俄かに空へと昇るもの
-§-
湿り気が、不意に鼻腔を擽ったのを感じた。
どことなく黴臭さを帯び、染み入るような冷たさを含んだ大気。
加えて、遠くで小さな太鼓が打ち鳴らされているような、壁や天井を叩く微かな音。
どうやら、それらが本日の目覚めの使者らしい。
黒山塔子は微睡みの中、まだ靄がかったようになっている思考で、そんなことをぼんやりと考えると、
「うぅ、む……ん……」
喉の奥から絞り出すような、低く、間延びした呻き声を一つ上げた。
六畳一間の薄暗い部屋の壁際側、そこに置かれた折り畳み式のベッドの上で、掛布団を頭から被ったまま塔子はもぞもぞと身を捩った。すると掛布団の端が捲れ、生まれた隙間から冷気が入り込む。
「ゔぁっ……寒っ……」
爪先から太腿までを一気に這い上がった鋭い冷感から、塔子は反射的に身を縮こまらせて逃れようとするが、それは叶わなかった。彼女自身の体温が満ちて温まっていた空間はあっさり冷え切り、安らかな寝床としての機能を一瞬にして喪失した。
そして一度冷気の侵入を許してしまった以上、最早どうすることもできない。再び布団の内部が温まるにはそれなりの時間を必要とする。その間、否が応でも寒さには耐えなければならないのだ。
その事実を認められない塔子は未練がましく枕に顔を埋め、掛布と敷布の隙間を埋めようと無駄な抵抗を続行する。しかし皮肉なことに、もがけばもがく程寒気は供給され、大気の攪拌は進むのだ。
「うぉお……むがぁ……」
奇妙な声を上げながら、塔子はぐねぐねと伸び縮みを繰り返す。誰だって朝は辛い。ましてや、それが突き刺すような寒気と共に訪れたものならば尚更である。
また、女性としては長身の部類に入る塔子がそうしていると、傍から見れば巨大な芋虫がのたうち回っているような光景となる。端から覗いた黒髪が触角めいて、余計にそんな印象を助長していた。
もしも、この場に彼女の後輩でもある赤ジャケと元気がトレードマークの食欲旺盛少女が居たならば「グレゴール・ザムザもかくやという感じですねぇ」などと、ある日突然巨大な毒虫と化した主人公の受難を描く古典小説を引き合いに出して笑ったかもしれない。
そこからたっぷり十五分程の時間をかけて、ようやく芋虫は諦めを付けたらしい。
ばさり、と勢い良く布団を跳ね除けたのはせめてもの意地か、当て付けか。脱皮を果たした塔子はのそりと上体を起こすと、身体に纏わりつこうとする冷気を振り払うように身を震わせ、大きく伸びをした。
「ふぁ、あ……」
大欠伸。目尻から零れる涙を指で拭い、顔を覆う乱れた黒髪を無造作に払う。生まれつき直毛質である上に肩口で短く切り揃えている為、派手に寝癖が付いているようなことはない。ぱさり、と乾いた音を立てて、黒の流れは重力に従う方向へと落ちた。
塔子はまだまだ眠気の抜けきっていない顔を、ベッド脇の目覚まし時計へと向けた。重く垂れ下がって来る瞼をどうにか持ち上げ、時刻を確認すれば既に午前8時を回っている。一瞬、大学の始業時間が脳裏を過りひやりとするが、すぐに今日は三限からの登校であることを思い出す。
時間には大分余裕がある。ならばもう一眠り出来るかと言えば、残念ながらそういう訳にもいかない事情があった。
「……レポート、出しに行かないとなぁ」
塔子が再び視線を移せば、窓際に置かれた学習机の上、積み上げられた数冊の分厚い本がある。表紙に踊る題は、その内容が主に”西洋に於ける文化の発達と広がりを中心に纏めた”類の資料であることを示していた。背表紙にはシールで管理番号が記載されている。
「期限、今日の昼までだから……ぁふ……」
欠伸交じりに独り言ちながら、塔子は大儀そうにベッドを降りた。
フローリング張りの床を覆う無地の絨毯に裸足を下ろし、数歩。放りっぱなしにされているコミック本やら脱ぎ捨てた下着やらの類を避けながら机に近付けば、資料の脇、つい昨晩に書き上げたばかりのレポートを発見する。
