閑話@王都中央学院男子寮談話室ドラガン
たいへんお待たせしました。更新再開です。
本日は閑話、明日から続きを更新する予定です。
「ああ、やっぱりここに居た」
顔を上げると、俺にとってもっともなじみのある上級生のみなさんが、その場に並んでいた。
「この寮の談話室には、各教科の過去の試験問題が置いてあるからな」
そう言いながらアルトゥースどのは、俺が立ち上がるのを片手で軽く制して腰を下ろす。
「ドラガン君もあの表を使った計算を試しているはずだと思って」
「俺たちも、もっと問題を解いてみたくてね」
バルナバスどのもエルンストどのも、笑いながらその場に腰を下ろした。
俺はいままで解いていた計算問題を脇に押しやり、座ったまま上級生のみなさんに向き直る。
「あの表は本当にすごいです。計算の速度が格段に上がります」
「きみはもう、暗記できたのか?」
「はい、ほぼ暗記できました」
アルトゥースどのの問いかけに、俺はうなずく。
「表を見ながら計算していってもそうとう速く解けますが、暗記してしまうと本当に次々とあっという間に解けてしまいます」
「そうだな。俺もほぼ暗記できたので試してみた。本当に、言われてみればそれだけのこと……ただもう一覧表を丸暗記するだけなんだが」
唸るようにアルトゥースどのが言い、バルナバスどのもエルンストどのもうなずき合われる。
「まったくです。確かに、我々も計算問題を重ねるうちに、ある程度の答えは自然と覚えていましたが……」
「こうやって一覧表にして、丸暗記するという発想はなかったですよね」
「それに、この縦並べの計算方法です」
俺は自分がさっきまで書いていた、計算のための石板をみなさんに示した。
「この計算式は本当にすばらしいです。数字の桁を合わせて縦に並べていって、最後に合計する。これほど合理的でわかりやすい計算方法はありません。こんな計算方法を考えついたゲルトルード嬢は本当にすごいです」
「まったくだ。いったいどうやったら、こんなすごいことを思いつくのか」
そう言いながら、アルトゥースどのがご自分で解かれた計算問題の用紙を出してこられた。
「まったくきみの言う通り、この計算式は本当に合理的でわかりやすい。だが俺は、この計算式のもっともすごいところは、もし計算を間違えてもこの計算式を残しておけば、どこで間違えたのかがすぐに確認できるところだと思っている」
バルナバスどのとエルンストどのも、ご自分が解かれた問題用紙を出してこられた。
「おっしゃる通りだと思います。計算器具だと、計算の過程が残らないですからね。間違ってしまうと最初からすべてやり直しになってしまう」
「高等学院に進めば、もっと複雑な計算を学ぶことになるのだが……どれほど複雑な計算であっても基本は同じ、加減乗除だ。この表を丸暗記しておけば、掛け算であろうが割り算であろうがいちいち計算器具を出す必要もなく、その場ですぐに計算できてしまう。本当にこの表と計算式の恩恵は計り知れない」
アルトゥースどのがまた唸るように言われる。「俺は生涯、ゲルトルード嬢に感謝することになるかもしれん」
この王都中央学院の寮には、基本的に王都に住居を持たない貴族家の子女が暮らしている。そのほとんどが、俺たちのような子爵家や地方男爵家の子女だ。
けれどこのヒックヴァルト伯爵家のアルトゥース・バスタザールどのは、王都にタウンハウスをお持ちの伯爵家のご出身ながら、入学当初からずっとこの寮で暮らしておられる。
伯爵家のご出身とはいえご三男で、家督を継がれる可能性はほぼないからと王宮の上級文官になることを目標とされ、勉学に打ち込むためにわざわざ寮住まいを選ばれたのだと俺は聞いている。
実際、アルトゥースどのが先生がたに熱心に質問をされている姿をよく見かける。教職員用の談話室には、許可を得れば生徒も入れるので、アルトゥースどのは教職員用談話室に『通っている』とまで言われている。
またアルトゥースどのは、俺が入学してすぐの春試験で首席を獲ったとき、同じ寮生ということもあって気さくに声をかけてくださった。
