいと思います。また後ででも、お口にしていただければ」
マルゴ、本当に何から何まで……。
でも……マルゴが私のために料理をしてくれてるってことは……私が公爵邸で倒れたことが、我が家に伝わってるってことだよね?
お母さまに……お母さまにはどういう……私が倒れた理由なんて、絶対にそのまま伝えることができないのに。
私は、ナリッサに問いかけずにいられなかった。
「お母さまには、私のこと、どのように……?」
「グリークロウ先生が、よいように伝えてくださったそうです」
即座にナリッサが答えてくれた。「コーデリア奥さまは、最初は本当に不安がられていたそうなのですが、グリークロウ先生がいろいろ話してくださったことで、すぐに落ち着きを取り戻していらっしゃったと、スヴェイさんが言っていました」
ああ、グリークロウ先生が……。
私はなんかまた、泣きそうになっちゃう。
グリークロウ先生は……私があのゲス野郎に鞭で滅多打ちにされて死にかけたとき、ヨーゼフが呼んでくれたお医者さまだ。
平民の、街のお医者さまで、伯爵家当主の意向に逆らっての治療になることをヨーゼフは伝えたのだそうだけれど、グリークロウ先生はまったく意に介さずすぐに我が家にやってきて、ずっと私の治療をしてくださった。文字通り、私の命の恩人だ。
その後も、ヨーゼフがひどい風邪をひいたときや、ほかの下働きの人が体調を崩したときにもグリークロウ先生にお願いして、我が家に来てもらった。
お金を持ってない私は治療費が払えなくて、ベアトリスお祖母さまが私のクローゼットに遺してくださった絹のショールを、治療費の足しにお渡ししようとしたんだけど……グリークロウ先生は受け取ってくださらなかった。『お嬢さまが大人におなりになって、ご自分でお金を使えるようになられたときに支払ってくださればいいですよ』と言って。
だから私は、オークションをして現金をゲットしたとき、ヨーゼフに頼んであちこちのツケを清算してもらうにあたり、グリークロウ先生にも治療費を持って行ってもらったのよ。
そしたら先生は、すごく喜んでくださったって……私が先生のことを忘れず、こうして義理堅く治療費を払ってくださるのは本当に嬉しいって言われたって、ヨーゼフが教えてくれた。
「ナリッサが、グリークロウ先生を呼んでくれたのね……」
「はい、先生は公爵さまともすでにご面識がおありでしたし、同じくすでにご面識がおありのアーティバルトさまがお迎えに行ってくださいまして」
そうか、ヨーゼフがあのクズ野郎に鞭で打たれたとき……公爵さまはずっとヨーゼフに付き添ってくださってた。だから、往診してくださったグリークロウ先生ともお会いになってたんだ。
グリークロウ先生は、お母さまのあの症状もご存じだし……その辺も考慮してくださったに違いない。それでお母さまが落ち着かれたのなら……。
って、あれ……? でも、スヴェイが言ってたって……?
ナリッサがスヴェイと話すために、玄関にまで出たの? それに、マルゴの料理もスヴェイが運んできてくれたって……。
「ナリッサ、スヴェイは……?」
「はい、あちらの居間で待機されています」
居間で待機って……ええ? スヴェイが居間でって……居間に入れてもらったの?
目を見張っちゃった私に、マルレーネさんが教えてくれた。
「ヴォルフガング坊ちゃまのご一存で、スヴェイさんをご当家の居間にお招きになりました。後ほどゲルトルードお嬢さまには、坊ちゃまが詳しくお話しされると思いますよ」
そんな……いいの、公爵さま?
スヴェイまで公爵さまの居間に入れちゃって……公爵さま、おネェさんな姿をスヴェイにも見せちゃったんだろうか?
でも、それってどう考えても、私のため、だよね……?
ナリッサは私から離れたりしないし……いまここで、我が家のことをフォローできるのはスヴェイだけだから……公爵さまはそれを考慮して、スヴェイをここの居間に招いてくださったんだ。
「あ、あの、公爵さまにお礼を……」
言いかけた私に、マルレーネさんがきっぱりと言った。
「それは、ゲルトルードお嬢さまがご自分で直接、坊ちゃまにお伝えなさいませ」
にっこりと、マルレーネさんは笑う。「未婚のご令嬢がお休みされているお部屋に、お医者さま以外の殿方をお招きすることなど絶対にできませんからね。ゲルトルードお嬢さまがよくなられましたら、ご自分でヴォルフガング坊ちゃまのいらっしゃる居間までお出になっていただかないと」
未婚のご令嬢がお休みされているお部屋に、って……そういうもんなの?
そりゃ確かに、こんなボロボロになってる姿を、公爵さまやほかの男性陣に見られたくないっていうのはあるから……ありがたいのはありがたいけど。
「さあさあ、お食事もしていただきましたし、お薬もお飲みいただきました。とにかくゆっくりと養生していただくことが、いまのゲルトルードお嬢さまには必要でいらっしゃると、お医者さまもおっしゃっていましたよ」
マルレーネさんがまた私の身体を支えてくれて、ナリッサが私の背中に当ててあったクッションの山を取り除く。
「たくさん眠って、また美味しいものを召し上がってくださいませ。先ほども申し上げましたが、プリンも届いておりますし、かぼちゃのポタージュなども届いておりますから」
「ありがとう、マルレーネさん、ナリッサ」
私は枕に頭をうずめて息を吐いた。「じゃあ、次はかぼちゃのポタージュをお願いします」
うん、プリンも食べたいけど、せっかくマルゴがかぼちゃのポタージュも作ってくれたんだもんね、ちゃんといただきます。
「かしこまりました。まずは、ゆっくりとお休みなさいませ。またお目覚めになられましたら、かぼちゃのポタージュをお持ちいたします」
ベッドの天蓋から垂れたカーテンがさっと引かれ、私は目を閉じた。
ああ……でも、本当に……美味しいって偉大。
私が単純すぎるのかもしれないけど……でも、あんなにつらくて苦しかったのに、美味しいものを口にしただけで、本当にただそれだけで、なんかこう、すごく気持ちが楽になった。
まあ、うーん……スープのおかげで、脱水症状を起こしかけてたのが治まったっていうのもあるのかもしれないけど。
いや、前世でも職場の先輩が言ってたわ。
何か食べて美味しいと感じることができたなら、人生たいていのことは大丈夫よ、って。
もちろん、私が抱えてしまったおぞましい事実は何も変わらない。
あんなこと、お母さまにもリーナにも絶対に話せないし……完全に違法行為なんだけど、それを表沙汰にもできない。だって、表沙汰にしちゃったら、お母さまに知られてしまうもの。
その辺をどう扱ってもらうのか……ああ、公爵さまに相談させてもらわなきゃ。
それに、ゴディアスのことも……何か償いをしなければ。本当によく、ゴディアスはあの収納魔道具をヒューバルトさんに渡してくれたと思う。
考えなきゃいけないことが……それも、考えたくもない、できることならもうなかったことにしてしまいたい、でも私が自分で考えるしかないことが、ものすごくいっぱいある。
本当に、そう思うだけで、またずっしり気が重くなるし、正直に泣きたくなる。
だけど、私のことを心配してくれて、いっぱい助けてくれてる人たちが、こんなにもいるんだなあ、って……それは本当に、本当に、ものすごくありがたいわ……。
次々とみんなの顔が、私の脳裏に浮かぶ。
私は心から感謝しながら、眠りについた。
ルーディちゃん、味方になってくれる人はいっぱいいるからね。
ということで、7/20発売の4巻をよろしくお願いいたします!