塔子は瞼を擦り擦りレポートに目を通し、内容をざっと確認した上で何度か頷いた。満足、というよりは妥協を意味する首肯。やや細部の詰めが甘いが、結論までは一応筋立てて書き切っている。少なくとも不可をもらうような出来ではないだろう。
塔子が籍を置く学部では、週に一度はこのようなレポート課題が出る。授業の進行内容に沿ったテーマの出題に対し、書籍やインターネット等の情報を参考資料として、自分なりの推察とその根拠を加えた上で纏めるというものだ。
これには、受けた授業の内容を復習的に振り返ることで疑問点を洗い出し、その答えを推察し自分の言葉で述べることで定着させるという意義があるらしい。知識とは受け身の段階では本当に身に付けたとは言えず、自ら用いてみることで初めて血肉になるのだとか……。
「……まあ、受け売りだけどさ」
それになんとなく、理屈としては間違っていない気がするのも確かだ。例えば、味噌汁を最初から完璧に作れるような人間は少ないだろう。何事も試行錯誤し、実践することでコツを掴んでいくものなのだ。
もっとも、元々こういった作業は苦手ではなかったし、中学時代には読んだ本の感想をノートに纏めてみたりもしていたので、要領を掴むのは早かった。因みに件の感想ノートは最終的に十冊近くまで更新されたが、高校入学に伴い書くのを止めてからはそれっきりだ。
その理由としてもなんのことはない。単純に色々とやることが増えて忙しくなり、その分物語や空想といったものに向き合う時間を削ったからだ。実家に帰って探してみれば、もしかするとまだ物置の奥に昔使っていた教科書に混じって保管されているのを発見できるかも知れないが、今更掘り出そうとも思わない。
熱が冷めた、などといえば多少なりとも情緒的だが、子供の趣味というのは大抵そんなものだろう。玩具やゲーム、他者と共有し競える流行や、或いは自分だけが知っている不条理な遊び。それらを後から思い出して「どうしてあんな物に必死になっていたのか」と首を捻った経験は、誰にだってある筈だ。
そう、特段珍しいことじゃない。背が伸びれば視点が変わるように、心身の成長に合わせて興味の対象とするものが変わっていっただけのこと……。
「……って、何を物思いに耽ってるんだか、私は」
塔子は嘆息し、旧い思いを頭から振り払った。そんなことより、今は足の裏を突き刺す冷たさの方が差し迫った問題だ。塔子はレポート用紙の束をファイルに閉じ込むと、登校用の鞄へ仕舞い込んだ。折角書き上げたのに忘れましたでは話にならないし、期限を過ぎれば後で埋め合わせが必要となってしまう。
「今回は、危うくギリギリだったからな……」
これは塔子としては珍しいことだった。二年生ともなればある程度文章の組み立てに関して要領を掴んでいるし、普段ならば大方期限前までには書き上げているところを、今回ばかりは随分と難儀する羽目になっていた。
「どうにも、欲しい部分の資料が見つからなくてなあ……」
出題されたテーマに対しての掘り下げ方を間違えたのだ。結論付けの段になって論拠となる情報がどこを探しても見つからない。方々調べて漸く求める情報に詳しい資料を見つけたかと思えば、タイミング悪く大学図書館のそれは貸し出し中であった。
久しぶりにこの手のことで焦った。一時はレポートの全面書き直しすらも考えたが、どうしても時間が足りず後輩に泣きついてみたところ、どこをどう伝手を辿ったのか隣町の図書館から見事に探し当てて来たのだ。
資料を受け取ったのは昨日。塔子は帰宅してから早速レポートに取り掛かり、日付が変わる間際まで粘ってどうにか書き上げた。そのままシャワーだけ浴びて床に就き……今朝へと至るという次第である。