そして俺が教科の中でも特に算術が得意だと話すと、以降は本当によく目をかけていただいている。各教科の先生がたの授業の傾向や、試験問題の対策などもいろいろ教えていただき、算術選抜クラスにも必ず入るようにと勧めてくださった。
しかも、ご自分がファーレンドルフ先生に質問に行かれるときに、俺もよく誘ってくださる。おかげで俺もファーレンドルフ先生とはかなりいろいろな話をさせていただいてきたし、アルトゥースどのと同輩のペテルヴァンスどのや、いまこの場におられるバルナバスどの、エルンストどのもそうやってご紹介いただいた。
アルトゥースどのは多少口が悪いところもあるが、なんでも率直に話してくださるので、俺はむしろ話しやすい。本当にありがたい先輩だ。
ちなみにバルナバスどのとエルンストどのは、同格の子爵家のご令息で同い年、しかもご領地がかなり近いとのことで、幼いころから仲良くされているそうだ。
俺には近い領地に同格で同じ年ごろの男子がいないので、ちょっとうらやましい。
そのエルンストどのが言い出した。
「アルトゥースどの、それを言われるのであれば俺も、いや我が領地の全員が、これからずっとゲルトルード嬢に感謝することになると思いますよ」
「ああ、あれにも驚いたな」
アルトゥースどのがうなずく。「エクシュタイン公爵閣下が後見人でいらっしゃるといっても、自らあのように行動を起こされるご令嬢というのは、非常にめずらしい」
そこで、先輩がたの目が俺に向いた。
「ドラガン君が言っていた通り、ゲルトルード嬢のおとなしげな外見とその内実には、かなり落差があるようだ」
ニヤリと笑うアルトゥースどのに釣られるように、バルナバスどのとエルンストどのも口角を上げてちょっと肩を揺らしている。
俺は大真面目に言った。
「俺も驚きました。まさか我が家の姉のドロテアと、あのように張り合えるご令嬢が存在するとは夢にも思っていなかったので」
3人そろって爆笑されてしまった。
「いや、失敬」
そろって声を上げて笑ってしまったことで、談話室中の目が俺たちに向いてしまった。それをいなすように、アルトゥースどのがさりげなく周囲に手を振られた。
こういうところも、なんというかアルトゥースどのはふるまい方を心得ておられると、俺はいつも感心する。
寮で暮らしている生徒のほとんどが、子爵家か男爵家という下位貴族家の子女だ。
伯爵家令息のアルトゥースどのは、寮内では上位貴族家に属されるほぼ唯一の生徒になる。アルトゥースどのはご自分の身分をことさら振りかざすようなことはされないが、こういうときはいちばん身分が高い自分が率先して場を収める必要があると、はっきり自覚しておられる。
我が家は有力な上位貴族家の親族もいないし、そもそも俺は同じ年ごろの貴族令息と接する機会がほとんどなかったので、こういうふるまい方なども身近で見せてもらって本当に勉強になる。
周囲からの視線が散ったところでバルナバスどのが、声を落としながらもいくぶん笑いを含んだ声で言い出した。
「確かに、ドラガン君の姉君であるドロテア嬢も、その、少々気がお強いところがお有りだが」
「そうですね、姉は売られた喧嘩は必ず買いますからね」
俺の返答にまたそろって爆笑しそうになったお三方が、口を手で押さえて肩を揺らし、必死に笑いを堪えている。
まあ、テアもとっくにこの先輩がたには紹介済みで、いろいろ話もさせていただいてきているもんな。テアのあの性格については、みなさんもすでに心得てくださっている。
でも、俺にとっては本当に大真面目な話だ。
「そういう姉に、あれだけ親しくしてもらえるご令嬢の友人ができたというのは、本当にありがたいです。これから先もずっと、俺が姉の付き添いをしていなければならないのかと、正直頭を抱えていましたからね。しかも隣接領地のご令嬢ですよ。ずっとお付き合いしてもらえますよ。本当にありがたくて、俺はもう即座に父に手紙を書いて送りました」
やっぱり3人そろって笑いを堪えられているんだが?
