5 日常と非日常の境界線
午後七時。生徒の完全下校時間であるこの時間、普通なら部活に所属していない夕貴は、家に帰って、夕食を食べている時間だが、この日はまだ、校内に残っていた。
「ごめんね、柘植くん……まさか、こんなに遅くなるなんて……」
琴奈が夕貴に謝る。
「いや、気にすんな。好きでやったことだ」
「う、うん。本当にありがとう」
図書委員である琴奈の仕事を手伝った結果、こんな時間になってしまったのだ。
本来、図書委員は二人いるので、夕貴は手伝う必要がないのだが、そのもう一人が休んでいた。
そして、放課後、突然回ってきた蔵書の整理の仕事に、琴奈は困っていた。
一人でやるには、量が多すぎる仕事だった。
それを知った錬は夕貴をヘルプとして、琴奈に推薦した。
錬曰く、
「誰かがやらないといけない作業だぜ」
昼休みに自分が言った台詞を見事に返された夕貴は、仕方なく(もちろん、断るつもりなどさらさらなかったが)、引き受けた。
その結果が、こんな時間までの居残りにつながった。
校門を出て、琴奈は夕貴に再度、礼を言う。
「ほんとに、ほんっとぉ〜に! ありがとう!」
「あぁ、どういたしまして」
夕貴は軽く返して、帰ろうとしたが、はた、と立ち止まった。
そして、夕貴とは逆方向に帰ろうとしていた琴奈を呼び止める。
「琴奈!」
「な、何? 柘植くん」
「送ってくよ」
「……えぇぇぇぇぇ!?」
夕貴の一言に、盛大な反応を見せる琴奈。
「い、いいよいいよ、そんな気まで遣ってくれなくても……」
「いや、吸血鬼事件のこともあるし、一人歩きは危ないだろ」
琴奈の遠慮を夕貴は却下して、隣に立つ。
「ほら、行こうぜ」
夕貴が呼びかけると、琴奈は顔を真っ赤にさせながらも、
「……うん」
と言って、歩き出した。
並んで、夕貴も歩く。
《夕貴は紳士だねぇ》
(起きてたのか、クロ)
いきなり話しかけてきたクロに反応する夕貴。
《図書室でなんかやってた頃から起きてたぜ》
お喋りなクロには珍しく、起きてからも、学校を出るまでは黙っていたらしい。
約束は良くも悪くも忠実に守る、それがクロのルールだ。
そして、夕貴と琴奈は無言のまま、数分間、歩き続けた。
やがて、琴奈が口を開く。
「今日は、ありがとう」
また、お礼の言葉だった。
「だからいいって。俺は、俺がやれることをやらなくて、誰かが困るのを見るのが嫌なんだよ。言ってみりゃ、俺の我侭なんだから、琴奈がお礼をいうことなんてねぇよ」
夕貴は、そう言って、琴奈にお礼を言わせないようにする。
それを聞いて、琴奈は、
「……中学生の頃から、変わってないよね、柘植くんって……」
突然、そんなことを話し出した。
「何が変わってないって?」
夕貴が聞き返す。
「そういう、ぶっきらぼうに優しいところ」
琴奈は微笑みながら、答える。
「中学のときも、今日とおんなじようなことがあったよね?」
「そうか?」
「うん。あの時は、蔵書の整理じゃなくて、図書の落書きを消す作業だったけど……」
「あぁ、あったなぁ」
琴奈の記憶と夕貴の記憶が繋がる。
「そういや、あの時も図書委員がいなくて、俺が手伝いに回ったんだったか……」
「それで、終わったあと、私がお礼を言うと、さっきとおんなじこと、言ってたよ」
その辺りのことは、夕貴は覚えていなかったので、なんとなく恥ずかしい気持ちになる。
「ホントに変わってねぇな、俺……」
成長のない自分に呆れる夕貴だったが、琴奈の評価は異なるものだった。
「ううん。あの頃から、ずっと変わらない柘植くんの優しさが、わ、私は……す……好……」
次の一言が言えない琴奈。しかし、最後の一言以外も、小声でぶつぶつと呟いているだけなので、ほとんど夕貴には聞こえていない。
そして、言えないまま、自宅の前までたどり着いてしまう。
「っと。ここまで来れば大丈夫だな」
そう告げると、夕貴は踵を返す。
「あ、つ、柘植く――」
「じゃあな、琴奈。また、明日」
「う、うん、また、明日……」
結局、言えないまま、別れることになってしまった。
「……私の馬鹿……」
ぼそりと、そう呟いて、琴奈は家の中に入っていった。
《夕貴のバ〜カ、超鈍感〜!!》
(いきなり何のことだよ)
琴奈と別れた後の帰り道で、夕貴はクロに責められていた。
《普通、あれを聞き逃すかぁ〜?》
(だから!何のことだよ!?)
責められている理由が全く分かっていない、この夕貴という少年は、自分に向けられている好意には大変疎い、という特徴を持っている。
まさしく、クロの言うとおり、超鈍感男である。
《はぁ……これで本当に高校男子なのか? もうちょっと、思春期特有の何かがあってもいいんじゃないか?》
(何言ってんのか、さっぱり分からねぇ……)
夕貴にとっては、訳の分からないことを繰り返すクロを無視して、夕貴は帰り道を急ぐ。
その夕貴の目が、路地裏に入っていく人影を捉えた。
(あれは……)
一瞬のことだったが、はっきり見えた特徴が二つ。
長い金髪と、十字架の髪飾り。
(マリア先輩?)
間違いなかった。
路地裏に消えていった人影は、マリアだ。
夕貴は疑問に思う。
(あの辺りには、廃ビルしかなかった気が……)
いったい、何をしに、あんな狭くて暗い路地に入ったのだろうか?
《家への近道とかじゃねぇの?》
クロが疑問に対する答えを提示するが、
(いや、それはない。昼休みに聞いたけど、先輩の家は、俺の家と同じ方向にあるはずだ)
つまり、学校からの下校方向を考えると、路地裏に入ってしまうと、完全に既に逆走している形になる。
近道はありえない。
何をしているのか気になってしまった夕貴は、自身も路地裏に入っていこうとする。
《おい! お前も行くのかよ!?》
クロが、夕貴を一瞬、止める。
(気になるもんは仕方ねぇだろ? この辺りは最近、物騒なんだし、何かあったら大変だ)
しかし、夕貴のこの一言に、
《まぁ、そりゃそうだな……正直、俺も気になるし》
完全に同意するクロ。
こうして、夕貴も路地裏に入っていくことになった。
思えば、ここでの選択が、日常と非日常の境界線を越えるかどうか、決めるものだったのだろう。