「お陰であいつに例の、値段もそうだが物理的にもやたらめったら高いパフェを奢る羽目になったが、背に腹は代えられないしなぁ……。ったく、あの食欲魔人め、ニコニコしながら遠慮ない要求してきやがって」
やれやれ、とばかりに首を振る塔子の表情には言葉ほどの険はない。付き合いの長い後輩が、自分の為にわざわざ彼方此方を走り回ってくれたことを知っているからだ。
「ま、ともかくだ。身支度して、大学行ってレポート出して……全てはそれからだな、うん」
そう言ってから、塔子は身支度に取り掛かる。女性一人暮らし、どちらかと言えばズボラという形容詞が付く彼女ではあるが、やはりそれなりに整えるべき事柄は多い。
数十分後、髪を濡らして風呂場から出て来た塔子はそこでふと、何かに気が付いたように首を傾げた。
「あれ、そういや……随分薄暗いな?」
加えて、既に季節は初春を過ぎているというのにやけに肌寒い。窓に近付きカーテンを開いた塔子は、疑問の答えを即座に得る。薄雲ったガラス戸の向こう、上空に広がっているのは鉛染みた灰色の曇天であった。
「雨、降ってたのか」
過去形を用いたのは、既に空から降る雫が止んでいた為だ。屋根の庇や電信柱を濡らす残滓が今は残っているだけ。スマートフォンで天気予報を見てみれば、どうやら徐々に晴れてくるらしい。
「傘が要らないのは有難い、か」
髪を拭き、梳かし、何時ものスーツ上下に身を包んだ所で塔子の準備は完了する。成人式に用いた物が案外着心地良く、そのまま普段使いしているのだ。鞄の中身を確認してから塔子は玄関へ向かいかけ……思い直してクローゼットからベージュのコートを取り出すと、薄手のそれを羽織った。扉を開ければ予想通り、風は冷たい。
「前言撤回、晴れるならもう少し早く晴れてくれ……」
愚痴を零しながら施錠を済ませ、塔子は歩き出す。履き慣れた青の運動靴が、古びた渡り廊下の上で錆びた音を立てる。手摺の向こうには静寂に包まれる住宅街の風景。近くに駅もあり、通う大学へも徒歩十五分程度で辿り着けることを考えれば理想的な立地条件と言えるだろう。
「これでこのアパート、家賃五万だってんだから、破格だよな……」
住み始めて二年目だが、今のところ大きな不満はない。トイレにシャワー、風呂までついているのは女子としても有難い。大学進学に伴って家を探した時、兄が色々と調べて手を回してくれたことには感謝すべきだろう。
五つ上の彼は実家の傍にある道場で門下生を取り、剣術だか刀法だかを教えているのだが、塔子自身はそちら側に関してあまり詳しくはない。ただ、道着を着て竹刀を振る兄の姿は「堂に入っていた」のを幼心にも覚えているし、全国でもそれなりに名が知れているらしいことから腕は確かな筈だ。
「兄さん、元気でやってるなら良いんだけどさ。……家にも、その内顔出さないとなぁ」
実家で暮らす両親は仕送りなどしてくれるのは有難いのだが、なにかに付けて連絡をしてくるのが多少煩わしい。幾分――言葉を選んで言えば――旧い所のある人間なので、家を出ると告げた際にはアレコレと言われたものだが、それが親としての心配から出た言葉であることくらいは分別がついている。今では。
「正月と、春先に一回ずつ帰ったばかりだってのに、じゃんじゃか電話かけてくるんだからなぁ……」
また、身内だけならともかく、どうにもああいう席での親戚付き合いというのは慣れない。顔を出す度に結婚だの、将来の計画だの、そういった諸々を疎んで家を離れた自覚はあるので、塔子としても自分の身勝手を自覚してはいるが……。
「……ああ、止そう。意味がないし、ひたすら不毛だ」
アパートの階段を下りながら気持ちを切り替えていく。地に足がついていない考えだと、自分でも気付く。ならば、アスファルトを踏み締めれば多少はマシになるだろうか。そんな思いがつい足を速める。
そうして辿り着いた地上、アパートの敷地を出た正面の道路の上には彼方此方に水溜まりが出来ていた。
