閑話@ゲルトルード商会店舗エーリッヒ2
エーリッヒくんの閑話、後半です。
「じゃあ、悪いけど後は頼むよ」
「はい、お任せください」
食後のお茶も終わり、フォイズナーさまがそう言って席を立つと、クラウスもサッと席を立って答えた。
俺も慌てて席を立つと、フォイズナーさまは俺に笑いかけてくださった。
「エーリッヒ、きみの歓迎会のはずなんだけど悪いね。俺はこれからちょっとやることがあって」
「と、とんでもないことでございます、フォイズナーさま!」
思わずビシッと背筋を伸ばして答えた俺に、フォイズナーさまはやっぱり笑う。
「俺のことはヒューバルトでいいよ。これから同じ商会員なんだぜ、よろしく頼むな」
「は、え、あの、あの、こちらこそよろしくお願い申し上げます!」
フォイズナーさま、いやヒューバルトさまが笑いながら1階の店舗から出ていかれて……俺は思わず、ぶはーっと詰めていた息を吐きだしてしまった。
って、吐き出した瞬間、しまったと思ってバッとクラウスを見た。
そのクラウスは……なんかすっげー遠い目をしてた。
そしてゆっくり俺に顔を向けたクラウスが、ぼそりと言った。
「お疲れ」
「あ、ああ……」
俺があいまいにうなずくと、クラウスはまた遠い目をした。
「まあ、すぐ慣れるよ……うん、慣れるしか、ないって」
なんか、なんか……そういう言い方されっと、ちょっと背中がぞわっとしちまうんだけど?
「いや、あの、フォイズナーさま、じゃなくて、ヒューバルトさまの近侍は?」
なんかちょっと慌てちまった俺の問いかけに、クラウスは首を振る。
「いない」
「えっ、じゃあ、身の回りのお世話は? お前がやってんのか?」
「びっっっくりするくらい」
クラウスが息を吐く。「なんっでも、ご自分でお出来になる」
「そ、そうなのか……?」
それからクラウスは、テーブルの上を片づけ始めた。
俺はなんかもう脱力しちまって、ぼんやりそのようすを見てたんだけど、クラウスがまたため息を吐いた。
「エーリッヒ、ここには俺たちしかいないんだ。お前も手伝え」
「えっ、俺も食事の後始末をするのか?」
「そうだよ、お前は商会のお坊ちゃんだから、後片付けなんてしたことないだろうけど……」
そう言って、クラウスはまた背中がぞわっとするような笑顔を浮かべた。
「でも俺と2人なら、ヒューバルトさまと並んで洗いものをするより、百倍はマシだと思うよ?」
ヒッと、本当に俺の喉が鳴った。鳴ってしまった。
「お、おい待て、それ、冗談だよな? その、まさか本当に、あのフォイズナーさま、いやヒューバルトさまが、後片付けを……?」
「冗談だったら、よかったんだけどな……」
って、だからそんな遠い目をすんじゃねえよ、クラウス!
俺は、クラウスに指示された通り、食器を洗ったりテーブルを拭いたりした。
悪いけど、俺みたいなそこそこの商会の次男坊だって、こんな下働きのような真似なんか一度もしたことがない。というか、厨房に入ったことすらほとんどない。
それを、まさか貴族家のご令息が……いや、でも、食事の準備もされてたしな……本当に、パンを切ったり芋をつぶしたりされてたしな……おまけに近侍もいないって?
いや、クラウスが遠い目になっちまうの、なんかわかるわ……。
「あのさ……公爵閣下が、クルゼライヒ伯爵家の厨房に入られるんだよ」
「へっ?」
クラウスが洗いものをしながらぼそりと言って、俺はギョッとしてしまった。
「あの、えっと、公爵閣下って、あの、今日、さっき、そこに座られていた……?」
「そうだよ」
やっぱり遠い目をしたまま、クラウスはボソボソと言う。
「伯爵邸で下働きをしてる弟によると、最初はちょっとした行き違いで、玄関から入れなかった公爵さまが勝手口に回られてしまったので、そういうことになったらしいんだけど……公爵さまがその、妙に厨房が気に入られてしまったらしくて……その後も、伯爵邸の厨房に堂々と入って来られるらしい」
俺は、なんか、なんというか、どう反応していいのかまったくわからなかった。
クラウスはやっぱりボソボソと続ける。
「それで、ヒューバルトさまもなんかこう、どさくさに紛れて伯爵邸の厨房に入ってしまわれるようになって……とにかくあんな美味くて目新しい料理がどんどん出てくる厨房だからな、公爵さまだけじゃなくヒューバルトさまも、それにエグムンドさんまで、伯爵邸の厨房に入ることをむしろ狙ってらっしゃるようでさ……いや、もちろんゲルトルードお嬢さまは、かなり困っておられるようなんだけど……」
そりゃ困るだろ!
っていうか、マジであり得ねえ。公爵閣下なんて最上位の貴族男性が、他家の厨房に堂々と入ってくるだなんて、到底信じられない話だぞ?
貴族だろうが平民だろうが、一家の主が自宅であっても厨房に入るなんてこと自体、よっぽどの用件がない限りしないはずだぞ? そんなの、平民の商家である我が家でさえ常識だぞ?
