閑話@厨房シエラ
「ほら姉ちゃん、オレの言った通りだろ!」
荷馬車と馬の手入れを済ませたハンスが厨房に駆け込んできた。ハンスの後ろから、ハンスを呼びに行ってくれていたカールも駆け込んでくる。
「シエラさん、オレたちもお茶もらっていいんだ。すぐ淹れるね」
あたしは、信じられない気分でテーブルの上のかごと、その中にたくさん入っているおいしそうなスコーンをまじまじと見てしまう。
このクルゼライヒ伯爵家では、毎日使用人におやつが出るんだとハンスから聞いていたけど、半信半疑だった。
でも、侍女初日の昨日もちゃんと、午後のお茶の時間にあたしたちにもクッキーが届いた。奥さまたちに給仕をしているヨーゼフさんとナリッサさんの分を残しておけば、あとは全部食べていいんだと言われたときも本当にびっくりした。明日は明日で、またちゃんとおやつがもらえるから、って。しかも毎日、お茶まで飲んでいいなんて。
でも、それよりも何よりも、昨日はいきなりゲルトルードお嬢さまから『ありがとう』なんて言われてしまって、もう本当にひっくり返ってしまうかと思った。
まさか、貴族のお嬢さまがあたしにお礼を言ってくださるなんて!
あたし、いままで何人もの貴族のお嬢さまや奥さまの採寸や仮縫いをしてきたけど、お礼どころか声をかけてもらったこともないわよ。あの人たち、お針子なんて大きな待ち針だとしか思ってないんだもの。
いや、でも、一応ハンスから聞いてはいたのよ。
臨時雇いで入っただけの下働きの自分に、貴族のお嬢さまが声をかけてくださったって、ハンスが興奮しながら言ってたのを、ちゃんと聞いてはいたの。でもやっぱりどこかで、ハンスが何か勘違いして大げさに言ってるだけだと思ってたのよね。
だって、本当に厩の下働きよ? それも臨時雇いよ?
それなのに『毎日よく働いてくれてありがとう、足りないものがあったら言ってね』なんて貴族のお嬢さまが、それもわざわざ厩までやって来て言ってくださるなんて、誰だって信じられないでしょ?
その上、正式雇いになったハンスに、住み込みで御者見習の下働きでしかないハンスに、毎月ちゃんとお給金が出るだなんて。なんかもう逆に、怪しいって思っちゃうわよね?
だってそういうのなら、珍しくないもの。
すごくいい条件を並べておいて、実際に働いてみたらさんざんだったっていう話。
あたしがお針子として働いてたベルリナ商会だってそうだったもの。確かにお給金は出たけど、縫製がよくなかっただの仕上げの火熨斗が下手だっただの、なんだかんだ難癖つけられてはそのたびにお給金を減らされて、しょっちゅうただ働きだったわ。
その上、毎日毎日深夜まで作業させられてたんだからね。お休みだって全然なかったし。
ベルリナ商会の頭取の言い分は、とにかく納品を間に合わせないとお貴族さまは代金を支払ってくれないから。そしたらあたしたちの給金も支払えないから。
実際、こんなの絶対無理っていう納期をわざと言ってるとしか思えない貴族さまが多くて、それで間に合わなかったら、間に合わなかったことを理由に代金を踏み倒すのよね。
商業ギルドに仲裁を頼んでも、裁定が下るまでに時間がかかるし裁定通りに代金を支払ってもらえることはまずないって聞くし。さらに仲裁を依頼したってことが貴族さまの間で広まると、それだけで注文がガクッと減るって頭取は言ってた。
だからハンスも騙されてるんじゃないかって、すごく心配してたの。
でも、噂を聞いたのよね。
ご当主さまが亡くなって没落しちゃうんじゃないかって言われてるクルゼライヒ伯爵家が、ツケを全部払ってくれたって。
パン屋さんもお肉屋さんも八百屋さんも、みんなちゃんとツケを払ってもらったって。絶対踏み倒されると思ってたのに、って。しかもそれ以降は、買い物のたびにちゃんと代金を支払ってくれてるって。
その噂を聞いたとき、ちょうどハンスからクルゼライヒ伯爵家で侍女を募集してるっていうのも聞いて、あたしは思い切ってハンスに訊いてみたの。あたしも侍女に応募できないかな、ってね。
「毎日おやつがもらえるようになったのって、前のご当主さまが亡くなってからだよ」
カールがお茶を淹れながら教えてくれる。「こういうこと言っちゃいけないんだろうけどさ、ご当主さまが亡くなってオレたちなんかいろいろ、すっごくよくなったよ」
「そうなの?」
「うん。オレ、前はほかの使用人からフツーに嫌がらせとかいっぱい受けてたしさ。ナリッサ姉ちゃんもずっと、嫌なことはいっぱいあるけどゲルトルードお嬢さまがいるから我慢できるんだって言ってたし」
「ゲルトルードお嬢さまって本当にお優しいよなあ」
スコーンをほおばりながらハンスが言う。「それに奥さまも。オレを正式雇いにするの、奥さまが言ってくださったんだって」
「うん、新しい使用人を雇う話をみなさんでされてるときに奥さまが、ハンスがいいんじゃないのって。真面目に働いてくれてるからって」
「そんな話、なんでカールが知ってるの? ナリッサさんが教えてくれたの?」
「ううん、オレもその話し合いに参加させてもらってたの。そんで、奥さまからハンスのことも訊かれたよ。仲良くしてるんでしょ、って」
あたしはまたひっくり返りそうになった。
だってカールは確かに侍女頭のナリッサさんの弟だけど、下働きよ? しかもまだたったの12歳よ? それでなんで、お貴族さまのご家庭の話し合いに参加させてもらえるの? それどころか貴族の奥さまから質問されるなんて!
でもそう言えば、あたしの面接のときにもカールは居たわ。ふつう、あり得ないよね?
さらに奥さまはまだ幼いアデルリーナお嬢さまに意見を求められて……アデルリーナお嬢さまも、あたしとハンスのことをあんなふうにおっしゃってくださって。
本当、アデルリーナお嬢さまもなんてお優しくておかわいらしいんでしょう。
それに、お貴族さまの姉妹であんなに仲がいいのも珍しいわよね。お貴族さまの姉妹なんて一緒に仮縫いに来ても、どっちがより豪華なドレスにするかって張り合ってばかりってことが多いもん。
それどころかこのお宅では奥さまとお嬢さまがたも本当に仲がよくて……あんなすてきなお衣裳部屋に入れてもらえるだけで最高なのに、あたし本当に運がいいわ、こんな貴族家にお勤めできるなんて。
その後、厨房へやってきたナリッサさんが、カールにスコーンの代金をお店に届けるようにって言いつけてから、またもや信じられないことを言ってくれた。
あたしたち使用人全員に、暖炉用の魔石を用意してくださるんだって!
信じられる?
だって貴族家の使用人が冬の間にお屋敷内で凍死するって話、結構聞くよね? 暖炉の魔石どころか毛布すらもろくに与えてもらえなくて。
なのに暖炉用の魔石! 使用人全員に1個ずつ!
それだけでも信じられないのに、ナリッサさんはさらにすごいことを言った。
薪が必要な魔鉱石じゃなくて、火力の強い魔物石を買ってくださるって! 夜中に起きて薪をくべる必要もないのよ!
あたしもう一生、このクルゼライヒ伯爵家にお仕えするわ!