「……うげ」
迂闊に足を突っ込めば酷いことになるだろう。
愛用の運動靴は通気性にこそ優れているが、その代わりに防水性を著しく犠牲にした代物の為、水気には弱い。余所見をして道を行けば、その日一日大変に不快な思いをすることになるのは目に見えている。濡れた靴というのは、想像以上に体力と気力を削ぐものなのだ。
「……前途は多難、か」
嘆息。必要以上に気が沈んでいるな、と思う。上空を分厚く覆う雲や、それによって齎される薄暗さ、頬を張るような冷気も無関係ではないだろう。深夜作業の影響が後を引いていることも考えられる。そう言えば朝飯も食べていない。
「……はぁ」
朝っぱらから悶々とした思いを抱え込みながら、塔子は歩く。視線は地面、水溜まりを避ける為に下げたまま。そんな肩を落とした姿は、傍から見てもしょぼくれているのだろうな、と塔子は自嘲気味に唇を歪める。
「ああ、ああ。そうだよ、私は案外こういう奴なんだよなぁ……へっ……」
卑屈という感情は連鎖し、増幅していく性質がある。口に出せばそれは尚更だ。唯一の救いは道を行く姿が塔子以外に見受けられない事だろう。暗い顔を浮かべて、独り言を呟きながら、トボトボと歩く若い女性というのはあまり衆目に晒すものではない。
寒さと自嘲にすっかり気が滅入ってしまった塔子は、益々俯きがちになる。すると、水溜まりの中に写りこむ自分自身と目が合うことになり、一層気落ちに拍車がかかった。思わず足を止め、吐き捨てるように言う。
「向こうの私も暗い顔してんなぁ……。曇天背負って、不景気身に纏ってよぉ……」
まるで自分を映し出す鏡のように見えて、塔子はふと蹴り飛ばしてやろうかとも思ったが、靴が濡れるので止めておいた。代わりに――文字通り――見下す視線を投げ掛けてから、再び歩き出そうとして。
「…………ん?」
そこで、気が付いた。
それはほんの微かな違和感。ともすれば、ただの錯覚か勘違いだと納得してしまいそうな、些細な矛盾。しかし認めてしまったからには、眼を逸らすことの出来ない明らかな異常。
「なんで、……雨降ってんだ? そっちは」
塔子の視線の先。水溜まりに映った自分自身が背負う曇天からは、雨が降っているのだ。
「え……、はぁ……?」
目がおかしくなったのだろうか。慌てて目を擦り、再度確認してみるが事実は変わらない。
水溜まりの向こう側の世界には、今もまだ雨が降っているのだ。
「な、ん……」
塔子は、後退った。得体の知れないもの、理解の及ばないもの、自分が認識するべき現実とかけ離れたものを目の当たりにした人間としての、自然な行動。
バカバカしい。そう言おうとして声が出ない。喉の奥が張り付いた様になっている。生唾を呑み込もうとしても、口の中がやけに乾いていた。
塔子は黙りこくって、水溜まりの向こう側にある世界を見つめた。見つめざるを得なかった。目が離せないのだ。何故ならば、向こう側の自分が許してくれない。
同じ顔、同じ髪型、同じ服装。自分と全く同じ黒山塔子は、ただ黙ってこちらを見つめている。顔も、髪も、服も、降り続く雨にじっとりと濡らしたままで。
問い掛けることも、応えることもせずに。
ただ只管、黒々とした両の眼をぼんやりと眇め、見ているだけだ。じっと。静かに。
「ぁ…………」
辛うじて、絞り出した声。それが本当に自分の喉から生まれたものなのか、水溜まりの向こう側から聴こえて来たものなのかも、今は判別がつかない。
世界が溶け合う。足元が揺らぐ。まるで、吸い込まれそうだ。
いつの間にか、周囲を雨音が包んでいた。それは、本当にこちらの世界で降っているものなのだろうか?
否、私はどちら側に立っているのだろう? もしかしたら、向こうが本当の私なのではないか? あそこにいる私こそが、実際に黒山塔子として生きて来た自分なのではないだろうか?