いやもう貴族家なら、女主人でもそうそう厨房になんて入らないんじゃないのか? 違うのか?
「なんだか、ヒューバルトさまもすっかり、料理に興味を持ってしまわれてさ……」
遠い目のままクラウスが言う。「だからこういうことになってる、と……お前も慣れてほしい」
「お、おう……」
いや、慣れるって……慣れるしかないって……確かにそうなのかもしれないけど!
だいたい、領地も爵位もお持ちではない名誉貴族のかただって、俺たち平民と同じテーブルに着くことを卑しい行為だとされてるんだぞ? それを、あんな、戦前から続く歴とした子爵家のご令息が……。
そりゃ、例えば同じ貴族家で働く侍従や侍女は、出自が貴族だろうが平民だろうが、表向きは同じ扱いだけど……それでも実際は、使用人の中でもはっきり差別があることくらい、俺だって知ってるんだから。
上位貴族家では、使用人の中にも貴族のかたが結構いらっしゃる。公爵閣下の近侍で、ヒューバルトさまの兄君でもあるアーティバルト・フォイズナーさまもそうだ。
そういうかたとお取引させていただくときは、決して対応を間違ってはいけない。うっかり平民の使用人と同じような態度で接したりなんかすると、もう次はない。一発で、出入り禁止にされてしまうから。
それはもう、商家の者にとっては絶対に覚えておかなければならない常識だ。
洗いものと、明日の朝食の準備を終えたクラウスが、脱力したように椅子に腰を下ろした。
「エーリッヒ」
俺もクラウスの横に腰を下ろす。
クラウスは身をかがめ視線を落として言った。
「ここでは……このゲルトルード商会とクルゼライヒ伯爵家では、俺たちの常識は通用しないと思っていたほうがいい」
「常識が通用しない、って……」
言いかけて、俺は言葉を呑んでしまった。
クラウスがうなずく。
「その、ゲルトルードお嬢さまは、非常に特殊な環境でお育ちになっているため、貴族の常識というか、世の中のことをあまりよくご存じないんだ」
言われて、俺は今日感じた疑問を問いかけてしまった。
「えっと、あの、馬に魔力を通すことをご存じなかったとか……あれ、本気の話なのか?」
「本気の話だと思う」
すぐにクラウスがうなずく。「ゲルトルードお嬢さまは、本当にご存じなかったんだと思う」
マジか!
いや、馬に乗るときに魔力を通すのなんて、常識というかもう、誰でも当たり前に知ってることだろ? 貴族だけでなく、俺たち平民だってそうなのに。
それを、学院に通うトシになっても知らなかっただなんて……。
クラウスが、顔を上げた。
なんかすごい真剣な顔をしてるんで、俺はまたちょっと背筋がぞわっとしてしまう。
「でもな、常識にとらわれておられないから、ゲルトルードお嬢さまは素晴らしいんだ。お前だって知ってるだろ、ゲルトルードお嬢さまが俺を救ってくださったことを」
俺は思わずあごを引いた。
そうだ、ふつうでは絶対にあり得ない。たかが商業ギルドの職員のために、わざわざ、それも自分たちのほうに非があるのでクラウスには非がないと明記したお手紙を、確実に2通も寄こしてくださるだなんて。
俺たちの『常識』に照らし合わせれば、あの場合間違いなく罪はすべてクラウスに着せられるはずだった。貴族が責任逃れのために、平民にすべての罪を押しつけるなんてもう当たり前、完全に『常識』なんだから。
「それに、常識にとらわれておられないから、ゲルトルードお嬢さまはこんな、パンを薄く切って使うなんて料理を思いつかれるんだ」
クラウスの言葉に、俺はまたうなずいてしまった。
これも本当にその通りだと思う。大きなパンが裕福さの象徴だという貴族の『常識』から考えれば、大きなパンをわざわざ薄く切って料理に使うだなんて、夢にも思わないよな。
そこでクラウスがようやく、くすっと笑った。
「その常識外れの料理が、こんなにも美味いんだもんな。簡単で美味くて、俺たち平民でもすぐに真似できて……本当にゲルトルードお嬢さまはすごいよ」
そしてまた、クラウスは顔を引き締める。
「そういう、ゲルトルードお嬢さまが常識にとらわれておられないところを、エクシュタイン公爵閣下は非常に高く評価されているそうだ」
「公爵閣下が……」
俺が思わず唸ってしまうと、クラウスはしっかりとうなずいた。
「だから、俺たちも常識にとらわれちゃいけない。でもいっぽうで、ゲルトルードお嬢さまがおわかりではなくて困惑されてしまう部分を、俺たちが後ろからそっと支える。それが、俺たちゲルトルード商会の商会員に与えられたお役目だ」
と、クラウスが苦笑した。
「って、俺もエグムンドさんとヒューバルトさまから言われてる」
はーっと息を吐きだし、クラウスは立ち上がった。
「そういう感じだよ、この職場は」
肩をすくめてクラウスはニッと笑う。「とりあえず、給料はめちゃくちゃいいから。これからよろしくな、エーリッヒ」
そう言って、クラウスは階段を上がっていった。
って、なんか俺、冗談抜きでとんでもない職場に入っちまった気がするんだけどー?
次はやっと子どものお茶会のお話です(;^ω^)
できるだけ早く更新するようがんばります。





