退屈な日常から抜け出して
カーテンの隙間から顔を見せる朝日が、僕の鉛のように重たい瞼を刺激する。
僕はこの瞬間が嫌いだ。
またなんでもない退屈な一日が始まるのかと思うと、どうしてもそれを突き付けてくる朝日を恨んでしまう。
「たつきー? 起きてるー? ご飯できてるわよー」
母さんが階段の下から僕を呼んでいる。
これもまた何も変わらない日常の一つ。一語一句変わらないそのフレーズもまた、僕を退屈な一日へと誘っているような気がしてならない。
だが、そんな退屈な一日をボイコットする力も元気もない。だから僕は母さんの呼びかけにもやまびこのように決まった言葉を返すのだ。
「支度できたら行くー」
その言葉通り僕は、学校の授業で使う教科書をカバンの中に綺麗に入れ、ハンガーにかかった制服に着替え、鏡を見て身だしなみを整える。
もちろんこの動作すら何も変わらない。
着替えや身だしなみはともかく、授業の準備は前日でも出来るのだから、そうすれば多少なりとも全く同じ一日にはならないのではという考えが浮かぶかもしれない。
だが、果たしてそれは本当に一日が変わるということになるのだろうか。
もしそうしても、授業の前日に準備をするというルーティーンが訪れるだけではないのか。
僕は別に今日と明日が違えばいいわけではない。
長い目でみて変わらなければ、それは僕にとって同じことの繰り返しなのだ。
例えば鏡に映る僕の前髪。先月のこの日と比べたら明らかに伸びている。
もうそろそろ美容室で切ってもらわないと目が隠れてしまう。
目が隠れるほどの前髪は、あくまで僕個人の意見だが、少しみっともないと思うし、何より生活するうえで邪魔だ。
だからそろそろ僕は美容室に行くだろう。
これは大体、ニ、三か月に一度の周期で訪れる僕の変わらない日常だ。
期間は日常というには少々空きすぎかもしれないが、感覚的には毎朝目を覚ますのとなんら変わりない。
つまりそういうことなのだ。
――ストン、ストンと音を立てて階段を降りる。この音も昨日と同じだ。正確にはちょっと違ったりしているのかもしれないが、僕の耳には同じに聞こえるのだから僕にとっては同じことだ。
食卓にはやはりいつもの通り、家族が先に朝食を取り始めている。
僕の席は妹の右隣り、父さんの正面。母さんは既に朝食を終え、台所で食器の片づけをしている。
僕も急がなければ学校に遅れてしまう。木造の椅子を引いて、いつもと同じメニューの朝食を取り始める。
「たつき、学校ではどうだ? 勉強は順調か?」
このように父さんが僕に学校での生活に尋ねてくるのもまた同じ日常だ。
それに対する返事もやはり、同じだ。
「ああ、順調だよ。何も問題ない」
「そうか、なら良いんだ。これからも頑張れよ」
これから。僕はいつまでこの、これからを繰り返さなければならないのだろうか。果たしてこれからに終わりはあるのだろうか。
だが、そんなことを聞けないし、聞く気もなかった。
「どうも」
僕はそれだけ言い残した。
朝食を終え、歯を磨き、顔を洗うと丁度登校の時間だ。
僕と妹は同じ高校に通っているので、毎朝二人で登校している。普通は兄妹で登校したりしないらしいが、僕たちは別に仲が悪いわけではない。むしろ良好な仲だと言えるだろう。
だから別におかしなことだとは思わない。これが僕にとっては普通なのだ。
「ごめんお兄ちゃん、待たせちゃった?」
「いや、そんなことないよ」
「そっか、良かった。じゃあ行こっか」
そして僕らは両親に行ってきますと決まった挨拶をし、玄関を開け青空の下に出る。
「ピクも行ってくるね」
妹がそう言ったのは外で買っている愛犬だ。
もう僕らのじいちゃんばあちゃんと同じくらいの歳らしい。
僕がまだ幼いころからピクはいるのだから、随分長生きしている方だと思う。
僕はそんなピクの白く、ふさふさな背中をそっと撫ででから学校へ向かうのだ。
学校もやはり退屈だ。
毎日毎日、朝早くから役に立つのかどうかもピンとこない授業を受けさせられる。
別に僕は勉強が嫌いなわけではない。むしろ知らないことを知れるのは、世界が変わったというと大袈裟かもしれないが、そんな気分にしてくれて気持ちがいい。
だが、学校の授業というのは大方、教科書に載っていることをなぞっているだけ。
数分で読めてしまう内容のことを、授業では一時間かけて説明するのだ。知っていることを教えられてもやはり退屈。
故に僕は授業の時間のほとんど窓から外を眺めていた。
昼休みの時間も案の定変わらない光景が僕の前に広がる。
「たつき、聞いてるかあ?」
「ああ、聞いてるよ」
「本当かあ? じゃあ何の話してたか言ってみろよ」
「昨日言ってたアイドルの話だろ?」