だとすれば、今すぐ歩き出さなくては。雨の中に黙って突っ立ったまま濡れるに任せているなんて、それこそバカバカしい。
そうとも、ほら、早く進むんだ。
前に、歩いて、行くべき所へ、辿り付け。
塔子は一歩、足を踏み出した。向こう側を映し出す、水溜まりへ向かって。二歩、三歩。
あと一歩で水溜まりに足を踏み入れる。向こう側に辿り着く。
濡れている私が、これ以上雨に打たれなくて済む。それが、正しいのだろう。本来の、あるべき姿というものだ。奇妙な確信が胸に渦巻き、塔子は足を踏み出そうとした。
その一瞬、ふと、靴が濡れるのは嫌だなと思いかけて――
-§-
「――先輩!! 駄目ですって!!」
-§-
――耳元で鳴り響いた甲高い声に、ハッとさせられた。途端、思考に掛かっていた靄が一気に晴れる。自分は一体、なにをしていたのか?
「え、あ……って!? ちょ、おわっ!?」
しかし、踏み出した足はもう止まらない。運動靴に包まれた塔子の右足は重力の導きに従い、体重移動の当然の結果として、水溜まりへと一直線に吸い込まれていく。冗談じゃない、そう叫ぼうとするも既に遅い。
今日一日、濡れた靴で過ごさなければならないのか!
そんな悲劇を思い浮かべた塔子は、それでも救われる。後ろから思い切り腕を引かれ、力強く連れ戻されることによって。
「ぉ、っとっと!! だ、あ!? あっぶねぇ!!」
たたらを踏みながら、塔子はどうにか水溜まりを回避した。そこに再びかけられるのは、先程よりはいくらか落ち着いた……そしてこの数年ですっかり聞き慣れた、顔見知りの後輩の声。
「ふぅ、良かった……間に合って」
振り返った塔子は、そこに想像通りの人物が立っているのを目にする。トレードマーク代わりの赤いジャケットコート。ポニーテールに纏めた明るい茶髪。やや童顔気味の、表情豊かな愛嬌ある顔立ち。
安堵の表情を浮かべるその少女に対して、塔子は声を掛けた。
「すまん、助かった……海晴」
正しく、彼女は赤雲海晴であった。塔子の高校時代からの後輩であり、現在は追い掛ける形で同じ大学へと進学してきた、一つ下の友人である。
海晴は塔子の礼に対し、大仰に頷くと眦を吊り上げて口を開く。
「まったくです! なーんかふらふら、全身真っ黒の案山子が一人で歩いてるなあと思ったら先輩で、しかも自分から水溜まりに突っ込もうとしているんですから! ビックリしましたよ本当!」
「お、おう……ちょっと、ぼんやりしててなあ……」
思わぬ権幕にたじろぐ塔子。確かに危うい所を救われたのは確かだが、なにもそこまで激するような状況だっただろうか?