「いや、しかし……」
笑いを堪えながら、アルトゥースどのが言う。「隣接領地といっても、ドロテア嬢が遠くの領地に嫁してしまわれることもあるかもしれないぞ?」
「あの姉を迎えてくれるような、奇特な領地持ち貴族家がありますかね?」
俺としては本当に大真面目に言ってるんだが、みなさん最早机に突っ伏して肩を揺らしている。
それは確かに……テアの固有魔力を知れば、それを欲しがる貴族家が、それも間違いなく上位貴族家がいっせいに湧いて出るだろうとは俺も思う。
けれどテア本人が自分の固有魔力を公表する気はないし、そもそもうかつに公表してはならないと国から厳命されている。だからテアはどのみち、国に仕える以外の選択肢はないと、本人だけでなく我が家は全員が了解済みだ。
まあ、テアがいてくれれば、俺の固有魔力も活かせるので……高等学院を卒業したら、俺たちはそろって国の機関に勤めることがほぼ決まっている。
そして一定期間、指定された国の機関に勤めたところで、俺は領地に帰って父上の跡を継ぐ。
ただそのとき、テアも一緒に領地へ帰ると言いだしたら……国がテアを手放してくれるかどうか……それはわからない。
俺は下位の子爵家とはいえ領地持ち貴族家の跡継ぎだから、いずれは領地に帰ることが許されているんだが、テアは本当にわからない。テアの固有魔力は、あまりにも特殊すぎるから。
正直、俺自身は、俺よりテアのほうが領地経営に向いてると思うんだがな。
テアはなんでも思ったことをずけずけと口にするけれど、とにかく思い切りがいい。しかも、駄目だったら駄目ですぐに切り替えることができる。
俺はそういうところ、なんでも下手に考えすぎると家族からいつも言われている。駄目だったときもその原因をずっと考えてしまって、自分が納得できるまで先へ進めない。
父上は、領地経営というのは即断即決が必ず求められると言われる。吟味に時間をかけすぎると時機を逸してしまうことが多いからだ、と。それに母さまは、俺の性格は、領主というよりむしろご自分と同じ研究職に向いていると言ってくださるんだが……こればっかりはしょうがないよな。俺は嫡男なんだし。
俺がそんなことを考えているうちに、先輩がたは笑いを収めることができたようだ。
「いや、でも……ご令嬢はたいへんだよな。ドロテア嬢ほど優秀であれば、女官としてその才能を十分発揮される機会も得られるだろうが、ゲルトルード嬢の場合は……」
アルトゥースどのの言葉に、バルナバスどのとエルンストどのがそろって眉を下げた。
「本当に、爵位と領地をお持ちのゲルトルード嬢は、かえって難しいお立場ですよね」
「あれほど優秀なのだから、いずれにせよゲルトルード嬢はご自身で領地経営をされると思いますが……それでも女性である以上、領主にはなれず爵位も名乗れないのですから」
そしてやっぱり、アルトゥースどのはずばりと言われるんだ。
「ゲルトルード嬢もいっそ爵位も領地もなければ、自らの才覚だけで身を立てられただろうに」
「本当にそうですよね」
思わず俺も、同意の言葉を口にしてしまった。「もしルーディ嬢が爵位も領地も持っていなければ、テアと……姉と一緒に王宮へ出仕してもらえるのですが」
そこでアルトゥースどのがまた笑った。
「ドラガン君は本当に、姉君の心配ばかりしているな」
「それほど、重大な問題なのですよ。我が家にとって、姉の身の振り方というのは」
俺はすぐにそう答えた。
まあ、テアが国家保護対象固有魔力保有者であることで、その辺りいろいろ難しいんだが……それは口外できないし。
それに……テアの正式な身分は非嫡出子、つまり庶子だ。
父上としては、ご自分が母さまと正式に婚姻を結んでしまうと、母さまが開発した新しい作物の権利やそこから生まれた利益が、夫である自分の所有になってしまうから、だと思うんだが……それでも母さまが父上の正式な妻にならない限り、テアの身分は庶子のままだ。