正確には昨日ではない。そのアイドルの話はもう一週間も前から聞かされていたのだ。
もううんざりだというほど聞かされた。
「あれ、本当に聞いてた。たつきってたまにぼーっとしてるから、ちゃんと聞いてるかどうか分かんねえんだよなあ」
「気のせいだよ」
「まあいいや。それで、昨日言った藍子ちゃんなんだけどさ、マジで可愛くてさ――」
もうそこから先は耳に入ってこなかった。だが恐らく、どうせその藍子ちゃんとやらが可愛くて夜も眠れなかったみたいな話だ。聞いてやる必要もないだろう。
これもまた僕の代り映えしない日常の一つ。
すっかり日は暮れ下校時間だ。だいだい色に染まり変わっていく空の下、なにも変わらない今日を終えようと帰宅する。
風呂に入り、部屋着に着替え、夕食をとって趣味の読書をして眠りにつく。また明日起きたら一から同じことを繰り返す。日常という檻に閉じ込められた僕にいつしか変化が訪れることはあるのだろうか。
訪れるとしたら、それは一体どんな変化なのだろうか。檻の外のことは何も知らない。だからそれがどんな変化であるか想像することすら出来なかった。
――だが、その檻は突然に破られる。
帰宅すると母さんが庭で涙を流していた。こんな日常を僕は知らない。
「母さん?」
「たつき帰ったのね、あなたも祈ってあげて。――ピクが天国でも安らかに過ごせますようにって」
「え」
僕は言葉を失った。何一つ変わらなかった退屈な日常に、愛犬の死など含まれていない。
これは、そう、夢か何かだ。だってそうだ。僕の日常にはピクの背を撫でて学校に行くという行動が含まれている。それが失われてしまったら僕の日常には歪みが生じてしまうのだから。
結局、その日僕はピクの死を悔やみ、安らかな眠りを祈った後、いつもの日常に戻った。
いや、戻ろうとした。あれほど嫌っていた日常に自ら戻ろうとしたのだ。
だが、檻の中に戻ることは出来なかった。だって檻は壊されてしまったのだから。壊された檻などもはや意味をなさない。
ベッドに入り、掛布団をかけ、眠りにつこうとしたが、ついに朝まで眠ることが出来なかった。
カーテンの隙間から差し込む朝日は、僕のいつもとは違った色をした瞼を刺激する。
だが、それはやはりいつもの刺激とは何かが違った。
「たつきー? 起きてるー? ご飯できてるわよー」
一見、昨日と同じ母さんの呼び声。だが、その声音はどこか昨日とは違うものだった。
僕はどう返事をしていいか分からず、返事をし損ねてしまう。
制服に着替えることなく、寝間着のまま食卓へ向かう。
そこにはどこか様子が違う父さんと妹。
父さんは僕に学校の様子を聞いてこない。妹はいつもならしっかりと髪を結んで制服に着替えているはずだが、髪はボサボサ、おまけに僕と同じでまだ寝間着姿だ。
そして支度もままならないまま登校の時間を迎えた。だが、どうも僕は学校に行く気になれなかった。
それは妹や会社があるはずの父さんも同じようで、今日は家族揃ってずる休みをしてしまったのだ。
僕たち家族は不思議と『ピクのお墓』と書かれた立て札の前に集まっていた。みんな同じように悲し気な表情を浮かべて。
そこで僕はあることに気づいた。
――僕だけじゃなかった?
日常という檻に閉じ込められていたのは何も僕だけじゃなかった。みんなそれぞれ、同じ日常を生きていた。そして、ピクの死という出来事でみんな同じように檻を壊されてしまったのだ。
なぜだろう、徹夜のせいで開けているのもつらいほど重たい両目から涙が溢れて止まらない。
あれほど嫌だった日常が壊されたというのに悲しいという感情しか浮かばない。
すると妹が僕の弱弱しい力で掴んだ。僕は家族のほうへ顔を向けると、そこにはみんなで手を繋ぎ合っている。
その光景を見て僕はようやく理解する。
日常とは檻なんてものではなかった。それぞれが一つ一つ織りなす事が繋がって、日常が形成されていく。例えるならそう、日常とは輪のようなものだったのだ。
繋がってた輪の一部が悲しめば、その周りも連鎖するように悲しい。逆に喜びが発生すれば、その周りも一緒になって喜ぶ。
日常とは壊してはいけないものだったのだ。日常とは守るべきものだったのだ。
僕はそれが一度壊れないと分からなかった。でも今は分かっている。
変わらないことの何がいけないというのか。変わらない日常を守りながら、その中で楽しいことや夢中になれることを探していけばいいのではないか。
ようやく僕はそれに気づくことが出来た。だからこれからの僕は日常の一分一秒を全力で過ごすのだ。
カーテンの隙間から顔を見せる朝日が、僕の鉛のように重たい瞼を刺激する。
今ではこの瞬間が少し心地いい。