首を傾げながら、塔子は先ほど自分が夢遊病者のように足を突っ込もうとした水溜まりに振り返る。そこには相変わらず、曇天を映し出す灰色の鏡が路上にへばり付いていた。一つだけではなく、視界の限り彼方此方に、アスファルトの上を埋め尽くすように多数の水溜まりが――
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――それらが一斉に、ざぁ、と。
凄まじい音を立て、飛沫を撒き散らしながら、空へと巻き上がった。
-§-
塔子は絶句しながら、その光景を見ていた。
まるで、ビデオの逆再生のように。
それまで存在していた筈の水溜まりの全てが、逆に流れる滝のような怒涛の奔流として、天へと昇って行ったのだ。
何もかもが一瞬だ。瞬きをする間の出来事。本当にそれを見たのかさえ、確信が持てないような刹那の変化。
塔子の眼前、水溜まりの尽くが消えていた。まるで最初からそんなものはなかったように。そして、雨など降らなかったかのように。
「……な、ん」
辛うじて、それだけが塔子の口の端から漏れ出した。疑問。混乱。戦慄を含んだ、鈍いしゃがれ声。一方、塔子の背後に声をかけてくる海晴の調子は、普段となんら変わらぬ明るさを取り戻していた。
「いやあ、危なかったですねしかし。あのままだと先輩の靴、びしょびしょになってましたよ? 思ったより勢い付いてたんで、下手したら全身水浸しになってたかもしれませんねぇ。くわばらくわばら」
その暢気さに塔子は愕然としながら、勢い良く振り返る。
「な、なにを言ってるんだ!? お前、海晴、さっきのを見なかったのか!?」
「なにが、です?」
惚けたような海晴の返答に、塔子は尚も言い募ろうとして……もう一つの変化に気が付いた。あまりにも急激で明確な変化であった為に、却って目に入らなかった事実。
海晴の背の向こう、そこにある空はいつの間にか青く澄み渡っていたのだ。
「…………」
塔子は呆然と立ち尽くす。目を見開いて眺めてみても、その先にあるのは晴れ晴れとした青空でしかない。雲は、一欠片もない。先程まで鈍く分厚く横たわっていた筈の灰色のカーテンは、綺麗に拭いさられていた。
「先輩?」
海晴からの呼びかけにも、返事を返す余裕がない。頭がどうにかなりそうだった。視界が歪む。足元がぐらつく。現実という境界線がボロボロに崩れ去っていくようだ。
「あの、先輩?」
「……海晴」
そうして、数分程を掛けて。塔子の口から飛び出したのは、
「空、晴れてるな」
ただ、ありのままの現実を、そのまま口にしただけの意味のない言葉であった。
対し、海晴は頷いた。
ええ、と前置きをした上で一点の曇りもない青空を見上げ、眩しそうに目を細めながら満面の笑みで。
「晴れてますねぇ、空」
それが嬉しくてしょうがないというような表情で、彼女は尚も続ける。
「雨が降ったなら、やがては晴れるものですよ。自然の摂理、当然のことです。にわかな雨が上がり、雲が去ったなら、そりゃお日様が自己主張始めますよねぇ。それに、何時までも曇り空じゃあ気分も滅入っちゃいますしね」
そんな言葉に、塔子はややあってから頷いた。
「……そうだな」
「そうですとも」
虚脱したような塔子の表情を気にしているのか居ないのか、あくまでマイペースを貫く海晴は、そこでニヤリと口元を笑みに歪めた。
「――これは絶好のパフェ日和ですねぇ! そうだ! 今から行きましょう、パフェ! 約束の!」
その唐突なパフェ宣言に、塔子は顎を落とす。
「食い気優先か、お前はっ!? てか今日かよ!? で、今から!?」
「当然ですよ! 授業始まるまでまだ時間ありますし、これはもう天の配剤ですよね! ほらほら、善は急げと言いますし!」
そう言いながら、海晴は塔子の腕を引いて駆け出す。
「ひ、引っ張るな、おま……お前なあ!! ええい、くそ、食欲魔人め!! てか、大体、アレ食うのか!? 大ジョッキくらいあるアレを、授業前に!?」
「甘いものは別腹ですよ! 大丈夫ちゃんとお昼ご飯も入りますから心配無用ですって! さあさあさあほらほらほら早くしないと食べる時間なくなっちゃいます急ぎましょう先輩ねぇねぇねぇ」
急き立てる海晴に塔子は言い返そうとして、諦めた。こうなってしまった後輩は正に食物を求めて爆走する暴走機関車そのものだ。自分のような女手一つで止められるような相手ではない。
「分かった!! 分かったっての、分かったから引っ張んな……服が伸びる!!」
海晴の勢いに合わせて、塔子も走り出す。既に考え事の諸々は消し飛んでいた。今最優先で想定すべきは、海晴がパフェ一つで食欲を満足させてくれるかどうかについての危惧なのだから。
そうして二人は、青空の下、降り注ぐ陽光を受けながら。
水溜まりのない道を、手を引き、引かれながら、揃って真っ直ぐに駆け抜けていく。
<了>
リハビリ代わりに書きました。お読み頂けたならば幸いです。
20190213:文章を少し修正しました
20200624:文章を微修正しました