7 知らない自分
「……!? 何だよ、これ……!?」
夕貴は自分の目を疑った。
強烈な眩暈と吐き気が襲い掛かってくる、そんな状況下で、やっとのことで搾り出した声。
目の前の惨状を、信じたくなかった。
(ゆ、夢だ……こんなの、夢に、決まってる……)
死体、死体、死体、死体……。
一目で、ソレと分かる物体が、十体以上、散らばっている。
胃の中のものを吐かなかったことが奇跡である。
壁一面に撒き散らされた、赤い液体。
床一面に撒き散らされた、赤い肉片。
その、どれもが夕貴の知覚に訴えてくる。
これは、現実だ、と。
そして、夕貴は気付いてしまう。
死体だらけの部屋の中に、
いまだ、死んでない人間がいることに……。
金髪の少女が、死体たちの中心に立っていた。
誰かは分からない――分かりたくないだけだ――。
顔を確認したかったが、少年と同じ方向を向いているため、それは出来なかった――実際は、見るまでもなく、分かりきっている――。
よく見ると、彼女の手には、透明な剣のようなものが握られている。
やがて、向こうがこちらに気付いたようだ。ゆっくりと、こちらの方に振り返る。
その顔は、見知った人物の顔で、捜していた人物の顔だった。
「マリ、ア、先、輩……」
「夕貴くん!?」
マリアは驚きの声をあげて、こちらに近づこうとする。
しかし、その動きは、ある人物に止められる。
「動くなよ、『エクソシスト』……動いたら、このガキをぶち殺すぞ」
その人物とは、あの婦警だった。
女性とは思えない野太い声で、聞きなれない単語でマリアを呼ぶ。
婦警は夕貴の背後を取って、左手一つで腕を絞り上げ、喉元に、異様に鋭く変化した右手の爪を突きつける。
先程までの優しそうな顔は豹変して、凶悪、醜悪と表現できる化け物面へと変貌していた。
にやり、と邪悪に笑う、その口からは、鋭く尖った犬歯が見える。
それは、さながら吸血鬼のようだった。
マリアは、婦警を睨みつけて、
「……ここは、あなたの巣ですか?『吸血憑き』……」
と、聞きなれない単語を口にする。
吸血鬼の言い間違いとも思えるが、化け物は訂正などせず、夕貴の首筋から手を離して、自分の首筋の絆創膏を取る。
絆創膏の下には、何かに噛まれて出来たような小さな穴が二つ、見える。
「そうさ、よく、こんなところを突き止めたもんだよ。敵ながら賞賛に値するぜ、『エクソシスト』」
再び、鋭くした爪を夕貴の首筋にあてがう。
「その手に持ってる獲物を捨てな、こいつの命が惜しけりゃな」
夕貴を人質に、マリアに要求する化け物。
「………………」
マリアは無言で、透明な剣を床に捨てる。
捨てられた剣は、床に落ちた途端に、刃の部分が液体となり、染み込む。残ったのは、十字架の形をした柄の部分だけだ。
「へぇ、聖水を固定して剣を作ってたのか……それ、あんたの『法術』かい?」
またも、聞きなれない単語を耳にする夕貴。しかし、今は、そんなことを気にしている場合ではない。
夕貴を人質に取られているマリアは、正直に答える。
「……えぇ、そうですよ」
化け物は酷く醜い笑みを浮かべ、夕貴を連れて、じりじりとマリアに近づく。
「分かってんだろうけど、何もするなよ。何かしたら、このガキの命はねぇぞ」
脅しをかけて、一歩一歩、マリアに近づいていく。
夕貴は分かっていた。
このままだと、結局、自分は殺されるであろうことが。
マリアが何かすれば、自分は殺される。何もしなくても、マリアが殺された後に殺される。
分かりきったことだった。
しかし、夕貴は恐怖で動けない。
自分のせいで、マリアが危機に陥っているのに、夕貴は何も出来ない。
恐怖を感じている自分を恥じる。
(――俺が、こんなところに、来たから……)
自分の行いを後悔する夕貴。
ただ、後悔先に立たず。もはや、マリアとの距離は手を伸ばせば、届くほどの距離となった。
「よし。良い子だ……ご褒美に、一撃で殺してやるよ」
化け物はそう言って、夕貴にあてがっていた爪をマリアの胸へと叩き込んだ。
「っっぁ――」
夕貴から、声にならない悲鳴が漏れる。
目の前にいるマリアの胸から液体が流れている。
化け物が爪を抜くと、その液体は、夕貴の全身を濡らすように噴き出た。
夕貴の顔は、真紅の液体で染まる。声のない悲鳴を上げる口は開いたままだ。
液体は、夕貴の口にも浸入する。
思わず、呑み込んでしまった液体の味は――無論、血の味だった。
「ひゃはははははははっ!!憎き、『エクソシスト』も、人質取られりゃこのザマかっ!!」
化け物の哄笑が響き渡る。
「ひゃはははっ!!――さてぇ、次は、君の番だよ、恋する少年?」
突然、婦警の声に戻って、化け物は夕貴に話しかける。
「君のせいで、彼女は死んじゃったんだぁ。この世に、彼女は、もう、い・な・い♪」
上機嫌に、嫌味ったらしく、化け物は囁く。
「でもぉ、心配しなくていいわよぉ、すぐに、会わせてあげるわぁ♪」
夕貴を言葉でいたぶり、絶望感を引き出そうとする化け物は、気付いていない。
(…………ぁ……!!)
調子に乗りすぎた化け物は、夕貴の変化に気付いていない。
(……熱い……身体が……!!)
《……夕貴……》
自身の破滅の近づきに、気付かないままだ。
《俺と代われ!!!》
ベキンッッ!!!
なにやら、硬いものを捻り切ったような音が響いた。
「……へっ?」
間抜けな声をあげて、化け物は音のした場所を見る。
彼女にとっては、ただの遊び道具である少年を捕まえていた、自身の左腕を見る。
しかし、腕の全体を見ることは叶わなかった。
肘から先が、完全に欠落していたからだ。
「――くぁっっ!?」
遅れてやってきた激痛に、腕を押さえて、蹲る化け物。
何が起きたか、全く理解できない。
蹲る化け物の目の前には、少年が立っていた。
先程まで、自分を拘束していた化け物を見下ろす形で立っていた。
少年は、その手に持っていたものを、化け物の足元に投げ捨てる。
投げ捨てられたものは、紛れもなく、
化け物の左腕だった。
「ただの嬢ちゃんじゃねぇ、とは思っていたが、『エクソシスト』な上に、『神血』持ちか……まぁ、そのおかげでこうやって力を使えんだから、幸運っちゃ幸運か」
少年から、言葉が発せられる。
その声は、まさに夕貴のものであった。
しかし、
「な、な、……! 何者だ、貴様ぁっ!?」
化け物の叫びに、答えたものは、夕貴ではなかった。
「――俺の名は、アレイスター・クロウリー。今は自身の身体を持たぬ、吸血鬼だ」