今後、そのことでテアが、何らか不利な立場に置かれる可能性があることは否めない。
まったく、我が国の婚姻制度はなんでこんなにやっかいなんだろう。父上が、母さまの権利を尊重しようとすることで、テアが不当な立場におかれたままにならざるを得ないだなんて。
こういうことについては、もう間違いなくルーディ嬢も困っているはずだ。ただの隣接領地の跡継ぎである俺ですら、心配しているくらいなんだから。
俺はその懸念も、率直に口にした。
「それに、ルーディ嬢のクルゼライヒ領との取引を考えると、いまどれだけいい関係を築けたとしても、彼女が結婚した後もずっとその関係が維持できるかはわかりません。それでも、彼女は規定年齢までに結婚しなければ爵位も領地も失ってしまう。それだったらもう最初から、ただもう姉の友人としてのみ付き合ってもらえたほうがいいのかもしれないなどと、思ってしまうわけです」
「ああ……それは確かに、そうだよな……」
先輩がたも顔を見合わせている。
本当にそれが大問題なんだよ。せっかく隣接領地の相続人があれほど優秀で、しかもテアとあんなに仲良しになってくれたというのに……相続人であるルーディ嬢が結婚したとたん、彼女の配偶者の胸ひとつでそれがすべて無しにされてしまう可能性があるのだから。
「まあ、我々が他家のご令嬢のご結婚に、どうこう口出しできるわけでもないんだが」
やはり、アルトゥースどのが言ってくださった。
「それでも……こういう言い方はよくないのかもしれないが、惜しいよな。純粋に、俺は惜しいと思う」
俺も、それにバルナバスどのもエルンストどのも、無言でうなずいてしまう。
本当にあれほど聡明で、こうして我々には思いつかないようなすばらしいことを発想できるご令嬢が、女子だからというだけであらゆるモノを……地位も財産も、自分の人生の決定権すらも、持つことが許されないというのは、やはり間違っているんじゃないだろうか。
「せめて、彼女が俺たちのクラスに……算術選抜クラスにいるときだけでも、なんの気兼ねもなく自身の能力を発揮して勉学に打ち込めるようにしてあげたいよな」
そう、つぶやくように続けたアルトゥースどのの言葉に、俺たちはやはりうなずかずにいられない。
そしてやっぱり、アルトゥースどのはアルトゥースどのらしく、皮肉っぽく笑うんだ。
「いや、そのつもりで俺たちは最初から、彼女をお茶会に誘ったりしないよう協定を結んだわけだが……どうやら、そうすることでより多くの恩恵を受けられるのは、俺たちのほうになりそうじゃないか?」
まったくもってその通りだと、俺だけじゃなく2年生の先輩がたもそろって笑ってしまった。
俺は、学院へ来て本当に驚いた。女子を、ただ女子だというだけで、本人の資質も能力もすべて無視して一方的に見下す男子があまりにも多いことに。
それでも、こうやって性別に関係なくその優秀さを認めて、互いに高め合おうと考えることができる人たちもいる。そういう人たちとこうして出会えたことに、俺は本当に感謝している。
我が国の狭い貴族社会の中で、学生時代に築いた人間関係が生涯続くことになるという話は、父上からも母さまからもさんざん聞かされた。
テアにルーディ嬢という友だちができたことは本当によかった。俺自身も本当にいい先輩がたに恵まれた。この関係、付き合いは、きっと長く続けていけると思う。
いや、本当にこの算術選抜クラスの関係が長く、そしてとんでもなく強い結びつきをもって続くことになるとは、このときはまだ俺も思っていなかったんだけれど。
明日7月20日(土)は4巻発売日です!
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よろしくお願い申し上げます<(_ _)>





